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カタカナ言葉

 

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【カタカナ言葉】

 

近年では「カタカナ言葉」を使うのがかなり一般的になっています。
しかし 本当にそれらの言葉の意味を分かって使っているのでしょうか?
実はほとんど人は意味をきちんとは理解していません。でも使っています。
あくまでも それぞれの人が「(なんとなく)こういう意味だろう」ということで使っているのです。

明治維新後 海外から入ってきた情報を日本語に取り入れるに当たって 様々な訳語が作られました。
つまり それまでに日本には無かったものごとを表す言葉を 日本語ではどう言おうかということで
「新たな日本語」が幾つも作られたのです。
「新聞」「郵便」「電話」「民衆」「経済」「民主主義」「共和制」「科学」「化学」などなど たくさんの訳語が作られました。
これらは「漢字に意味がある」ことを利用して 二文字三文字で意味が分かるようになっています。
文字数が少なく 漢字の意味の組み合わせで とても簡潔にものごとの概念を表しています。
(こういう訳語を作り出した明治時代の人々の頭の良さが実感できます。)

しかし カタカナ言葉はどうでしょうか?
「メール」「ポスト」で意味は分かるのでしょうか?
「メール」と「ポスト」の違いは何でしょうか?
「エコノミー」「デモクラシー」で本当に意味を理解できるのでしょうか?
しかし 外国から入ってきた言葉の全てを 新日本語に置き換えたわけではありません。
カタカナ言葉で(いわゆる外来語として)定着したものもあります。
例えば「ミシン」とか「アイロン」とか。
実はこれは 「良く意味が分からないものごと」は 漢字ニ文字の新日本語を作らずに
カタカナで表記するようになった ということなのです。
例えば「ミシン」ですが これは「ソーイング・マシーン」(縫い機)のことです。
ところが 肝心の「縫う=ソーイング」の方を略してしまって
「機械=マシーン」の方が「ミシン」となりました。
これでは 何の機械だかわかりません。
ところが 「ミシン」といえば この「縫い機」のことだけを意味するようになったのです。
「アイロン」は「アイアン=鉄」の訛りです。
しかし意味しているものは「鉄」ではなく「西洋火熨斗(ひのし)」のことです。
なぜ「鉄」が「西洋火熨斗」なのか?
これらはいずれも なんとなく「これのことはこう言っている」ということで
そういう言い方が定着したということです。

これでもって カタカナ言葉の本質が見えてきました。
「意味が良く分からないけれども とりあえずこれのことはこう言おう」
というのがカタカナ言葉の本質なのです。

これは 昔の外来語だけではありません。
例えば「ホームページ」という言い方があります。
英語では「website」ウェブサイトと言われるものを 日本語ではホームページと言っています。
なぜ?
本来はWebsiteウェブサイトを開いた最初のページをHomepageホームページと言います。
これは 言葉の意味を考えれば当然です。
Siteサイトは「地域/領域」であり Pageページは「本の一版面」です。
ことろが 日本人は Siteサイトの意味も Pageページの意味も考えずに
Websiteウェブサイトを開いた最初のページがHomepageホームページなので
ウェブサイトのことを 「ホームページ」と言うようにしてしまったのです。
そうすると 本来のWebsiteウェブサイトでの最初のページであるHomepageホームページのことは 日本語でどう言うのか?
そのために 「トップページ」というカタカナ語を作り出しました。
つまり 「Website→ホームページ」「Homepage→トップページ」という
奇妙なことになってしまったのです。

これなども 「意味が分かってなくて とりあえずカタカナ言葉で言う」典型です。

ということは カタカナ言葉を多用するようになったがために
「意味が分かっていなくても(なんとなく)使う」ことに日本人は慣れてしまっているのです。
それは 「自らの思考をきちんと理解できていない」ということなのです。
自分でも良く分かっていないことを言葉として発するということを当たり前にしてしまっているのです。
「なんとなく分かっているつもり」で言葉を使っている。
「自分なりの意味」で使っている。
カタカナ言葉を聞いて 良く意味が分からなくても なんとなくそのままにする。

そして カタカナ言葉 すなわち外国の言葉を日本語に取り入れると
もう一つ重要な変化が起こります。
日本というのは 表現の多様性に富んでいるのです。
(カタカナ言葉では「ニュアンスが豊か」と言います。)
欧米の言語というのは 単純なのです。
では 単純明快なのか というとそうではありません。

例えば 日本語では「ガラス」と「グラス」という言い方があります。
この二つを取り違えることはありません。
しかし 英語ではどちらも「Glass」です。
そうすると 「Glassを通してGlassを見る」のは
「ガラスを通してグラスを見る」のか「グラスを通してガラスを見る」のかどちらでしょうか?
「Glass」の複数形「Glasses」は「眼鏡」の意味もあります。
「Glassesを通してGlassesを見る」のは「ガラスを通して眼鏡を見る」のか「グラスを通してガラスを見る」のか
「眼鏡を通してグラスを見る」のか・・・可能性は九つもあります。
「チケット」という言い方があります。
「Ticket」は「券=切符」ですが しかしこれでは何の切符だかわかりません。
日本語では「乗車券」「搭乗券」「入場券」「割引券」「朝食券」などの言い方があります。
ところが 英語ではこれら全てが「Ticket」なのです。
それを カタカナ言葉で言ったらば 全てが「チケット」です。
区別が無くなります。

ところが 多くの日本人はそうしているのです。
カタカナ言葉を使うことによって 「大雑把」な「十把一絡げ」の言い方をしているのです。
ということは 頭の中がそうなっているのです。
しかし それを自覚していません。

そして 多くの人は「だって 世の中でそう言っている」という言い分で
自らもそういうカタカナ言葉を使います。

これらが カタカナ言葉を使う本質です。
1)意味が良く分かっていない⇒とりあえずそういう言い方をする
2)カタカナ言葉を聞いて意味がわからなくても そのままにする=理解していない
3)大雑把=区別/分類をしない
4)自分が 何をどういう表現しているのか=他人にどう伝わるのかを意識していない

こうやって カタカナ言葉を使うことが蔓延すると
どんどんと人々の思考力は低下します。
言語能力も低下します。
表現力も理解力も低下します。

認識力が高まれば 理解力も高まるのです。
そうすると 表現力も高まるのです。

言語の変遷は 人間の退化の証しです。
(こちらの記事で説明しています。⇒「日本語の特殊性」
それを認識する ということが
自分が(あるいは地球人類全体が)進化する方向を選んでいるのか
退化する方向を選んでいるのかを認識することに繋がっているのです。


 

(2023/12/26)


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