メニューにカーソルを乗せると展開します

世界の庭園から

《幸也の世界へようこそ》《幸也の言葉》《音と言葉》 → 《世界の庭園から》

ここに掲載した文章は
曲集〔 世界の庭園から 〕Op.159の映像作品において
音楽に添えられたものです。

〔 世界の庭園から 〕

①天空の庭園
②夜明けの修道院の庭園
③アッシジの糸杉の庭園
④モネの睡蓮の庭園の朝
⑤初夏のプラハ城の庭園
⑥雪が降り積る北欧の庭
⑦五月の庭のブルーベル
⑧ロシアの向日葵の庭
⑨アラブの月夜の砂庭
⑩チベットの風の庭園
⑪北国の遅い春の庭
⑫明けの明星が輝くエルサレムの庭園

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

① 天空の庭園

「庭」あるいは「庭園」は欧米の言語では
garden / Garten / jardin などと言われています。
つまり カタカナ言葉では「ガーデン」です。
この「ガーデン」とは「ガードする」ことから来ています。
つまりは「(守るために)囲う」ということです。
ですから「ガーデン」の原義は「囲った土地」で
ということは 必ずしも植物を植える場所とは限りません。
人が集まって暮らす集落もそう呼ばれました。
(ドイツのシュツットガルトがその例です。)
やがて 植物を植える場所のことを指すようになりました。
囲うということは そこを「自分の土地」だとすることです。
「自分の土地」で薬草や野菜を栽培しました。
あるいは「自分の土地」を植物で飾りました。
しかし 本来土地は地球のものなのです。
そして 地球は宇宙のものなのです。
ですから 土地も宇宙のものなのです。
それなのに それを誰かが「自分のもの」とする。
そして そこに「植物」という自然界のものを人工的に植えて飾る。
つまり 「庭」(特に西洋的な庭 = ガーデン)とは
「自然界の植物」と「人手で囲って造形する」という
二つの両極端の あるいは相反するものによって造られているのです。

私たち一人ひとりの人間は 肉体と想念と霊という
三層から成り立っています。
そのうち 肉体と霊体とは自然界から与えられたものです。
そして 想念は自ら作り出したり変えたりすることができます。
私たち人間そのものが 「自然」と「作為」という
その両方で成り立っているのです。
つまり 私たちは「庭」なのです。
多くの人は 自らの心/想念を囲っています。
肉体が 自他を隔てているからです。
囲っておきながらも「自由でありたい」と思っているのです。
自由でありたいのならば 囲わなければ良いのに。

土地は 地球のものであり宇宙のものです。
私たちという存在もまた 宇宙のものです。
それを 囲わないで下さい。
宇宙という自然の力を信頼してください。
私たち一人ひとりは 天に咲く花のように
宇宙全体を美しくするために存在しているのです。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

② 夜明けの修道院の庭園

修道院は まさに「囲った場所」です。
修道院は必ず塀で囲われています。
そして 多くの修道院は街の外にあります。
人里離れたところにあります。
それは「世俗」から離れるために です。

修道院の中には必ず庭園がありました。
薬草を栽培するためにです。
そして 自給自足の生活でしたので畑も持っていましたが
それらは修道院の囲いの外にありました。

薬草園で栽培された植物の薬効は どうやって分かったのでしょうか?
勿論 長年の経験の蓄積からではありますが
しかしもう一つには霊感からです。
霊感を得るためには 世俗から離れた環境が必要だったのです。

そして「神の声」を聞くには 静寂が必要です。
「神の声」はどこから聞こえてくるのでしょうか?
それは 外からではありません。自分の中からです。
胸の中心に心を澄ますと そこから聞こえてくるのです。

修道院では 毎日七回のお祈りがあります。
その内の最初の礼拝は 夜明け前に行われます。
その時間が最も 霊気が澄んでいて
邪気が少ない時間だからです。
そして 薬草を摘むのも夜明け前でした。
午前四時に 薬と成る成分が最も強いからです。

夜明け前のまだ暗い修道院の庭とは
目で見える物質的な表面的なものごとよりも
自然に耳を傾け 宇宙に心を開き
神の声を聞くのに最も適しているのです。

そうした時に 私たちは静寂の中で実感できるのです。
宇宙は歓びに溢れていることを
宇宙は美しさに満たされていることを

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

③ アッシジの糸杉の庭園

聖フランシスクスによって ヨーロッパ中で最も有名な修道院となったアッシジ。
北イタリア・トスカナ地方の山の上にあり その周辺には糸杉が生えています。
糸杉は あたかもゴチック様式の尖塔のように
天を指し示すかのような姿で立ち並んでいます。

なぜ多くの修道院や寺院は 山の上に建てられたのでしょうか?
それは 天に近いからです。
つまり 「天界」「天国」という言い方の「天」とは
地上よりも高い場所 上にある場所という意味です。
地上よりも遥かに高いところに「天」はあるのです。
(そう思われていた あるいはそう決め付けられていたのです。)
そして 神が居るのもそのいと高き「天界」なのです。
(そう思われていた あるいはそう決め付けられていたのです。)
しかし 本当に「天界」「天国」は 地上から離れた
遥か彼方の高いところにあるのでしょうか?

実際にはそうではありません。
なぜならば「天界」や「天国」とは 場所のことでは無く
「状態」のことであり それは波動の世界だからです。
つまり 物質では無い世界なのです。

私たちは 宇宙の中に存在しています。
「宇宙」が遍在している その中に居るのです。
その遍在の宇宙そのものが波動であり かつ
遍在の宇宙の中には様々な波動が満ち満ちています。

実は「天界」や「天国」は そこら中にあるのです。
私たちから離れた遠いところにあるわけでは無いのです。
私たちの想念が「天国」を作り「地獄」を作っているのです。

それでも 自分の心を神に向け 天に向けるには
場所としての方向があった方が向けやすいので
「天」が上にあることにしてきたのです。

しかし ゴチック様式の尖塔も 糸杉も
上を指し示しているだけではありません。
「真っ直ぐ」であることを表しています。

日々の生活の一瞬一瞬が 神( = 宇宙意識)と共にある。
神は「私」という存在を通して何を表現したいのか
それを日々の生活の一瞬一瞬で表していく。
そうするためには 「真っ直ぐな心」が大切なのです。

糸杉は 「天を指し示す」姿に見えても 実は
「真っ直ぐな心」を私たちに教えてくれているのかもしれません。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

④ モネの睡蓮の庭園の朝

パリの北のジヴェルニーにある モネの家の庭は
モネの絵の題材としてとても重要なものでした。
余り人と関わらなかったモネは ここで植物たちと対話していたのです。
植物は 嘘をついたりはしません。
植物は 誰かを騙したりはしません。
植物は 誰かを裏切ったりはしません。
植物は 金儲けのためにもっと大事なことを犠牲にしたりしません。

なぜ人間はそんなことをするのでしょうか?
余りにも愚かです。
地球上で最も愚かな生き物は人間です。
そういう人間たちから離れて暮らし そして植物たちとの世界で
憩いと安らぎに満ちた生活を送っていたのです。

そして その植物たちの姿を絵として残したのです。
しかし 今のジヴェルニーは観光客で溢れています。
その観光客たちは 誰一人としてモネのようには植物と接しません。
「見世物」を見に来ているだけです。
「モネの時代のままに残されている」という宣伝文句の
物質的な上辺の姿しか見ようとはしていないのです。
「モネの時代のまま」ではありません。
植物たちは 悲しんでいます。
植物たちと同じような純真な心で 植物たちに語りかける人が
余りに少ないからです。
誰かの気持ちを踏みにじって しかし
それを自覚せずにいる人間たちの仕打ちに悲しんでいます。

でも 朝ならば植物たちも初々しい気持ちでいます。
人間には 庭園は造れても植物は作れない
人間には 生命を創ることはできないのです。
そのことに本当に謙虚になれたときに 初めて植物と対話ができるのです。
モネはここで植物たちと何を対話し そして絵で何を表現しようとしたのでしょうか?
モネと同じように植物たちと対話できた時に 私たちは
モネが絵にこめた想いをも本当に感じ取ることができるのです。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

⑤ 初夏のプラハ城の庭園

プラハは ボヘミアの首都です。
「ボヘミア」は 「ケルト民族ボイイ族の集落」という意味です。
後に スラヴ民族チェコ族が移り住み「チェコ」と呼ばれるようになりました。
つまり 今のチェコ人とは スラヴ系と それ以前のケルト系と 
そして ゲルマン系ドイツ語族との混合です。
(民族楽器としてバグパイプが使われているのがケルト系の証しです。)

ボヘミア王国は14世紀前半にルクセンブルク王家によって成立し
中央ヨーロッパで最初の大学が設立され
中欧の文化の中心地となりました。
そして ボヘミアは高い精神文化を持っていた土地でもあります。
その証しのひとつが フスによる宗教改革が
ルターやカルヴァンの百年も前に起きたことです。

「ボヘミアン」とか「ボヘミアンスタイル」という言葉がありますが
「ボヘミアン」は「自由奔放に生きる人」
「ボヘミアンスタイル」ファッションは 天然素材を使った ボタンを使わない
身体を締め付けない 素朴な服のことで
ボヘミアンが着る 社会的慣習や流行に囚われない服 ということです。

プラハには ヴルタヴァ川 = モルダウ川が流れています。
川の片側が市街地 そして反対側にプラハ城があります。
あたかも 世俗から離れた修道院かのように。
その庭園で私たちは ボヘミアの
ケルト/スラヴ/ゲルマンが混ざり合った文化の香りを
対岸の市街地を見下ろしながら
感じ取ることができます。

その庭園で私たちは 「自分」という存在の中の民族性とは何なのだろう?
生まれ育った中で身に付いた文化とは何なのだろう?
ということに思いを馳せ そして
もしも自分が何かに縛られていると感じたのならば
「ボヘミアン」であっていいんだ 自由奔放に生きていいんだ
と思えるかもしれません。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

⑥ 雪が降り積る北欧の庭

北欧 = スカンディナヴィアでは 一年の半分が冬で
その間 雪に埋もれて生活しています。
かつ 冬の間は日照時間が短いので 暗くて寒い日々を過ごします。
(ですから 北欧では読書率が高いのです。)

勿論 庭にも雪が降り積っています。
あるのは雪で 庭ではありません。

しかし そういう雪に埋もれた中でも
人々は温かい日々を家で過ごしているのです。
「家」とは 何でしょうか?
「家」には 四本の柱があります。
先ずは 「家屋」としての「家」です。
そして その家屋の中で「家族」が暮らします。
そして その家族が「家庭」を作ります。
そして その家庭が世代から世代へと「家系」として続いていきます。
「家」とは このように「家屋」「家族」「家庭」「家系」という
四つの柱で成り立っているのです。

しかし 今の日本ではどうでしょうか?
家屋があり その中に家族がいても
本当に家庭を築いているでしょうか?
世代から世代と引き継がれるものを持っているでしょうか?

北欧では 雪に埋もれて寒い暮らしをしているのではありません。
家屋の中で家族が家庭を築き次の世代へと伝えていく
温かい生き方をしているのです。

雪の中 = 寒い というのは表面的なものごとの捉え方です。
その中で 人間がどう生きているのか。
私たちは 自らの生き方を選べるのです。
雪に埋もれた中で 心の中に火を灯すことはできるのです。
誰かの心に火を灯すこともできるのです。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

⑦ 五月の庭のブルーベル

ブルーベルの花は 四月末から五月初めにかけて咲きます。
(実際には ブルーベルという名の花があるのでは無く
青くて釣鐘状の花の総称です。)
ブルーベルは主に 森の中や周辺に群生しています。
特に ぶなの木とは相性が良いので ぶなの森林に多く生えています。
日当たりや湿度が適度だからです。

そして 花一つひとつが大きくありませんので
群生している花が一斉に咲くと 青い絨毯のように見えます。
ですので 庭での栽培はそれほど多くはありません。
広い庭を持っていれば 森の中のように咲かせることができますが。

そのような広い庭にブルーベルが咲いている中を歩くと
様々な種類の花が咲いている時よりも 花たちが語り合っているように
あるいは 花たちが私たちに語りかけてくれているように感じられます。
あたかも ブルーベルたちが一斉に合唱をしているようです。
ブルーベルが妖精たちと一緒に合唱をしているようです。
妖精たちが鈴を鳴らしながら。

釣鐘状の花は 妖精たちが隠れるのに適しているのです。
妖精たちは 人間に対して警戒心を持っています。
人間は乱暴だからです。
人間は平気で生命を殺します。
人間は平気で生命を踏みにじります。
ですから 妖精たちは人間の気配を感じると隠れてしまいます。

ブルーベルがたくさん咲いているところには 妖精たちがたくさんいます。
それを感じてみましょう。
妖精たちと 花たちの声に耳を傾けてみましょう。
妖精たちも 花たちと 全ての生命と仲良く生きたいのです。
なぜ 人間という生き物はそれをしないのでしょうか?

そっと妖精たちに近付いて そっと語りかけてみましょう。
耳を済ませて妖精たちの声を聞いてみましょう。
その時に 耳を澄ますのは 実は
心を澄ますのだということに気付けるかもしれません。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

⑧ ロシアの向日葵の庭

ひまわりは 漢字の当て字のように「日の方を向く」花です。
(実際には全ての花がそうしているのですが。)
そして 花そのものが太陽のようです。

向日葵は 北アメリカ大陸が原産です。 
ヨーロッパには16世紀初めに先ずスペインに
そしてその後フランス ロシアと伝わっていきました。
ロシアでは種が食用として重宝され 栽培が盛んになりました。
(特に 食材の制限が多かったキリスト教の断食期の食料として重要なものでした。)

ロシアやウクライナには多くの向日葵畑が広がっています。
品種改良で (採油用に)種がたくさん採れるようにされましたので
花も大きくなりました。
ロシアの向日葵は 大きく育ちます。
高さ3m以上にもなります。

そして 庭にも向日葵が植えられています。
ロシアでは 自宅の庭や別荘の庭で食用の植物を栽培するのが一般的なのです。

原産地北アメリカでは 向日葵は太陽を象徴する花とされていました。
それは ロシアでも同様です。
夏が短く 寒くて暗い冬が長いロシアでは 太陽に対する憧れが強いのです。
そして 人々は向日葵同様に伸び伸びと 太陽のように明るく輝かしく生きようと思うのです。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

⑨ アラブの月夜の砂庭

砂丘が果てしなく続く土地。
全てが砂で覆われている土地。
そういう土地にも人間は集落を作り 村を作り 街を作り 都市を作りました。
そして 庭も作りました。
庭に植えられたのは もちろん砂漠の植物です。

砂漠の植物は 根を深く張りません。
僅かな水を吸収し それを葉肉に蓄えておきます。
ですから 葉肉には厚みがあり 重くなります。
それにもかかわらず 根は深く張りません。

自らの意思で動ける人間は 村/町/都市という 動かないものを造りました。
自らの意思で動けない植物が 根を深く張らないのはなぜでしょうか?

人間は 物質にしがみついて生きているのです。
しかし 植物はそうではありません。
「生きる」というのは 生命力によって生きているのです。
植物は 水とその中のミネラルによって育つのですけれども
しかしそれ以上に 「生命力」によって育つのです。
その生命力とは 宇宙のエネルギーです。
その宇宙のエネルギーをどれ位自らに取り入れることができるか
それを一般に「生命力」と言っていますが 本当の生命力とは
宇宙のエネルギーのことです。

そして 宇宙そのもののエネルギーの他に
様々な天体からのエネルギーの影響も受けています。
地球から一番近い天体「月」から 多くの影響を受けるのは当然です。

砂庭の植物たち。
その姿は 私たちに物質にしがみついて生きるのでは無く
宇宙のエネルギーを充分に取り入れて生きることを示してくれています。
そして 月などの天体からもエネルギーを受け取っていることを
月光の下で感じ取ることができるのです。
さあ 砂漠の植物たちと一緒に 生命力 = 宇宙のエネルギーや
月からのエネルギーを感じ取り 受け止めてみましょう。
その時に 物質にしがみつくことのはかなさにも気付けるのです。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

⑩ チベットの風の庭園

チベットは 地球上で最も天界と近い場所とされています。
それは 一つにはヒマラヤが
世界で最も高い山々が連なっている場所だからです。
そしてもう一つには 昔からたくさんの修行者たちが
霊的覚醒のための修行に来た場所だからでもあります。
霊的覚醒 すなわち悟りを求めに来た場所です。

悟った人は ものを私有しません。
宇宙はひと繋がりであり 全ては宇宙のものだと認識しているからです。
悟った人は 物質的な豊かさのみを求めたりはしません。
それは 真の豊かさでは無いことを認識しているからです。
悟った人は 目で見える美しさのみを求めたりはしません。
自らの主体が「心」「想念」であることを認識しているからです。
その「心」の美しさ 「想念」の美しさが
目に見える美しさをも生み出すことを認識しているからです。

チベットの風の庭園 それは
私たちが物質的な美しさ 目で見える美しさ以上に
目には見えない非物質の美しさを
心の美しさを 想いの美しさを
大事にしたいという気持ちを起こさせてくれます。

心の中を 美しい庭園にしましょう。
誰もがそうしていいんだということを認めましょう。
それによって この世という目に見える世界もまた美しくなっていくのですから。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

⑪ 北国の遅い春の庭

北国の春は 遅くに訪れます。
しかし「遅い/早い」は 他と比較してのことです。
その土地に暮らしている人々にとっては それが「当たり前」なのです。
単に そういう四季の移り変わりなのです。

縄文の人々は 自然と一体となって生きていました。
自然とは 宇宙の創造物であり 宇宙からの恵みであり贈りものだと認識していました。
宇宙の創造物を壊さないように 縄文の人々は稲作をしませんでした。
牧畜もしませんでした。
あるものを 必要最小限とってくる。それらを充分に活用する。
そういう生活を何千年も続けていました。

当然のことながら 季節の移り変わりには敏感です。
日々の天候の変化にも敏感です。
まさに 自然と共に生きていたのですから。

雪の下にも生命があることを感じていました。
芽を出し花を咲かせる前にも 「生命」というものがあることを感じていました。
「冬 = ふゆ」という言葉は 春になって芽が出て花が咲く前の時期にも
その元となる生命は種や枝の中に「伏している」ことを意味しています。
「春 = はる」とは その伏していた生命が芽や花として「張り出してくる」ことを意味しています。

「秋 = あき」は 飽きる季節です。
飽きるとは 収穫の時期に充分過ぎる食べ物で飽食状態になることです。
そして その収穫物を保存して冬を過ごすのです。
人間もまた 雪の中で伏して過ごすのです。

縄文の人々は認識していました。全ての存在が「宇宙の中の生命」だと。
「宇宙」を構成している 一つひとつの細胞が私たちなのです。
だったらば 他の細胞を傷付けるようなことをするわけがありません。

全ての存在が愛おしい。
全ての生命が愛おしい。
そういう縄文の人々は 春をどういう気持ちで迎えていたのでしょうか?

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

⑫ エルサレムの明けの明星が輝く庭園

聖地エルサレム。
それは かつてエルサレム神殿があったユダヤ教の聖地であり 
イエス・キリストの墓があるキリスト教の聖地であり
モハメッドが聖体験をしたイスラム教の聖地です。
「エル・サレム」は そもそもは「イェル・シャライム」で
「平和の町」すなわち「平安京」という意味です。
(日本の平安京はエルサレムを模して作られたものです。)

要塞都市ですので 都市全体が城壁で囲まれています。
要塞都市が聖地? そうです。
ユダヤ教/キリスト教/イスラム教の間で幾度も奪い合いが行われたために
強固な要塞都市となっているのです。
つまり 名前とは裏腹に全く平安では無い都市だったのです。

しかし 聖地です。
世界中から毎年何百万人もの人がやって来ます。
何のために? 祈るためでしょうか?
何を祈るのでしょうか? それは…

誰もが幸せに生きたい 誰もが平安に暮らしたい
それを祈るのでしょうか?
決められた経文を唱えるのでしょうか?
それとも 「聖地だから」行くのでしょうか?
そもそも「祈り」とは何なのでしょうか?
そもそも「聖地」とは何なのでしょうか?
そもそも「宗教」とは何なのでしょうか?

宗教は 人間を幸せに導くもののはずです。
しかし 本当に宗教によって幸せになった人はどれ位いるのでしょうか?
逆に 宗教によって不幸になった人はどれ位いるのでしょうか?
宗教は 明けの明星のように 人々を導くもののはずです。

聖地エルサレム。
そのエルサレムの庭園で そこが要塞都市の一部であることを忘れて
明けの明星を見上げる時
私たちは「自分が今居る場所」を聖地にしよう 祈りの場にしよう
と思えるのです。
聖地は「どこか」にあるのではありません。
祈りの場は「どこか」にあるのではありません。
宗教が自分を幸せにしてくれるのではありません。
「今」「ここ」が聖地であり 祈りの場なのです。
導きの星は どこででも輝いているのです。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



このページの初めに戻る