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拍子とその感じ方

《幸也の世界へようこそ》《幸也の言葉》《公演でのお話から》 → 《拍子とその感じ方》


私たちが一般に音楽を聴くとき
メロディーと和音とリズムとを聞いています。
これは西洋音楽 またはそれに類する音楽を聞いた時のことですが
基本的に音楽は メロディーと 伴奏とでできていて
伴奏で和音を鳴らしているか
メロディーと伴奏とで和音を作っているか そのどちらかの場合がほとんどです。

メロディーとは 音の高さの変化+リズム です。
リズムだけで 音の高さの変化が無いものは(多くの打楽器がそうですが)
メロディーとは言いません。
逆に 音の高さの変化だけで リズムが無いものはありません。
なぜなら 同じ間隔で鳴っている音も リズムとして捉えるからです。

そして リズムのまとまりが 拍子です。
拍子は大抵の場合 規則的に繰り返される強弱の変化です。
つまり 「強・弱」「強・弱」 の連続は 二拍子です。
「強・弱・弱」「強・弱・弱」 の連続は 三拍子です。
「強・弱・弱・弱」「強・弱・弱・弱」 の連続は 四拍子です。
大抵はひとつの拍子が繰り返されます。つまりひとつの拍子が連続します。
ひとつの拍子が連続すると 規則的に聞こえます。
違う拍子に変わると 不規則に聞こえます。

大抵の音楽は ひとつの拍子が連続した作りになっています。
つまり 規則的に聞こえるように作られています。
しかし どの拍子でも同じように規則的に聞こえる訳ではありません。
だからこそ 拍子の違いが存在しているのですが
それぞれの拍子 二拍子・三拍子・四拍子 あるいは五拍子や六拍子は
それぞれが その拍子特有の感じを表現しています。
その感じの違いを作曲者は利用して何かを表現している訳です。
 
そして そのそれぞれの拍子の感じの違いとは
感じ方の違いですから 身体の動きと結び付いています。
なぜなら 感じ方は 身体の動きと結び付いているからです。



二拍子

二拍子は
「強・弱」あるいは「弱・強」の連続です。
これは 言うまでも無く 歩く時のリズムです。
右足と左足を交互に前に出して身体を前進させるリズムは 二拍子です。
ということは 二拍子の感じとは 前に進む感じ と言えるかと思います。
しかし その 前に進む感じとは
二拍子が単純であることとも関係しています。
二拍子には 二つの要素しかありません。
強拍と弱拍です。
と言うことは 非常に単純であり かつ変化が少なく
従って 方向が定まりやすくなります。

ただし 二拍子には
「強・弱」の繰り返しと 「弱・強」の繰り返しとがあります。
「強・弱」の繰り返しの方が 前に進む感じが強くなります。
(行進曲が強拍から始まるのを思い出して頂けるかと思います。)
なぜならば 「強・弱」の繰り返しでは
ひとつの 「強・弱」の後で また次の 「強・弱」に行こうとする動きが起こるからです。
(つまり 「弱」から 次の 「強」に行こうとする動きがあるからです。)
それに対して 「弱・強」の場合には 次に進もうとする動きよりも
「強」のところで止まる感じになります。

大抵の人は
身体にある程度の偏りがあって
従って 右足か左足のどちらかに重心が偏っています。
つまり 人によって 右足に重心のある人と 左足にある人とがいます。
と言うことは 歩くのは 右足と左足を交互に前に出していますけれども
「重心足・非重心足」の繰り返しになりますから そこに 「強・弱」が現れる訳です。
そして 大抵の人は 歩き始める時に 重心足から前に出します。
ですので 歩くのは 「重心足・非重心足」の繰り返し=「強・弱」の繰り返しになる訳です。 

他に 身体の動きで二拍子なのが 呼吸です。
呼気と吸気との繰り返しです。
呼気=吐く息は 強拍 それに対して 吸気=吸う息は 弱拍に相当します。
そして 呼気=吐く息は弛緩で 吸気=吸う息は緊張ですので
呼吸は 「吸気・呼気」の繰り返し=「緊張・弛緩」の繰り返し=「強・弱」の繰り返し
あるいはその逆の 「呼気・吸気」の繰り返し=「弛緩・緊張」の繰り返し=「弱・強」の繰り返しになります。

ここで 実感して頂けるかと思うのですが
呼吸を 吸う息から始めるのと 吐く息から始めるのとでは 感じが違います。
これが 音楽における「強・弱」と「弱・強」の違いにそのまま現れています。
(ただし 呼吸は正確には身体が弛緩すると 呼気の方が長くなります。
そうすると二拍子ではなく 三拍子に近くなります。)

二拍子の特徴は先に挙げたように
単純であり 変化が少ないことです。
ですので 行進曲風の曲がほとんどになりますが
多様性が感じられない とも言えるかと思います。
あるいは 色合いに乏しい ということです。
二つの点を結ぶと 線になりますが
結局二拍子とは 直線であり と言うことは 面でも立体でも無い
広がりも膨らみも無い
余裕が無いと言えるかもしれませんが
その直線的というのが 二拍子の感じであり
ですから 二拍子の曲を聴いたときには
そのような印象を受けることになります。


三拍子

三拍子は 「強・弱・弱」と 「弱・強・弱」と 「弱・弱・強」の三つがあります。
二拍子が 「弱・強」の場合に 止まる感じありましたが
それに対して三拍子では  「強・弱・弱」「弱・強・弱」「弱・弱・強」のいずれにおいても
止まらずに先に行く感じがあります。
玉が転がっていく感じとも言えるかと思いますが
つまり 三拍子は 安定しない=動きやすい感じが 二拍子よりも強くなります。
その 動きやすい感じが 三拍子が踊りの音楽に多く使われる理由です。
ワルツ(輪舞曲と和訳されています) あるいはポロネーズがその代表ですが
この感じとは 歩く時に 例えば 「右足・左足・左足」と前に出したら そこで止まらずに
次にまた足を前に出したくなることに現れているかと思います。

民族によって 性格の傾向の違いがあり それを民族性と言いますが
音楽にもまた民族性は現れています。
そして 拍子の選び方にもそれは現れています。

日本の伝統的な音楽には 三拍子はありません。
それに対して 朝鮮民族の音楽は ほとんどが三拍子です。
これは一般には 日本人は農耕民族であったのに対して
朝鮮民族は騎馬族であったからとされています。
つまり 馬に乗って走る時のリズムが三拍子で
そこから朝鮮民族の三拍子の音楽がきているということです。
それに対して 一般の人が馬に乗らなかった日本では
日本語が二拍子の言葉だということもあり 音楽でも三拍子は使われませんでした。

では 三拍子の特徴と そこから受ける印象とはどういうものでしょうか。

「三」は 「二」と「四」との間です。
ですから 先に四拍子についてお話してしまった方が 分かりやすいかもしれないのですが
「四」は安定の数です。
二拍子が 二つの点を結んだ直線の性格なのに対して
三拍子は 三つの点を結ぶことによって 面ができる つまり広がりができるという違いが出てきます。
四つの点を結ぶと 空間ができます。(四つの三角形でできている形です。)ですから膨らみが出ます。

広がりが出るというのが 三拍子の特徴のひとつであり
もうひとつが 先に挙げた 玉が転がるような動きの感じではないかと思います。
二つの点を結ぶ直線では その二つの点を往復する動きなのに対して
三角形では 三つの点を順に移動していくと 循環という動きが生まれます。
この「循環性」が 三拍子の動きの感じであり 特徴となります。

ただし 身体の動きで 三拍子というのはあるでしょうか?
身体の構造でも 三の数のものはありません。
ですから 三拍子のもうひとつの特徴が 人工的であるということになります。
これがまさに 日本の伝統的な音楽に三拍子がない理由のひとつではないかと思われます。
日本の音楽は 人工的・人為的であろうとするよりも
自然の一部であろうとしてきました。

ですから 三拍子の特徴をまとめると
循環性を持った動き・広がり・人工的 ということになります。


四拍子

四拍子は 自然界にも多く存在しているリズムで
「四」は 安定の数でもあります。
地球上の多くの土地において 人々は四季を感じています。
「春・夏・秋・冬」と一般には言われていますが
しかし 一年が一月に始まっていることが つまり一年は冬に始まることを現していて
ですから 本当は 四季は「冬・春・夏・秋」になります。

地球人は とても 目で見て認識するという生き方をしています。
普段の生活の中で 目から得ている情報がほとんどで
耳から あるいは口や触覚から得ている情報はごく僅かになります。

ですので 隠れている生命の動きよりも
目で見て簡単に分かることに気をとられがちです。
冬には 葉も無く 花も無かった自然界に
春になると 草木から新芽が出 花が咲き始めます。
そのような目に見える変化から 春を四季の初めのように認識することになったのかと思いますが
その春に出てくる葉も花も 実は 冬の間にすでに植物の中ではできていて
表面に出てくる時期を待っているだけです。
ですから そのような生命の動きから
一年の始まりは冬とされた訳です。

四季の他に 自然界で四拍子なのが
一日の中での時間です。
今は 世界のほとんどの場所で 二十四時間制がとられていますが
以前は 日本でもヨーロッパでも 十二時間制がとられていました。
十二時間制とは 一時(いっとき)が今で言う二時間に相当する それが十二回ということです。
(ですから 今「四六時中」という言い方がありますが 本来は「二六時中」と言っていたものが
二十四時間制になったので 数を合わせるために変えられたものです。)
一日は 三時(さんとき)×4=十二時でした。
今で言うと 6時間×4=24時間 になります。
つまり 一日を 朝・昼・夕・夜 と捉えていました。
これは 昔の人々が自然の中から体感した 自然のリズムから来ている一日の分け方な訳です。

自然界での 他の四拍子は 時間ではなく方向になりますが
東西南北です。
昔の日本人は 方角と時間とを結び付けて捉えていました。
これは 一日の中での太陽の動きを考えれば当然のことです。
あるいは 一年の四季も 方角と対応させて捉えていました。
ですので 東西南北は
時間の流れから言うと
「北・東・南・西」となります。

これは 人間が北を頭にして仰向けになった時
頭が北 左が東 右が西 足が南 という方向とも対応しています。
太陽は東から昇って 南を通り 西に沈んでいきます。
(そこから 日本人は方角と色をも関連付けさせて捉えていました。)
基本的に エネルギーは時間(もまたエネルギーのひとつです)を含めて 左から右に流れています。
頭を北にしたとき 左が東になりますが
東から日が昇るのと対応して
左から右に時間が流れている その自然の流れに乗った身体の向きが
北を頭にして仰向けになった向きになります。

このように
方角と時間とが関連している訳ですが
これは そもそもが 時間と空間とは一体のものなのに
それを地球では二つに分けて考えてしまっているから
このような説明が必要なのであって
そもそも 時間と空間とを分けずに 時空間として認識していれば
当然のことなのではないかと思います。

さて
三拍子で 平面が作られ
かつ 循環の動きが出てきましたが
四つの点を結ぶと
同じく 循環の動きが起こると共に
四面体という立体ができますから 空間が作られることになり
それによって 膨らみが生まれます。

そして 拍子の中の要素が
二拍子は二つ 三拍子は三つなのに対して
四拍子では四つになりますから
当然 四拍子は 多様な表現が可能になります。
更に 四拍子では
「強・弱・弱・弱」「弱・強・弱・弱」「弱・弱・強・弱」「弱・弱・弱・強」の四つが有り得ます。
ですので 一般に音楽を聴いて
二拍子は単純 三拍子はそれよりもやや多様ではあっても単純なのに対して
四拍子は一番 彩りが多く感じられるのは このような理由からきていると言えるかと思います。

「四」の性格として 安定があるということですが
これはどこから来ているかというと
この地上では 時間の流れの中に誰でもが生きている訳ですが
その時間の流れの中で 何かを感じ 考え 行動して生きている その動きを良く見てみると
矢張り 何らかのリズムがあるのが分かります。
それが「起承転結」であり
これはまさに「起・承・転・結」という四拍子になっています。

「起」というのは 物事の始まりですが
人間の行動においては 「何かを思いつく」ということです。
「~をしよう」「~を食べよう」「~を作ろう」等の思いつき
それが 「起」にあたります。

そして その思いついたことを実行する前に
大抵は もう少し良く考えます。
「どういうふうに」ということをです。
これは 思いついたその考えを
あるいは考えというよりも「思いつき」という言葉の方がより正確かもしれませんが
膨らませていく過程が 「承」の部分です。

そして その思いつきと 熟考とを実行に移すに当たって
「では こうしよう」という 決断・決定の時が来ます。
「転」は この「決断・決定」に当たります。

そして 思いつき よく考え そして決めたことを実行する
それが 「結」です。

ですから 起承転結とは
思いつく・熟考する・決める・実行する
という流れだということになります。
これがまさに 四拍子になっている訳です。

もう少し 分かりやすい例を挙げるなら
例えば 「今夜はカレーが食べたいな」と思いつきます。
そして「どんなカレーにしようかな?」と考えます。
あるいは 「今夜は野菜カレーが食べたいな」と思いついたとしたら
「どうやって作ろうかな」と考えます。
そして 「こうやって作ろう」と決断します。
そして 実際に作ります。
この四つの過程が 起承転結であり 四拍子だということです。

私たちの一日の生活は これの連続だと言うこともできるかと思います。
あるいは この過程を経ていないものは 完成度が低くなる とも言えるかと思います。

思いつきも無しに 考えることも無しに いきなり何かを作り始めたらどうなるでしょうか?
(これを 世の中では「マンネリ」と言っています。)
折角何かを思いついたのに よく考えないで行動を始めたら 必要なものを揃えずに始めてしまうかもしれません。
いろいろと頭の中で考えたのに 決断しなかったら 行動を始めた後で迷いが出てきます。
あるいは 何かを思いつき よく考え そして決断したのに 行動を始めなかったら
当然 何も完成しません。

このように 起承転結の どの部分が欠けても完成度の低い結果が出ることになります。

と言うことは 「起承転結」にのっとっていることが 自然な流れであり
完成度の高いものを創り出す流れだと言うことができるかと思います。
そして 完成度の高いものができるというとは
「安定している」ということです。
これが 「四」が 安定を現している理由です。

ですから 音楽を聴いても
どっしりとした感じの曲は 四拍子です。
彩りが多く感じられるのも 四拍子です。

けれども この 「安定」というのは
実は 変化があってのことです。
安定した変化という言い方ができるかもしれません。
そもそも 私たちが存在しているこの宇宙の性質のひとつが
「変化」です。
宇宙の中では 常に何かが変化しています。動いています。
(動きは 時空間の変化ですから。)

例えば自動車などの 何かの乗り物に乗っている時でも
安定して走っているのと 不安定に走っているのとの違いを実感できるかと思います。
この 安定した動きを作るのが 四拍子だと言えます。

もうひとつ 四拍子が安定して聞こえる理由ですが
人間の脈拍もまた四拍子だということも関係しています。
これは正確に言うと 脈拍そのものが四拍子というよりも
脈+呼吸=四拍子 ということなのですが
一般的に(=身体が正常な状態であれば)
脈が四回打つのは 一回の呼吸(=呼気+吸気)に対応しています。
つまり 一回呼吸する間に 脈は四回打っている ということです。
このように 人間にとって必要不可欠な機能である
呼吸と脈拍とが四拍子になっていることが
四拍子が安定して聞こえるもうひとつの理由です。
 

ここまでお話してきた 「拍子」とは
いわゆる 音楽の中での規則的なリズムの繰り返しの中でも
小節を構成しているもののことを言ってきました。

けれども 四拍子は この「拍子」以外にも
音楽の中では基本的なリズムとして使われています。
例えば ほとんどの音楽において
ひとつのフレーズ(文章において 句読点で区切られた「節」に相当するもの)は
8小節か16小節でできています。
その8小節とは 2小節×4 であり
16小節は 4小節×4 です。

あるいは クラシック音楽では最も基本的な構造と言われるソナタ形式は
提示部・展開部・再現部・終結部の四つの部分で構成されています。
また ほとんどの交響曲は 四つの楽章でできています。 

これらもまた
四拍子と言えるかと思いますが
起承転結の四つの部分の組み合わせによってひとつの曲が構成されている訳で
ソナタ形式や 四楽章形式は 特に安定性を重視した古典様式の音楽に多い構成ですが
そこにも 四拍子の安定性と完全性
そして多様性といった特色が発揮されているのを感じ取ることができるかと思います。


五拍子

五拍子の音楽は そう多くはないかと思います。
「五」はどういう数かというと
「四」が「起承転結」でしたが その後に来るのは何なのか ということと関係しています。
思いつく・熟考する・決める・実行する そして その後に来るのは
「完成させる」「仕上げる」という過程です。

ですから 五拍子の音楽から受ける感じもまたそういったものになります。
四拍子よりも より完成した安定した感じとなります。

ただし ひとつの拍子の中に(=ひとつの小節の中に)
五つの要素があるということは
しばしばそれは 2+3 または 3+2 として捉えられます。
他に 1+4 または 4+1 も無い訳ではありませんが
多くの場合は 2+3 または 3+2 として捉えられるかと思います。
その場合には 2と3 あるいは 3と2 というように
アンバランスが生じます。
そうすると そのアンバランスが
安定した感じの五拍子の中で 動きを生じることになります。
そして その動きは直線的なものではなくて 曲線的なものとなります。

中国の音楽は ほとんどが四拍子です。
これは 中国語が四拍子であることから来ています。
しかし 中国では いろいろなものを
五つに分類して捉えてきました。
「五行」と言いますが
それにもかかわらず なぜ 中国の音楽には五拍子が無いのでしょうか。
中国語が四拍子である ということが一番大きな理由であろうと思われますが
中国の芸術は 特に音楽においては
「喜怒哀楽」という 感情の表現を目的としてきました。
「五行」として 様々なものを五つに分類した中国人ですが
感情表現については「喜怒哀楽」という 四つの分類をしました。
その 感情表現に適していたのが四拍子であり
五拍子は適していなかったということになります。


六拍子・他

六拍子や 七拍子なども音楽としては有り得ます。
しかし 五拍子が 2+3 あるいは 3+2 に分割されたように
例えば 六拍子では 2×3=2+2+2 または 3×2=3+3 に分割して捉えられます。
多くの場合 六拍子は 3×2=3+3 です。
ということは 二拍子のそれぞれの拍が三つに分割されたものが六拍子です。
あるいは 2×3=2+2+2 ですと
三拍子のそれぞれの拍が 二つに分割されたものになります。
ということは 六拍子は 二拍子と三拍子の性格が合わさったものということになります。

七拍子よりも更に拍の数が多くなっても
同様に 分割して認識されます。
つまり 分割せずに ひとまとまりとして捉えられるのは
二拍子・三拍子 そして四拍子までだということになります。
それよりも拍数が多くなると 人間は分割して捉えてしまいます。


感情と身体の動き(向き)と拍子

《身体の動きと表現》の項を参照して頂けると ご理解して頂きやすいかと思いますが
感情と 身体の動き(向き)とは 密接に関係しています。
そして 更に拍子や音色とも関係しています。

私たちは 空間の中に生きていますが
その空間を 上下・左右・前後 という広がりとして捉えています。
あるいは これは 何かが動いていく方向とも言えます。
身体の向きや動きの方向と 感情が結び付いていますから
二拍子よりも三拍子 三拍子よりも四拍子の方が なぜ表現が多様になるのかというと
結局 方向の選択の可能性が増えるということが理由です。
それによって感情表現が豊かになります。
感情表現とは 必ずしも「喜怒哀楽」とは限りません。
より正確には 感情表現というよりも 心象表現・心情表現と言えるかもしれませんが
心の状態と方向が関連しているということです。

(→《身体の動きと表現》へ)



このように
音楽を聴いた時に受ける印象の違いのひとつとして
拍子による性格の違いというものがあり
私たち 音楽を創る側から言うと
そのような 拍子ごとの性格の違いをも勿論考慮して
曲を作っている訳です。
ということは逆に
何か特定の感じの音楽を探している
あるいは 特定の効果を音楽に期待している場合には
そのような拍子の性格の違いを考えて頂ければ
それを選ぶ際の一助になるのではないかということでもあります。


(2004年9月4日の東京公演でのお話を元に文章化したものです)



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