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パソコン文化の行く先

 

《幸也の世界へようこそ》《幸也の言葉》 → 《パソコン文化の行く先》


 

この二十数年間に パーソナル・コンピューター(パソコン)が開発され 普及し あっという間にそれ無しでは生活ができないほどになりました。今では 九割の人がパソコンを使っているとのことです。(しかし逆に言えば 一割の人は使っていません。) そしてその延長としてスマートフォン(スマホ)も普及しました。特に 軽薄短小簡単柔浅自(軽い/薄い/短い/小さい/簡単/単純/柔らかい/浅い/自動)を好む日本人は パソコンよりもスマホを利用することの方が多いようです。

 

そして それらの利用によって(自分自身を含む)人間がどう変わっていっているのかを認識している人は 多くありません。多くないから普及しているのです。
大抵の人は「便利だから」とそれらを使っています。本当は 便利というよりも簡便なのですが しかしほとんどの人はその「便利」と「簡便」の違いを認識していません。
基本的には多くの人はそれらを「情報を得るため」に使っています。列車の時刻を調べる。どういう店がどこにあるかを調べる。その店の評判を調べる。何か分からないこと知らないことを検索する。つまりは 「文面での情報」を得ているのです。
しかし それだけなのです。それだけだということに多くの人が気付いていません。それ以上のものは何も受け取ることは出来ないのです。どんなに評判が良い料理店を見つけたとしても その味は分からないのです。どんなに評判の良い香水を見つけたとしても その香りは分からないのです。どんなに「素晴しい」といわれる場所の画像を見ても そこでの空気は感じられないのです。
つまり「感じられない」ということを多くの人は感じていないのです。

 

人間には「五感」というものがあります。(物質を見る)視覚/(音を聞く)聴覚/(匂いを嗅ぐ)嗅覚/(味を味わう)味覚/(物質を触る)触角 です。しかし パソコンやスマホの画面から得られるのは視覚だけであり それもとても限られた範囲内で です。ほとんどの人は「見る」と「観る」の違いを認識していません。「見る」だけで 「観る」ことを知りません。「パッと見」だけでものごとを判断しています。ものすごい認識力です。パッと見ただけで判断できるのですから。しかし 何を判断しているのでしょうか? 
実は判断しているのではなくて「反射的に反応している」だけなのです。(勿論それを自覚していません。)
パソコンやスマホから出てくる音は 貧弱です。薄っぺらい音です。いやしかし 日本人は薄いのが好きなのです。軽薄短小簡単柔浅自を好む民族なのですから。ですから 薄っぺらい音が好みなのです。そして 薄っぺらいものごとの受け取り方が大好きなのです。ですから 「聞く」と「聴く」の違いも認識していません。

 

そして それらの情報を受け取るだけで ものごとについて考察することはありません。考えること 探求することをしません。そもそも 見つけ出した情報がどの位当てになるのかを考えようともしません。疑うことをしない素直な人々なのでしょう。ものごとを深く掘り下げて考えたりはしないのです。浅いのが好きなのですから。

 

機械には 出来ることと出来ないこととがあります。なぜならば 機械とは ある特定の作業のために作られているからです。そして その「特定のこと」を効率良く作業します。人間が手で作業するよりも何倍もの速さで作業してくれます。あるいは人間が頭でするのよりも何倍もの速さで処理してくれます。例えば「電卓」と言われるものがあります。(これは省略形ですが 何の省略だかは分かりますか? 「電子卓上計算機」です。手に持てる大きさなのになぜ「卓上なの?」と思いましたか? そうです そうやって「なぜ?」と思わない人が多いのです。浅いのが大好きで深く掘り下げない日本人ならば当然でしょう。初期の頃の電子計算機は大きくて据え置き型だったのです。それが小さくなって机の上における大きさになったから卓上です。しかし もっと小さくなって手のひらに収まる大きさになっても まだ「卓上」と言っています。「電卓」と略した言い方が普及して今更変えられないのです。)人間が筆算したり算盤を使ったり暗算したりするよりもずっと速い速度で計算してくれます。とても人間はかないません。 
しかし 機械はその作られた目的の特定の作業しか出来ません。人間は特定の作業だけではなくていろいろなことが出来ます。そして そういう機械を作り出すのは人間ですけれども 機械には「こういう機械を作ろう」という発想はできません。
機械には 融通が利かないのです。そして 発想が出来ないのです。更にもう一つ大事なことがあります。

 

人間には「感覚」の他に 「勘」というものがあります。(無い人もいます。) 五感を超えたものということで「第六感」とも言われます。機械には「五感もどき」は可能です。例えば聴覚=音を聞くのは ミクロ(=微小)なフォーン(=音)を拾う機械で取り入れることが出来ます。(マイクは ミクロフォーンの英語読みのカタカナ書きの省略形です。) 触覚も どのくらいの圧力が掛かっているのかは計測できます。
けれども 「勘」は機械では無理です。
しかし 「勘」とは何なのでしょうか?
なんとなく感じる。なんとなくなので 言葉では言い表せない。なので 他人に説明できない。結局は 機械にはその「なんとなく」が分からないのです。

 

ここで私の体験を三つ紹介しましょう。(いずれもが似たような内容です。)
1)もう大分前ですが 外出していた家内が帰宅後「財布が無い」ことに気付きました。「そういえば 駅前の停留所でバスに乗る時に押された気がする」とのことでした。その時に私はフッと思いました。「その財布は 駅前のバス停のすぐそばのゴミ箱の中にある」と。そこで二人で駅まで行って バス停の一番近くのゴミ箱に手を突っ込んでみると・・・ありました。 
2)街中のレストランで大勢で食事をした後 帰ろうとすると私の鞄から財布がなくなっていることに気付きました。そしてフッと思いました。「財布は盗まれて その財布は今 川沿いの路上のゴミ箱のそばに捨てられていて でも一週間以内に戻ってくる」と。身分証明書なども入っていますから その再発行などの手続きが必要になります。三日以内に警察に届ける義務があるので 一応届け出ました。しかし 四日後に警察から電話が掛かってきました。道路清掃人が川沿いの路上で私の財布を見つけて届けてくれた と。
3)自転車を盗まれました。家の前に置いておいたのを 鍵を掛けるのを忘れていたのです。そしてフッと思いました。「今自転車はどちらの方向にある。そして一週間以内に戻ってくる」と。その二日後に 自転車のある(であろう)方角が変わりました。そして 「もしかして犯人は売りに出しているかも」ということでインターネットで調べてみると 本当に売りに出ていました。そこで売主に連絡して見に行くことにしました。指定された場所に 指定された時刻よりも前に行ってみると ちゃんとありました。私が思った方角に。

 

さて これら三つの私の体験は 何なのでしょうか? これが「勘」というものなのでしょうか。
そして ここで大事なのは「機械はこれらのことを出来るのか」なのです。幾らインターネットとかパソコンとかスマホが便利だとは言っても では私が体験したようなことは それらが教えてくれるのでしょうか? インターネットで調べれば「盗まれた私の自転車は一週間以内に戻ってくる」などという情報が出てくるのでしょうか?

 

このように 機械には「勘」がありません。
そして 感性もありません。機械には「これは美しい」と感じることは出来ません。あるいは 「「これは必要なもの」「これは不要なもの」という判断も出来ません。掃除ロボットが普及しつつありますが 機械には床に落ちているのが紙くずなのか一万円札なのかの判断は出来ません。落ちているのがダイヤモンドの指輪なのか石ころなのか分かりません。それら全てがゴミなのです。<
そして 創造性もありません。家にあるプリンターに何万枚と印刷させても プリンター自身が「これはもっとこうしたらいいんじゃない?」と変わることはありません。
それは 機械には知恵が無いということでもあります。ものごとの原因と結果 「こうしたらこうなる」という繋がりが機械には分かりません。あるのは「この作業」だけです。
そして 機械には悟性がありません。「何のために」「誰のために」という意識がありません。それをすると 人々にどういう影響を与えるのかを考えることは機械にはできません。

 

「AIによる人類の危機」などと言う人がいます。電子機器類の発達によって人間の仕事が奪われることの脅威を言っているのだそうです。しかし 機械に取って代わられるような仕事は機械に任せれば良いのです。(そもそもそのために機械を作っているのです。)

その理屈の前提は ①人間が機械を使うという意識が無い ②人間の感性/理性/創造性/悟性といったものを認めていない ことなのです。(つまりはそういう人たちがそのような意見を言っているのです。) 

ところが 多くの人がこのことを認識していません。自らが機械を使うのでは無く 逆に機械に使われている 機械のために働いていることを自覚していません。自らの感性/理性/創造性/悟性といったものを発揮していないことを自覚していません。そしてただ「便利だから」とそれらを使っているのです。

電子機器類の発達によって 人間はどんどんとそうことを考えられなくなっているのです。

それで本当に人間として生きていると言えるのでしょうか?

 

つまり パソコンの普及とは 人間を機械以下にする(かもしれない)ものなのです。

 

そしてそれは 多くの人が「人間はなぜ存在しているのか?」「自分はなぜ生きているのか?」「人生とは何なのか?」を認識していないからなのです。
ですから (誰かが作った)機械化の流れに押し流されているだけなのです。
ということは パソコンやスマホを使うのであれば 私たちに問われているのはまさにこのことなのです。
「人間はなぜ存在しているのか?」「自分はなぜ生きているのか?」「人生とは何なのか?」を認識するのか? 
人間の感性/理性/創造性/悟性を発揮するのか? なのです。

それをしなければ 電子機器類に取って代わられるのです。機械のために働く人間だけになるのです。

 

1)「人間はなぜ存在しているのか?」「自分はなぜ生きているのか?」「人生とは何なのか?」を認識し 自らの感性/理性/創造性/悟性を発揮しつつ生きていく
2)「人間はなぜ存在しているのか?」「自分はなぜ生きているのか?」「人生とは何なのか?」を認識せず 自らの感性/理性/創造性/悟性を発揮せず 電子機器化の流れに押し流されて機械以下の存在として生きていく

 

パソコン文化の行き先は このどちらを選ぶのかで違ってくるということです。
選ぶのは 私たち一人ひとりです。

 

 

(2022/02/03)


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