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画家は画家?

フランダース写実主義の画家たちは
(本当のところ)何をしていたのでしょうか?

《幸也の世界へようこそ》《絵画を見る目・感じる心~芸術と触れ合うには》 → 《画家は画家?》

15世紀に ヨーロッパの絵画の世界を大きく揺さぶり変換させた「フラームス・プリミティーヴ=フランダース写実主義」。その画家たちはまさにヨーロッパの絵画の世界で 他の追随を許さない高みに達し 君臨し 絵画の歴史において金字塔を打ち立てました。

しかし 彼らは一体どうやって出てきたのでしょうか? どうやってその高みに到達したのでしょうか? 彼らはどういう創作活動をしていたのでしょうか?  

「フラームス・プリミティーヴ=フランダース写実主義」は突然出現しました。前触れ無しに。先駆けとなるもの無しに。そして彼らが開発し探究し完成させた「油彩絵画技法(=油絵の具による絵画の技法)」が西洋絵画(の臣ならず世界の絵画)を大転換させたのです。

ヒューベルト・ファン・アイク(1366~1426)
ローベルト・カンピン(1375/1379の間?~1444)
ヤン・ファン・アイク(1390/1400の間?~1441)
ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(1399または1400~1464)
ハンス・メムリンク(1430/1440の間?~1496)

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12世紀13世紀までのヨーロッパでは 絵を描くのは修道士でした。なぜならば絵とは宗教画だったらです。日本で彫刻といえば仏像 仏像を作るのは仏僧だったのと同じことです。宗教画以外に 僅かに肖像画がありました。つまり 絵画とは「宗教画」と「肖像画」という二つのジャンルしかありませんでした。(より正確には「肖像画」はジャンルとして確立されていませんでした。)

12世紀から フランダース伯爵領は経済的にとても繁栄するようになりました。①毛織物産業 ②長距離貿易 によってです。ヨーロッパの初期資本主義経済発祥の地となり ヨーロッパ中で最も経済的に繁栄しました。伯爵領内には幾つもの都市が形成され 商人や職人が集まって暮らし やがてそれぞれの都市は「自由都市」として自治を認められ経済的に豊かになっていきました。そして 立派な市庁舎を建て 華々しい祭典を繰り広げるようになりました。

商人や職人たちはそれぞれの職種でギルドを結成し 親方/公房/徒弟の制度によって 職種の水準/良質の原材料の入手/販路の確保などの管理をし 便を図るようになり どのギルドも市場を独占することで力を付けていきました。それぞれのギルドは都市の中心に立派なギルドハウスを競って建て 教会の中には立派な礼拝室を持ったり 祭壇を置いたりしました。

市民が経済的に豊かになれば 教会もまた豊かになります。たくさんの献金が集められるからです。
立派なゴチック様式の教会が各地に建てられました。キリスト教社会であるヨーロッパでは 全ての人がキリスト教徒ですので 誰もが教会に行きます。つまり街の中で最も人が集る場所が教会でしたので多きい建物が必要だったのです。そして絵画/ステンドグラス/彫刻/タペストリーなどで装飾されました。安息日(=日曜日)の他に聖祝日の礼拝が行われ それぞれのギルドも教会の中に礼拝室を持ち そして年に何度かの聖祝典が行われました。(今でも残っているものの一つがブルージュの「聖血の行列」です。)

そして そういう繁栄に拍車を掛けたのがブルゴーニュ公爵家による統治でした。1363年にフィリップ突進公によって始められたブルゴーニュ公国は その後1482年まで四代に渡って空前絶後の繁栄を誇ることになります。ヨーロッパで最も経済的に繁栄したのみならず 芸術のあらゆるジャンルにおいて他の追随を許さない最高水準のものを生み出しました。ヨーロッパで最高品質の毛織物(特にタペストリー)/ヨーロッパで最高の質の木彫り彫刻/ヨーロッパで最高の質の金属加工/ヨーロッパで最高の質の手書き本/西洋音楽の元となった多声音楽の発明/西洋絵画の元となった油絵の具の発明など その当時 そしてその後のヨーロッパの芸術に多大な影響を与えました。ブルゴーニュ公爵の宮廷は各地に宮殿を建て そこに芸術家たちを招いて演奏や創作をさせました。

14世紀には 各都市で「装飾芸術家ギルド」が結成されました。これは都市によってどういう職種が参加するのか違っていましたが 概ね「画家」「彫刻家」「彫金細工師」そして「鞍作り職人」「(布地に色を付ける)染色職人」などが含まれるところもありました。画家の守護聖人が聖ルカとされましたので 多くの都市で「聖ルカギルド」と名付けられました。

それぞれのギルドは 試験によって肩書きを得た「親方」が「公房」を持ち 「弟子」を採って教えながら手伝わせます。公房を持つ親方だけが 弟子を取ることも 自分の名前を入れた作品を売ることも出来ました。弟子は(都市によって違いましたが)概ね三年から四年の徒弟期間を経て 親方(マイスター)になる試験を受けることが出来ます。しかし この試験を受けるにはかなりの受験料が必要でした。(親方の子供は無料でした。) 例えば15世紀にヨーロッパ最大の商業都市となったブルージュでは ギルドに加盟している画家の四割は外国人でした。この人たちは当然高額の受験料を払って親方になったのです。しかし ブルージュの繁栄が「そこでは仕事がある」という呼び水になっていたわけです。かつ そうやって外国から職人が入ってくることによって 職人の質がどんどんと高まっていきました。(後の時代に「アメリカンドリーム」という言葉が出来ましたが この時代には「フランダース伯爵領に行って成功する」ことがまさにそれに相当する憧れだったのです。)

なぜ「画家ギルド」では無く 「装飾芸術家ギルド」だったのでしょうか? 
都市/教会/ギルド/商人や職人たちが豊かになり いろいろな場面での装飾の需要が高まりました。市庁舎には大きな絵画を掲げました。(その都市の歴史における記念すべき出来事。あるいはこの時代には市庁舎が裁判所を兼ねていましたので 裁判の公正さを象徴する絵。) 教会には祭壇画や彫刻が置かれました。どのギルドも他のギルドよりも立派な礼拝室を目指しました。金持ちの商人や職人たちは 自宅に礼拝室を持ち そこに祭壇画を置きました。都市やギルドはお祭りをしました。町中を練り歩く行列のために 紋章/旗/盾/馬車の装飾/衣装/絵画などが必要です。統治者の結婚や争議に際してもこれらのものが必要です。 

これらのものがまとめて「装飾芸術家ギルド」に注文されたのです。
ですから「画家」とは言っても 実は絵を描くだけではなかったのです。装飾全般のデザインをしていたのです。衣装のデザイン/紋章や旗のデザイン/馬車の装飾 そして勿論絵画。

14世紀から15世紀にかけて 画家として生きていくにはギルドに加盟する他に 二つの可能性がありました。①宮廷画家 ②都市専属画家 です。

「宮廷画家」とは その字のとおり宮廷の専属の画家です。その宮廷の必要としているものを制作します。多くの場合にはこの「画家」も 絵を描くだけではなく上記のようにいろいろな装飾のデザインを手がけました。ブルゴーニュ家では地図も画家に描かせています。(後に大航海時代が始まってから 専門の地図製作者が出てきました。) 宮廷画家はギルドの制約に縛られません。かつ 税金も免除になります。兵役も免除になります。しかし 宮廷の命で他のことをする場合もあります。例えば ヤン・ファン・アイクは 外交官的な使命を任されてポルトガルに派遣されました。この時代の画家というのは 高い教育を受けたエリートだったからです。

「都市専属画家」もその字のとおり それぞれの都市の専属として 市の行事に必要なあらゆるものの装飾を手がけました。この立場もまた ギルドの制約に縛られず かつ税は免除となります。

そして 宮廷からも都市からも 下請けとしてギルドに注文が出されました。例えば ブルゴーニュ公爵のフィリップ善良公が突然亡くなったときには 葬儀がその一週間後となりましたので 僅か五日間で1200枚の絵を含む全ての準備をしなければなりませんでした。とても宮廷画家たちだけでは間に合いません。

キリスト教社会においては 日曜日は安息日です。仕事をしない日では無く「仕事をしてはいけない日」です。その他に聖祝日が年間に30日ほどありました。これらの日も仕事は出来ません。ですから年間に80日は仕事をしない日がありました。

そして この時代には照明は蝋燭か油カンテラ(=オイルランプ)でしたが 蜜蝋も油も高価でした。かつそれらを使っても絵などの制作を出来るほどの明るさにはなりません。ですから 日中の限られた明るい時間だけしか制作は出来ませんでした。しかも 冬には昼の時間が短いのです。冬至の頃は日の出から日没までが8時間です。

そして 何をするにも手作業ですから時間が掛かりました。絵の具は売っていませんから 画家の公房で作らなければなりませんでした。鉱物系の顔料を(石などを臼で挽いて粉にして)作り それを速乾性の油と混ぜて絵の具にします。きちんとした絵画は木の板に描かれましたので その作製を専門の職人がします。バルト海沿岸から輸入した丸太を板に切り 表面を平らにし 大きな絵のためには板を繋ぎ 表面に膠を塗って乾かしてから磨いて凹凸が全く無い状態にしたらば絵を描けます。タペストリーの下絵や旗などはキャンバスに描かれましたが これは購入します。

ということで 実際に画家が絵を描ける時間というのはとても限られていたのです。かつ 人生六十年の時代です。それにもかかわらず 西洋絵画史上最も素晴しい作品が生み出されたのです! 油彩絵画というものは 先駆となるものが無くいきなり最高水準のものが生み出されたのです。つまり 全く突然出現したのです。そしてその後その質は向上しなかったのです。

一体どうしてでしょうか?

フランダース写実主義が栄えた15世紀というのは ヨーロッパにおいてある動きが起きていた時代です。1430年にはブルゴーニュ公爵によって「金の羊毛騎士団」が結成され ヨーロッパ中で最も権威ある世俗騎士団となりました。1430年から1480年にかけて スコットランドのエディンバラ近郊にロスリン礼拝堂が建てられました。ほぼ同時にブルージュにはエルサレム礼拝堂が建てられました。ブルゴーニュ公爵のフィリップ善良公は 新たな十字軍を計画していました。

同じこの時代に アルプス以南の北イタリアでは ルネッサンスが始まっていました。「ルネッサンス=再び生まれる」(文芸復興とも言われています。)は何を再生させるのでしょうか? キリスト教カトリックによって閉じ込められた人間性を解放し再生させるのです。そして 16世紀に入るとアルプス以北で宗教改革が起きました。ルネッサンスとは文化による反カトリック運動であり 宗教改革は理屈による反カトリック運動です。

ブルゴーニュ公爵家が目指したものは カトリックの教義の中にほんの僅かにだけ残されていたイエス・キリストの本当の教えを実践することでした。「全ての人が愛し合い幸せに生きる」世の中を作りたかったのです。それはすなわち「地上天国」を作りたかったのです。「エデンの園」を復活させたかったのです。ですから ブルゴーニュ家は戦ででは無く(婚姻関係など)平和な手段で領土を広げていきました。(これは後にはハプスブルク家に引き継がれていきます。) 

「誰もが豊かに生きて良い」のです。ですから外国人商人も職人も入れて都市を繁栄させました。それぞれの都市に「自分たちの手で繁栄しなさい」と自由都市にしました。そして 貧しい人たちのためにはベギン会のような救済組織を援助しました。貧民院/救貧院/施療院としてボーヌに建てられた「神の家」は ブルゴーニュ公国の宰相ロランが慈悲のために自費で始めたものです。宰相としてブルゴーニュ家の精神を体現したのです。

では そのブルゴーニュ家の精神はどこから来たのでしょうか?

ベルギーはアルプス以北で最初に国家が誕生した土地です。そしてカール大帝によってヨーロッパが誕生した土地です。そして 十字軍が出発した土地です。そして 十字軍に随行した聖堂騎士団がもたらした秘密によってゴチック建築が始まりました。中世ヨーロッパで最も重要な文学「白鳥の騎士伝説/円卓の騎士伝説/アーサー王伝説」が書かれたのはブルージュです。しかし聖堂騎士団はキリスト教カトリックの秘密を知ったがために弾圧され解散させられました。これら一連の流れというのは「イエス・キリストの本当の教え」を引き継ぐものなのです。カトリックが捨て去った。

つまり ルネッサンス(=文化による反カトリック運動)でも無く 宗教改革(=理屈による反カトリック運動)でも無く カトリックに支配され統治されているその枠組みの中でイエス・キリストの本当の教えを実践しようという形での(「敵と戦わずに勝つ」という)「反カトリック運動」だったのです。

そして これらの流れを下から(隠れて)支えていたのが錬金術です。アラブからもたらされた錬金術や様々な技術によってフランダース伯爵領は繁栄しました。そして 画家たちは錬金術に関わっていました。絵の具を自らの手で作らなければならないことが関わっていたのです。だからこそあれほどに高度な絵の具と油彩技術を開発できたのです。(「ゲントの祭壇画」=「神の子羊」にはこれらに関する多くの暗号が隠されています。)

しかし 画家たちが目指したのは金を作り出すことではありませんでした。芸術=美によって世の中を美しくすることでした。芸術家にとっての錬金術は「世の中を黄金に変える」ことだったのです。これこそがブルゴーニュ家が目指していたものであり 芸術家たちはその一端を担っていたのです。

これが フランダース写実主義の画家たちが 史上最高の作品を生み出した理由です。まさに錬金術師だったのです。最高に価値のあるものを生み出したのです。しかしその後芸術は(ルネッサンスの真の精神を理解できなかった人たちによって)「個人の表現」となって堕落していきます。(それに対する反動が19世紀後半のイギリスで起きた「前ラファエロ派」です。堕落した芸術をラファエロ以前の精神に戻そうという。) 「個(人)の表現」などという本当にけち臭い考えでものを制作するようになってしまったのです。

それは「創造」「創作」と「制作」の違いが分からないからでもあります。「創造」「創作」とは それ以前には無かった素晴しいものを生み出すことです。「制作」とは 他の真似をしたりしてものを作ることです。


これで フランダース写実主義の画家たちが 単なる画家ではなかったということが分かりました。「世の中を美しくする 素晴しくする総合装飾芸術家」だったのです。

五百年以上の年月を経て 彼らの作品で残っているものは僅かな絵画作品だけです。(多くの作品は 破棄されたり散逸してしまいました。) ですので「画家」と言われているのですけれども(かつ 当時も画家という言い方はされてはいましたが) しかし実際には様々な装飾を手がけていたわけです。

彼らを創作に向かわせていたこのような精神が分からなければ 彼らの作品の本当の価値は分からないということでもあります。(だからこそ その後彼らの作品は過小評価され忘れられたのです。)


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