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ロマネスク様式の始まり

~そのそもそもの目的と意味

《幸也の世界へようこそ》《幸也の書庫》《絵画を見る目・感じる心》 → 《ロマネスク様式の始まり》


(ここでは 芸術様式の説明ではあっても
視覚芸術=美術=絵画・彫刻・建築)のみを扱っていて
それ以外の 音楽・文学・舞台芸術(=演劇・歌劇)・手書き本・織物などには触れていません。)



ロマネスク様式は 11世紀なかばから 12世紀終わりにかけての芸術様式であり
アルプス以北ではドイツ・フランス・ベルギーにおいて
アルプス以南ではイタリア・スペインにおいて広まりました。
しかし ヨーロッパはアルプスを境にして 南北に別れ 違った文化になっています。
ですから 同じロマネスクという言い方ではあっても
ヨーロッパの北と南とでは その内容は違っています。

「ロマネスク」という言葉は 「ローマ風の」という意味であり
すなわち アルプス以北において ローマの真似をした様式ということになります。
(ローマにおいてローマの真似はありえません。)
ただし ローマ文化の何を真似したのかというと
それは理念ではなくて 形です。
目に見える物質としての形を真似たものです。
つまり 古代ローマ文化を素晴らしいものとし それを規範にしたわけではなく
単に建築のやり方として
「石造り」と「半円アーチ」を真似たものです。
建物を石で建てる技術を真似たということです。
ロマネスク様式の理念は ローマとは全く違ったところにありました。

このような北ヨーロッパ=アルプス以北のロマネスクに対して
南ヨーロッパ=アルプス以南では昔から石造りの建築が当たり前でしたので
それは「新たな」様式ではなくて
「それまでよりもより大きなより壮麗な建物を建てた」という意味になります。

ただし ヨーロッパの南北で共通していることは
ロマネスク様式は 建物が主体の芸術様式であることです。
建築の様式として始まったものであり
絵画は 建物の壁に描かれた壁画であり
彫刻は建物の一部が彫刻されたものです。


1)ロマネスク様式の始まり~木から石へ

南北に分断されていたヨーロッパの文化の違いはいろいろとありますが
建築においてもその違いは顕著です。
アルプス以南では 昔から建物は石で建てました。
(エジプトやギリシャやローマの遺跡は石造りです。)
しかし アルプス以北では 建物は木造でした。
(ですから アルプス以北には 遺跡はほとんどありません)
アルプス以北に暮らしていたのは ケルト民族であり
後にはゲルマン民族に取って代わられましたが
どちらも自然の中で自然と共に暮らしていましたので
森の木を使って建物を建てていました。

しかし 木造建築には耐久性がありません。
(ですから遺跡が残っていません。)
かつ 大きな建物を建てることも困難です。
(あるいは 非常に高度な技術が必要となります。)
ですので 後世にまで残る建物を建てたい場合
あるいは 攻撃されても壊れにくい建物を建てたい場合 
そして たくさんの人が集まれるような大きな建物を建てたい場合
木ではなく石を使うことを アルプス以南の文化から借りてきました。

まずは 今から2000年~1700年ほど前の
ローマ帝国による統治の時代に
ローマ人たちによってローマ風の石造りの建物が建てられました。
(これらの内で現存しているものとして
ドイツのトリーアのポルタ・ニグラがあります。)

その後 今から1200年ほど前に
フランク王国の国王 かつ西ローマ帝国の皇帝となった
カール大帝の時代にも 石造りの建物が建てられました。
(その代表が ドイツのアーヒェンにある大聖堂です。)

しかし これらは木造建築の土地において
極めて特殊な例外的な建物でした。

その後 石造りの建物が登場したのが今から1000年ほど前の
ロマネスクになります。

なぜこの時代に 建物を石造りにするようになったのでしょうか?


2)ロマネスク様式の始まり~11世紀

今から千年前の11世紀という時代は
イエス・キリストが死んでから千年たち
「千年紀」の終わりということで「終末思想」が出てきたものの
世の中は終末を迎えずに新たな千年紀に入った時代です。
「世の中は滅びなかった」と人々が安堵した時代です。

そして この時代は
およそ二百年間にもわたってヨーロッパ各地を荒らしまわった
ヴァイキングの脅威が去った時代でもあります。

また 農業改革(農具の改良)によって
農業が楽になり 農作物の収穫が増え
それによって 人口も急激に増えた時代でもあります。

つまり 世の中が安定したのです。

そして ヨーロッパのキリスト教化が完了したのもこの時代です。
フランク王国初代国王クローヴィスから始まったヨーロッパのキリスト教化は
ヨーロッパのほぼ全域に広まり すなわち
ヨーロッパ全体がキリスト教の支配下に置かれることになりました。

そうすると たくさんの人を収容できる大きな聖堂が必要となります。

そして この時代には 巡礼も盛んになりました。
聖ヤコブの聖遺物を祀ったスペインのサンチャゴ・コンポステーラが
最も重要な巡礼地となりましたが
その他にも いろいろな聖人のいろいろな聖遺物が各地で祀られ
(なぜかこの時代にはたくさんの聖遺物が続々と発見され)
巡礼の対象となりました。
そのために 各地に聖堂が必要となります。

そして 11世紀末には十字軍が始まりました。
ベルギーで結成されて出発した十字軍は
アラブ世界やビザンティン帝国から
それまでヨーロッパには無かった様々なものをもたらします。
それによって 建築も装飾も大きな影響を受けました。

こうして 新しい聖堂が続々と建てられたのが11世紀です。


3)ロマネスク様式の形

ロマネスク様式の特色は
☆円
☆半円アーチ
☆ 建物が主体
☆均整
☆安定
☆秩序
☆ 彩り豊かな装飾
などです。

ロマネスク建築の中に入ってみると
何よりも目立つのは 半円アーチが並んでいることです。
(ロマネスク様式は建物の芸術でしたので絵画は壁画ですが
そのほとんどは 失われたり色褪せたりしていて
そもそもの姿では残っていません。)

半円形アーチは 勿論それが最もアーチとして作り易く安定しているからではありますけれども
それを使うことによって どのようなエネルギーの流れになるかというと
床に立っている人間の発した想念は
一旦上に上がっても 半円形アーチでUターンして また下へと戻って来る ということです。
ゴチック様式が 天に上がっていく流れを作り出しているのとは違っています。
ここに ロマネスク様式が 何を目的に建てられているのかが感じ取れます。
ロマネスク様式の基本は 「円」です。
円というのは 「その中で完結している」ということを表しています。
そして円は「調和」を表しています。

平面的には ロマネスク建築は
そもそも円形をしていました。
まず八角形の建物を作り その周りにその倍数の16角形の建物を作り
それによって円に近付けていました。
そして それに東西南北に突出部をつけて
ギリシャ十字(縦横が同じ長さの十字形)の形にしたりもしています。
しかし だんだんとバジリカ様式へと変わっていきます。
東西に長い長方形の建物の東側(=主祭壇側)を半円形に突出させた形です。
そしてそれが更に後に 南北への突出部を付けた縦長十字型に変わっていきました。
(しかし東部の半円形の突出はそのまま残りました。)
そしてそれがゴチック様式の建物の基本となっています。

しかし そのような変遷は経ましたけれども
あくまでも そもそものロマネスクの形は「円」が基本です。
(その典型的な例がケンブリッジの円形教会です。)

その円形によって ロマネスク様式は
「宇宙」を表しているのです。
「調和した宇宙」を。
「完結した宇宙」を。
「その中で全てが満たされている宇宙」を。

そして その中に存在する人間もまた
宇宙の一部であり 宇宙と一体であることを
建物の中で感じ取れるようになっているのです。
そのために 人間の想念が外には出て行かないように
建物中で完結するように半円形アーチが並べられているのです。

ただし 建物によっては 最も天井が高くなっている十字形の縦横交差部の天井付近に
想念がたまっていることがあります。
建物を建てた人々の想念です。
それはとても純粋なもので
「神に捧げる」気持ちと 「宇宙と一体」の気持ちとが
共存しているものです。
その強い想念が そこに溜まっているのです。
ということは ロマネスク様式の建物の中でも
建物を高く建てるようになると
エネルギーは上昇方向が基本となっているということでもあります。


4)ロマネスク様式の変遷と終演 

しかし このロマネスク様式は 北ヨーロッパにいては1
140年頃 北フランス突如出現したゴチック様式に
取って代わられることになります。
(ゴチック様式が広まらなかったに南ヨーロッパでは
ロマネスク建築は残されました。)
多くのロマネスク建築は ゴチック建築へと建て替えられました。
(多くの街で「たまたま」火事になって建て替えざるを得ないような状況になりました。)
ですから 後に残りませんでした。
ゴチック建築のほとんどは ロマネスク様式の聖堂を取り壊して
その同じ場所に建てました。
しかし ロマネスク時代の地下の礼拝堂や墓所は残されました。

なぜ ロマネスク様式はゴチック様式に取って代わられてしまったのでしょうか?
そして なぜ地下は残したのでしょうか?

そもそも ロマネスク様式の聖堂が立てられた場所は
それ以前に小さな礼拝堂があった場所であることも多いのですけれども
そのような場所は なぜそこに聖堂が建てられたのか
すなわち なぞその場所が聖堂の場として選ばれたのかというと
そこがエネルギースポットだからです。
地表のエネルギースポットというのは
人体でいうと 東洋医学における「つぼ」に相当します。
東洋医学では 「経絡」と「つぼ」という概念がありますけれども
地球にも「経絡」に相当するもの そして「つぼ」に相当するものがあります。
(これを 「エネルギーグリッド」と「エネルギースポット」と言います。)

そもそも聖堂は そういう場所を選んで建てられています。
(これは日本の神社も同様です。)
ですから ゴチック様式で新しい聖堂を建てる際に
その場所から移動させたくなかったのです。
ということはロマネスク様式からゴチック様式へと聖堂を建て替えることになります。
しかし 壊してしまうというのは
それ以前のものには価値が無いから であり
新しいものの方により価値があるから です。

何をもってして そう判断したのでしょうか?

ゴチック建築のそもそもの目的は
(詳しくは「ゴチック様式の始まり」の項をお読み下さい)
神聖幾何学や古代エジプトの秘儀など すなわち宇宙の真理を
暗号として表すためであり
そして 地上の人間の想念を 天へと発信するためであり
天からのエネルギーを受信するためのアンテナとしてでした。

これは 「宇宙の中の存在」ということを意識しつつも
「地上≠宇宙」である
すなわち この地上のエネルギーは
宇宙のそもそものエネルギーとは違ってしまっている
ということを認識してのものです。

ロマネスク様式の建物に入って
「宇宙と一体であること」
「宇宙の一部であること」
「全ての存在はひと繋がりであること」を感じとり
それを実感しつつ生きていることができる人よりも
それが出来ない人の方が多かったらば
宇宙のエネルギーを積極的に取り入れるアンテナを立てよう
ということになっても当然です。

けれども
そもそも聖堂がエネルギースポットに建てられていますので
地表の建物は取り壊しても
そこにあった建物のエネルギーは残るように
地下は残してあるのです。


北ヨーロッパにおいては
カール大帝時代のカロリング朝様式からの発展であるロマネスク様式は
ゴチック様式に取って代わられて終わりとなりましたが
南ヨーロッパにおいては
ゴチック建築は広まりませんでしたので
ロマネスク建築が残されました。
南ヨーロッパにおける ロマネスクの後の建築様式は
ルネッサンスになります。


(2017年12月12日)


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