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快感と感動

《幸也の世界へようこそ》《幸也の言葉》《公演でのお話から》 → 《快感と感動》


(この文章は 《 特別にしない 》からの続きです)

① 成長を導くもの

私達は日常生活において
何気なしに目が惹かれる なんとなく耳をそばだてる
あるいは何かに気を惹かれるということを経験しているのではないかと思います。
一体どんなことに気を惹かれるのでしょうか?
その内容・対象は人それぞれでしょうが
共通しているのは 気を惹かれるのは
その人にとって 何かしら気にかけていること 興味のあることではないかと思います。
あるいはの快感があること といえるかもしれません。

気にかけていること 興味のあることと 快感とがイコールなのか
というと 必ずしもそうではないように思えるかもしれませんが
実は あることを気にかける=心の中に保ち続けるのは
矢張り何かしらの快感があるからではないかと思います。
特に興味の方は その人にとって何か快く感じさせる何かがあるからこそ
興味を持っていることが多いのではないかと思います。
気にかけている中で 「心配」というのも同じです。
何かを心配するのは 「何か良くないことが起きるのでは」と
気にかけている 心の中に思い続けている訳ですが
それが一体快感なのかというと 矢張りその本人にとっては
そうすることが快い とも言えますし
あるいは (丁度癖のように)無意識のうちにやり易いから とも言えるかと思います。

つまり 
快感とはいっても 他人から見ると決して快さそうではないことを
本人は違って感じていることはしばしばあるのではないでしょうか。
そのように 一見快さそうでは無いことを無意識のうちに選んでしまうのは
矢張り 心がそれに惹かれるからです。
ということは
他人から見て 一見快さそうでは無いことを
つまり ネガティブなことを 快いと感じる人がいる訳ですが
それは一体どうしてなのでしょうか?

あるいは 本当の快感とは一体どんなことなのでしょうか?

人間は とても残念なことですが
自我=エゴを中心にして生きている人が多いですから
必ずしも 人間の多数がしていることが 自然なこと 本来のこととは限りません。
それよりも 鉱物・植物・動物など
人間よりも自我の少ない存在においての方が
何が自然なのか 何が本来なのかが
よりはっきりと現れているかもしれません。

鉱物にとっての快感が何なのかは人間には分かりにくいかもしれませんが
植物においては 感じ取れるかと思います。
太陽の方に向かって成長していくこと
一日の中でも 太陽の方向に葉や花の向きを変えていくことから
あるいは 水のある方向に根を伸ばしていくことから
水や太陽の光が 植物にとっては快感だということが分かります。
つまり この「快感」とは 「必要」ということと結びついている訳です。

動物は どういう時に どういう状況で
快さそうにしているでしょうか。
矢張り ぬくぬくとした日の光を浴びているときには 快さそうです。
あるいは 満腹の時にも。

動植物では 必要が満たされること=快感だと捉えても良いのでしょうか。
つまり 快感に導かれて 必要が満たされ 生きているとも言えます。

人間においては 快感は
同様に 必要が満たされることと結びついているかと思います。
お腹一杯に食べる快感。充分に寝る快感。

しかし それだけではなく
人間の場合には 快感とは 感動を伴っていることと言えるでしょうか。
あるいは 魂が打ち震えるような という言い方が出来るでしょうか。
つまり 快感とは 肉体的なことでもあるし
かつ 精神的なことでもある ということです。
そして 動植物において 快感がその成長を導いているように
人間においてもまた 目には見えない精神的なものを含めた快感が
その成長を導く と言えるかと思います。

では ネガティブな物事を快感と感じる場合はどうなのでしょうか?
(その場合 感動や 魂が打ち震えるような感覚があるとは思えませんが)
そのような快感もまた その人の成長を導くのでしょうか?
結局 それは矢張り 必要だからしているのではないかと思います。
なぜネガティブなものに惹かれる必要があるのでしょうか?

人間は 体験してみて初めて分かることが多々あります。
逆に言うと 体験してみなければ分からないことがあるということです。
それは人それぞれで違います。
ある人にとっては あえて体験しなくても分かることが
他の人にとっては 実際にやってみないと分からないことがあります。
あえてネガティブなことを選択するのは
(もしかしたらそれは無意識にしていることかもしれませんが)
結局は その選択がポジティブなものを生み出さないことを学ぶためではないかと思います。
そのような必要があって その時点ではネガティブな物事を選んでいる訳です。

もう一つ ネガティブな選択をしてしまう例として
被害者になりたがる人が挙げられるかと思います。
自分はこんなに大変な思いをしている こんなに辛い思いをしている
ということをこれ見よがしに他人にアピールする人
あるいは あえて否定的な選択をすることによって
自分自身を不利な立場に立たせたがる人 などです。
どうしてこのような行動をとる人達がいるのでしょうか。

人は誰でも 誰かに認められたい 受け入れられたい という願望を持っています。
これらの人々は あえて自分自身を被害者にすることによって
憐れみを期待している訳です。
哀れみというで 受け入れてほしいと期待している訳です。
可哀想な存在として認めてほしいと思っているのです。
哀れみというエネルギーを注いでほしいと期待している訳です。

けれども これらは全て 誰かに=他人にそうしてほしい という期待です。
でも どうして 誰か他人にそう期待するのでしょうか?
私達全ての生命は 宇宙そのものに受け入れられています。
宇宙そのものにその存在を認められています。
そして 宇宙に 全て必要なものを与えてもらっています。
それなのに なぜ 何かを他人に期待するのでしょうか。
つまり 宇宙との繋がりを感じられなくなっているからです。
そして なぜ感じられなくなっているのか それがまさに
その人の自我=エゴがそうさせているのです。

これらの人々は 他人に受け入れてほしい 認めてほしい という
快感を得たいが為に あえて自分自身を被害者にしている訳です。

そのように 表面的には様々ではありますが
矢張り基本的に
全ての生命は 快感に導かれて成長する
つまり 快感が生命の成長を導いている
と言えるのではないかと思います。


けれども
先に触れたように 人間には 感動という心の動きがあります。
人は 感動した時 あるいはその後で
何をしたいと思うでしょうか?
他の人と その感動を分かち合いたい 共感し合いたいと思うのではないでしょうか。
あるいは 自分もまた 他人に感動を与えられる存在でありたいと思うのではないでしょうか。

生命の成長とは
どこまで沢山の生命を育めるか
どこまで沢山の生命の成長に係われるか
ということではないかと思います。
なぜなら 私達全ての生命を含んでいる 存在させている
宇宙そのものは
全ての生命の成長に係わっているからです。

ということは
もし 生命が快感に導かれ 人間が感動に導かれて生きているのだとしたら
自分がより沢山の生命に快感を 感動を与えられるようになりたい
と思うのは ごく自然なことではないかと思います。
そもそも この地上での人生において
子供から大人になる ということは即ち
手助けしてもらう存在から 手助け出来る存在へと変わっていくこと
あるいは 与えられる存在から 与える存在へと変わっていくことであり
それを「成長」というのではないかと思います。

ですから 人間にとって
誰かに快感を与え 感動を与えられる存在になっていきたいという欲求は
この宇宙の中の生命の営みとして
ごくごく自然なものなのではないでしょうか。


② 選択

そして
快感を 感動を他人に与えられるようになっていく ということは
即ち 快感や感動だけを与えていく 表現していく 分かち合っていく
ということです。
つまり 不快なこと・不愉快なことを選択しない 表現しない
ということです。
そして これは 自分自身にとっても
あるいは目の前にいる人にとっても 目の前にいない人にとっても
動物や植物にとっても 地球以外の生命にとっても
つまり この宇宙の中の全ての生命にとって
不(愉)快なことは選択しない ということです。
なぜなら 表現するということは
自分の居る場だけではなく
宇宙に向かってその波動を発信しているということだからです。

普段私達の考えていること 話していること 行動していることとは
全宇宙の存在に向かって
「私はこういうことを思っています こういう行動をしています」と
発表していることと同じなのです。
例えて言うと 全宇宙の存在が見ているテレビで
自分の思っていることを話し 行動を見せているのと同じことなのです。

そして その思ったことは同時に
永遠に存在し続けます。
なぜなら 生命は永遠であり 言葉や思考もまた生命だからです。
地球の表面は 情報層になっていて
地球が出来て以来の全てが記録されています。
誰がいつ何をしたか 何を思ったかも含めて 全てが記録されています。

そして
それらは ただ記録されているだけではありません。
存在し続けているということは
存在して 誰かに あるいは何かに影響を与え続けているということです。
たとえ過去の物事であっても 想いであっても 行動であっても
全ては 今も存在し続け 何かに・誰かに影響を与え続けています。
ですから 過去にしたことも 今していることも同じだということです。
以前思ったことも 今思っていることも 同じように影響を与えるということです。

だとしたら
自分は一体 何に・誰に どういう影響を与えたいのでしょうか?
全ての存在に対して発信しているのですから
そして 過去・現在・未来を問わずに影響を与えるのですから
しかも 自分自身もまた その影響を受けるのですから
結局は
不快感よりも快感を マイナスよりもプラスを
破壊的な想いよりも建設的な想いを 奪う想いよりも与える想いを
つまり 誰でもが幸せに生きたいのですから
その「幸せに生きている状態」を体現し表現していくこと
「幸せに生きている状態」を想い念じて発信していくことを
したいと思えるのが当然ではないでしょうか。
ですから
宇宙の中の全ての生命に影響を与えていく
「生きている」という 自分自身の日々の生活の全ての瞬間が
快感や感動を与え 表現し 分かち合えるように
物事を あるいは 考えを 行動を選択していくことによって
より多くの生命の成長に係われるようになり
それが自分自身の成長になる訳です。


③ 何が快で 何が不快か

しかしながら その選択をするにあたって
一体何が快で 何が不快なのかを認識しなければなりません。
先に触れたように 人それぞれに 興味の対象が違います。
頭の中で考えていることが違います。
そして 快・不快の感覚も違います。

一体 この宇宙の生命にとって 何が快であり 何が不快なのでしょうか?
何か 普遍的な あるいは絶対的な 快・不快の基準があるのでしょうか?

結局のところ
人間は誰でもが 「自分」という存在を他に受け入れてほしい
認めてほしいという願望を持っているのではないかと思います。
私達全ての生命は 宇宙の中に存在している ということは
宇宙に受け入れられている訳です。
宇宙そのものに その存在を認められている訳です。
だからこそ この地上においても
その当たり前のあり方をしたいというのが 生命として
ごくごく当たり前の欲求ではないかと思います。
そしてそれは 宇宙との係わりだけではなく
他の生命との係わりにおいてもです。
なぜなら この宇宙の中において
何かと何かを分かつことは 難しいからです。
これは丁度 海の水を分かとうとしても
あるいは 空気を分かとうとしても難しいようなものです。
宇宙との係わりと 他の生命との係わりとはイコールです。

そして 生命がお互いに認め合い 受け入れ合ってこそ
分かち合いが成立します。
もし 認め合ったり 受け入れ合うのでは無く
どちらか片方だけが相手を認め 受け入れるのであれば
それは 一方通行の流れにしかなりません。
単に 誰かが他を認める 受け入れる です。
認め合う 受け入れ合う にはなりません。
ですから そこには分かち合いは成立せず 一方が他方に分かち
もう一方は相手から受け取るだけの関係になります。

人は 他から受け入れられたとき あるいは他に認めてもらえたとき
快く感じます。
他に何かを与えたときにも。
しかし ただ 受け入れられた 認められた というよりも
他との間に 分かち合いが成立したとき
そこにより大きな快感 あるいは感動が生じるのではないでしょうか。

けれども 人が何かを あるいは誰かを 受け入れる 認めるという場合にも
それがエゴに基づいている可能性があります。
でもその場合には 特定の誰か あるいは特定の何かを受け入れ 認めはするけれども
それ以外の何か・誰かのことは 受け入れないし認めないということによって
それがエゴに基づいたものであることがはっきりと分かります。
「自我=エゴ」とは 物事をばらばらに認識します。
物事を 分かとうとします。
けれども 物事をばらばらに認識し 物事を分かとうとしても
本当にはそれは出来ません。
なぜなら 私達は宇宙の中に存在していて
宇宙そのものから自分を分かつことは出来ないからです。
宇宙とは ひとつながりの存在です。
自分は宇宙とひとつながりです。
他の生命も宇宙とひとつながりです。
ということは 自分と他の生命とはひとつながりです。
つまり 他の生命と自分とを分かとうとすれば
自分自身を宇宙から分かとうとするのと同じですから
苦しくなります。
ですから 自我=エゴの思いが強い人は 生きているのが苦しいです。
苦しいということは 快感の反対です。
たとえ 特定の誰か・何かと分かり合い 認め合い 受け入れ合っても
それ以外の生命とはそれをしないのであれば
そこには限定された快感しか生じません。
その限定の外には より大きな不快感が存在してしまいます。

その逆に
限定されない本当の快感を生み出すのは
誰とでも 何とでも つまり全ての生命と存在と
受け入れ合い 認め合い 分かち合う 気持ちと行動であり
ということは 全ての生命と一緒にそれをしていこう という意志な訳です。
そしてそういう生き方の中で味わう感動が
自分自身にも他の生命にもとても大きなプラスのエネルギーを与えます。
そして まさにそれが 自分自身と他の生命とを成長させていくことになります。


ですから
自分もまた 他の生命に 快感を感動を与える存在でありたいと思い
かつ それを行動で実行し
そして 不(愉)快なことは選択せず
全ての生命と 受け入れ合い 認め合い 分かち合う
そのような生き方から 自分自身を含めた生命の成長が導かれていくことになります。


(この文章は《 モデルになり合う 》へ続きます)



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