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ブリュッセル・ベルギー王立美術館の見学

《幸也の世界へようこそ》《幸也の書庫》《絵画を見る目・感じる心》 → 《ブリュッセル・ベルギー王立美術館の見学》


☆☆☆ これは ブリュッセルにあるベルギー王立美術館を見学するにあたっての手引きです。
あくまでも 実際に絵画を観ながらのためのものですので 画像は補助にすぎません。 ☆☆☆

ブリュッセルにあるベルギー王立美術館は そもそもは19世紀初頭ナポレオン統治の時代にナポレオンによって開かれたルーヴル美術館の分館が始まりとなっています。 1830年にベルギー王国が独立してからは ベルギー王立美術館となりました。現在の本館の建物は ベルギーの独立50周年を記念して建てられたもので1884年に完成しました。 その後建物は大規模に増改築され 現在は大きく以下の三つの部門に分かれています。
1【古典部門】・・・15世紀初めのゴチック絵画(写実主義)から19世紀初めの古典主義まで(二階)
2【世紀末部門】・・・19世紀初めの現実主義から20世紀初めのアール・ヌーボーまで(地下五階から地下八階)
3【マグリット美術館】・・・ルネ・マグリットの作品(別館)

展示品はほぼ年代順に並べられており 見やすく(=わかりやすく)なっています。特に古典部門は西洋絵画史上最も重要な二つの転換点「油絵の具の発明」と「フランダース写実主義からルネッサンスへの転換」がわかりやすくなっています。
 

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1【古典部門】目次

〔1〕作者不詳(南ネーデルランド)「マリアの生涯」から 1400年頃
《ゴチック様式》(写実主義)
〔2〕ローベルト・カンピン作(と思われる)「受胎告知」
〔3〕ロヒール・ファン=デル=ウェイデン作「ピエタ」1441年?
〔4〕ロヒール・ファン=デル=ウェイデン作「ブルゴーニュのアントワーヌの肖像画」 
☆《肖像画》
〔5〕ディルク・バウツ作「皇帝オットー三世の裁き~火の試練」1471~1474年
☆《写実主義と油絵の具》
〔6〕イェロニムス・ボス(の工房)作「聖アントニウスの誘惑」1520~1530年?
〔7〕イェロニムス・ボス作「キリストの磔刑」1490年頃
☆《十字架》
〔8〕ハンス・メムリンク作「聖セバスティアヌスの殉教」1470年頃
〔9〕ハンス・メムリンク作「モレール夫婦の肖像画」1482年頃 「男の肖像画」「聖母子」
☆《ルネッサンス様式》
〔10〕ジェラルド・ダヴィッド作「粥匙の聖母」1515年頃
〔11〕カンタン・マッセイス作「聖母子」1495年
☆《写実主義からルネッサンスへの移行》
〔12〕ルーカス・クラナッハ(一世)作「アダムとエヴァ」1525年
〔13〕ヨアヒム・ブイケラール作「台所とマルタとマリアの家のイエス」1565年
〔14〕ピーテル・ブリューゲル作「ベツレヘムの戸籍調査」1566年
〔15〕ピーテル・ブリューゲル作を元にしたピーテル・ブリューゲル二世作「謝肉祭と四旬節の戦い」
〔16〕ピーテル・ブリューゲル作「鳥の罠のある冬景色」1565年
〔17〕ピーテル・ブリューゲル作「堕天使の墜落」1562年
〔18〕ピーテル・ブリューゲル作「三賢者の礼拝」1556年
〔19〕ピーテル・ブリューゲル作(とされていた)「イカロスの墜落」
☆《バロック様式》
〔20〕ヤーコプ・ヨルダーンス作「王は飲む」1638年
〔21〕アントーン・ファン=ダイク作「インペリアル母娘の肖像画」1628年
〔22〕ペーテル=パウル・リューベンス作「カルヴァリオの丘行き」1637年
〔23〕ペーテル=パウル・リューベンス作「三賢者の礼拝」
☆《リューベンスとヨルダーンス》
〔24〕ジャック=ルイ・ダヴィド作「マラの死」1893年
☆《新古典様式》(古典主義)

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《ゴチック様式》

ゴチック様式は1140年頃 北フランスにおいて建築で始まったものです。
高い尖塔/縦の直線(=垂直性)の強調/左右対称  この三つがゴチック様式の基本的な特色です。なぜならば ゴチック建築は 教会を天を指し示す矢印として建てたものだからです。
そして ゴチック様式は四百年間にわたってアルプス以北のヨーロッパにおいての基本的な様式となりました。芸術の何もかもがゴチック様式で作られたのです。
そして この時代は ヨーロッパはキリスト教カトリックによる一枚岩の支配でした。ですから 芸術とはカトリック芸術でした。 教会/修道院/聖職者たちが宗教画を注文し ごく僅かの貴族たちが肖像画を描いてもらいました。
しかし 四百年間続くということは 初期の頃と後期の頃とでは違ってきます。それは 外見的な形としての違いだけではありません。中身の違いでもあります。 すなわち「何のための」「何を表現するための」ものなのか です。

(ゴチック様式について 詳しくはこちらをご覧下さい) ⇒

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〔1〕作者不詳(南ネーデルランド)「マリアの生涯」から 1400年頃
Leven van Maria_ca.1400_ZuidNederlandse School
こちらで大きい画像をご覧頂けます 

15世紀初頭にフランダース地方において 西洋絵画史上最も重要な出来事が起こりました。油絵の具の(可能性の)開発です。 それによって 絵画は大きく変化しました。この絵は 油絵の具以前のものです。油絵の具の前にあったのは主に「水彩」(顔料を水で溶く)と「テンペラ」(顔料を卵白で溶く)の二種類です。 (フレスコは 生乾きの石灰の壁に水彩で絵を描くやり方のことであって 絵具としては水彩です。) 
この二種類の絵の具には様々な欠点がありました。それがこの絵ではっきりと見てとれます。
1)色の鮮やかさや輝きが無く くすんでいる
2)細かい描写ができない
3)グラデーションが描けない
4)耐久性に劣っている
油絵の具は12世紀には既に存在していたと思われていますが 15世紀に入った頃のフランダース地方において その可能性が大きく開発されました。 その結果 水彩とテンペラの欠点の全てを解消してしまったのです。
(実際にはこの絵は テンペラ絵の具と油絵の具とを併用しています。しかし 後で見られるような油絵の具の長所はまだ全く発揮されていません。)

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〔2〕ローベルト・カンピン作(と思われる)「受胎告知」
Robert Campin 《 De boodschap aan Maria 》

Robert こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

油絵の具を使うことによって 絵はこのように描けるようになりました。 この絵を描いた(と思われている=この時代までは 作者が作品に署名を入れることはありませんでしたので)ローベルト・カンピン(1375/79~1444)が 多分油絵の具の可能性に最初に気付いた一人ではないかと思われています。

(この絵に関しては こちらをご覧ください ⇒)

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〔3〕ロヒール・ファン・デル・ウェイデン作「ピエタ」1441年?
Rogier van der Weyden 《 Pieta 》

Rogier こちらで大きい画像をご覧頂けます 

ロヒール・ファン=デル=ウェイデン(1400?~1464)は ローベルト・カンピンと同じトルネの出身でしたので カンピンの弟子となりました。 けれども 上記のカンピンの作品と このファン=デル=ウェイデンの作品とを比べてみると 違っている点に気付きます。
顔と身体とに現れている「感情表現」です。画面右側のマグダラのマリアも キリストの死体を抱いている聖母マリアも 嘆き悲しんでいるのがはっきりと表現されています。 このような感情表現は 油絵の具の可能性の開発によって初めて可能になったものです。
磔刑は屋外で行われましたので この絵も屋外の情景が描かれています。 しかし 実際のどこかの景色を描いているわけでは無く ただ漠然と屋外であることを表現しています。 ほとんど何も無い遠景を描くことによって この絵の登場人物たちが浮き上がって見えるように描かれています。 これを(後にイタリア・ルネッサンス時代に確立された線遠近法に対して)「雰囲気遠近法」と言います。 これもやはり油絵の具の可能性の開発によって初めて可能になった表現の仕方です。
このようにして この時代のフランダースの画家たちは 油絵の具の可能性を追求し かつ絵をどのように表現できるかを探求していったのです。
この時代のゴチック様式の特色の一つが「垂直性の強調」ですが この絵には それが表現されていません。 縦の線はほとんど目立たずに 人物の斜めの姿が強調されています。 これによって「動き」が表現されています。この作品では この後の時代様式ルネッサンスやバロックへと変わっていく それがすでに現れているということでも 作者ファン・デル・ウェイデンが革新的な人であったことが分かります。
画家によって 人物(特に顔)の表現において 女性を描くのが得意なのか 男性を描くのが得意なのかがあります。 この絵の中のマグダラのマリアと聖母マリアの姿や顔に対して ヨハネとイエスの姿や顔を見比べてみると はっきりと違っているのが分かります。
しかし だからと言ってファン=デル=ウェイデンが男性を表現するのが苦手だったわけではありません。 彼は肖像画家としても大変な名声を得ました。

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〔4〕ロヒール・ファン=デル=ウェイデン作「ブルゴーニュのアントワーヌの肖像画」
Rogier Van Der Weyden 《 Antoon van Bourgondie 》

Rogier Van Der Weyden  《Antoon van Bourgondie》 こちらで大きい画像をご覧頂けます 

ロヒール・ファン=デル=ウェイデンは宗教画家として大変な成功を収めましたが 肖像画家としても同様でした。その理由はこの絵を見れば一目で分かります。 髭が無くても男性だと分かります。そして「誰」が描かれているかも分かります。 しかし それだけではありません。この人が「どういう性格の人」なのかも表現されています。 油絵の具を使うことによって このように人間の内面をも表現できるようになったのです。
ここに描かれているアントワーヌは ブルゴーニュ家の庶子として生まれました。 胸に下げているペンダントを見ると「金の羊毛騎士団」に参加している人であることが分かります。 1430年にブルージュで結成され 瞬く間にヨーロッパで最も権威ある世俗騎士団になったそれに参加できたのはヨーロッパ中の貴族の中でもたったの24人でしたが それに選ばれたということはこの人が大変勇敢で重要な戦績を上げたからです。 しかし この絵に描かれている彼の顔を見ると「勇敢」であることが表現されているでしょうか?  人間が何かを表現する場合 必ず「作った人の気持ち」が表現されています。 ですから この絵に描かれているのは 半分はアントワーヌの顔であり 半分はファン=デル=ウェイデンの顔なのです。 つまり 形としてはアントワーヌの顔ですが 表情はファン・デル・ウェイデンのものです。 アントワーヌの勇敢さよりも ファン=デル=ウェイデンがとても真面目で穏やかな人であったことが表現されています。
ロヒール・ファン=デル=ウェイデンの他の肖像画と比べてみましょう。そうすると 共通した雰囲気が見て取れます。
VanDerWeyden_Vermutliches_Portret_Guillaume_Fillastre_der_Jungere VanDerWeyden_ritratto_di_jean_gros_1460-64 VanDerWeyden_Portret_Retrat_de_Francesco_d'Este VanDerWeyden_portret_des_Pierre_de_Beffremont VanDerWeyden_portret_Carles_I_de_Borgonya VanDerWeyden_portret_Philippe_de_Croy VanDerWeyden_Portrait_of_an_Unknown_Man VanDerWeyden_Bust_de_Sant_Josep

「金の羊毛騎士団」に参加していたのですから当然貴族です。しかし 一見して豪華な服を着ているでしょうか? そういうわけではありません。 よく見ればとても高価な上等な生地を使った服であることが分かります。 しかし これ見よがしな装飾で「金持ち」であることは表現されていません。これがイタリア絵画との大きな違いです。 この時代のイタリアの肖像画では いかにも「金持ち」であることが着飾った服や髪飾りで表現されています。 (この違いを知っていれば イタリア・ルネッサンスの肖像画の代表とも言える「モナリザ」は 肖像画では無いことが分かります。)

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《肖像画》
この時代のフランダースにおいて もう一つの画期的な出来事が起きました。この絵のように 肖像画を斜めの角度から描く ということです。 古代エジプトでも 古代ギリシャでも 古代ローマでも 肖像画は真横から描きました。これをプロフィールと言います。 「輪郭」という意味です。つまり顔の輪郭をはっきりと出すことが目的でした。しかし このように斜めの角度からの描き方が始められたのです。 この角度にした理由は明白です。「表情」が表現しやすいからです。

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〔5〕ディルク・バウツ作「皇帝オットー三世の裁き~火の試練」1471~1474年
Dirk Bouts 《 De gerechtigheid van keizer Otto : De vuurproef 》

Dirk こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

この絵は 高さ3m24cmという とても大きなものです。なぜ大きいのかというと この絵は市庁舎の壁に展示されるために作られたからです。 昔は市庁舎が裁判所を兼ねていましたので 市庁舎に来た人々に「裁判の公正さ」を伝えるために描かれたものです。この絵を描いたディルク・バウツ(1415/1420~1475)は「ルーヴェン市のお抱え画家」の肩書を持っていました。
この大きな二枚で繋がっている絵を見ると 右の画面には神聖ローマ帝国皇帝オットー三世による裁判が行われているのが分かります。 しかし それに参加していない人々もたくさん描かれているようです。この絵には 様々な場面が書き込まれているのです。
先ずは 左画面の上方に男女の二人連れがいるところから始まります。 この二人はカップルに見えますか? 何か「よそよそしい」感じです。女性はオットー三世のお妃ですが 彼女がある伯爵を誘惑している様子なのです。 伯爵の方は明らかに迷惑そうです。ですので その誘惑を拒絶しました。しかし それで円くは収まりませんでした。 オットー三世のお妃が「彼が私を誘惑したのだ」とあべこべに訴え出たのです。それが為に 無実の伯爵は逮捕されてしまいました。 (左画面の左端) そして打ち首になってしまいました。 (画面下部) しかし 彼の切られた首を受け止めているその妻は 夫の無実を信じています。 ですので 皇帝に訴え出て裁判となったのです。(右画面) 炭で真っ赤に焼いた鉄の棒を手に持って もしも何事も起きなければ彼が無実であったことが証明されます。 熱そうな鉄の棒を手に持った夫人の顔を見てみると・・・熱そうな顔はしていません! 何事も起きなかったのです!  ですので オットー三世のお妃の謀(はかりごと)がばれて 彼女は火あぶりの刑で死んでいきます。(右画面上方)
このように この絵には様々な異なる時間と場所の情景が複数描かれて それによって話しの流れが表現されています。 これが この時代に始まったフランダース絵画の特色の一つとなります。
そして 更に二つ この時代のフランダース絵画の特色が現れています。
一つは 「ゴチック絵画」であることです。「ゴチック様式」は建築で始まりました。 天国を指し示す矢印として建てられたゴチック建築は (指し示す)尖りと (縦長の)垂直性と 左右対称を基本としていますが その特色が絵画においても現れています。 全ての人物が痩せていて まっすぐに縦に立っています。どの人の穿いている靴も尖っています。(特に この絵を描いたバウツは 垂直性を強調しました。)
もう一つの特色は 「写実主義絵画」であることです。画面の中に描かれた全てのものが 距離に関係なく近くのものも遠くのものも全てが「くっきり」「はっきり」と描かれています。 そして 全てのものが「本物の質感」で描き出されています。(オットー^三世の着ている服を近くで良く見てみましょう。犬や石や金属の描き方と比べてみましょう。)  画面の中の全てのものを「本物と同じように」描き出す「写実主義絵画」となったのです。

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《写実主義と油絵の具》
15世紀初めのフランダース地方において初めて油絵の具の可能性が開発されました。 油絵の具そのものはすでに12世紀は存在していたと思われていますが しかし それを使った画家たちが水彩やテンペラでの描き方を「当たり前」と思っていて それ以上の可能性を追求していなかったのです。 けれども 15世紀初めのフランダースの画家たちは違っていました。油絵の具を使うことによって 絵をそれ以前とは全く違うように描けることを発見したのです。 そして その可能性をとことん追求していったのです。西洋絵画史上最も重要な出来事とは このフランダースの画家たちによる「油絵の具の可能性の発見と追及」です。
そして それによって 絵画の描き方は激変しました。克明な描写/色鮮やかな描写/光の描写/グラデーション そして優れた耐久性という油絵の具の特色が100%発揮されたのです。 (100%というのは決して誇張ではありません。この時代のフランダース地方で開発された以上の技術は その後の今日に至る六百年間に出て来ていません。) そして その特色を使って 絵画は画面の中の全てのものを本物の質感で表現する「写実主義絵画」となりました。この時代のフランダースの画家たちは「本物以上に本物らしく」描くことを目指したのです。
しかし 「写実主義」は「現実主義」:ではありません。たとえば 異なる時間と場所の情景が同じ画面に描かれたりしますが これは「現実」ではありません。 あるいは 人物の大きさが不自然に見えます。それはその人物の「重要度」で大小を変えているからです。(「現実主義絵画」は 近代部門の初めで見ることができます。)

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〔6〕イェロニムス・ボス(の工房)作「聖アントニウスの誘惑」1520~1530?
Jheronimus Bosch 《 Verzoeking van de heilige Antonius 》

Jheronimus Bosch 《 Verzoeking van de heilige Antonius 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

この絵のボスによる真作は スペインのリスボンの美術館にあります。(上の写真はその真作の方です。)
イェロニムス・ボス(1450頃~1516)はオランダ南部の人で 一生をそこで過ごしました。 この絵は一目で「ボスのものだ」と分かります。奇怪な生き物が多数描かれているからです。なぜ 何のためにこのような奇怪な動物たちを多数描いたのでしょうか?
この時代(=16世紀に入る頃)までは 「宗教画=キリスト教絵画」というものは すなわち「カトリック絵画」でした。カトリックが世の中を支配していたからです。 しかし だんだんと「反カトリック」の「宗教改革」の機運が高まってきました。 ですので カトリック絵画のふりをしながらも 実は「反カトリック」の立場で絵を描く画家たちも出てきました。
この絵は祭壇画ですが 何に礼拝をするためなのかというと 中央の画面が礼拝の対象ですから その画面の真ん中に描かれている聖アントニウスにお祈りするためです。 昔は病気は悪霊の仕業だと思われていました。そして その悪霊を払い病気を治してもらえるように聖人にお祈りをしましたが 病気によってどの聖人にお祈りするのかが決まっていました。 聖アントニウスにお祈りするのは「聖アントニウス火病」というのに罹った時で これは腕や脚が腐って取れてしまう病気です。(小麦粉に生えた黴が原因ではないかと思われています。)  この絵の中には 病人が多数描かれています。この病気にかかった人々です。ですから この絵の中の奇怪な生き物たちは 病気を起こしている悪霊たちを表しているのです。
聖アントニウスは三世紀頃の人で 初期キリスト教では(キリストに倣って)何年も荒れ地や山にこもって修行をするのが一般的でした。 彼もエジプトの荒れ地にこもって30年ほども修行をしましたが その間にたくさんの悪霊たちが彼を誘惑に訪れました。 つまり 奇怪な生き物たちは 修行している聖アントニウスを誘惑している悪霊たちを表しているのです。
しかし これらの奇怪な生き物たちの本当の意味があるのです。左画面の右端上下中ほどに 三人の聖職者たちが描かれています。 (服装で分かります。)この三人は何か相談している様子で 左の方を指さしています。 その方向を見ると 小さな窓の中に女性がいます。売春婦です。つまり 三人の聖職者たちは「あそこに寄って行こうか」と相談しているのです!  
キリスト教ローマカトリックは「全ての人間は生まれながらにして死ぬまで罪人である」という「原罪」を教義とし その罪をあがなうために「労働」と「懺悔」と「献金」とを全ての人に課していました。 誰もが収入の一割を教会に献金しなければなりません。その集めたお金を 聖職者たちは何に使っていたのでしょうか? このような堕落した生活のために浪費していたのです。 (一般の人には「姦通」も「同性愛」も死刑でした。) それに対する反発として宗教改革が起こりました。 ですから この絵に描かれている奇怪な生き物たちは 本来は聖職者たちは一生を神に捧げて神の言葉を民衆に伝える神と人間との仲介者として生きていくのが役目のはずなのに 実際にはどれほどに醜い心で生きていたのか ということを象徴しているのです。 ということで この絵は一見するとカトリック絵画ではありますが 実は宗教改革の立場に立って描かれていることが分かります。
ボスは このような実際には存在しない奇怪な生き物を描いたことによって 20世紀のシュルレアリスムの先駆者とも言われています。 しかし シュルレアリスムとは違っている点があります。 「夢」や「無意識」の世界との繋がりを基本としたシュルレアリスムに対して ボスにはそれがありません。 そして シュルレアリスムの画家たちの中には たんに「奇妙な」「倒錯した」世界を描いただけ(=意味が無い)の人たちもいましたが ボスの絵にはきちんとした意味が込められています。

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〔7〕イェロニムス・ボス作「寄進者のいるキリストの磔刑」1490年頃
Jheronimus Bosch 《 Calvaire avec donateur 》

Jheronimus Bosch 《 Calvaire avec donateur 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

こちらの絵は ボス自身の手によるものだとされています。一見して磔刑図です。 ところが キリストの身体を良く見てみると 血がありません。右脇腹の傷もありません。 画面の左側端には嘆き悲しんでいる(はずの)聖母マリアがいます。 しかし・・・嘆き悲しんでいるようには見えません。その隣に立っているヨハネも悲しんでいるというよりも 何か説明か説得かをしているように見えます。 画面右側には 天国への鍵を持ったペテロがいますが 彼もまた何かの説明をしているように見えます。そして その前で跪いている縞ズボンの人は何者なのでしょうか?
この人は この絵の注文主です。完成した絵は 教会に寄進します。 その寄進によって教会に永代供養を申し込みます。しかし 誰が永代供養を申し込んだのだか分からなくなってしまっては供養できません。 ですので その本人が絵の中に描かれるのです。(これもフランダース絵画の決まりごとの一つです。) 彼は 死後の最後の審判によって天国に行きたいのですが それを決めるキリストには誰も頼むことはできません。 ですので 彼の守護聖人であり かつ天国への鍵を持っているペテロに仲介を頼みます。ペテロは兄弟弟子のヨハネに頼みます。ヨハネは親しい聖母マリアに頼みます。聖母は息子イエスに頼みます。 そして目出度く天国に入れると良いな という意味が込められているのです。ですから ヨハネもパウロも何か説明しているような姿なのです。 つまり この絵は 純粋な磔刑図というよりも この人が教会に永代供養を申し込んだお札なのです。

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《十字架》
キリスト教のシンボルは十字架ですが それは基本的には「ラテン十字」あるいは「ローマ十字」と呼ばれる縦長のものです。それに対して 縦横が同じ長さのものは「ギリシャ十字」と呼ばれます。けれども フランダースの磔刑図に描かれているのは そのどちらでもありません。 この絵のように「T」の字型です。これを「タウ十字」と言います。
タウ十字は 古代エジプトから使われていたもので キリスト教の時代になってからはアッシジの聖フランチェスコが使いました。またカタリ派が使いました。(カタリ派が導師とした聖アントニウスのシンボルともされ ですから聖アントニウス十字とも言われます。)
磔刑を描いた絵画では キリストが磔になっているのはラテン十字のものと タウ十字のものとがあります。時代により 土地により 作者により 違っていますが この時代のフランダースではほとんどがタウ十字で描かれました。

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〔8〕ハンス・メムリンク作「聖セバスティアヌスの殉教」1470年頃
Hans Memling 《 martirio di san sebastiano 》

Hans Memling 《 martirio di san sebastiano こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

一見すると この絵は克明な描写や くっきりはっきり色鮮やかという写実主義絵画の特色がそれ程は出ていないように見受けられます。 ハンス・メムリンク(1435頃~1494)は15世紀後半のブルージュにおいて最も人気のあった画家であるとともに 15世紀のフランダース写実主義の三大巨匠の一人とされています。 それなのに この作品には彼の特色が発揮されていないのでしょうか? この大きさですと(射手ギルドの団員の)個人の祭壇のための絵かと思われますが それほどに気持ちをこめなかったでしょうか?
聖セバスティアヌスは 三世紀後半のローマ皇帝お気に入りの士官でしたが 皇帝はキリスト教を迫害しており セバスティアヌスがキリスト教に帰依していることを知ると すぐに死刑にしました。 木に縛り付け 矢で射りましたが しかし彼は死なず その後撲殺されました。
この絵では 弓が射られて矢が彼の身体に刺さっている情景が描かれています。 しかし 彼の顔を見てみると
痛そうでしょうか? 誰かに対して怒っているようでしょうか? 誰かを恨んでいるようでしょうか? そういった感情は一切表れていません。 彼の顔に表れているのは「何も表れてない」ということです。 すなわち 彼の魂はすでに肉体を離れて天国へと帰って行ってしまっている ということが表現されているのです。 これがまさにメムリンクが得意とした表現の仕方なのです。

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〔9〕「モレール夫妻の肖像画」1482年頃
《 Portret van Willem Moreel / Barbara van Hertsvelde (Vlaenderberch) 》

Hans Memling《 Portret van Willem Moreel / Barbara van Hertsvelde (Vlaenderberch) 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

ウィレム・モレールは貴族であるとともに ブルージュの市長をも務めた人です。15世紀後半のブルージュでとても重要な人物でした。 しかし ブルゴーニュ家の統治からハブスブルク家の統治へと変わり 皇帝マキシミリアンから政敵として六か月間投獄されてしまいました。 この肖像画は 釈放された年のもので 55歳ぐらいの顔です。夫人も貴族出身ですが 生年は全く分かっていません。
さて この二人の顔を見てみると 貴族らしさ 政治家らしさは表されているでしょうか? 投獄生活の後のやつれた感じ あるいは解放感はあるでしょうか?  この二人の世俗生活は全く表現されていません。そして この二人の顔を見比べてみると ウィレムの方はいかにも男性的という顔ではありません。 バルバラの方もそれほど女性らしさが表されていません。(しかも彼女の顔の方が大きです。) どちらの顔も中性的です。
メムリンクが表現したものは この世という世俗の世界を離れた あの世という天国の様子だったのです。あの世では全ての魂は清らかです。 そして 世俗の憂いも心配事も政治闘争も何もありません。そのような天国にいるかのような平穏な情感として描き出されているのです。 かつ 男か女かというのは何で区別するのでしょうか? それは肉体です。しかし あの世は非物質の世界ですから肉体はありません。 ですから男女の別はありません。(ですので あの世に居る天使たちは肉体が無い=性別が無いということで 宗教画では天使の顔は中性的に描かれることになっていました。)  このような中性的な顔立ちもまた 彼らが天国にいる様子として描き出していることの表れなのです。
すなわち モレール夫妻は彼らがこの世に生きていながらも天国的な心生きているのだということをこの絵で表現してもらえたわけです。

「男の肖像画」《 Mans portlet 》
Hans Memling《 Mans portlet 》

ここに描かれているのが誰だかは分かっていません。しかし ブルージュの商人であっただろうと思われています。 メムリンクの時代のブルージュは ヨーロッパ最大の商業都市として繁栄していました。 (そしてそれが斜陽となり終わってしまう時代にまたがっています。) そういうブルージュで大変に人気のあった画家であるメムリンクに肖像画を注文するのは 貴族かお金持ちの商人です。 この人も そういう商人の一人のようです。
しかし この絵を見ても(ウィレム夫妻の絵と同様に)彼の世俗生活は一切見て取れません。そして彼もまた中性的な顔立ちをしています。 背景はモレール夫妻の絵よりも単純です。(制作料によって変えたのでしょうか?)この背景はメムリンクの工房の弟子の手によるもののようです。 しかし それでもこの人物の描き方と調和しています。 この絵でも 注文主がこの「平穏」「落ち着き」「調和」が醸し出されている出来にどれほど満足したかが想像できます。

「聖母子」《 Madonna cal bambino 》
Hans Memling《 Madonna cal bambino 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

これは 聖母マリアが描かれていますから メムリンクが目の前にいる実在の人物を描いたものではありません。
モデルになった人はいるのでしょうか? もしいたとしても その顔のとおりに描いたのではないことが見て取れます。 抽象的な(あるいは想像的な)表現がなされています。 これによってこの世の人間なのでは無くて 「聖母」なんだということが表現されています。 このような 非常に穏やかな表情の描き方がメムリンクが得意としたものです。
しかし この聖母マリアの顔を見ると 随分と額が広いように見えます。 女性の顔を描く時には「美人の条件」を叶えた顔に描くことになっていたのです。 この絵に表れているこの時代の美女の条件は七つあります。
1)広い額・・・聡明さの表れ。ですので この時代の女性たちは額の生え際の毛を抜いて額を広くしていました。(勿論 そうしたからといってより聡明になるわけではありません。)
2)細くてきれいな弧を描いた眉
3)アーモンド形の目
4)(眉から繋がった)真っ直ぐに通った鼻筋/幅の狭い鼻/目立たない小鼻
5)薄い上唇と膨らんだ下唇/下唇の下の凹み
6)卵型の顎
7)薄い透明感のある肌
(肩から下にも美女の条件はありますが この絵ではここまでです。) 
このように美女の条件をかなえた顔立ちになっていることが分かります。 (もう一度先のモレール夫妻のバルバラ夫人の肖像画も見てみましょう。同様の顔になっています。)  聖母マリアということで 実在の姿ではないからこそ このように美女そのものという顔に描けたわけですけれども しかし 肖像画においても必ずこのような美女の条件をかなえた描写になっていました。 (本人の顔を見てデッサンしたものを 美女の条件に適うように修正したのです。)  けれども メムリンクは単にそのような「型」に則って描いただけではありません。 型を使いながらも はるかにそれを超えた境地を描き出しているのです。 それが巨匠と言われる理由なのです。

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〔10〕ジェラルド・ダヴィッド作「粥匙の聖母(牛乳粥の聖母)」1515年頃
Gerard David 《 Maria met de paplepel 》(Madonna van de Soep van de Melk)

Gerard David 《 Maria met de paplepel 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

ジェラルド・ダヴィッド(1460頃~1523)は15世紀から16世紀にまたがって活躍した すなわちゴチックからルネッサンスへの移行期に活躍した画家です。 ルネッサンスがベルギーに入ってきて定着したのは16世紀に入った頃で すなわち北イタリアで始まってから百年ほどもかかりました。 ですので ダヴィッドは前半生ではゴチック様式による 後半生ではルネッサンス様式による絵を描いています。
この絵は まるっきりルネッサンス様式で描かれたものです。この絵に現れているルネッサンスの特色は四つあります。
1)スフマート(ぼかし画法)・・・ゴチック絵画のくっきりはっきりから ぼかす描き方に変わりました。
2)三角形の構図・・・ゴチックの垂直性の強調から 三角形へと変わりました。
3)線遠近法・・・ゴチックの雰囲気遠近法から 線遠近法に変わりました。
4)世俗・・・聖人を一般の人間として描くようになりました。 
特に重要なのが「世俗」です。この絵の情景 すなわち聖母が幼児イエスに牛乳粥を食べさせる情景は聖書には描かれていません。 その場面を描いて かつこれは聖母子なんだということを現すために幾つかの小道具を配置しています。画面右端背景の本は聖書です。 机の上のパンはキリストの身体を 林檎は禁断の木の実を現しています。聖母も天国の女王の青の服を着ています。 そうやって「宗教画」であることを現してはいますが しかし 全体としては「普通の家の中の普通の母子」にしか見えません。 そして イエスを見てみると匙の向きが反対です。その匙で遊びたがっているような表情にも見えます。

フランダース写実主義はどこに行ってしまったのでしょうか?

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〔11〕カンタン・マッセイス作「聖母子」1495年
Quinten Matsijs 《 Madonna met kind 》

Quinten Matsijs 《 Madonna met kind こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

しかし このカンタン・マッセイス(1466-1530)の作品では イタリア・ルネッサンスとフランダース写実主義とを融合させているのが見て取れます。 画面の中の全てのものが距離に関係なくくっきりはっきりと描かれています。(=写実主義) しかし 聖母子の姿は三角形の構図です。 (=ルネッサンス) しかし 聖母の顔は「聖人」として描かれています。(=写実主義) 
絵画の表現の仕方には 特にキリスト教芸術においては 様々な決まり事がありました。子供のイエスの顔を見てみましょう。 イエスは「生まれた時から悟りきっていた」というように描かなければならないという決まりだったのです。可愛く描いてはいけないのです。 ですので 聖母と一緒に本を読んでいる姿で 「こんなに幼い時から本が読めたのだ」=「聡明だったのだ」ということをこの絵では表していますが 幼児の顔を「悟りきっている」ように描くのが難しかったことがこの絵で見て取れます。

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《写実主義からルネッサンスへの移行》
フランダース地方では 15世紀の末から16世紀の初めにかけて ゴチック様式(=写実主義絵画)からルネッサンス様式へと移行していきました。このゴチックからルネッサンスへの移行というものが 西洋の美術史上(油絵の具の開発以上に重要な)最も大きな出来事となりました。
もう一度 写実主義とルネッサンスの表現の違いを整理してみましょう。

写実主義 ルネッサンス
くっきち はっきり 色鮮やか ぼかし
垂直性 鋭角 三角形
遠近全てがはっきり 雰囲気遠近法 線遠近法
宗教的表現 世俗的表現

なぜこのように変わっていったのでしょうか?
ルネッサンスの一番の特色は「世俗」です。ヨーロッパはキリスト教カトリックによって支配し統治し管理されていました。 全ての人間は生まれながらにして罪人であるとされ その罪をあがなうために「労働」と「懺悔」と「献金」をしなければなりません。 しかし どんなにそれらに励んでも 罪は一生贖われません。そして13世紀以来カトリックは異端審判によって人々を恐怖に陥れていました。 異端審判にかけられれば それはすなわち拷問にかけられた挙句の死刑です。(実際に何らかの罪を犯しているかどうかは全く関係ありません。 死刑になった人の遺産は 半分はヴァチカンの 半分は審判官のものとなります。 殺すほどに儲かるのです!) しかしながら 聖職者たちは 沢山の収入を堕落した生活のために浪費していました。 そういう聖職者たちに対して 人々は何もできません。異端審判で殺されるからです。しかし イタリアには古代からのローマ神話やギリシャ神話が伝えられていました。 そしてイタリア人たちはそれらの神話の神々たちが活き活きと生きている様子に対する憧れが強くありました。 そこで北イタリアの人々は カトリックに喧嘩を売って改革を迫るのではなく カトリックのやり方や聖職者たちの生き方はそのままにして 自分たちの生活を変えていこうとしました。 それを芸術で表したのがルネッサンスです。すなわちルネッサンスは芸術による「反カトリック運動」です。キリスト教では異端とされていた神話を題材に取り上げました。 キリスト教では禁止されていた裸体を描くようになりました。「一般の人間が(ローマ神話を範として)活き活きと生きたい」思いを表現したのです。 ですから 「ルネッサンス=再生」の意味は 古代ローマや古代ギリシャの文化を復活するという意味だけではありません。人間性を復活させたいのです。 キリスト教が言う神を主体にするのではなく この地上で生きている一般の人間を主体する表現です。 (このような「全体」の表現から「個」の表現への移行は 四百年後に再び起こります。) ですから 地と天とを結ぶ縦の線のゴチックから 人間が生きる地上に重心を置いた三角の構図になりました。 人間の目で見ているようなぼかしの描き方になりました。人間の目では 近くのものは大きく 遠くのものは小さく見えるので線遠近法を使いました。 どの人物(あるいは聖人や神話の神々)もが「普通の人」として描かれるようになりました。
それに対して 写実主義はなぜ全てのものをくっきりはっきり色鮮やかに描いたのでしょうか? なぜ遠近に関わり無く同じように描いたのでしょうか?  この世の全てのものは「創造主による創造物」です。 そして 創造主は全てのものを「素晴らしく美しく」創り出しました。(創造主はごみは創り出していません。) そして 創造主の目は 自らが創り出した全てのものに等しく注がれています。 そしてその目は 自らが創り出したものの素晴らしさ美しさを称える「慈愛の目」です。結局 写実主義の描き方とは それを表現するためのものだったのです。
しかし ルネッサンスは「その絵を描いている画家個人の目」での見方を表現したものとなりました。
すなわち 写実主義からルネッサンスへの移行というものは 絵を描く視点が「神の目」から「人間の目」へと変わったということなのです。 そして その後の芸術はどんどん「個人の表現」「個の表現」になって行き 神の存在(あるいは神の視点)は全く忘れ去られてしまいました。
この「神の視点」から「人間の視点」への転換 これが西洋の芸術史上最も大きな転換点なのです。
(しかし 創造主が全てのものを素晴らしく美しく作り出したのだとしたら なぜ人間は罪人なのでしょうか? そのような「罪人」の姿を描き出した絵画はありません。 画家たちはあくまでも創造主が創り出した世界を表現したのです。それはすなわち カトリックの教えを表したものでは無いということです。 芸術家たちは実は「反カトリック」の 「本来の世界」だけの表現をしていたのです。)
(そして ルネッサンス以後「個の表現」となって堕落した芸術を 本来の姿に戻そうという理念を持ったのが19世紀イギリスの「前ラファエロ派」の画家たちです。 そしてそれは 更にアール・ヌーボーへと繋がって行きます。)

(ルネッサンス様式について 詳しくはこちらをご覧下さい) 

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〔12〕ルーカス・クラナッハ(一世)作「アダムとエヴァ」1525年
Lukas Cranach 《 Adam und Eva 》

Lukas Cranach 《 Adam und Eva こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

いかにもクラナッハです。クラナッハ顔です。ドイツ・ルネッサンスを代表するルーカス・クラナッハ(1472~1553)は「アダムとエヴァ」の絵を幾つも描きました。その中でも最も出来が良いのがこの作品でしょう。
Cranach_AdamEva_UK Cranach_AdamEva__SanCarlos Cranach_AdamEva_Berlin Cranach_AdamEva_Wien Cranach_AdamEva__Chicago Cranach_AdamEva__Herzog_Anton_Ulrich-Museum Cranach_AdamEva__uffizi Cranach_AdamEva__Wurzburg Cranach_AdamEva_1520_Wien Cranach_AdamEva_Mexico Cranach_AdamEva_Dresden

この作品は いかにもクラナッハではありますが しかし彼のアクの強さやくどさというものがそれほどには表現されていません。 神様に止められていた禁断の木の実を食べようとするエヴァのやや挑戦的な顔つきと それに対して「本当にいいの?」というためらいのアダムの顔つきとが 巧みに表現されています。
この作品には更に幾つかのルネッサンス様式の特色が見て取れます。1)ポーズが芝居がかっている 2)背景に実在感が無い 3)裸体を強調している という三点でしょう。
ルネッサンスの時代のイタリアでは演劇が盛んになりました。ですので 演劇の一場面を描いているかのような表現の仕方になりました。 人物はポーズをとり 背景は芝居の大道具かのようです。
そして 芸術の表現には男性性と女性性とがあります。ルネッサンスは女性性の表現です。柔らかさや曲線と共に 女性の裸体を強調することにそれが現れています。

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〔13〕ヨアヒム・ブイケラール作「台所とマルタとマリアの家に居るイエス」1565年
Joachim Beuckelaer 《 Keukentafereel met Jezus in het huis van Martha en Maria 》

Joachim Beuckelaer 《 Keukentafereel met Jezus in het huis van Martha en Maria こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

16世紀は 宗教改革の嵐が吹き荒れた時代でした。新教と旧教の対立による戦い。 カトリックによる更なる異端審問の強化。そしてオランダはプロテスタントの国として独立していきました。 しかしベルギーはスペイン統治の元 カトリックに留まりました。(つまり プロテスタントの人々はオランダへ逃げ出していきました。)
そういう世の中では 当然のことながら人々はカトリックに懐疑的になります。 建前としてはカトリック信者のふりをしてはいても。そうすると当然のことながら「いかにも宗教画」という絵は売れなくなります。 ですので  このような世俗画風な絵でないと売れなくなりました。(つまり ルネッサンス様式だから世俗的表現というわけでは無いということです。) しかし画家としては「世俗画家だ」というのには抵抗があります。 プライドが許しません。ですので「建前としては宗教画」というこのような絵が流行しました。画面左上奥にキリストとマリアの姿が見えます。 キリストを家に招いたマルタとマリアの姉妹でしたが ご馳走の用意をしているマルタに対して マリアはずっとキリストのそばで話しを聞いている という情景です。つまりこれは宗教画なのです。
ヨアヒム・ブライケラール(1534~1574頃)は台所や市場の情景を専門に描いた画家です。 つまりたくさんの食品が描かれているような絵を得意としました。そのために 静物画専門の画家たちも彼の作品から影響を受けました。 しかし 生前は(余りに通俗的過ぎたのか)それほどには評価されず 死後に人気が出て彼の絵の値段は12倍になったとのことです。(すなわち 時代と共に人々の芸術に対する意識が低下したということでもあります。)
後の時代のオランダでは 静物画に描かれるものはそれぞれに哲学的な意味が込められていますが(例えば:ガラス=壊れやすい=人生のはかなさ 魚=腐りやすい=頽廃 髑髏=人は必ず死ぬ=諸行無常 など) この時代の作品にはまだそのような意味はこめられていません。 このような絵を買う中産階級の人々の食卓に並ぶような食材が描かれています。
画面右側に立っている女性は 彼の絵にしばしば登場しています。
Bbeuckelaer_groenteverkoopster Beuckelaer_Kitchen_Interior Beuckelaer_markt Beuckelaer_welvoorziene_keuken

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〔14〕ピーテル・ブリューゲル作「ベツレヘムの戸籍調査」1566年
Pieter Bruegel 《 De Volkstelling te Betlehem 》

Pieter こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

この絵は 画家ブリューゲル一族の元祖であるピーテル・ブリューゲル(一世)(1525頃~1569)の作品の中でも特に人気があり 彼の二人の息子が大量に複製を作りました。 45点ほどの複製の内の四点がベルギー国内にあります。(左側の壁にそのうちの一点があります。)
新約聖書の中の「ベツレヘムの戸籍調査」を題材としています。イエスが生まれる頃に人口調査のお触れが出され 全ての国民は生れた村に戻って役所に行き戸籍登録することになりました。 (宗教画の題材としてとても好まれましたが しかしこの頃に戸籍調査は行われておらず これは史実では無いことが確認されています。)
画面下方中央でマリアが乗っている驢馬をヨゼフが牽き 役所に向かっている姿が見られます。 そして役所には人々が集まっていますが しかしよく見ると戸籍登録をしているのではなく お金を払っているようです。つまり税を納めているのです。 その下方では農民たちが豚を屠殺している様子が描かれています。お金を持っていない農民たちは 食べ物を税として納めたのです。 つまりこの絵は戸籍調査の様子を描いているのでは無く 税の徴収を描いているものです。
この絵は アントワープ郊外のウェイネゲムの領主をもしていた商人で銀行家のヤン・フレミンクの注文で描かれたのではないかと思われています。 画面中央に描かれている建物が ウェイネゲムにあったものとそっくりだからです。
Wijnegem (Schets van de hoeve)
フレミンクはスペイン国王フィリッペ二世に貸与していたその見返りとして 領地での課税を許されていました。 フレミンクが「自分がウェイネゲムの領主なんだぞ! 特別に国王から課税を許されたんだぞ!」ということを表しているのではないかと思われています。
しかし 作者のブリューゲルは それだけの意味しかこめなかったのでしょうか? 画面中央右側に一軒だけあばら家があります。 他の建物と全く違っていて目立ちます。この建物が実はこの絵を読み解く鍵なのです。16世紀後半のフラダースはスペインの統治下に入り 重税が課され宗教弾圧も激化していました。 スペインは土地も広く気候も温暖ですから農作物は幾らでも育ちます。それに対してベルギーは土地は狭く寒冷で作物の収穫率は高くありません。それにもかかわらず重税が課されたのです。 このあばら家はフランダースの貧しい農家を象徴しています。建物の右側の狭い庭はフランダースの貧しい農地を表しています。 そしてその庭に僅かに農作物が生えたかと思ったらば 右側からやって来た人が取って行こうとしています。この人の被っている幅広帽子はスペインのものです。 つまりスペイン人がフランダースの農地でとれた収穫を根こそぎ税として持って行ってしまう ということが表現されているのです。
ですから この絵は「ベツレヘムの戸籍調査」という題名は付けられてはいても 実はスペイン統治下でどれほどの重税が課されていたのかを現している 政治的な意味合いが込められているのです。 そして更には「領主フレミンクはそれに加担しているんだぞ」「農民たちを苦しめているんだぞ」ということをも意味しているのかもしれません。

ピーテル・ブリューゲル二世による複製と見比べてみると いろいろな違いがありますが その一つが 太陽が描かれているかどうかです。 そして 鍵となるあばら家と他の建物との違いが目立たなくなっています。スペインのつば広帽子も目立ちません。つまり 二世はこの絵の意味を知らないで複製を作ったということになります。 というのも 彼が五歳の時に父一世が無くなりましたので 父親から受け継いだものはほとんどなかったのです。
Pieter II Bruegel《 De Volkstelling te Betlehem 》

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〔15〕ピーテル・ブリューゲル作を元にしたピーテル・ブリューゲル二世作「謝肉祭と四旬節の戦い」
Peter II Bruegel 《 De strijd tussen Vasten en Vastenavond 》

Peter II Bruegel 《 De strijd tussen Vasten en Vastenavond こちらで大きい画像をご覧頂けます 

この絵は ピーテル・ブリューゲル一世が1559年に描いた(現在はウィーンにある)絵を元に 息子たち二人が作った複製五点の内のピーテル・ブリューゲル二世の手によるものです。 本物を見ないでの複製ですので ウィーンの本物と比べると 画面全体でタッチの甘さが見て取れます。しかし ピーテル・ブリューゲル一世が細部に持たせた意味は表現されています。 この絵は たくさんの人物がそれぞれのことをしている様子が描かれていて 一見すると「ネーデルランドの諺」や「ネーデルランドの子供の遊び」の絵ととても似ています。

この絵では それぞれの人物の行為がそれぞれの諺を表しています。
Bruegel_I_spreekwoorden こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

こちらの絵では それぞれの人物がこの時代の遊びをしている様子です。
Bruegel_I_kinderspeel こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

「四旬節と謝肉祭の戦い」の絵でも それぞれの人物のしていることには それぞれに意味がありそうです。 そうです この絵にもいろいろな諺が書き込まれているのです。しかしそれ以上に ブリューゲルはこの絵全体で何かを表現したかったようです。
「四旬節」とは 春の復活祭の前の断食の40日間のことです。キリストが磔刑になる前に40日間荒れ地にこもって修行をしたことが元になっています。 この間日中には何も飲み食いはできません。日没以後翌朝の日の出までの間は 肉や卵や乳製品以外のものであれば飲食できます。 しかし それでもお腹がすきます。ですので 四旬節の前に食い溜めをしておきます。 特に肉や卵や乳製品を食い溜めしておきます。これが「謝肉祭」です。 単なる食い溜めですから 宗教行事ではありません。とにかく食べて飲んで大騒ぎをします。
この絵を見てみると 細かな人物像がたくさん描かれてはいますが 画面手前の右側の人たちと左側の人たちとでははっきりと違っています。 左側の人たちは誰もが太っていて 食べたり飲んだり音楽を奏でたり何かで遊んだり あるいは画面左下の二人は賭け事をしています。 それに対して画面手前右側の人たちは誰もが痩せていて 教会に行き 病人や貧者の世話をしているようです。 これは 左側の人たちが謝肉祭の時の人々 右側が四旬節の時の人々を表しているのです。
しかし なぜ四旬節と謝肉祭とが戦わなければならないのでしょうか?
実は この絵の画面左側の人々はカトリックを 右側の人たちはプロテスタントを象徴しているのです。
カトリックの聖職者たちは 人々から集めた多額の献金という収入を堕落した生活のために浪費していました。 画面左側の太っている人々は 太った(=私腹を肥やした)聖職者たちなのです。誰も宗教的なことはしていません。 それに対して プロテスタントは質素堅実を説き 「誰もが聖書を通して神の御心に触れることができる」としていました。質素堅実だから痩せているのです。 そして誰もが教会に行きます。でもそれは懺悔のため献金のためではありません。神と交わるためです。 そして教会から出て来た人々は 貧者や病人の世話をしていますそれが神の御心だからです。
結局 この絵は「四旬節と謝肉祭の戦い」では無く「新教と旧教の戦い」を描いているのです。 右側の人々の列の一番前の人は 痩せていて少し髭を生やし椅子に腰掛けています。椅子は王座を意味していますから この人はキリストなのでしょうか。 持っているものを見ると 板の上に魚が置いてあります。農民たちは(=貧者)は肉は食べられませんでした。 魚と野菜が主な食べ物でした。そして この魚は別のことを意味しています。 魚は初期キリスト教のシンボルです。ですから プロテスタントが「キリスト教のそもそもの姿に戻ろう」ということを目標にした それを意味しています。 左側の人々の列の一番前には一番太っている人が樽にまたがっていて 足には鍋をぶら下げています。その樽を縄で引っ張っているのは農民です。 農民たちの献金で贅沢な生活をしているのです。
結局 この絵は新教と旧教との違いと対立とを描いているわけです。 しかし そういう対立の中で では人々は本当のところ何を指針として生きて行ったら良いのか それが「諺」なのだということをも意味しています。市井の人々の蓄積された知恵が諺なのです。 諺は誰かに牛耳られているわけではありません。何かを強要されるわけでもありません。何かを奪われるわけでもありません。この絵はそのような 宗教と諺の違いをも表現しているのです。
このような絵を買ったのは 中産階級の人々です。それなりのインテリです。 その人たちが 部屋に掲げられたこの絵を見ながら それぞれの部分に込められた意味を一つ一つ丹念に読み解いていく 「人生の役に立つ謎解き」のための絵だとも言えます。

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〔16〕ピーテル・ブリューゲル作「鳥の罠のある冬景色」1565年
Pieter Bruegel 《 Winterlandschap met schaatsers en vogelknip 》

Pieter Bruegel 《 Winterlandschap met schaatsers en vogelknip 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

ブリューゲルの頃のフランダースは「小氷河期」と言われてとても寒い時代でしたが 1564年から65年にかけての冬は特に寒さが厳しかったと記録されています。 この絵は その冬に描かれました。
すっかり雪で覆われた中 凍った川の上で農民たちがスケートを滑っています。コマを回して遊んで知る子供たちもいます。 アイスホッケーをしている人たちもいます。厳しい寒さの中でも それぞれに楽しんでいる様子が描かれています。
鳥の罠はどこにあるのでしょうか? 画面右側下方に描かれている板です。板を一本の棒で支え その下には鳥の餌を置いてあります。 鳥が板の下に入ったらば 棒に結ばれている紐を引っ張って棒を倒し 鳥は板の下でぺったんこ という罠です。では 何の鳥を獲るのでしょうか? 画面右上隅に一羽描かれています。 これはかささぎです。かささぎは カラスと同様に黒い鳥なので良い意味は与えられていません。「泥棒」や「密告者」の象徴なのです。
ヴァチカンによる1233年の異端審問所開設以来続けられていた異端狩りは 宗教界改革が広まったフランダースでは特に激化しました。 異端審問とは いったい誰がどうやってかけられるのでしょうか? 誰かが密告するからです。異端審問にかけられると まずは告発された罪状を知らされます。 そして自白し親戚知人全ての名をだして かつ誰が異端の疑いがあるかを告白します。そうで無ければ拷問されて自白を強要されます。罪状の全てを自白すれば全てが有罪です。 もしも一部だけを自白すれば 罪を犯したということは罪状の全てを犯した可能性が100%あるので全て有罪です。 拷問しても自白しなかった場合には それは地獄から出て来たか悪魔にのっとられている証拠ですので永遠の煉獄の火に放り込まれます。 つまり いずれにしても死刑なのです。そして 死刑になった人の遺産は 半分はヴァチカンのものとなり 残りは審問官と領主とでわけです。この収入のために とにかくたくさんの人を異端審問にかけようと執念を燃やしたのです。
つまりこの絵は 一見すると冬景色の中でスケート遊びを楽しんでいる人々が描かれているかのようですが しかし実は この時代の人々が いつだれに密告されて異端審問にかけられるか分かららいというびくびくした気持ちで生きていた ということを表しているのです。 そして 凍った川の上でスケートをしていますが もしかしたら氷が割れて冷たい水の中に落ちてしまうかもしれません。冷たい人の心と 人生がいつ奈落の底に落とされるか分からないということをも表しているのです。
この絵は ピーテル・ブリューゲルの作品の中で最も人気が髙かったもので 二人の息子と更には第三者によって大量の複製が作られ 127点が確認されています。

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〔17〕ピーテル・ブリューゲル作「堕天使の墜落」1562年
Pieter Bruegel 《 De val der opstandige engelen 》

Pieter Bruegel 《 De val der opstandige engelen 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

一見すると ボスの作品のようです。奇怪な生き物たちがたくさん描かれています。(ですので 19世紀末に修復の時にブリューゲルの署名が発見されるまではボスの作品だと思われていました。) しかしよく見ると違っています。
新約聖書の中のヨハネの黙示録が題材となっています。堕天使たちを退治しにやってきた大天使長ミカエルと天使たちの戦いが描かれています。 七つの頭を持つ龍を聖ミカエルが踏みつけています。奇怪な生き物は 悪魔たちです。それらは 魚・蛙・貝などをもとに組み合わせたり変化させたりしたものですが これらはボスの作品からの借用です。
しかし よく見てみると これらの奇怪な(はずの)生き物たちが 何だかユーモラスに見えます。 コミカルに描かれています。このような「漫画チック」な表現の仕方が ブリューゲル一世の特色の一つなのです。(つまり ボスとの違いです。) そうやって見てみると 悲壮感はありません。聖ミカエルも天使たちも真剣に戦ってはいますが・・・
この絵は(大きさが同じであるため)「狂女フリート」(アントワープのマイヤー・ファン=デン=ベルク美術館)と「死の凱旋」(スペインのプラド美術館)との三部作ではないかとも思われています。
Brueghel I《Dulle Griet》
「狂女フリート」 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

Bruegel I《Triumph van dood》
「死の凱旋」 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

三部作だとすれば 「狂女フリート」で人間の(愚かな)生を 「死の凱旋」で人間の死を 「堕天使の墜落」では天使の生を表現しているのでしょうか。

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〔18〕ピーテル・ブリューゲル作「賢者の礼拝」1556年
Pieter Bruegel 《 De aanbidding der wijzen 》

Pieter Bruegel 《 De aanbidding der wijzen 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

一見して保存状態が良くありません。この絵は 銅版画家として10年ほど活動していたピーテル・ブリューゲルの絵画作品としてはもっとも初期のものですが この時代に一般的だった木版に油絵の具で描いたものでは無く キャンヴァスにテンペラで描いています。 (テンペラ絵具を布がすぐに吸収してしまいますので 描くには非常な手際が必要とされます。) 木版では無いということは 旅行に持って行くための簡易的なものであり かつ持ち運びの時には筒状に巻いていました。 そして幾度も釘で壁に打ち付けたので端がボロボロに傷んでいます。
題材は 宗教画でも特に人気のあった「東方の三賢者の礼拝」です。 真ん中の聖母子に向かって跪いている三人がその三賢者です。そして 彼らのお付きの人々。 見物にやってきた村人たち。その他大勢。随分な人出です。
画面右上方には駱駝がいます。画面上部には象がいます。建物もフランダース風のものはありません。 フランダース風の服を着ている人もいません。遠い異国での出来事なんだということを表しています。(15世紀の絵画を思い出してみると 題材の時代や土地の様子では無く 描いた画家の時代と土地の様子が描かれています。 15世紀末から大航海時代が始まったことによって それまでは目にしたことが無かった遠い異国からのものがアントワープの港で荷揚げされるようになり 異国の様子の情報も入って来るようになったのです。)
イエスが生まれた日 旅行中だったマリアとヨゼフはどこにも泊めて貰えずに 馬小屋でイエスを生んだと新約聖書に記されていますが しかし随分なあばら家です。 12月下旬のエルサレムの気温は 最高気温12度最低気温6度ぐらいです。それほど厳しいわけではありませんけれども しかしこのあばら家では寒いでしょう。
このあばら家と三賢者の姿は ボスの作品に同様のものが描かれています。つまりこれらはボスの作品からの借用です。
Bosch「東方の三賢者」部分(1) Bosch「東方の三賢者」部分(2)

ブリューゲルは(銅版画の原画を描く)銅版画家だったので それがこの作品にも表れています。 ルネッサンスの「ぼかし描法」では無く 線がきっちりと描かれています。そして もう一つのブリューゲルの特色「漫画チック」であることも見て取れます。

(この作品にどういう意味が籠められているのかは ロンドンのナショナルギャラリーにある ほぼこれと同じ構図の作品で理解できます。)⇒ここから開けます

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〔19〕ピーテル・ブリューゲル作(とされていた)「イカロスの墜落」または「イカロスの墜落のある風景画」
Pieter Bruegel 《 De val van Icarus 》または《 Landschap met de val van Icarus 》

Pieter Bruegel 《 De val van Icarus 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

この絵の解説は こちらのページをご覧ください ⇒

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《バロック様式》
17世紀に入ると 様式はルネッサンスからバロックへと変わっていきました。 そして アントワープがバロック芸術の中心地となり 「バロック芸術のメッカ」と言われるほどに繁栄しました。
フランダースにおけるバロック芸術とは 宗教改革が広まった地域におけるカトリックによる「反宗教改革運動」のための道具です。 そして 新たな信者獲得のために乗り出した「世界伝道」のための道具です。
カトリックは宗教改革が広まったために大量に信者を失いました。 それによって献金という収入も減りました。そこで また何とか信者の数を増やして献金収入を増やしたいと プロテスタントに移った人々をまたカトリックへと引き戻そうとしました。 これが「反宗教改革運動」です。そして まだキリスト教が伝えられていなかった土地において人々をキリスト教に帰依させることで信者の数を増やそうとしました。 これが「世界伝道」です。
しかし 世界伝道に行くにあたって 現地の言葉はどうするのでしょうか? イエズス会士たちは世界各地の現地の言葉は話せません。 ですので大袈裟な表現の絵を使って信者の勧誘をしました。また ヨーロッパ内での伝道も その対象となったのは(無学の)農民たちです。 その人たちに難しい話をしても通じません。 ですので 大きな画面に描かれた大袈裟な表現の絵を見せて勧誘しました。そうやって バロック絵画は「大きな画面」の「劇的な表現」となっていったのです。

(バロック様式について 詳しくはこちらをご覧下さい) 

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〔20〕ヤーコプ・ヨルダーンス作「王は飲む」1638年
Jacob Jordaens 《 De koning drinkt 》

Jacob Jordaens 《 De koning drinkt 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

真ん中に冠を被った王様がいます。グラスを片手に皆と楽しそうにしています。しかし 頭に載せているのは紙の冠です。実はこれは本当の王様では無いのです。イエスが生まれた後 星に導かれて東方から三人の賢者たちが生まれたばかりのイエスのところに謁見にやって来ました。後の時代に 賢者は王に取って代わられました。そしてその三賢者=三王の日(1月6日)には「三王のタルト」を食べる習慣になりました。タルトの上に紙で作った冠が載せてあります。そして中には豆が一粒入れてあって 切り分けたトルテの中にその豆を見付けた人が その日一日「王様」になれるのです。トルテの上の冠を被ります。そして皆で何度も「王様は飲む!」と言って乾杯をします。
この絵は ヤーコブ・ヨルダーンス(1593~1678)の傑作の一つとなっています。ヨルダーンスは リューベンスの共同制作者の中でも最も重要な画家であり リューベンスの死後38年も生きたこともあって まさにリューベンスによって「バロック芸術のメッカ」となっていたアントワープの画壇で中心の人となりました。リューベンスの後に アントワープの画家ギルドの会長の地位にも就いています。
この絵では そのヨルダーンスの「アクの強さ」がそれ程には表現されていません。それがために この絵の中の誰もが 三王の日のお祝いで楽しそうに騒いでいる様子がはっきりと表現されています。この題材でヨルダーンスは何枚か描いていますが 他の絵ではヨルダーンスのアクの強さが前面に出ていて 絵の主題よりも「ヨルダーンスなんだぞ!」という押しつけがまさの方が強くなっています。
王様の左側で ジョッキを高く上げているのがヨルダーンス自身です。そういう点でも 彼が「自分が」という自意識が強い人間であったことが分かります。

Jordaens《 Koning drinkt 1638》 Jordaens《 Koning drinkt 1637-38》 Jordaens《 Koning drinkt 1638》 Jordaens《 Koning drinkt 1638-40》

また リューベンスはカトリック信者でしたが ヨルダーンスはプロテスタントでした。一人一人が聖書を通して神と交わることができるとしたプロテスタントでしたので ヨルダーンスの絵の中の人物は 一人一人が大事にされているのが分かります。
(後ほど リューベンスとヨルダーンスの似たような作品を見比べてみましょう。)

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〔21〕?アントーン・ファン・ダイク作「インペリアル母娘の肖像画」1628年
Antoon van Dyck 《 ritratto di porzia imperiale e sua figlia maria francesca 》

Antoon van Dyck 《 ritratto di porzia imperiale e sua figlia maria francesca 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

貴族の肖像画家として イギリスとイタリアで大変な名声を博したアントーン・ファン・ダイク(1599~1641)の傑作のひとつ。主に貴族(=男性)を いかにも「立派な」姿で描いた彼ですが この絵にはジェノヴァの裕福な商人の夫人と娘とが描かれています。この絵で 彼がなぜ肖像画家として非常に成功したのかが分かります。画面のどこを見ても とても上品な落ちついた表現となっています。仰々しさは全くありません。不自然さもありません。ごく自然にこの人たちの豊かさが表現されています。
肖像画家として成功するためには 二つの秘訣があります。1)本人に似ているように描く 2)本人の欠点は描かない。まさにこの絵では母娘の良いところだけが表現されています。
すなわち 私達が芸術作品と触れ合って 何を「素晴らしい」と感じるのでしょうか? 作者が目の前に見ている対象の素晴らしさをどこまで「素晴らしい」と感じ取ることができたか そしてその感じ取った素晴らしさをどこまで絵として表現する技術があったか この二つによって素晴らしい作品は生み出されるのです。どんなに技術があっても 目の前にあるものの素晴らしさを感じ取れなかったらば 他人を感動させるような作品は生み出せません。
母親は三十代後半 娘のマリア・フランチェスカは16歳です。この絵は 年頃になった娘の「お見合い絵」として注文されたのではないかと思われています。

「ファン・ダイク・ブラウン」という色名があります。これは 丁度ファン・ダイクの時代に発明されたもので 泥を精製した濃い目の茶色ですが ファン・ダイクが好んで使ったので 彼の名が付けられています。黒からこのファン・ダイク・ブラウンの暗い色調の巧みな表現によって 画面全体に落ち着きと気品とが表れています。

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〔22〕ペーテル・パウル・リューベンス作「カルヴァリオの丘行き」1637年
Peter Paul Rubens 《 La mont?e au Calvaire 》

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バロック絵画の代表者と言われたペーテル・パウル・リューベンス(1577~1640)の最後の大作。 修道院の祭壇画として描かれたものですが 死の二年前のこの頃には彼は(痛風のために)ほとんど筆を持てなくなっていましたので この絵のほとんどの部分は共同制作者の手によるものです。 キリストが十字架を背負ってゴルゴだの丘に上がっていくその途中で倒れた情景が描き出されていますが 全体として彼の得意とした劇的な表現となっています。 余りに劇的なのでまるで凱旋の様子です。そして 余りにも雑な描き方です。細やかさは全くありません。 彼にとっては(=注文主にとっては)とにかく「劇的」であることが重要だったのです。
しかし この絵の中で二か所だけリューベンス自身の手によるところがあるようです。 倒れているキリストの顔と その顔を布で拭っているヴェロニカの顔です。 なぜならば ヴェロニカの顔は彼の妻の顔 キリストの顔は彼自身の顔となっているからです。
キリストの顔を彼自身の顔として描くということは 信仰心の表れなのでしょうか? そうではなさそうです。
また 芸術家はその作品が後世に残ることによって それがこの世に生きた証しになります。それなのに なぜ彼は作品の中に彼自身の顔や夫人の顔を描いたのでしょうか? なぜ作り出した作品を私物化した表現にしているのでしょうか?
新教と旧教との対立によって多くの教会の中が破壊されたその後の時代 すなわちカトリックがまた大量に美術品を必要としていた時代に彼は生きました。 彼にはカトリックから注文が殺到し 共同制作によってたくさんの作品を「リューベンス作」ということで世の中に出していきました。しかし このような質の作品です。 彼の芸術家としての良心はそれで満足していたのでしょうか? 一人の芸術家として生きた証しを本当に満足した作品として残せない その焦りや無念な気持ちが このように絵の中に自らの顔を描いた理由なのかもしれません。

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〔23〕ペーテル・パウル・リューベンス作「三賢者の礼拝」
Peter Paul Rubens 《 De aanbidding der wijzen 》

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この作品は 一目見てアントーン・ファン・ダイクの手によるものであることが見て取れます。服の上品な描き方 それぞれの人物の顔や姿の落ち着いた表現。 ファン・ダイクはリューベンスの工房で弟子として13歳の時から勉強していましたが 神童と言われた彼が19歳の時にこの絵の制作に参加しました。まさに神童の才能が充分に発揮されています。リューベンスの工房で制作されたものは 全て「リューベンス作」ということで世の中に出て行きましたが しかし実際には作品の出来不出来は(隣の作品と比べてみれば分かるように)かなり大きかったことが分かります。

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リューベンスとヨルダーンス

ペーテル・パウル・リューベンス作「キリストと姦通の女」
Peter Paul Rubens 《Christus en de overspelige vrouw》

Peter Pail Rubens《Christus en de overspelige vrouw》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

ヤーコブ・ヨルダーンス作「キリストに教わるニコデモ」
Jacob Jordaens《Nicodemus door Jezus onderricht》

Jacob Jordaens 《Nicodemus door Jezus onderricht》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

ここに良く似た作品が二点展示されています。片方はリューベンスの もう一つはヨルダーンスの手によるものです。
「姦通の女」は新約聖書のヨハネによる福音書(だけ)にある話しです。 ある時 ユダヤ教ファリサイ派の人々が一人の女をイエスのところに連れて来て言いました。「この女は姦淫を犯している場で捕まえられた。モーゼは律法の中でこういう女は石で打って殺せと言ったが あなたはどう思うか?」と。 イエスをそれを無視して地面に指で何かを書いていました。再び訊ねられてイエスは答えました。「一度も罪を犯したことが無い者がこの女に石を投げるが良い。」 ファリサイ派の人々は一人ずつ去って行きました。
キリスト教絵画の題材としてしばしばとりあげられているものですが 大抵は「この場面だ」と分かるように イエスが地面に何かを書いている様子で描かれていますがリューベンスは違う描写を選びました。
画面真中にいるのがその貫通を犯した女です。泣いていたと聖書に記述されています。 しかし「泣いているふり」をしているかのようです。 その右側のファリサイ派の人たちはイエスを試そうとして問いを投げかけたのですが しかし彼等の様子からは「試そう」とか「問い詰めよう」とかの雰囲気は伝わってきません。 つまり それぞれの登場人物は誰もが「嘘っぽい」表現がされています。
ヨルダーンスの作品の主題は これも新約聖書のヨハネによる福音書(だけ)に記されている話しで ユダヤ教ファリサイ派の要職にあったニコデモが密かにキリストの話しを聞きに夜に尋ねて行き教えを請うている場面です。 ですから夜の場面です。そしてニコデモが夜に行ったのは「密かに」という意味でです。 しかしこの絵には そのような「密かさ」は表現されているでしょうか? そして背後にいる四人は何なのでしょうか? その場に関係していないようです。
つまり どちらの絵もいかにも「バロック」です。芝居がかっていて 大袈裟で 嘘っぽくて ざわざわしています。 しかし リューベンスの表現とヨルダーンスの表現では何が違っているのでしょうか? ヨルダーンスの絵の中の イエスの顔をよく見てみると これは実はリューベンスの顔です。 そしてニコデモの顔はヨルダーンス自身です。 ルーベンスとヨルダーンスの顔(共に自画像)との比較⇒ 背後にいる人たちもリューベンスの弟子あるいは共同制作者たちです。つまりこの絵は「キリストとニコデモ」の題材を借りながらも バロック絵画の代表者として君臨したリューベンスと 彼に教えられる画家たちの姿のようです。ニコデモの顔をもう一度良く見てみると 教えを請う真剣な表情です。この絵でヨルダーンスはリューベンスに対する敬意を表現したのでしょうか。

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〔24〕ジャック=ルイ・ダヴィド作「マラの死」1793年
Jacques-Louis David《 La mort de Marat 》

Jacques-Louis David《 La mort de Marat 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

医師/ジャーナリスト/政治家そして革命の指導者の一人であったジャン=ポール・マラは 1793年に 王党派(=反革命派)の貴族の娘に入浴中に刺されて死にました。 その11日後 友人であったダヴィッドは 国のために死んだ英雄の悲劇的な死を絵にすることを依頼され 三か月弱で仕上げました。
ダヴィッドは アングルと並んでフランス新古典派絵画の代表者とされています。 その後ナポレオンに重用されて宮廷画家として活躍しましたが その頃の作品はとても大きな画面に仰々しい描き方がされた(古典主義というよりも)「帝国主義絵画」となっているのに対して この作品はずっと小さく かつ仰々しさはありません。 画面の上半分は黒無地の背景 下半分にはマラ一人が浮き上がるように大きく描かれています。 国のためというよりも 民衆のために死んだこの英雄のその死の瞬間を 凝縮された描き方によって時の流れを止めた「記念碑」として描き出しているこの作品は 彼の代表作の一つというだけでは無く 古典派絵画の傑作のひとつとなっています。

《新古典派(古典主義)》
古代ギリシャや古代ローマの文化に範を求めて その均整のとれた形を理想としたのが古典主義です。(音楽ではこの時代のものを「古典音楽=クラシック」と言っていますが 美術では「新古典派」と言われています。)
バロック様式が 劇的な躍動感あふれる表現を取った その反動として出てきましたので 動きの反対すなわち「不動」や「安定」を基本としています。 そしてバロックが「バロッコ=歪んだ真珠」から来ているのと反対に「均整」を重視しました。バロックが動きを現すために斜めの線を使ったのと反対に 縦横のはっきりした四角形の構図を取っています。
そして 絵画では「象徴的」な表現をとりました。ですので 暗い無地の背景に 象徴的なポーズをとった 少ない登場人物が浮き出るように描かれます。
「マラの死」はまさにそのような新古典派の典型の絵と言えます。
しかし ナポレオンがフランスを帝国にしたために 新古典派は「帝国主義」と結び付いていくことになります。

(新古典派について 詳しくはこちらをご覧下さい) 

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2【世紀末部門】

《現実主義》
〔1〕アルフレッド・ステーヴェンス作「秋の花」1867年
〔2〕シャルル・ヘルマンス作「昼の集い」1875年
《現実派》
エドモンド・ラムブレヒツ作「自由芸術協会会員の集団肖像画」昨年不明
〔3〕イッポリト・ブロンジェ作「古いブナの並木」1871~72年
〔4〕アンリ・デ・ブラーケレール作「トランプ遊び」1887年
〔5〕フィンセント・ファン=ホッホ作「農夫の肖像」1885年
〔6〕コンスタンティン・ムニエール作「爆破~死者の中に息子を見付けた女性」1889年
〔7〕レオン・フレデリク作「石灰売り」1882~83年
☆《印象派》と《象徴派》
〔8〕アルフレッド・シスレー作「春」
〔9〕ジェームズ・アンソール作「オステンドの灯台」1885年
〔10〕ジェームズ・アンソール作「ロシア音楽」1881年
〔11〕フェルナンド・クノプフ作「シューマンを聴く」1883年
〔12〕ジェームズ・アンソール作「仮面を付けた怒った人」1883年
〔13〕オギュステ・ロダン作「カレーの市民の一人」1886~90年
〔14〕テオ・ファン・レイッセルベルゲ作「散歩」1901年
〔15〕アンリ・エーヴェネプール作「大きな帽子を被ったアンリエット」1899年
〔16〕ポール・ゴーギャン作「緑のキリスト」1889年
〔17〕エミール・クラウス作「ウォータールー橋」1916年
〔18〕フェルナンド・クノプフ作「エドモン・ピカーの肖像」1884年
〔19〕フェルナンド・クノプフ作「愛撫」1896年
〔20〕フェルナンド・クノプフ作「記憶」1889年
〔21〕エドワルド=コレイ・バーン=ジョーンズ作「プシケの婚礼の行列」1895年
〔22〕ジャン・デルヴィユ作「オルフェウスの死」1893年
《アール・ヌーボー》
☆《アール・ヌーボー様式》
〔23〕アール・ヌーボーのガラス器 / アール・ヌーボーの家具
〔24〕アルフォンス・ムハ作「自然 野原の神性」1899~1900年

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《現実派》

〔1〕アルフレッド・ステーヴェンス作「秋の花」1867年
Alfred Stevens 《 Herfst bloemen 》

Alfred こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

アルフレッド・ステーヴェンス(1823~1906)は 美術一家に生まれました。 (父は美術品収集家 兄弟は画家/美術評論家/画商) 初期の頃はフランダース写実主義から学び(緻密な描写/光の効果/生地の質感/表情など) そのスタイルで描いていましたが 後に現実主義へと変わりました。 王立美術館の横の広場にあったホテル(現在はマグリット美術館)で育ったために 中産階級の人々を見ることが多く それが後の画風に影響を与えています。流行の服を身にまとった中産階級の女性の姿を描くことで 19世紀後半のパリでとても人気があった画家です。絵が売れなかった印象派の画家たち(特にマネ)の援助もしました。その色使いの美しさは 彼の目指していた「誰が見ても美しい絵」の証しです。しかし 晩年には印象派が世の中で人気を博するようになって 彼は風景画を主に描くようになります。
さて この絵を見てみると「秋の花」の題名のとおりに花が主役です。読書をしていた女性が 部屋に漂う香りに気付いて椅子から立ち 花束に近寄って香りを嗅いでいるその動きの表現によって ここに描かれている場面の「前」をも表現されています。 そして 花からの香りがこちらにも漂ってきているような雰囲気がごく自然に表されています。

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〔2〕シャルル・ヘルマンス作「昼の集い」1875年
Charles Hermans 《 Dageraad 》

Charles こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

シャルル・ヘルマンス(1839~1924)は「現実派」に分類されていますが 彼自身は「社会派」では無いし 絵に副次的な意味合いを持たせていないと言っています。
画面の左側には労働者家族が力無く歩いています。画面の右側では中産階級の人たちが昼間から酔っぱらって騒いでいます。地面にはごみと花束とが落ちています。 社会の中での階級の違いや貧富の差という「現実」を捉えているこの作品は 作者35歳の時にブリュッセルのサロンに出品されてセンセーションを巻き起こしました。
この作品が彼の出世作であり かつ最高傑作となっていますが 「現実主義」の幕開けとなるとともに 「印象派」の先駆けとなったという意味でも重要な作品です。
しかし 上記のステーヴェンスの作品と比べてみると 動きを強調し 画面の左右での人々の動きの違いをはっきりさせてはいても 全体的に軽い薄い感じがし かつこの画面からはこの場での匂いや音が漂っては来ていません。 この比較によって ステーヴェンスの力量と人気の理由が見て取れます。

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《現実派》
「現実派」とは 新古典様式の後に出て来た表現で ロマン派や印象派と結び付いています。 新古典派(=古典主義)が「帝国主義」や「全体主義」と結び付き 国という全体が大事だとされ その中で生きる個人個人は疎かにされたその反動として出て来たもので 一人一人の人間の「気持ち」や「受け止め方」を重視したものです。 (個人個人の感じ取り方や表現の仕方の「自由」とも言えます。)  ロマン派は個人個人の「感傷性=センチメンタリズム」の表現であり 印象派は個人個人がものごとをどう受け止めたかの「印象」の表現です。 現実派は目の前に見えているものの「そのまま」の表現(=気持ちや受け止め方では無くあるがまま)を目指しましたが しかしそれは写実主義の「個を超えた見方」とは異なる「人間の目からの見方」となっています。
そして 現実派は社会の中での不公平に目を向け だんだんと「社会(主義)現実派」の色合いを濃くしていきます。
(この時代19世紀の)「現実派」と(15世紀の)「写実主義」とはどう異なるのでしょうか? 「写実主義絵画」では 全てのものがその本物の質感で表現されていました。 物質をそのものと同じに表現しました。そして そこには「動き」はありません。それに対して「現実派絵画」では 物質よりも「目の前の状況」を現実として捉えており そのために動きを伴っています。 「写実主義絵画」では 異なる時間や場所の情景が一つの画面の中に描かれたり 人物の大小がその人物の重要度によって変えられたりしていますが 「現実派絵画」においては そのような表現はありません。

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エドモンド・ラムブレヒツ作「自由芸術協会会員の集団肖像画」1863年?
Edmond Lambrichs 《 Les membres de la Soci?t? libre des beaux-arts 》

Edmond Lambrichs 《 Les membres de la Soci?t? libre des beaux-arts 》

それまでの絵画の伝統や決まり事 アカデミックな教育などに対する反発として 「自由」を標榜する芸術家たちが続々と出てきました。 そして 幾つかの団体が結成されましたが そのうちの一つが「自由芸術協会」です。
画面左上で絵を描いているのがこの絵の作者です。ここに参加した中でもっとも有名になったのが 前列右から二人目のコンスタンティン・ムニエールでしょう。
似たような主義主張の団体が幾つか結成されましたが なぜそのような「自由」を謳った芸術家たちが出て来たのでしょうか?  宗教改革によってカトリックの単独支配が崩れ フランス革命によって封建制が崩れ と世の中は変わりましたが しかし産業革命と工業化によって「実業家と労働者」という「領主と小作人」に取って代わる新たな身分の違いと貧富の差とが起こり広まっていきました。そういう世の中に対する反発と 機械化によって「心のこもっていないもの」が世の中で大量に作られることに対する反発とが元になっています。ですので これらの芸術家たちの多くが (キリスト教という決まり事の表現である)宗教的な題材は描かず かつ「反帝国主義」「反資本主義」的な表現をしました。

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〔3〕イッポリト・ブロンジェ作「古いブナの並木」1871~72年
Hippolyte Boulenger 《 De oude Haagbeukdreef. Tervuren 》

Hippolyte こちらで大きい画像をご覧頂けます 

イッポリト・ブロンジェ(1837~1874)は ベルギーでは初めて屋外で絵を描いた人です。「自然」をテーマにして ブリュッセル郊外のテルヴューレンで活動し フランスのバルビゾン派に倣って「テルヴューレン派」を結成しました。 「自然」という現実を絵として表現した彼は ベルギーの風景画で重要な役割を担いました。
しかし 病弱であったために 僅か37歳の若さで夭逝しています。

この作品は 古いブナの並木を描いたものですが 自然の息吹が聞こえてくるような感じ そして見ている私たちがこの画面の中に入ってこの並木を散歩するような感じが表現されています。 この絵の左側にある彼の別の作品と比べてみると違いが分かります。この作品の方が 作為が感じられない自然な表現であるとともに 画面の中に引き込まれるような印象です。この絵の中の「現実」に私たちもいるのです。 素晴らしい作品というというのは このように「共感」を起こすものなのです。

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〔4〕アンリ・デ・ブラーケレール作「トランプ遊び」1887年
Henri De Braekeleer 《 Het kaartspeel 》

Henri こちらで大きい画像をご覧頂けます 

アンリ・デ・ブラーケレール(1840~1888)は 画家一族に生まれ厳格な絵の教育を受けました。そのために 彼の作風はフランダース写実主義を思わせる緻密な描写を特色としています。 ローマ賞を受賞した父親 Ferdinand de Braekeleerや 歴史画家として名を成した叔父Henri Leys(この二人の作品もこの美術館に展示されています)とは違ったジャンルを選び 17世紀オランダ絵画の伝統を引き継いだ 一般市民(都市生活者)の日常生活での一場面を描いたものがほとんどです。 19世紀末に起きた内密主義の先駆者でもあります。
子供二人が室内でトランプ遊びをしている様子が描かれているこの作品は 室内の克明な描写と 光の描き方とに彼の特色が充分に発揮されています。 動きの少ない 静けさをたたえた表現を得意としましたが この絵では「トランプ遊び」の題名の通りに 二人の子供のトランプ遊びが主体であり 部屋の中の静寂の中での子供たちのトランプに注ぐ眼差しという僅かな動きが表現されています。


DeBraekeleer《 geograaf 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます 
「地理学者」

参考のために 父親と叔父の作品
(父)Ferdinand De Braekeleer作「結婚50周年のお祝い」1839年
DeBraekeleer《 Huwelijk50jaar 》

「レオポルド一世の戴冠」1856年
DeBraekeleer《 Leopold I 》

(叔父)Henri Leys作「アントワープを訪れたアルブレヒト・デューラー(1520年)」
Leys_Durer_besucht_Antwerpen_in_1520.jpg(163151 byte)

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《社会現実派》

〔5〕フィンセント・ファン・ホッホ作「農夫の肖像」1885年
Vincent van Gogh 《 Boerenportret 》

Vincent van Gogh 《 Boerenportret 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます 

(日本ではゴッホと言われていますが オランダ語の発音ではホッホとなります。)
フィンセント・ファン・ホッホ(1853~1890)は 1878年から80年までベルギーの炭鉱町に暮らして見習い牧師をしていましたが その時に触れ合った炭鉱夫たちや農夫たちの姿を描いています。 彼は「象徴派」に分類されますが この絵は「社会現実派」的な 一人の農夫(の人生)を真正面から捉えた描き方になっています。しかし・・これはどう見ても彼自身の顔です。

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〔6〕コンスタンティン・ムニエール作「爆破~死者の中に息子を見付けた女性」1889年
Constantin Meunier 《 Het grauwvuur 》

Constantin こちらで大きい画像をご覧頂けます 

(この作品は 本館の中央ホールの近代部門への入り口横に展示されています。)
ベルギーの「社会現実派」を代表する彫刻家がコンスタンティン・ムニエール(1831~1905)です。ヨーロッパ大陸で最初に産業革命が始まったベルギーには 炭鉱が幾つもありました。 炭鉱労働者たちは地下数百メートルの炭坑の中で 酸素の欠乏で倒れたり あるいは可燃性ガスの爆発で死んだりしました。この作品は その爆破事故で亡くなった人々の死体の中に 息子を見つけた女性の姿です。 痛ましい死体とそれを見下ろすこの像で 作者は「十字架の無いピエタ」を表したのでしょうか。

「ひびが入ったガラス溶解炉の交換」1885年
Constantin Meunier 《 Het verwijderen van de gebarsten smeltkroes 》

Constantin Meunier 《 Het verwijderen van de gebarsten smeltkroes 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

ベルギーを代表するクリスタルガラス製造所のファル・サン・ランベールの中での様子を描いたこの絵は コンスタンティン・ムニエールの社会現実派の絵画の代表作となっています。 ガラスは溶解炉の中で高温で溶かされますが 溶解炉はその高温のために傷みやすく 壊れることもありますので時々交換します。 この絵では ひびが入ってしまった溶解炉を交換する危険な状況での過酷な労働をしている姿が まさに「現実」として描き出されています。

このように「世の中の底辺の労働者たち」の危険で過酷で劣悪な環境の中での生き様を表現した芸術は 資本主義への警鐘として そして人間の尊厳を訴えるという社会主義的意味が込められた「社会象徴主義」となっています。

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〔7〕レオン・フレデリク(男爵)作「石灰売り」1882~83年
baron L?on Frederic 《 Les marchands de craie》Le matin / Midi / Le soir

Leon Frederic 《 Les marchands de craie》Le matin Leon Frederic《 Les marchands de craie》Midi Leon Frederic《 Les marchands de craie》Le soir
こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

中世のフランダースの祭壇画で一般的だった三連画は その後廃れましたが 19世紀にドイツのナザレ派とイギリスの前ラファエロ派によって そしてベルギーにおいてはレオン・フレデリク(1856~1940)によって復活しました。 「社会性のある内容を人々に訴えるのに適した形式」だとしたフレデリクは 60点もの三連画を残しています。 若い頃は前衛的な過激な表現を取り「アヴァン・ギャルド芸術サークル」に属していましたが この絵を描いた頃からアルデンヌ地方の村で暮らすようになり 自然を描くようになりました。
この作品は 石灰売りの家族の一日の三つの場面を描いたもので (左面)早朝に出かける様子 (中央面)戸外での昼食 (右面)夕刻の帰宅路 という構成になっています。 ヨーロッパでは 温かい食事は昼食だけというのが一般的でした。 (今では 夕食だけとなっています。) この 屋外で調理をし食事している時間が この家族にとっては最も平安な時なのでしょうか? それとも この場にも日々の生活の不安や苦しさを持ち込んでいるのでしょうか?

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《印象派》

〔8〕アルフレッド・シスレー作「春」1885年
Alfred Sisley 《 A la lisi?re du bois / Paysage. Printemps

Sisley_Printemps.jpg(288374 byte) こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

フランス印象派の画家たちから「父」と慕われたアルフレッド・シスレーの句品は このような風景画がほとんどです。 街の様子を描いたものありますが 多くは自然の中の様子であり まさにそこに彼の特色が現れています。ここまで美術館の中を見てきて この絵が目に入ると「フワー」とした空気が漂っているのが感じられます。 他の絵画との質の違いが漂っていて シスレーが自然と一体になって描いていたこと伝わってきます。

(フランス印象派の絵画については こちらも御参照下さい。⇒)

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《象徴派》

〔9〕ジェームズ・アンソール(男爵)作「オステンドの灯台」1885年
James Ensor 《 De vuurtoren ven Oostende 》

James Ensor 《 De vuurtoren ven Oostende 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

父親がイギリス人だったジェームズ・アンソール(1860~1949)は ベルギーの海岸町オステンデに暮らしていました。 海岸に遊びに来る海水浴客相手の雑貨屋でした。(ですので海岸からすぐのところです。) つまりこれが彼が毎日見ていた大西洋です。 ベルギーは一年の内の五か月が冬で その間ほとんどの日は曇りですから灰色の空に覆われていて 海もどんよりとしています。
この絵は そのような大西洋を描いているのでしょうか? それとも 彼の心の中を描いているのでしょうか?

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〔10〕ジェームズ・アンソール(男爵)作「ロシア音楽」1881年
James Ensor《 Russische muziek 》


James Ensor《 Russische muziek 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

「ロシア音楽」と題されていますが 「音楽を弾く」でも「音楽を聴く」でも無くて たんに「ロシア音楽」となっています。 (次のクノプフの作品とその点が違っています。) つまり 弾いている様子 聴いている様子では無くて 「その場にロシア音楽が漂っている」様子を描写しています。
ロシア音楽とは すなわちロシア人による音楽であり ロシア人とはスラヴ系民族です。 スラヴ系の特色はその住んでいる土地の気候の影響を受けて「暗い」「表情に乏しい」といったものであり つまり音楽では「短調」です。(ショパンもラフマニノフも短調のメランコリックなメロディーが途切れずに連綿と続いていきます。)
そのような音楽がこの空間に漂っている様子を彼が表現したかったのは すなわち 彼の心がそういう状態であったということなのでしょうか。
この絵が描かれた二年後にクノプフが似たような絵を描きました。 そのためにアンソールは大変に立腹して 同じ団体に属していたにもかかわらず その後二度とクノプフと口を利かなかったとのことです。

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〔11〕フェルナンド・クノプフ作「シューマンを聴く」1883年
Fernand Khnopff 《 Luisterend naar muziek van Schumann 》

Fernand Khnopff 《 Luisterend naar muziek van Schumann こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

(すぐ隣にある)この絵が フェルナンド・クノプフ(1858~1921)のものです。 こちらは「シューマンを聴く」と題されていて 演奏者は画面の左端に僅かに右腕しか見えません。 「頭痛なのかな?」と思わせる姿の女性(=クノプフの母)が画面の真ん中に描かれています。この絵では彼女が主役なのです。
ローベルト・シューマンはクノプフの一番のお気に入りの作曲家でした。シューマンは精神を患って ライン川に身を投げて入水自殺を図っています。 繊細な彼の神経にとっては この世で生きるのが辛かったのです。クノプフはそういうシューマンに共感していたのでしょうか。
画面左端のピアノからシューマンの音楽が右の方へと流れていくその感じが 左上から右下への三つの斜めの線によって巧みに表現されてはいますが そしてそれを聴く女性が主役ではありますが しかしこの絵ではこの空間にシューマンの音楽が満ちていることをも表現されています。 音楽は この世(=物質の世界)とあの世(=非物質の世界)とを結ぶ架け橋です。音楽を聴くこの情景において あの世(精神世界)への入口に居ることがこの絵では表現されています。
そして 隣のアンソールの絵と見比べることで 「何が表現されているのか=作者の心の状態」の違いを感じ取ることができます。

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〔12〕ジェームズ・アンソール(男爵)作「仮面を付けた怒った人」1883年
James Ensor 《 De geargerde maskers 》

James Ensor 《 De geargerde maskers 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

後に 仮面を付けた人々の姿を多く描くようになったアンソールの作品の中で 最初に仮面が現れたのがこの絵です。
左側の男性は鼻の大きなお面を付けて 一人でお酒を飲んでいました。そこに 仮面を付け 魔女か魔法使いのような姿をして女性が入ってきました。 彼女は怒っています。「また飲んでいるのか!」と。
なぜ アンソールは仮面を付けた人々を描いたのでしょうか? 仮面はその字のとおり「仮の面」です。 本当の自分の面ではありません。すなわち 本当の自分の姿(=心)ではありません。それを付けることによって(本当の)自分を隠しています。 なぜ隠すのでしょうか? 本当の自分を表してはいけないと思うからです。あるいは そうすると何か不都合が生じるからです。 そして では「本当の自分」とは何なのでしょうか?
この怒っている女性は 一人で飲んで酔っている男性に対して怒っているようです。 しかし 本当のところ何に対して怒っているのでしょうか?  相手に対して=他人に対して怒っているのではありません。 「自分の人生を自分でコントロールできない」ことに対して怒っているのです。それができることが本当の自由であり本当の豊かさです。
アンソールの絵は 彼自身が本心を表せないで生きていることの表現なのでしょうか? 「人間は自由に生きることはできない」ということを表しているのでしょうか?  それとも「本当の自分とは何なのか?」という問いかけなのでしょうか?

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〔13〕オギュステ・ロダン作「カレーの市民の一人」1886~90年
Auguste Rodin 《 Un des bourgeois de Calais : Jean d'Aire 》

Auguste Rodin 《 Un des bourgeois de Calais : Jean d'Aire 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

とても大きいです。等身大よりもずっと大きいです。威圧感があります。
ロダンは フランス人ですがベルギーとも関わりが深く ブリュッセルの証券取引所の装飾を依頼されたり 彼の出世作となった「銅器時代の人々」をベルギーで制作したり ベルギーの芸術家団体Les XXに参加したりしています。 
この作品は 本来は群像である彼の「カレーの市民」の中の一人です。 カレーを包囲したイギリス軍は 人質として市民六人を要求し それに志願した中の一人であり 死刑となるその恐怖心と 英雄的自己犠牲の姿を表現した大作となっており このような「気持ち」を象徴的に表す象徴派彫刻家としてのロダンの代表作の一つともなっています。

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《印象派》

〔14〕テオ・ファン・レイッセルベルゲ作「散歩」1901年
Theo van Rysselberghe 《 De wandeling 》

Theo van Rysselberghe 《 De wandeling 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

ベルギー印象派の中でも点描画家の代表がテオ・ファン・レイッセルベルゲ(1862~1926)ですが 時代によって点の大きさが違っており 初期の頃の方が細かい点で 後期になると大き目の点で描いていて 晩年にはほとんど点描では無くなっています。 
この絵はレイッセルベルゲ夫妻がしばしば滞在した フランスのカレーの海岸での情景です。風に吹かれながら海岸を散歩する二組の二人連れの女性たちの前傾した姿勢に 風や日差しの強さが表されています。
しかし この絵の近くはフランスの点描画家の代表者ジョルジュ・スーラやポール・シニャックの作品もありますが どれを見ても「絵が何を表現しているのか」「作者は何を表現しようとしたのか」よりも まずは「点描」であることが見た人の第一印象となります。 淡さによって穏やかさが表現されていない訳でもありませんが しかしそれ以上に「バラバラ」であることの方が伝わってきます。 先に見たシスレーが 三年間ほど点描を試した結果「三年間を無駄にした」(=点描は不自然である)と言ったのも納得できます。あえて言えば 点描を使った画家たちは 今の時代の液晶画面を先取りしていたのでしょうか。 しかし 液晶画面のピクセルほどには細かく描けなかった・・・

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〔15〕アンリ・エーヴェネプール作「大きな帽子を被ったアンリエット」1899年
Henri Evenepoel 《 Henriette met de grote hoed 》

Henri Evenepoel 《 Henriette met de grote hoed 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

フランス生まれでブリュッセルで育ったアンリ・エーヴェネプール(1872~1899)は 生涯結婚しませんでした。不幸な結婚をした従妹をとても愛していたからです。 その従妹はここに描かれているアンリエットを含めて三人の子供を産みましたが そのうちの一人(息子)はエーヴェネプールの子です。 エーヴェネプ^―ルが 愛していた従妹の子供たちをどれ程に可愛がっていたのかが伝わってきて ベルギーの絵画史上最高の子供の肖像画とされているのが納得できます。 大きな帽子の下の顔に気持ちを込め過ぎたのでしょうか 画面の下半分は背景も手も服も未完成のような印象です。

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〔16〕ポール・ゴーギャン作「緑のキリスト」1889年
Paul Gauguin 《 Le calvaire Breton 》

Paul Gauguin 《 Le calvaire Breton 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

ポール・ゴーギャン(1848~1903)は ブルターニュ地方の村の広場に立っていたキリスト像を見た印象でこの絵を描きました。 極限まで削ぎ落とされた描写は 写実主義絵画や現実主義絵画の正反対を行くものであり この表現によって 内面の「気持ち」を浮き立たせたいのがはっきりと現れています。 「印象派は外面的な美しさしか表現していない」と 印象派の画家たちに決別状を叩きつけた頃の作品であり 絵画に思想的/哲学的内容を盛り込み 外の世界を捉える感覚と 内の世界を見る想像力とを統合する「総合主義」絵画の手本となった作品です。

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〔17〕エミール・クラウス作「ウォータールー橋 太陽と雨 三月」1916年
Emile Claus 《 Waterloo Bridge, zon en regen. Maart 》
Emile Claus 《 Waterloo Bridge, zon en regen. Maart 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

クロード・モネのロンドンの情景を描いた絵を思わせるこの作品は その影響を受けたものであり かつベルギー印象派を代表するエミール・クラウス(1849~1924)の代表作となっています。
光の効果を重視したこの作品は 光彩派としての彼の表現力が充分に発揮されたものとなっています。 しかし それを現そうという意図が 逆に彼の作品に軽さや深みの無さが感じられる原因となっているのかもしれません。

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〔18〕フェルナンド・クノプフ作「エドモン・ピカーの肖像」1884年
Fernand Khnopff 《 Portret van Edmond Picard 》

FernandKhnopff_portrer_Picard.jpg(74109 byte) Edmond Picard

エドモン・ピカーは 社会派の法律家であり 普通選挙権のために戦った人ですが 文学および芸術の愛好家としても知られていました。 「芸術のための芸術」では無く「社会の芸術」が大事であるとして その時代の芸術を擁護し 若い芸術家たちを助け 特にロダンのために自宅を開放して展覧会を開きました。
この肖像画は フェルナンド・クノプフ(1858~1921)が26歳の時に 48歳のピカーの姿を描いたものです。 しかし ここに描かれているのは本当にピカーでしょうか? 確かに同じ人であるかのような顔立ちではありますが・・・彼の晩年の写真と見比べてみると 絵の方には彼の雰囲気が出ていません。 絵には必ず 描いた人の気持ちが表されているということが分かります。

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〔19〕フェルナンド・クノプフ作「愛撫」1896年
Fernand Khnopff 《 Liefkozingen 》

Fernand Khnopff 《 Liefkozingen 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

この「愛撫」と題されたクノプフ38歳の時の作品は ウィーンのゼッセシオンにおいて展示され大絶賛を博したものです。 しかしながら この絵が何を意味しているのかは分かっていません。意味が分からないものを絶賛する ということが20世紀の美術界の在り方を如実に表しています。
アール・ヌーボーは 「夢」「無意識の世界」「精神世界」「あの世」といった 非物質の世界との繋がりを重要視しました。 この絵も クノプフが夢で見た情景を描いたのかもしれません。
描かれているそれぞれのものにも意味があるのでしょうか。背景の(左から)木 文字らしきものが書かれた建物 二本の柱 数人の人影か木立か。 左側の男性らしき人は 右手に飾りの付いた棒を持っています。右側は 女性のような顔をした しかし身体は豹のようです。 スフィンクスは顔が人間で身体がライオンですが ここに描かれているのはどう見てもライオンではありません。 もしかしたら クノプフはライオンの姿にしたかったのに 彼が訪れた動物園にはライオンはいなかったのでしょうか? 
右手に持っている棒は「王笏(おうしゃく)」です。古代エジプトから使われていたもので「権威」を象徴しています。 しかしその上部に付いている飾りはヒュプノスを象徴したもののようです。ヒュプノスは眠りの神で 羽を持った青年の姿で表されることが一般的です。 背景の二本の柱のように見えるものは オベリスクでは無くパイロンでも無く これも王笏なのでしょうか。
クノプフが 単に夢で見た情景を絵に描いたのか それとも何らかの意味を持たせて描いたのかは不明です。

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〔20〕フェルナンド・クノプフ作「記憶」1889年
Fernand Khnopff 《 Memories (Lawn tennis) 》

Fernand Khnopff 《 Memories (Lawn tennis) 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

この「記憶」と題された絵の中には 七人の女性が立っています。しかし それぞれ別の方向を向き この七人は関わり合っていないようです。しかも この七人は同じ人のようです。
クノプフが描いた女性はどの絵でも全て同じ人です。彼は女性と関わることが苦手でした。しかし 唯一妹だけは例外でした。彼の絵に描かれているのは 全て妹のマルゲリーテです。 これは 写真を切り取って貼り付けるコラージュの方法が使われています。七つの姿の内の六つは元になった写真が残っています。
Fernand Khnopff《 Memories 》photo.jpg(36377 byte)

一番左の姿は写真がありませんが しかし彼女の肖像画と同じ服を身に付けています。(同じ下手の真向かいにあります。) 
Khnopff_Margueritte.jpg(85244 byte)

どの姿も立っていて 歩いてはいません。この時代の写真は動いているものは撮れませんでした。 しかし 彼はあくまでも立っている姿を描いたのです。地面を見ると 草原のようでありながら そうでは無さそうです。 遠景はほとんど地平線だけです。この絵は 紙に水彩で描いたものをキャンヴァスに貼り付けてあります。それによって淡さが表現されています。
この絵でクノプフは何を表現したのでしょうか? アール・ヌーボーは「非物質の世界」との関わりを重視していました。 それは「夢」の世界であり「無意識」の世界であり そして「あの世」の世界です。キリスト教がきちんと説明してこなかった非物質の世界に関して ユングやフロイトが心理学として探求し意見を出すようになりました。 また 世紀の変わり目の頃には様々な神秘主義義者が意見を出したり団体を結成したりしました。 それを芸術として表現したのがアール・ヌーボーです。この絵は 死後の世界の様子なのです。 この世での生を終えて(=死) 肉体を離れた魂はあの世へと戻って行きます。 私たちの意識は個人個人の顕在意識の他に 無意識 そして個人の枠を超えた集合無意識と繋がっています。 その集合無意識では 全ての魂の記憶が共有されています。 この世では「他人」として別個の存在だと認識していても 実は潜在無意識の世界では 全ての魂が繋がり合っています。 つまり 私達は 誰もが「宇宙」という一つの存在であり しかしこの世に生まれてくると肉体を持つことによってそれを忘れてしまっているのです。
クノプフは アール・ヌーボー文学の代表者であるマーテルリンクの作品に挿絵を描いていますが マーテルリンクの代表作「青い鳥」もまさに この世とあの世とのつながりを描いたものです。
この絵は 私たちが死んだ後にあの世へ帰る途中の三途の川を渡ったあたりの情景です。 「記憶」とは「この世での記憶」のことなのです。 そして その記憶は「あの世」(集合無意識の世界)では 全ての魂と共有し合っているものなのです。 この世では一人一人別個の存在だと思っていても 実はあの世では一繋がりなのです。
すなわち 非物質の世界のことを理解している人にはそれが読み取れますが 理解していない人には全く分からない 単なる幻想的な絵ということになります。 この作品がなぜクノプフノ代表作の一つとされているのか。結局 本当に素晴らしい芸術作品というものは 単なる「個人の気持ち」の表現を超えた 「宇宙の本質」「宇宙の真理」というものが表現されているのです。

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《前ラファエロ派》

〔21〕エドワルド=コレイ・バーン=ジョーンズ作「プシケの婚礼の行列」1895年
Sir Edward Burne-Jones 《 Psyche's wedding 》

Sir こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

父親に裏切られ その陰謀によって怪物と結婚しなければならなくなったプシケが 気のすすまない婚礼の場へと進んでいく様子が描かれています。
このバーン=ジョーンズ(1833~1898)の晩年の傑作は 先のクノプフの「記憶」と似たような画風ですが こちらは油絵の具で描かれています。 そしてこちらの作品は動きを伴っています。緩やかな時の流れと 婚礼の行列の歩みとが同調しています。 花を蒔くのではなく落としている様子 楽器を弾いている(のか弾いていないのかの)様子にも 緩やかさが表れています。 全ての乙女の顔が「アール・ヌーボー顔」です。中性的な そして顎が大きい 。誰もが緩い服を着ています。(アール・ヌーボーは「反帝国主義」ですので 「女性をコルセットから解放する」こともその特色の一つです。)  そして 「非物質の世界」に近い すなわち夢の世界に近い表現がなされています。 このように アール・ヌーボー様式の特色が充分に見て取れるこの作品は バーン=ジョーンズの傑作であるばかりなく アール・ヌーボー芸術の傑作ともなっています。

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《神秘主義》

〔22〕ジャン・デルヴィユ作「オルフェウスの死」1893年
Jean Delville 《 De dode Orpheus 》

Jean Delville 《 De dode Orpheus 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒
「パルシファル」1894年
Jean Delville 《 Parsifal 》

Jean Delville 《 Parsifal 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

1893年にブリュッセルの歌劇場で ギリシャ神話のオッフェリアの話しを元にしたグルックの歌劇「オルフェオ・エデオリディーチェ」が上演され ジャン・デルヴィユ(1867~1953)はそれに着想を得てこの作品を描きました。
デルヴィユは フランス最大の魔術師と言われ「神秘主義総合芸術」のために奔走したサル・ペラダンに傾倒し 神秘主義結社「薔薇十字会」に参加し ベルギーの神秘主義芸術の代表者となりました。宇宙の中では全てのものが一体であり 「この世」は「あの世」の中の一部であり 物質の世界も非物質の世界も全てが繋がり合っている という彼の神秘主義思想が 絵画でありながらレリーフのような立体感を持ったこの二つの作品に充分に表れています。

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《アール・ヌーボー様式》
産業革命後の機械化による工場での大量生産や 中世封建制に取って代わる帝国覇権主義と資本主義 そしてそれらによる新たな貧富の差など 19世紀にはそれまでとは違った世の中のひずみが顕著となりました。 そしてそれらに対してキリスト教は何も出来ません。そういう世の中で それに対する疑問や反発も当然起こりました。その一つが アール・ヌーボー様式です。
様式というものは 理念が顕在化したものです。つまり アール・ヌーボー様式は アール・ヌーボーの理念による芸術です。 反工業製品/反物質主義/反帝国主義/反キリスト教であると共に 「生活に関わる全てのものが美しくあるべきだ」というのがその理念です。 ですので 全てのものをアール・ヌーボー様式にしました。古典主義以降途絶えていた「総合芸術」を復活させたのです。
しかし アール・ヌーボーの一番の特色は 「霊性」を重視したことです。「この世」と「あの世」との繋がりを。 しかし それらは目には見えないものであり 捉えられる人と捉えられない人とで受け取り方は全く違っていきます。 そして 世の中の大多数の人々は その「霊性」というものを理解できなかったのです。ですから アール・ヌーボーはたんなる装飾の様式と思われるようになってしまいました。

(アール・ヌーボーについて 詳しくはこちらをご覧下さい)

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〔23〕アール・ヌーボーのガラス器 / アール・ヌーボーの家具
置かれている家具それぞれは質が高いものです。しかし アール・ヌーボーは「総合芸術」であり 建物も内装も調度品も 全てをアール・ヌーボー様式にしました。 それなのに ここでの家具の展示は そういうアール・ヌーボー様式の理念とはかけ離れています。まるで家具屋の展示場です。アール・ヌーボー様式の理念をまるで理解していない展示の仕方です。

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〔24〕アルフォンス・ムハ作「自然 野原の神性」1899~1900年
Alphonse Mucha 《 La Nature 》

Alphonse Mucha 《 La Nature 》 こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

アール・ヌーボー芸術の最高傑作。どの角度から見ても「完璧な美しさ」です。四点作られた中で最も保存状態が良いもので 銅の上の金が作られた時と同じに残っています。
アルフォンス・ムハ(1860~1939)は日本では(フランス語読みの)ミュッシャと言われていますが ボヘミア出身です。 この作品が1900年のパリの万国博覧会に出品されて大変な評判となり ムハの名声と人気とを一気に高めることになりました。 パリに出て サラ・ベルナールのポスターを描いて一世を風靡しましたが しかしその人気は五年ほどしか続きませんでした。流行とはそういうものです。 人々は飛びついて そしてすぐに離れていく。それは 実はものの(本当の)価値が分かっていないということです。 しかしムハはそういう流行に翻弄されずに地道に素晴らしい作品を作り続けました。そして晩年には 郷土愛/民族愛を主題とするようになります。 また 生まれたばかりのチェコ共和国の紙幣や切手のデザインを無償で請け負いました。つまり 彼は「個人」の表現を目指したのではないのです。
ムハは主にポスターで有名になりましたが ポスターとは広告であり つまりは「売りたい商品」を不特定多数の人々に知らしめて買ってもらうためのものです。 ですから「商品そのもの」が大事であり その「商品そのもの(だけ)」を描写したものが一般的です。しかしムハはそうはしませんでした。 「その商品の雰囲気」を 「それを使ったときの雰囲気」を表現したのです。そのようなムハの表現の特色がこの作品でも発揮されています。
この作品は 彼が心酔していたダンサーのクレオ・デ・メロードと女優のサラ・ベルナールのイメージで作られているようです。
Cleo de Merode Sarah Bernhardt(1878)
(左)クレオ・デ・メロード Cleo de Merode  (右)サラ・ベルナール Sarah Bernhardt

クレオ・デ・メロードはダンサー(バレリーナ)としてよりも 絶世の美女として知られた人です。
サラ・ベルナールは20世紀前半を代表する大女優です。彼女は神秘主義者でしたが いつまでも若々しく 60代になっても20代にしか見えなかったと言われています。 つまり アール・ヌーボーの「永遠の青春性」を体現して生きていたのです。それはすなわち 肉体はこの世に生きていても 魂の住処はあの世であることを 知り/実感し/そのとおりに生きていたからです。 そういうサラ・ベルナールに共感し その(肉体と魂との)あるがままの在り方を表した結果が この像の完璧な美しさとなっています。すなわち(題名のとおり)「神性」の表れそのものなのです。

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3【マグリット美術館】


ポール・デルヴォ―と共にベルギーのシュルレアリスム画家の代表者とされている ルネ・マグリットの絵画を(ほぼ)年代順に三つの階に展示し 彼の生涯の流れがおおよそ分かるようにされています。 しかし では彼の作品は何を表しているのかは 多分分かりません。そもそも 彼の作品を見て「素晴らしい」と感じる人はどのくらいいるのでしょうか? 「面白い」と感じる人はいるかもしれませんが。

彼の作品を見るにあたっての 前置きがあるのです。
1)マグリットはフランスからの移民の子孫である
2)マグリットの絵は 芸術では無い
3)マグリットの作品は シュルレアリスムの基本である「夢」や「無意識」とは関わっていない
この三つです。
1)マグリットは そもそもはフランスからの移民の子孫です。フランス人というのは 民族的にはゲルマン系です。(ゲルマン系フランク族が作った国なのでフランスと名乗っているのです。)  しかし 使っている言語フランス語は ラテン語系の言語です。そういう ラテン語系の言語を使うゲルマン系民族フランス人の一番の特色は「素直で無い」のと「理屈っぽい」ということです。 素直で無く理屈っぽいということは すなわち「屁理屈をこねる」ということです。フランス人は 他人から何か言われたり質問されたりすると とりあえずは「non」と否定します。素直で無いのです。
2)絵画というものは全て芸術なのかというと そういうわけではありません。 何かの商品の広告の絵は芸術でしょうか? 何かの標識の記号は芸術でしょうか?  Museum(は日本語では「美術館」「博物館」と区別されていますが ヨーロッパの言語では一つです)に展示されていれば芸術なのでしょうか?  いろんな標識を展示していたら それは美術館では無くて博物館です。マグリットの絵は実は芸術ではありません。彼の絵は「広告」のようなものであり「標識」のようなものです。
ですから 彼の作品を「芸術」だと思って見ると 何だか良く分かりません。 芸術だという思い込み あるいは決めつけ無しに見れば 意味が分かるかもしれません。
そしてそれらの絵で彼が何を表現したのかは 「素直で無い表現」なんだ 「ひねくれた表現」なんだ 「屁理屈」の表現なんだ ということを知っていれば 理解できる可能性が高くなります。
3)マグリットは ジョルジョ・デ・キリコの作品に出合ってシュルレアリスム的な画風で絵を描くようになりました。 ベルギーのシュルレアリスム画家のもう一人の代表者ポール・デルヴォ―も同様に キリコの絵と出会ったことから大きな影響を受けています。しかし マグリットとデルヴォ―の画風は全く違います。 マグリットはその後 フランスのアンドレ・ブルトンのシュルレアリスム運動に参加しましたが やがてそこから離れてベルギーのシュルレアリスム運動というものを始めます。 シュルレアリスムの基本は「夢」や「無意識」の世界と繋がっていることです。ですので「自動書記」で文章を書き絵画を描きました。しかし マグリットの作品は「夢」とも「無意識」とも繋がっていません。 自動書記でもありません。目に見えたものを頭で考えて描いているものです。シュルレアリスムでは無いのです。 シュルレアリスムがたんに「あり得ない情景」「変な表現」「奇妙な組み合わせ」ということであればその範疇に入るのかもしれませんけれども。 ということは 彼の作品がシュルレアリスムなんだという思い込みで見ると やはり何だか分からないわけです。 

これが彼の代表作とされている一つです。
Margritte_pipe
「イメージの裏切り」《 La trahison des images

パイプの絵の下に「これはパイプでは無い」という文章が書かれています。
つまり 「ここに描かれているのは パイプの絵であって これに煙草を詰めて吸うことはできないからこれはパイプでは無くて パイプのイメージなのである」という意味です。
それは正論です。
しかし それで? 全ての絵は「描写」です。だから何なのでしょうか?  その「描写」によって 何かを表現し あるいは表現によって何かを他人に伝達し あるいは何らかの影響を与える それが絵画であり芸術です。 その「表現」の第一歩である「これは描写である」ということを言っているだけです。これでは小学生か中学生の言い分です。たんに「これは絵である」と言っているだけなのです。
マグリットの母親は熱心なカトリック信者でしたが 夫(マグリットの父)から虐待され ほぼ軟禁状態で暮らしていました。 そしてマグリットが13歳の時に入水自殺しました。その母親の自殺が彼の人生に大きな影響を与えたのであろうことが 彼の作品からうかがい知れます。 彼の成長はそこで止まったのです。彼の頭は中学生のままなのです。
「我考える。故に我在り。」という言葉をマグリットは気に入っていたそうです。 それは「自分は存在するのか?」という問いかけ あるいは「考えなかったらば 自分は存在していることにならないのでは」という考えに彼を導きました。
マグリットは 若い頃は絵が売れませんでしたので収入を得るために広告の製作をしていました。 これが彼の絵の基本なのです。収入のためとはいっても したくないことはしないでしょう。彼はしたかったから広告を作っていたのです。 広告は「これを買って下さい」と見た人に訴えかけるためのものです。主体は広告そのものではありません。主体は売りたい商品です。マグリットの作品も 主体は絵そのものではありません。 何らかの「理屈」が主体なのです。その(屁理屈に近い)「理屈」を表現するために絵を使っている ということなのです。たとえば数学の問題に図形を描くのと同じようなものです。 そして その「理屈」もほとんど「禅問答」です。その禅問答の公案(問い)に絵を使っている ということです。しかし 禅問答は「思考」を探求するものではありません。 「思考」を使って「宇宙の真理」を探究するものです。しかし マグリットの絵の問いかけは「思考」止まりです。思考も映像も「言葉」無しであり得ますが しかしマグリットの思考は常に言葉を使ったものです。 言語を使った思考を表現するのに絵を使っている ということです。

マグリットは文学では「不思議の国のアリス」に傾倒していました。ですから それを題材にしても絵を描いています。
Magritte_alice

「倒錯」の世界という点では共通していますが しかし「不思議の国のアリス」は「夢」の世界と繋がっていますが マグリットの方は繋がっていません。この世という物質の世界にある物を それが存在している場との関連無しに取り出して他のものと組み合わせるということをしているだけです。つまり 彼の思考は「物質世界に張り付いた思考」なのです。そこから外に出ることはありません。

マグリットの最高の作品とされているのがこの「光の帝国」です。

「光の帝国」《 L'empire des lumi?res 》 1953年
Magritte_Empire of Light.jpg(62981 byte)

この作品が彼の最高の作とされている理由は簡単です。彼の作品の中で唯一「芸術作品らしく見える」ものだからです。 この絵は「理屈」無しに「絵画」として見ることができ(るような気がし)ます。 似たような絵を幾枚も描いていますので彼自身としてもお気に入りだったでしょう。

結局 マグリットは絵で何を表現したのでしょうか?
「ルネ・マグリット」という一人の人間の頭の中の言葉を使った思考です。そこから出ようとはしませんでした。そしてその思考も とても程度が低いものです。 大して頭の良く無い人が それでも一所懸命に考えて(いるつもりになって)理屈っぽいことを(一人で悦に入って)言っている そういう表現です。 もし彼が芸術家なのであれば そして本当に考えられるのであれば 「これはパイプでは無い」などということよりも 「美しさとは何なのだろう?」「素晴らしさとはどういうことなのだろう?」「芸術とは何なのだろう?」というようなことを考えていたのではないでしょうか?
結局マグリットは 絵を描くのが好きで上手かった広告屋さんが商品では無いものを描くようになった ではその中身は? それが彼の薄っぺらな思考だったということです。

ではなぜ この王立美術館は「マグリット館」として 彼の作品だけを展示する場を設けているのでしょうか?  それは 彼の作品がそれなりに認められている=多くの人が彼の作品を見に来る というのが理由のはずです。 マグリットの絵は 彼が55歳を過ぎてからアメリカで評価されるようになり 画家として有名になりました。 (その時にマグリットは「今になって」と怒ったと伝えられています。 なぜ素直に「認められるようになって嬉しい」「絵が売れるようになって嬉しい」と言えないのでしょうか?)  アメリカの文化とは そもそもアメリカが移民の寄せ集めで歴史が無い国ですから 文化的にも寄せ集めです。  アメリカ文化としての歴史や伝統はありません。 文化というのは その土地の気候風土が一番の元になって そこの土地に暮らす人々によって培われます。 しかし 移民としてアメリカに移り住んだ人々は それまでとは違う気候風土の土地に暮らすようになりながら しかし生まれ育った土地の文化を背負って生きています。 「こういう気候風土の土地だから こういう文化になった」というその繋がりがありません。 つまり「基盤が無い文化」が当たり前になってしまったのです。  そういう中で アメリカ人の感性は「何が良いものなのか」「何が美しいものなのか」「何が素晴しいものなのか」よりも 「人目を惹くこと そのためには奇妙であること」を重視するようになりました。 
だからこそ マグリットの作品はアメリカで評価されたのです。「奇妙さで人目を惹く」ということで。
そして 王立の公共の美術館でさえも ものの「価値」を「入場料収入」でしか計れない ということなのです。

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