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天使の光輪

《幸也の世界へようこそ》《幸也の言葉》《公演でのお話から》 → 《天使の光輪》


今回の演奏会は「天使の光輪」と題していますが
チラシやポスターをご覧になった方々は そのイメージがお分かり頂けるかと思います。
けれども 本当のところ「天使」とか その天使の「光の輪」とかが
一体何なのかをきちんと説明できる方は 少ないのではないかと思います。
ですので「天使」とはどういう存在なのか
「天使の光輪」とは何なのかをお話していきます。

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【天使】

天使は 日本にはいません。
日本で天使を見た方はいらっしゃいますか?
天使は日本にはいないのです。
ヨーロッパにはいます。ですから 絵画や彫刻で見た方も多いかと思います。
しかし これは地域的な違いではありません。
宗教的な違いなのです。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教には 天使がいます。
けれども 仏教や神道には天使はいません。
そして どうしてそういう違いになっているのかというと
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は一神教であり 仏教や神道は多神教であり
一神教か多神教かの違いなのです。
一神教では 神は唯一の存在です。「宇宙の主人」が神なのです。
その主人である神の召使が 天使です。
しかし 神道や仏教は多神教であり 神様はたくさんいます。
宇宙の主人はいないのです。ですから 召使もいません。
たとえていうと 
昔は 殿様がいて その家来がいました。殿様がその国の主人で 家来は召使です。
しかし 今の世の中では殿様はいません。ですから 家来(=召使)もいません。

ということで ヨーロッパには天使がいて
その姿は 絵画や彫刻で表されてきましたが
それらは 一目見て「これは天使だ」と分かる姿をしています。
なぜかというと それでなければそれが天使だと分からないからです。
人間の姿を描いて「これが天使です」と言っても そうは思ってもらえません。
つまり 天使の姿を表現するに当たっては 決まりごと 約束事があるということです。
主な約束事は三つあります。
1)背中に羽が生えている
普通の人のように描かれていても 背中に羽があると「これって天使なのかも」と思えます。
2)人間の女性のような姿
背中に羽が生えた猿の姿では 天使だと思ってもらえません。
人間のような姿です。しかし 男性ではなくて女性のようです。
(本当は中性なのですが これについては後ほどお話します。)
3)白い服
赤い服や 緑の服の天使はいません。白い服です。

というように 「背中に羽が生えた女性っぽい人間が白い服を着ている」姿によって
天使だと認識されるわけです。

では そういう姿は 実際に誰かがそれを見てそう描写するようになったのでしょうか?
あるいは 誰か昔の人の想像の あるいは空想の産物なのでしょうか?

どちらも違います。

昔の人々は 今の時代の私たちよりもずっと敏感でした。
例えば 今の時代の私たちは 性別は「男性」と「女性」の二種類しか知りません。
しかし 今から五千年前のエジプト人たちは 性別を64種類に分類していました。
つまり 今の時代の私たちは 
五千年前のエジプト人たちよりもずっと鈍感になっているということになります。

あるいは 昔は薬は草から作っていました。(ですから「薬」の字には草冠が付いています。)
薬草を積んできて それを煎じたりして薬にしていました。
どの草の成分がどの病気に効く ということは 経験から導き出したものなのでしょうか。
しかし 草の中の成分は いつでも同じではありません。
一日の中でもそれが強い時間と弱い時間があり
昔の人々は 強い時間に薬草を積みにいっていました。
それは 午前四時です。
どうして昔の人にはそれが分かったのでしょうか?
今の時代の私たちよりもずっと敏感だったからです。

ですから 昔の人々には天使の姿が見えました。
しかし 天使には身体はありません。
天使は肉体をもたない存在なのです。
天使は 「白い光の塊」です。
その天使の姿を描くにあたって 「白い光の塊」を描いたのでは 天使だと分かってもらえません。
ですから違う描写をすることになりました。

天使が白い服を着ているのは そもそも白い光の塊だからです。
光の塊は フワフワッと移動します。飛んでいる感じです。
それを表現するために 背中の羽を描くようになりました。
そして フワフワッというのは「柔らかい」ということですけれども
人間の男性性とは「硬い」「力強い」ものであり
女性性とは「柔らかい」「やさしい」ものであり
光の塊の「柔らかい」「やさしい」感じはすなわち女性性の現れということで
天使の姿は女性っぽく描かれているのです。

しかし 本当は「白い光の塊」であり 肉体を持っているわけではありませんから
男性でも女性でもありません。
私たちは 誰かが男性なのか女性なのかは 肉体の違いで判断します。
しかし天使には肉体はありませんから 男性でも女性でもありません。
中性なのです。
ですから 本来は天使の姿として描き出されるのは 女性の姿ではなくて中性の姿なのです。

しかし なぜ光の塊なのに それを人間の姿で描くのでしょうか?
これはまた後ほどお話します。


そういう「白い光の塊」の存在を 日本では誰も見たことがなかったのでしょうか?
そんなことはありません。
日本人だって 昔は敏感でした。
日本では そういう存在は「天女」と言われてきました。
天女は 白い羽衣を身にまとっています。
これも 「白い光のフワフワ」であることの描写です。

では 西洋の天使と 日本の天女とでは何が違うのでしょうか?
天使は 召使です。ですから仕事があります。役割があります。
しかし 天女は召使ではありません。ですから 仕事はありません。役割もありません。
西洋には天使が楽器を弾いている絵などもありますが
あれは楽しみのためにではなくて そういう役割だから弾いているのです。

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【光の存在】

昔の人々は 天使の姿が見えただけではありません。
妖精や精霊の姿も見えていました。
それらもいずれもが 光の塊として見えます。
(「オーブ」という言い方をします。)

そして 人間のオーラも見えていました。
今の時代の人々の多くが「オーラ」という言葉は知ってはいても
「オーラなんて見えない」と思い込んでいるようです。
でも オーラは誰にでも見えます。
薄暗いところでやってみてください。
片手を 指と指とをくっつけずに離して指を伸ばし 腕を自分の前方に伸ばします。
そして 指を見るのではなくて 指と指との間を見ます。
ただし ジーと見るのではなくて ボケーっと見ます。
すると 指の周りに白い「もやもや」が見えてきます。
これがオーラです。

昔の人々は オーラが幾つかの層になって見えていました。
身体から一番近い層は 体表から3cm弱出ていますが
これを昔の日本人は「寸」と言っていました。
二番目の層は 体表から30cm弱まで出ています。
これのことを昔の日本人は「尺」と言っていました。
三番目の層は 体表から90cmほどのところまで出ています。
昔の日本人はここまで見えていました。
「寸」と「尺」と もう一つの単位で「間(けん)」というのがありますが
(畳の長い方の辺で 180cmほどです)
体表から 90cmのところまでオーラが出ているということは
そこまでがその人の存在ですから
他人と間を空けるには 自分のオーラの90cmと 相手のオーラの90cmとで
結局 肉体は180cm離れなければ本当に間を取っていることにはなりません。
これが「間(けん)」です。

このように昔の人々は オーラが見えていたわけですけれども
それはすなわち 私たち人間も光の存在だということなのです。
光が肉体からはみ出ているのがオーラです。

でも私たちは「自分という存在=肉体」だと思い込んでいます。
「自分は光の存在だ」ということを自覚している人は ほとんどいません。
それでも 私たちの誰もが光の存在なのです。
それが分かったらば・・・・
つまり それを自覚して生きていったらば・・・
今までとは何かが違ってくるはずです。

「光」の特徴は何でしょうか?
「明るい」
「影が無い」
「偏りが無い」
「光っている(=光を出している)だけで 受け取っていない」
これらが光の特徴です。

そうすると 「私たちは そのような光として生きているのかな?」 と
自らを省みることができます。
人間は肉体だけではなくて 「想念」あるいは「心」の存在でもあります。
しかし 「想念」あるいは」心」は物質ではなく 目には見えないものですから
認識するのが 物質であり目に見える肉体よりも難しくなります。
ですので まずは肉体から自覚してみましょう。

一番分かりやすいのは「偏り」です。
誰もが偏っています。
大抵の(およそ九割の)人は 右利きです。
右手を主に使っています。
これがすでに偏りです。
そして 右手は左脳と繋がっていて 左手は右脳と繋がっています。
左脳は「言語能」=言語を使った認識や思考をする能であり
右脳は「非言語能」=言葉を使わない(音楽や図形や色など)抽象的な認識や思考をする能です。
右手を多く使うということは 左脳(=言語能)を多く使っています。
これもまた 偏りです。
利き手だけではなくて 利き足もあります。
どちらの足から歩き始めるか です。
逆に 反対の足は重心足です。体重を多く掛けている足です。

指を組んでみて下さい。
自然といつも同じ方の手が上になっているはずです。
では 逆の手を上にしてみて下さい。
違和感があるはずです。
これが偏りです。
私は 左右どちらを上にしても違和感はありません。
なぜならば 小学生のときに練習したからです。
ここで笑う方が多いのですけれども 「なぜそんなことを練習したのか?」ですよね?
偏らないように です。

このように 身体の偏りということは 簡単に自覚できます。
でも 心の偏りはどうでしょうか?
心の偏りが 心の歪みを作り それが心の頑なさを作り そして心の陰を作ります。
偏る⇒歪む⇒固くなる⇒陰ができる という流れです。

今は「偏り」だけを取り上げましたが
光の特徴である
「明るい」
「影が無い」
「偏りが無い」
「光っている(=光を出している)だけで 受け取っていない」
これらの一つ一つを 自分の身体と想念と心と それぞれで確認していくことによって
「自分は光として生きているのかな?」ということを点検できるわけです。

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【光輪】

天使が光の塊なのだとすると どうして「光の輪」があるのでしょうか?
これは 天使の姿を人間の姿として描くということと繋がっています。
擬人化した表現がされているということですね。

私たち人間も光の存在であり それがオーラとして見えるわけですけれども
でも私たちは肉体を持って生きています。
その肉体には それぞれの部分で働きがあって 身体の中でも中心となる部分があります。
人間は頭でものごとを考えますので 頭=想念・思考の中心 です。
そして 頭の中で何を考えているのか それがその人の人格であり徳の高さです。
それは「悟り」ということでもあります。
(人格や徳や悟りは その人がどれくらい宇宙の法則に適った思考をしているか
ということの現われですが ここではこれ以上触れません。)
悟っている人ほど 人格も徳も高くなりますが それは
思考の中心である頭部の光が 金色になっていることで分かります。
悟っている人ほどはっきりとした金色であり かつその光は大きくなります。
なぜならば 金色が宇宙の原色だからです。

これを描写したものが「後光」です。
仏像などにも付けられていますが
実際には 後ろにあるわけではりません。
そして その後光は 肉体である頭部によって見えにくくなり
あたかも頭の周りにあるかのように見えてしまいます。
これが「光輪」として描写されているものです。
ですから実際には 「輪」ではありません。
「後光」も「光輪」も 肉体によって光が見えにくくなって
「そう見えてしまう」様子を描写したものです。

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【光として】

このように 私たち人間もまた天使と同様に光の存在であり 白い光の塊であり
想念・思考の中心が頭部で 悟りの高さによってその部分の光が金色になっているのですが
天使の姿を人間として描くのは 結局は
私たち人間にとっての「理想像」を描き出しているからです。
「こうなりたい」「これを目指して生きていきたい」という。
私たちはこの地上で 肉体を持って生きていますから 
光だけの存在ではなくて 「光+肉体」です。
そういう私たちが 自らが光の存在であることを思い出して
「より良く」「より美しく」「より素晴らしく」生きるその導き=理想像として
天使は描き出されているのです。
そして 性別を越えた普遍的な美しさとして 中性に描き出されているのです。


今回の演奏会を《天使の光輪》と題したのは
私たち一人ひとりが 天使と同じように光の存在であることを思い出し
そして 光の存在として生きているかどうかを考える切っ掛けにして頂けたらば
ということなのです。


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(この文章は 2018年日本公演《天使の光輪》の四つの会場でのお話をまとめたものです。)

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