子育てについて
食事について
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食べるとは
~ 何を体内に取り入れているのか ~私たちは日々の生活において 幾度も食事をとります。
大抵の人は 一日三色食べ また間食もしたりします。
その「食べる」という行為は なぜするのかということ
「お腹がすいた」からです。
「お腹がすいた」という感覚を
肉体が「燃料不足になった」という警告を発していると認識して
燃料=食べ物を入れるわけです。
自動車のガソリンが無くなって 給油するのと同様です。
しかし 自動車はガソリンタンクが空になると もう走りませんけれども
人間の場合には 胃袋が空になってもまだ動けます。
たとえ数日間食べなくて胃が空になっても 身体は脂肪分を分解させてエネルギーに変換します。
自動車と人間とは違うのです。
そもそも「お腹がすいた」というのも 随分とあいまいな感覚です。
ガソリンタンクと違って どこまで減ったから警告が出ると決まっているわけではありません。
一般的には「お腹がすいた」という感覚は
食事をして膨らんだ胃袋が 消化によって中身が減っていき収縮する
その収縮の感じを捉えているものなのです。
では なぜ私たちは食事をするのでしょうか?
どうして 食べるという行為をするのでしょうか?
本当に「燃料が無くなった」「もう動けない」と感じているからでしょうか?
確かに 食べ物を食べるということは 自動車のガソリンに相当する
身体を動かすための燃料を入れているのだと言えます。
あるい子供の場合には 身体を成長させるためです。
そして その燃料として いわゆる栄養素
たんぱく質/でんぷん質/油脂質/(ヴィタミンなどの)ミネラルを体内に入れ
それを消化するための助けとして 酵素や細菌をも取り入れている
というのが学者の言い分です。
しかし 大抵の学者は「物質」しか見ていません。
「物質」しか認識していません。
ですから「物質」しか扱いません。
食べ物 すなわち穀物/野菜/肉/魚介類などには
それぞれどういう栄養があるのかを分析し
そして人間は一日にどれだけの栄養素を必要としているのかから
一日に必要な摂取量を割り出したりします。
けれども
間食=おやつとして食べる物は 甘いものが多いです。
甘いものも 「身体が燃料として必要としている」と感じて食べているのでしょうか?
そうではなさそうです。
「嗜好品」といわれるものは 必要だからではなくて
その名のとおり「嗜好」つまり「好み」として口にしています。
必要だからでは無いのであれば それは不必要なものを体内に入れているのでしょうか?
私たちは 日々「食べる」ということをごく当たり前にしてはいますけれども
「なぜ食べるのか」「なぜそれを食べるのか」「何を食べているのか」
「何を体内に取り入れているのか」は
実は自覚してないようです。
エネルギー/情報
~ 食べ物の本質 ~食べるということは 実は学者が言うような
身体を成長させたり動かしたりするための動力源としての物質を体内に取り入れている
というそれだけはないのです。
これは違う言い方をすると
私たち人間を含めた地球上の動物は 食べ物からの栄養だけで生きているのではないのです。
植物も 水とそれに含まれている栄養分だけで生きているわけではないのです。
私たち全ての存在は 宇宙の中に存在しています。
そして 日々太陽の光を浴びています。
宇宙というのは それ自体がその中に全てのものを存在させている生命体です。
その宇宙そのものの生命エネルギーによって その中の全てのものは存在しているのです。
そして宇宙の中の全てのものは それぞれ宇宙のエネルギーを受け取ると共に
それ自体からエネルギーを外へと発散させています。
なぜならば エネルギーを外へと発散させることによって
宇宙のエネルギーが中へと入ってくるからです。
エネルギーは動きですので 循環させなければならないのです。
ということは 私たち人間も あるいは他の動物も植物も鉱物も
この地球上に存在している全てのものは
それ自体からエネルギーを発散させて生きています。
そして 地球そのものも あるいは太陽も他の恒星や惑星も
それ自体からエネルギーを発散させて生きています。
そして それらのエネルギーの影響をお互いに受けながら存在しているのです。
私たちが日々太陽の日差しを浴びて生きているということは すなわち
太陽からのエネルギーを浴びているということなのです。
これら 宇宙からの そして太陽からのエネルギーを受け取ること無しには
地球上の全ての生命は生き続けることはできません。
実は 物質としての栄養素を食べるということ以上に重要なのは
これら太陽や宇宙のエネルギーを受け取るということなのです。
つまり私たちは 食べるということで 物質だけを食べているのではなくて
その中に含まれている「宇宙エネルギー」や「太陽エネルギー」を食べているのです。
太陽の光を浴びて育った野菜や果物を食べるのも
太陽の光で乾燥させた食べ物を食べるものも
いずれもが 太陽エネルギーを間接的に体内に取り入れているということなのです。
そして 私たちひとりひとりの人間もまた エネルギーを出しています。
その内の一つが「想念」です。
頭の中で考えたことは 念波として体外に発信されます。
本人が自覚している想念も 自覚していない観念も
いずれもが念波として発信されています。
現代人の食べているものの多くは 調理あるいは加工されたものです。
つまり 誰かの手によって調理されたものです。
その調理という行為によって 作られる料理には調理した人の想念というエネルギーが入ります。
ということは 私たちが調理された食べ物を食べるということは
それを調理した人の「想念」というエネルギーをも食べているわけです。
実は 食べ物を食べるということは
物質としての栄養素を体内に取り入れる以上に大切なのが
これら宇宙からのエネルギー 太陽からのエネルギーを取り入れているということなのです。
そして 調理した人の想念を取り入れているということなのです。
そして 食べ物に含まれている全てのエネルギーが
それを食べた個体に影響を与えます。
ということは 調理するに当たって 調理する人がどういう気持ちで作ったのか
それがエネルギーとして料理には入っていて それを食べさせているということであり
食べた人は その想念の影響を受けるわけです。
食べ物に含まれているエネルギーは それだけではありません。
材料のエネルギーも そして材料に含まれているエネルギーもあります。
野菜や果物を食べるのであれば それらを実らせた植物はどういう気持ちで育ったのか。
肉や魚を食べるのであれば 動物たちはどういう気持ちで生き どういう気持ちで死んでいったのか。
特に食肉の場合には 動物たちはどういう気持ちで堵殺されていったのか
それらの想念もまた調理した食べ物には含まれているわけで
食べ物を食べるということは それらもまた体内に取り込み その影響を受けるということなのです。
つまり 食べ物を食べるということは
その食べ物に含まれている様々な(目には見えない=物質ではない)
エネルギーを取り入れているということであり
そのエネルギーの中には 想念としての情報も含まれていて
ということは それらの情報をも取り入れているわけです。
ですから 食べるということは
そういったエネルギーと情報とを受け取っているのであって
物質としての食べ物は それらエネルギーや情報の媒体なのです。
結局 食べるということは
1)物質としての食べ物(たんぱく質/でんぷん質/油脂質/繊維質/ミネラル など)
2)調理した人の(想念などの)エネルギー
3)食材に含まれている(想念などの)エネルギー
これらを体内に取り入れて吸収し同化させているわけです。
子供に食べ物を与えるに当たって大切なのは
食べ物に含まれている どういうエネルギーを与えているのか どういう想念を与えているか
それを認識することなのです。
太陽の光をたっぷりと浴びて 幸せに育った野菜や果物を食べれば
そこから太陽エネルギーと 植物の「幸せ」という想念を受け取ります。
お母さんがどういう気持ちで料理をしたのか
その気持ちを 子供たちは料理から体内に入れています。
つまり お母さんが楽しい気持ちで料理したのでしたらば
子供はその楽しい気持ちを食べていることになります。
もし お母さんがイライラした気持ちで料理をしたのであれば
そのイライラの気持ちを子供に食べさせることになります。
食肉の材料となった動物が もし
堵殺の時に 苦しみや恐怖を感じながら死んでいったのであれば
それらの動物の肉を食べるということは 苦しみや恐怖という動物の気持ちを食べているのです。
そして 消化吸収された食べ物は 身体と同化していきます。
ということは 食べ物のエネルギーと身体とが同化していくわけで
すなわち 食べ物に含まれている想念と同化していくということです。
幸せの想念が含まれている食べ物を食べれば その幸せのエネルギーと同化します。
恐怖の想念が含まれている食べ物を食べれば その恐怖という想念と同化します。
そのような 目には見えないエネルギーをも食べて
それと同化していくいるのだということを認識し
では どういうエネルギーを子供に食べさせようと選んでいくのかが
子育てにおける食事の与え方で 重要な点の一つなのです。
味
~ 味覚が人格を作る ~人間は 「五感」といわれる感覚で
肉体の外のものを認識し 自らのやり方で解釈し そこからの情報を受け取ります。
「視覚」「聴覚」「嗅覚」と「味覚」「触覚」の五つです。
例えば味覚を例にすると
まずは 何かを口に入れてそれが舌に触れ 口の中にものがあることを認識します。
そして 何らかの味や質感を認識します。
それを 自分なりの解釈をして 言葉に変換します。
つまり「甘い」「苦い」「酸っぱい」「塩辛い」あるいは「美味しい」「まずい」などのように。
この内「甘い」「苦い」「酸っぱい」「塩辛い」などは ある程度
客観的な判断ともいえますけれども
「美味しい」「まずい」などは それぞれの人のあくまでも個人的な好みによる判断です。
それらの好みというのは 先天的なものなのでしょうか?
それとも 後天的なものなのでしょうか?
この判断には 育っていく過程で どういう食べ物を食べたのか
その影響が非常に大きく関わっています。
そして どう判断するのかは結局は その人の観念であり 想念です。
そして 観念や想念が その人自身の性格を作っています。
ということは どういう食べ物を食べて育ったのか
どういう味の食べ物を食べて育ったのか
どういうエネルギーの入っている食べ物を食べて育ったのかが
その人の性格や人格を作っていくわけです。
先の項で触れた目には見えない想念や観念などのエネルギーは
自覚せずに取り入れているものです。
けれども 味覚の方は自覚します。
ということは 味覚の方がよりその人の観念に影響を与えやすいということでもあります。
五感の内 「視覚」「聴覚」「嗅覚」は 対象となる物質との直接の接触はありません。
それに対して 「味覚」と「触覚」は 対象となる物質と直接に触れ合います。
対象と肉体との直接の触れ合いがあると その対象からの影響も
直接に受けることになります。
つまり 対象のエネルギーを直接に体内に受け取ることになります。
ですので どういう味のものを食べて育ったのかが
その人の人格に与える影響というのはかなり大きいのですけれども
しかしほとんどの人はそれを認識していません。
特に大事なのは
「甘い」「苦い」「辛い」「塩辛い」などの「味」ではなく
「美味しい」「まずい」という方の味です。
そもそも「美味しい」とか「まずい」とかは
何を基準にして 何をもってして判断しているのでしょうか?
これらは極めて主観的な判断です。
実は この「美味しい」とか「まずい」とかの判断には
食べ物にどういう「想念」というエネルギーが含まれているのかが
関わっているのです。
今日 一般に売られている食料品の多くが
手作りではなくて 工場において機械で作られたものです。
手作りしたものと機械で作ったものとでは 何が違うのでしょうか?
手作りしたものには それを料理した人の想念が入っています。
機械で作ったものには そのような想念は入っていません。
「想念」というエネルギーは 実はとても大きく強いものなのです。
ですから 想念の影響というものをも大きく受けるわけです。
例えば「おにぎり」という食べ物は
炊いた米を手で握って作るから「おにぎり」です。
その「握る」という行為で 一体何を握っているのでしょうか?
それは炊いた米だけではありません。
それを握っている人の想念をもそこに篭めているのです。
しかし 工場で作られたおにぎりは 「おにぎり」ではありません。
型に入れて整形しているからです。
そこには 作った人の想念は入っていません。
つまり 手で握ったものには 握った人の「愛情」が入りますけれども
機械で作ったものにはそれは入りません。
日本で売られている多くのものは 工場で機械で作られたものです。
ですから 調理した人の想念は入っていません。
ですから そういった食べ物はエネルギーが希薄なのです。
日本で売られているほとんどの食べ物は エネルギーが希薄です。
エネルギーが希薄なものを食べるとどうなるのでしょうか?
物質としての食べたものを消化するのに使う身体のエネルギーと
食べ物として体内に取り入れたエネルギーとでは
消費するエネルギーの方が多くなってしまうのです。
折角「食べる」という行為でエネルギーを体内に入れているはずなのに
それを消化することにより多くのエネルギーを使うことになるのです。
だからこそ そういった食べ物を食べると
「たくさん食べたはずなのに すぐにお腹がすく」ということになるのです。
そして そのような調理した人の想念が入ってない
エネルギーの希薄な食べ物を食べていると 味覚は育ちません。
私たちが調理した食品から味わっているのは 実は
目には見えない 機械で検出できない 想念などのエネルギーなのです。
エネルギーの希薄な食べ物を食べていると
そういう想念エネルギーは受け取ることが出来ません。
そういう食べ物に慣れるということは
つまり エネルギーの希薄な生き方になるということです。
何かに気持ちを篭めるということが分からない人間になります。
何もかもが表面的な うわべだけのきれいさを大切にして
実は中身の無いものが日本の世の中には溢れているのです。
そして それを感じることも出来ずに生きているのです。
そのような「中身が無い」文化の中で生きていますから
「他人の気持ち」という 人間の中身も分かろうとはしません。
それぞれの人の持っている長所や特色や才能という
人間の中身は見ようともしません。知ろうともしません。
ということは それらを認めようともしません。
他の人と同じようにネクタイをしているかどうか。
他の人と同じように紺色の服を着ているかどうか
そういった外見だけが大事なのです。
なぜならば 外見しか分からないからです。
中身を見ることの出来ない 外見重視の画一社会が 日本の世の中です。
そういう世の中を作っている原因の一つが 食べ物なのです。
調理した人のエネルギーが入っていない食べ物なのです。
愛情を篭めて作ったおにぎりには その愛情が篭められています。
ですから そのおにぎりを食べるということは 篭められた愛情を取り入れているのです。
けれども 入ってないものを感じることはありません。
そして 他人の中身を見ることも感じることも出来ない人は
その人自身の中身も見たり感じたりは出来ません。
今の時代 世の中の多くの人が ものごとを考えずに生きています。
考えているつもりではあっても 実は考えていません。
その時その時の 自分の外からの情報に反射的に反応しているだけなのです。
その反射的な反応の代表が「喜怒哀楽」などの感情ですけれども
それだけではありません。
「物事をそのままに受け取る」ことも「物事を熟考する」ことも出来ません。
自分の外側のものに 反射的に反応しているからです。
つまり他人の話しを 終わりまで聞けないのです。
聞いた話しの内容と真意を熟考することも出来ないのです。
それはすなわち「自分が何を考えているのかを自覚できていない」ということでもあります。
実は そういう人間を作ってしまっている原因の一つが
エネルギーの入っていない食べ物なのです。
ですから 食べ物が人格を作ると言えるわけです。
食べ物がその人の生き方を作ると言えるわけです。
ですから 子供に「人の気持ちが分かる人間に育ってほしい」
「物事の真価が分かる人間に育ってほしい」 そして
「価値のあるものを生み出せる人間に育ってほしい」と思うのならば
親が気持ちを篭めて作った手作りの食べ物を食べさせるということになります。
化学薬品(保存料・調味料・着色料・農薬)
~ その害と影響 ~現代の加工食品のほぼ全てに 化学薬品が入っています。
保存料/調味料/着色料/農薬 などです。
これらのほとんどは 石油が原料です。
そして 自然界にはそもそも存在しないものです。
つまり 石油を原料として人工的に作られたものです。
これらが含まれた食品を食べるに当たって 主な留意点が三つあります。
1)石油が原料であること
2)自然界には存在しないものであること
3)想念としてのエネルギー
石油というものは 食べ物ではありません。
ということは 石油を原料として作られた化学薬品を体内に取り入れるのは
極めて不自然なことです。
そして そもそも自然界には存在しないものを人工的に作り出しているのですけれども
基本的に 食べ物というものは 自然界に存在している
「食べられるものをそのまま食べる」(果物など)か
「食べられるものを加工・調理して食べる」かのどちらかです。
食べられないものを加工しても食べ物にはなりません。
そして 自然界に存在していないものは 本来食べません。
しかし 化学薬品というものは 食べられないものを食べているのです。
そして そもそも自然界には存在しないものを作り出しているのです。
これも極めて不自然なことです。
では こういったものを体内に取り入れると どういう影響が出るのでしょうか?
どういう害があるのでしょうか?
石油から作られた自然界に無いものは 体内では処理できないのです。
そして 分解に時間がかかるのです。人間の寿命よりも長い時間がかかったりもします。
つまり それらは体内に蓄積されていくのです。
細菌や害虫を殺すための保存料や農薬が 体内に蓄積されていくのです。
それが人間の身体に良い影響を与えるのかどうか 考えてみるまでもありません。
そして 食べ物に使われている化学薬品が何のために使われているのかというと
保存料は 食品を腐らせないようにしたり かびたりしないようにです。
調味料は 食べ物がそもそもの状態よりも より美味しく感じられるようにです。
着色料は そもそもの状態よりも より美味しそうに見えるようにです。
農薬は 植物に害虫が付かないように 黴菌が付かないようにです。
これらはいずれもが 自然な状態から不自然な状態へと変えるためのものです。
そして 例えば農薬は何を意図して作られているのでしょうか?
害虫や黴菌は「害」である だから「殺そう」というのが目的です。
ということは 農薬は何かを「害」するものとし
それを「殺そう」という想念で作られているのです。
ということは 農薬が使われた野菜や果物を食べるということは
それらの想念エネルギーをも食べているということになります。
「自分たちにとって不都合なものは殺そう」という想念です。
これは保存料も同じことです。
そしてこのような想念を食べるということは 当然その影響を受けます。
つまり「自分たちにとって不都合なものは殺そう」という想念を
せっせと体内に蓄積させ 同化させているのです。
その結果はどうなるでしょうか?
それが当たり前だと思い それを実行に移すようになります。
これが現代社会で 暴力や殺人が多い理由の一つなのです。
誰もが「自分にとって不都合な存在はやっつけよう」という想念を食べて
体内に取り入れ 自分と同化させているのです。
同化したらば実行します。
これは 殺菌剤や殺菌剤も同様です。
いずれもが「自分にとって不都合な存在はやっつけよう 殺そう」という想念で作られています。
それらを使うということは 誰もが日常生活で大量殺戮を平気でしているということなのです。
大量殺戮を平気でしながら 自分の子供は健康に育ってほしいと思うのは
明らかな矛盾です。
かつ 子供にそのような想念を食べさせ それと同化させたいのでしょうか?
化学薬品(保存料/調味料/着色料/農薬)が使われている食品を食べるということは
それら化学薬品の(物質としての)そのものと そして
想念という(目には見えない)エネルギーとの両方の影響を受けることを認識し
何を選択するのか考慮していくことが
子育における食べ物の与え方で大切な点になるわけです。
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