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カロリング朝様式の始まり

~そのそもそもの目的と意味

《幸也の世界へようこそ》《幸也の書庫》《絵画を見る目・感じる心》 → 《カロリング朝様式の始まり~そのそもそもの目的と意味》


(ここでは 芸術様式の説明ではあっても
視覚芸術=美術=絵画・彫刻・建築)のみを扱っていて
それ以外の 音楽・文学・写本・織物などには触れていません。)





カロリング朝様式は 今日のベルギーを中心としたフランク王国の
カロリング朝の時代の芸術様式です。
カロリング朝の時代とは 西暦751年から919年までの期間ですが
カロリング朝様式は実際には「カール大帝の様式」と言っても良いほどに
個人の意志が強く影響していることも特色となっています。
カール大帝の時代に フランク王国は最大に領土を広げ
その範囲は 今日の西ヨーロッパのほぼ全域にまたがる広さとなりましたので
それらの地域に広まった様式ということになります。

しかし この時代のもので今日まで残されているものはほとんどありません。

1)カロリング朝様式の始まり
カロリング朝は 751年にピピン三世がメロヴィング朝を廃して
フランク王国の王となったとこから始まり
オットー朝が始まる919年まで続きました。
メロヴィング朝は イエス・キリストの直系の子孫としての血を継ぐ家系であり
従って 古代からのヘブライの伝統を引き継ぎ
「二王制」に近い仕組みをとっていました。
二王制とは 祭祀を行う「祭祀王」と 政治を行う「政治王」との二人による統治です。
メロヴィング朝では 国王は「祭祀王」であり 
宮廷執政官が実際の政治を行う仕組みをとっていました。
イスラム勢力がヨーロッパを席巻し フランク王国にもその脅威が及んだこの時代に
メロヴィング家は武力闘争に長けていなかったために 国内は荒廃します。
そういう中で 宮廷執政官のカール・マルテル(金槌カール)が
軍事的才能を発揮してイスラム軍に大勝し 民衆の支持を得ました。
カール・マルテルの子 小ピピン(ピピン三世)がメロヴィング家を廃位させ
そしてその孫 すなわちピピン三世の子であるカール大帝の時代(768~814)に
領土を拡大し それによって「統一ヨーロッパ」の概念を築きました。

Empire_carolingien_768-811_330x278.jpg(36581 byte)

カール大帝は 単に領土を拡大しただけでは無く
様々な改革を行いました。
(丁度 後世のナポレオンと同様です。)
この時代にはすでにキリスト教がヨーロッパの全域に波及していましたが
まだ ヨーロッパの全ての人々を統治する仕組みにはなっていませんでした。
そのキリスト教による統治/支配と 王を初めとする領主による統治/支配との
整合性を進めていきます。
そのために カール大帝はおよそ六百もの伯爵位を作りました。
司法制度を確立させ 広まりつつあった貨幣制度も定着させていきます。
文字を帝国内で統一させ 更には
科学/芸術/教育の分野において様々な改革を進めていきました。
文法/修辞学/弁証法/算術/幾何学/音楽/天文学の自由七科を初めとする科学
より「神に捧げる」色合いを濃くしたキリスト教美術
(聖職者のための)学校制度の確立と 宮廷学校における写本
など その業績は多岐にわたっています。

すなわち カロリング芸術とは このような背景を持って生まれ 発展したものです。

2)カロリング朝様式の発展
カロリング様式に先立つメロヴィング様式は
残っているものが極めて少ないために その全体像を掴むことはできませんが
残されているものから判るその特色としては
①建築においては ローマの模倣
②美術においては 抑制された表現
ということになります。
しかし これは残されている建物は石造りのものだけであり
それらの石造りの建物は それ以前にそういう技術が無かったところに
何とかして建てたものが ローマのやり方を真似せざるを得なかった
という理由によるものかと思われます。
また 美術が抑制された表現をとっているのは
そもそも美術は宗教と結び付いており
その宗教とは「精神性」を基本としてものであり
ということは「物質性」では無いということから納得できるはずです。

メロヴィング芸術に続くカロリング芸術では
①(ローマやギリシャだけでは無く)ビザンティンからの影響
②装飾性豊かな表現
③人物に重きを置いた表現
これらが特色となっています。
この時代のもので残されているのは
①建築 ②書物/写本/細密画 ②象牙細工/金細工
が主なものです。

いずれもごく僅かしか残されていませんが その理由は
建物は後の時代に建て替えられたため
書物/写本/細密画はフランス革命軍によって修道院が荒らされたため
貴金属を使ったものは略奪されたためです。

①(ローマやギリシャだけでは無く)ビザンティンからの影響
ローマやギリシャの真似をして なんとか建物を建てていたメロヴィン朝時代に対して
石造りの建築技術が(いくらか)向上したために
「なんとか建てていた」のを脱して 「このように建てよう」という
意図の表現として建物が建てられるようになりました。
それは 形や装飾に現れています。
意図して 円形/八角形/十六角形/十字型に建てる。
意図して装飾する。
そしてその延長として ビザンティン様式が取り入れられました。
なぜビザンティンなのでしょうか?
それは キリストの死後八百年も経って変化してしまった西洋のキリスト教に対して
初期キリスト教がビザンティンにこそ残されていると考えられたからです。
また ゲルマン民族の抽象的な装飾と
ビザンティンの人物像との融合も特色の一つとなっています。

残されている僅かな建物としては以下が挙げられます。
① ドイツのアーヒェン Aachenの宮廷礼拝堂(今日の大聖堂)
② ベルギーのロッブLobbesの教会
③ スイスのザンクト・ガレンの修道院の設計図

二つ目の特色は ②装飾性豊かな表現 です。
これは 書物/写本/細密画に現れています。
この時代の書物は 基本的には宗教書です。
(キリストや聖人に関する伝承 祈祷書 賛美歌など。)
キリストの死後八百年も経って 幾度も写されて間違いや脱落があった文献を
複数を比較することによって正しい姿に戻すことが行われました。
また 古代から伝わるパピルスに記された文章
(古代哲学者の論文や演説 教父たちの文章)など
およそ一万もの文章が編纂されました。
これは 聖職者を育成する(あるいは再教育する)ための学校制度の確立とも関係しています。
それらの文献というのは とても貴重なものであり また
本を作ること自体が技術/知識/費用を求められましたので
自ずと 本は豪華で装飾が豊かな装丁になりました。
あるいは 祈祷書や聖書など宗教と関わるものは
「神に捧げるもの」であり あるいは「神からの授かりもの」ですので
なるべく立派に作られるようになりました。
つまり 装飾性が増したことは 単なる装飾のためではなく
「神」と関わっていたからです。
金/銀/宝石を用いた豪華な十字架もこの時代の造形美術として重要なものでした。
本の装丁も十字の形を取っていることも特徴です。

③人物に重きを置いた表現
これは主に象牙細工と 本の挿絵に現れています。
「神の世界」だけを表すのではなく 人間の世界と神との関わり合いを
表現するように変わっていったことの現れです。
初期キリスト教では 偶像崇拝を禁じていましたので
イエス・キリストや聖人を表す一切の彫刻も絵画も禁じられていました。
しかし 時代と共に「目に見えるもの」があった方が信仰を実感できるということで
先ずは絵画(イコンと言います) 後には彫刻も作られるようになりました。
そこに更に人物像が出てくることで 「神の世界」だけでは無い表現へと変わって行きました。
「この世」=人間の世界を表すのは 人物像だけでは無く
背景の風景や 柱に絡まるカーテンなどの描写などにも現れています。

書籍も装飾品も(聖具は本来は装飾品ではありませんが)
修道院と 宮廷学校において制作されました。

3)カロリング朝様式 ~その目的と意味
先述したように カロリング朝芸術 すなわちカロリング朝様式とは
「カール大帝の芸術」の様式です。
それは 何を目的としていたのでしょうか?

カール大帝は 生涯で53回もの遠征を行い フランク王国の領土を広げて
フランク帝国(カロリング帝国とも言われます)によって
ヨーロッパ統一を果たしました。
更には カール大帝がローマ帝国皇帝として戴冠したことによって
アルプスの南北 すなわちヨーロッパ世界と地中海世界とが結ばれ
「統一ヨーロッパ」という概念が築かれたのです。
そして 人々の心に「ヨーロッパ精神」が芽生えます。
ヨーロッパ統一によって 各地の領主間の争いを避け 交易を盛んにし
キリスト教と領主とによる二重統治の整合性を計り
司法制度/法律/暦/文字/典礼なども整え
つまり ヨーロッパ全域に平和と安定と発展とをもたらしました。

イエス・キリストの直系の子孫であるメロヴィング朝のダゴベルト二世が
カトリックと手を組んだピピン二世によって暗殺された後
弱体化したメロヴィング朝にとってかわったカロリング朝ですが
カール大帝の母親はメロヴィング家の出であり すなわち
イエス・キリストの系譜に繋がっています。

ちなみに このカロリング朝が 後のヨーロッパ各地の王家の元になっています。
かつ カール大帝が婚姻関係によって平和裏に領土を拡大しようとしたそのやり方は
後の時代のハプスブルグ家の方針として引き継がれています。

そのカール大帝の意志が 芸術としても表現されているのがカロリング朝様式です。

4)カロリング朝様式の終焉
カール大帝が814年に亡くなった後 その子孫である
ルードヴィッヒ(ルイ)からローター そしてカール(シャルル)三世によって
カロリング芸術は引き継がれましたが
877年にカール三世が亡くなった後に衰退し始め
879~882年のノルマン人の襲来によって終焉を迎えました。
そして 919年にオットー朝が始まったことにより
その宮廷においてオットー朝様式が始まります。


(2025年11月20日)



【注釈】
1)この時代に関しては 物質的なものがほとんど残されていません。
かつ 世の中一般の「歴史」とは 「三次元物質界」のものの見方でしか捉えていません。
しかし それでは歴史を見たことにはなりません。

2)メロヴィング朝とカロリング朝についても 様々な見解があります。
(三次元物質界的では無い見方もです。)
①メロヴィング家はイエス・キリストの子孫であり それを倒したカロリング家は反キリストである。
②メロヴィング家は反キリストであり カロリング家がヨーロッパを救った。
③メロヴィング家もカロリング家も イエス・キリストの血統である。
という(相反する)三つが主なものです。


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