天才はなぜ天才になったのか?
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「天才」と言われる人たちがいます。
特に優れた天与の才能を持っていて かつそれを発揮した人たちのことです。
素晴しい作品を創り出した芸術家たち。
稀有な発見をした学者たち。
あるいは スポーツ選手などでも天才と言われる人たちがいます。
それらの天才は 一体どうやって 何が理由で天才になったのでしょうか?
それは 言葉の通りに「天与の才」なのでしょうか?
育った環境は影響しているのでしょうか?
ここでは主に芸術家の「天才」は なぜ天才となったのかを考察してみます。
1)「天与の才」とは何か?
人はそれぞれ 生まれ持った資質があるとされています。
同じ環境の中で育っても 兄弟の中で一人だけ天才が出る。
一卵性双生児で 同じ環境で育っても その二人には違いが出てくる。
親には無い才能を子供が発揮する。
これらは 生まれ持った資質というものがあるのではないかと思わせます。
植物の種を例に挙げると
例えば一つの実の中にたくさんの種がある場合でも
それぞれの種は同じではありません。
(かぼちゃやメロンが判り易いかもしれません。)
出来の良い種と 出来の悪い種があります。
つまり 種にまで育つその過程において違いが出てきてしまったのです。
人間で言うと 受精してから出産までの十ヶ月間にどう育ったのかで
生まれてきた子供が違ってくるわけです。
(しかし これは正確には「生まれる前=生命が誕生する前」ではありませんので
次項で取り上げます。)
スポーツ選手で言うと 元々の身体の造りが違うのではないか
運動能力が違うのではないか ということです。
しかし これは物質的な肉体に関してです。
人によって 創造性という抽象的な才能が違うのはどうしてなのでしょうか?
結局は「生まれる前」があるということなのです。
赤ちゃんとしてこの世に生まれるのは 肉体として誕生するという意味です。
では 生命というのは どこから来るのでしょうか?
生命は そもそも「ある」のです。
非物質の生命として存在しています。
それが 肉体という物質に宿って 赤ちゃんとして生まれてきます。
これまでにも幾度もそのように生まれてきました。
そして幾度も死んで(=生命が肉体から離れて)いきました。
(ですから 死ぬのは肉体だけであって 生命そのものは死にません。)
その 幾度もの人生での体験は その生命体=魂に蓄積されています。
そしてそれが その魂の傾向性を形作っています。
このようにして 芸術家タイプとか スポーツマンタイプとかの違いが出てきます。
そして 生まれるに当たって「人生計画」を立てます。
今回の人生では 生まれてから死ぬまで どういう生き方をするか を自ら決めます。
その時に 例えばスポーツマンタイプの魂が
「次の人生では学者になって一生机の前で過ごそう」と思うかどうか? です。
芸術家タイプの魂が「次の人生では港湾労働者になって肉体労働をしよう」と思うかどうか? です。
大抵の人は その魂の傾向性に従って よりそれを発揮できるような人生計画を立てます。
そして 魂として進化している人ほど 綿密な人生計画を立てます。
(というよりも 立てることができます。)
しかし 自分の傾向性が分からない人もいます。
そういう人たちは 行き当たりばったりの計画を立ててしまいます。
(というか きちんとした計画を立てることができません。)
つまり 魂として余り進化していない人は 粗雑な計画しか立てられません。
これが「天与の才」なのです。
この天与の才は 生まれる前(というのは出産では無く 受精する前)に決まっています。
そして その天与の才を発揮しやすい環境を選んで生まれます。
音楽家の有名な例を幾つか挙げると
大バッハ(ヨハン=セバスティアン・バッハ)の子として生まれた
カール=フィリップ=エマニュエル・バッハ。
ヨーロッパで最も有名なヴァイオリン教師レオポルド・モーツァルトを父親に生まれた
ヴォルフガング=アマデウス・モーツァルト。
ボンの宮廷音楽隊長を祖父に生まれたルードヴィッヒ・ファン・ベートホーヴェン。
現代でも
世紀の大ヴァイオリニスト ダヴィッド・オイストラフの子として生まれた
イゴール・オイストラフ。
ピアニスト ルドルフ・ゼルキンの子として生まれたピアニストのピーター・ゼルキン。
指揮者エーリッヒ・クライバーの子として生まれた指揮者カルロス・クライバー
などなど その他枚挙に暇がありません。
つまり 天与の才を発揮させる(よりも前の開花させる)条件として
育つ環境が大きな影響を与えるということです。
2)生まれ育った環境
誰もがその人なりの天与の才を持って生まれてきます。
しかし それを発揮できる人と 発揮できない人とがいます。
それは 大きい目で見ると その人の天与の才が引き出される環境にいたかどうか
天与の才が発揮できる環境にいたかが関わっています。
(植物で言うと 発芽させる環境と 開花あるいは結実させる環境です。)
すなわち 生まれ育った環境と 世の中という環境です。
兄弟姉妹全員が天才 という場合があります。
これは明らかに 生まれ育った環境 すなわち
親にどう育てられたかが大きく影響していると思われます。
親が それぞれの子供の天与の才を引き出し 発揮させる子育てをしたからです。
それには まずは自由に天与の才の芽が出るようにするということです。
子供が「育つ」のと 子供を「育てる」のとの関係を どう認識しているか です。
そして その子供に何らかの才能があることを認めなければなりません。
子供に対する理解です。
しかし それ以前もあります。
つまり 受精してから出産までの間です。
この間にどういう環境にいたかで 才能の発芽が違ってきます。
(またまた音楽を例に挙げますが)
毎日美しい音楽を胎内で聞いて育てば 当然生まれてから音楽の才を発芽させやすくなります。
それぞれの専門分野の教育を受けるに当たっても
当人の天与の才を教師が認め 引き出し 発揮できるように育てたかどうか です。
教師が 自らのやり方や意見や理屈を生徒に押し付ければ
生徒はその天与の才を発揮することはできません。
(生徒を自分の複製にしようとする教師です。)
教師の能力以上には生徒が育たない場合もあります。
生徒の天与の才を認められず 育めないからです。
逆に どういう才能の生徒であっても それなりの水準にまで育てることが出来る教師もいます。
これも 生徒が「育つ」のと 生徒を「育てる」のとの関係を どう認識しているか です。
また 天与の才を発芽させるに当たって 人間関係以外の環境の要素もあります。
自然と言う環境です。
都会の 自然のほとんど無い 喧騒の中で育ったのか。
海や山に囲まれた自然の中で育ったのか。
自然と触れ合うことは 創造性を発揮するという点においては非常に重要な要素です。
特に美術においては 色合いや光や造形は自然から自然と学ぶものが多いからです。
78000hzの(音としては人間には知覚できない)周波数を浴びることが
脳の創造性の発揮に関わっていることが分かっています。
この周波数は 自然の中には在りますが 街中には無いのです。
世の中で その天与の才を発揮するに当たって
それを充分に発揮できる環境にいたかどうか
例えば 他人がその才能を発揮するのを妬んだり 足を引っ張ったりする
そのような人たちばかりの中では 天与の才は発揮できにくいでしょう。
世の中の多くの人は 我利我欲で生きていますから
多くの場合その人たちの自己保身のために 他人の天与の才を発揮する邪魔をしたりします。
(「出る杭は打たれる」という諺は 出ている杭がいけないかのような言い方ですが
本当は「出ている杭を打つ」人たちが 天与の才の発揮を邪魔しているのです。
しかし 打たれても それでも出る杭でありえるかどうかは
本人の「強さ」 すなわち しっかりした人生計画と
それを全うするという意志の強さによります。)
3)宇宙の中の存在
しかし 苛酷な環境の中に生きながらも 創造性を発揮した人たちがいます。
昔の芸術家は貧乏でした。
フランツ・シューベルトが31歳で亡くなった後
その遺品が競売にかけられ 計六千円ほどになりました。
彼の遺産はたったの六千円だったのです。
しかし 彼の本当の遺産は その素晴しい作品であることは誰でもが知っています。
ルードヴィッヒ・ファン・ベートホーヴェンも貧乏でした。
見かねた貴族が館の一室を提供しても 堅苦しい貴族の生活になじめずに
結局はウィーンの中で転居を繰り返しました。
シューベルトとベートホーヴェンは結婚していませんでしたので
一人で貧乏生活を切り抜ければ良かったのですが
モーツァルトは結婚して妻子がいましたので 一人での我慢では済みません。
35歳で亡くなる前の彼の晩年は フランス革命が起きて貴族社会が揺るぎ始め
ということは彼を援助してくれる貴族がどんどん減って 収入が限られていました。
そういう貧乏生活の(かつ短い人生の)中で なぜ
彼らは人類の至宝ともいえる作品を生み出せたのでしょうか?
グスタフ・マーラーという音楽家がいました。
生前は指揮者として 死後は作曲家として高く評価されています。
(ウィーン国立歌劇場の音楽監督を務め
二十世紀前半を代表する後期ロマン派最大の作曲家とされています。)
しかし 彼の人生は過酷でした。
彼は 三重苦を背負っていたのです。
ユダヤ人としてボヘミアに生まれました。
ユダヤ人は 数千年も前からヨーロッパの中で迫害されていました。
特に 19世紀後半から20世紀前半にはそれが強まりました。
そして 彼が生まれたのはボヘミアのドイツ語地域でした。
ボヘミアの中の 更に少数民族ということで迫害されました。
そして (ユダヤ人というのはユダヤ教徒ですが)ウィーンに行くにあたって
キリスト教カトリックに改宗しました。
しかし 改宗しても世の中の人は彼を「ユダヤ人」だと思っています。
かつ 他のユダヤ人たちにしてみると ユダヤ教徒でなくなった彼は「裏切り者」です。
ユダヤ人たちからも受け入れられません。
こういう環境の中にいましたので 彼は強迫神経症の傾向にあり
それが原因で五十歳で亡くなっています。
マーラーは 歌曲を作曲し かつ
交響曲の中にも歌を入れていますが
他人の詩を使ったものの他に 彼自身が作詞したものも多くあります。
彼はどういう詩を選び どういう詩を書いたのでしょうか?
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今朝 野原を歩いていると まだ草に露が残っていて
陽気なフィンチが私に話しかけた:
「やあ そこの君! 素敵な世界だね!
明るくてかわいい! 世界が私を輝かせてくれる!」
そして 野原の端にいるブルーベルは
陽気に元気よく 小さな鈴を鳴らして 朝の挨拶をした:
「素敵な世界でしょう?」
「美しいものだ!私はこの世界がどんなに好きか!」
そして 輝く太陽の下で 世界は一斉に輝き始めた。
すべてのものが色調を増し 輝きを増した。
「いい日だね! 素敵な世界だね! おい そこの君!」
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私は人生がどのように続いていくのかわかりませんでしたが
すべてが再びうまくいったのです。
すべて!すべて! 愛も悲しみも世界も夢も。
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部屋の菩提樹の小枝 親しい人からの贈り物。
菩提樹の香りはなんと素敵なのだろう! なんと甘美なのだろう!
あなたが折った菩提樹の小枝はとても優しい!
菩提樹の香りを 愛の優しい香りを私はそっと吸い込む。
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これらの歌詞には この世で生きる苦しさは表現されているでしょうか?
全く 現れてはいません。
結局は マーラーだけでは無く 他の天才たちにも同様に現れているのは
たとえ 肉体を持って生きているこの世での人生がどんなに生き辛くても
本来の「生命」としての「魂」のあり方とは関係無い ということなのです。
私たちの本来の「生命」「魂」は 宇宙の中の存在であり
宇宙そのものの 「素晴しいものを生み出す」「素晴しいものを育む」
「素晴しいものを生かす」「素晴しさを発揮する」という意志と
同じ存在なのです。
創造性を発揮した天才というのは
これを認識している人たちなのです。
これを実感している人たちなのです。
そして その通りに生きた人たちなのです。
では「神童」といわれる 子供の天才はどうなのでしょうか?
彼らも これらのことを認識しているのでしょうか?
そうです 認識しているのです。
その認識とは「言葉で説明できる」ということではありません。
言葉以前の意識の中で認識しているのです。
そもそも 子供は誰もが天才なのです。
大人にまで育つ間に 天与の才の芽を摘み取ってしまうのが今の世の中なのです。
また 子供の頃には「神童」として天与の才を発揮できても
大人になってからも「天才」として才能を発揮し続けられるかというと
必ずしもそうではありません。
子供の頃には 宇宙そのものの 「素晴しいものを生み出す」「素晴しいものを育む」
「素晴しいものを生かす」「素晴しさを発揮する」という意志と同調できていたのに
大人になるとそれが出来なくなってしまうからです。
ということは 天才がなぜ天才なのかを「この世」だけで分かろうとしても無理なのです。
多くの人は「この世」しか見ていません。
多くの学者は物質と 機械で計測できるものしか見ていません。
だからこそ 天与の才を発揮できていないのです。
ここまで主に 芸術的(というよりも音楽的)な天才についてみてきましたが
これは 学問でも同様です。
真に偉大な発見というのは(発見は創造ではありませんが しかし)
学問における創造行為に近いものです。
そのような発見をした人たちは
この世に囚われずに 「宇宙の中での生命」を
(大なり小なり)認識していた人たちなのです。
4)まとめ
ですから 天与の才を発揮できた天才といわれる人たちは
①どういう人生を生きるのかの人生計画を 生まれる前にきちんと立て
それを全うできる能力を持ち それを発芽させ発揮できる環境を選んで生まれた。
②実際に 本人の周りの人たち(あるいは環境)が それを手伝った。
③肉体を持ってこの世で生きる人生だけが 「生きる」ということなのでは無く
生命は宇宙のものであることと その宇宙のあり方を認識し実感している。
そういう人たちなのです。
逆に
①きちんとした人生計画を生まれる前に立てなかった人には
天与の才と言えるほどの才能はありません。(というよりも 発揮できません。)
②天与の才を持って生まれてきても それを発芽させたり
発揮させたりする環境に身を置けなかった場合。
(これは 多くの場合 本人あるいは周りの人たちが
我利我欲によって誤った選択をするからです。)
③「この世で当たり前の情報」に染まってしまって
「宇宙の中での生命」を思い出し認識し実感できなかった場合。
天才には成れないということです。
でも 本当は私たちには無限とも言える可能性があるのです。
五感をもっともっと敏感にすることができるのです。
犬のような嗅覚を持つこともできるのです。
蝙蝠のような聴覚を持つこともできるのです。
禿鷹のような視覚を持つこともできるのです。
五感を超えた第六感を発揮することができるのです。
猫のように物質ではないものを見ることもできるのです。
植物のように言語を介さずにテレパシーで交信できるのです。
意志で物質を作り出すこともできるのです。
自らの身体を自由に変えることもできるのです。
では なぜ今それをできないのでしょうか?
それは 「この世」に縛られて生きているからです。
「この世ではこういうもの」という観念に縛られて生きているからです。
(自覚できない 深い意識層で縛られています。)
本当は 誰でもが天才なのです。
誰でもが超能力者なのです。
それをできずにいるのは 「この世」に縛られているからだ
ということを認識する それはすなわち
「宇宙の中でのあり方」を認識するということです。
「木を見て森を見ず」という諺がありますが
地球人類は 「宇宙」という森を見ずに
「地球上でのこの世」という木しか見ていないのです。
「五感を超えた世界」という森を認識せずに
「五感で感じられる物質世界」という木しか認識していないのです。
少しでも 宇宙に意識を向けてみましょう。
「宇宙の中の生命」であることを 感じ取ろうとしてみましょう。
そうすれば 「凡人」だと思っていた自分にも
実は「天与の才」があるんだということに気付けるかもしれません。
(2025/01/28)
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