子育てについて
テレビゲームをしない方が良い理由
《幸也の世界へようこそ》 → 《幸也の書庫》 → 《子育てについて》 → 《テレビゲームをしない方が良い理由》 |
今の時代 ほとんどの子供たちがテレビゲームで遊んでいるようです。
つい数十年前までは無かった このテレビゲームというものが
子育てにどう影響するのか つまり
人間形成にどう影響するのかを
ここで考察してみます。
一般には テレビゲームの害としては
視力が落ちる
勉強など他のことをする時間が無くなる
(家族内や友達との)会話の時間が少なくなる
などが取り上げられているかと思います。
しかし テレビゲームの本質的な害とは何なのでしょうか?
〈反応〉〈反射〉
テレビゲームというのは どういう遊びかというと画面に出てくるものに対して 何らかの反応をする というものです。
その反応の正確さと速さによって 得点が変わってきます。
しかし それはあくまでも 画面に出てきたものに対する「反射的な反応」です。
テレビゲームというのは それだけしかしない遊びです。
そこには「考える」ことも「感じる」こともありません。
ということは テレビゲームによって培われるものは
「反射的な反応の速さ」だけです。
〈考える〉
頭を使うとは「知性」=知識を蓄える
「理性」=ものごとの因果(原因と結果の繋がり)を理解する
「悟性」=目には見えないものをも含めた宇宙の真理を理解する
この三つを基本として 考えたり 話したり 行動の指示を身体に発したりすることです。
では テレビゲームでは そのどれをしているのでしょうか?
何もしていません。
つまりテレビゲームとは 頭を全く使っていないのです。
単なる反射ですから。
ということは テレビゲームに時間を費やすということは すなわち
「反射能力」のみを育てていて それ以外の
「知性」も「理性」も「悟性」も 更には「感性」も全く育てていないことになります。
そのために時間を費やすことに 意義があると思えますか?
つまり テレビゲームをするということは
「考える」ということをしない人間に育てているということなのです。
特に 理性である ものごとの因果(原因と結果)について 何も考えません。
そして 悟性である 目には見えないものを含めた
宇宙の真理についても 何も考えません。
つまり テレビゲームをするということは
それら 理性も悟性も無い人間に育てているということなのです。
〈感じる〉〈観る〉〈共感する〉
そして テレビゲームとは あくまでも画面の中での出来事です。その画面の中で何が起きても あくまでも画面の中だけの出来事なのです。
つまり テレビゲームをするということには
「感じる」ということが含まれていないのです。
何かを感じること無しに ひたすらに画面の中での出来事に反射的に反応しているのです。
ということは テレビゲームするとどういう人間になるのでしょうか?
ものごとを「感じる」ということが 出来ない人間に成るのです。
人間には 五感というものがあります。
テレビゲームでは そのどれを使っているのでしょうか?
あえてあげれば 目で見る視覚と ボタンを押す指の触覚でしょうか。
しかし 見てはいても 観ることはしていないのです。
「見る」とは ものごとが目に入るということです。
「観る」とは 目に入ったものから何かを感じ取るということです。
ですから 見るということは ものごとの表面だけ
それに対して 観るということは ものごとの中身をも受け止めている
そういう違いになります。
テレビゲームをすると
ものごとを観ることのできない人間になるわけです。
物事の表面だけを目に入れて その中身=本質を
受け止めることはできない人間になるのです。
感じることも 観ることもしない人は
共感することは出来ません。
画面の中には 痛みも 悲しみも無ければ 嬉しさや 充足感もありません。
そこは 感情の無い世界です。感覚の無い世界です。
その世界とだけ接していれば 当然「共感する」ということは無いですから
共感するということの分からない人間になります。
〈すぐにキレる〉
これが すぐにキレる人が増えてきた理由の一つなのです。反射的な反応だけで そこには考えることも 感じることも 共感することも無いのです。
それが 画面との関係だけならばまだしも
実生活において それと同様のことをしてしまうようになるのです。
なぜならば 考える力も 感じる力も 共感する力も 育てていないからです。
〈作る〉
人間が他の動植物と大きく違っている点の一つは人間は 物を作るということです。
(実際には 作るというのは創造しているのではなくて 原材料を変形・変質させている「加工」なのですけれども。)
テレビゲームは この「作る」ということに 全く関わっていません。
何も作らないということは 何かを作れるようになるわけでもありません。
私たちは 肉体を持ち 物質世界に生きています。
この物質世界で生きるには 常に何かを作り そして消費しています。
その作るということを しない 出来ない人間になってしまうのです。
作るというのは 目に見える「物質」だけではありません。
「文化」というのは 物質ではない非物質も含めたものです。
「作る」ということが出来ませんから
自分が 暮らしている世の中を作っているんだという自覚も無ければ
勿論 作ることも出来ない人間になってしまうのです。
〈会話を出来ない〉
テレビゲームは 画面を見ているだけです。そこには 会話も対話もありません。
あくまでもあるのは 反射的な反応だけです。
ということは そこでは会話も対話も学べないということです。
ものごと良く考えて感じてから 言葉を発する。
それに対して 相手がやはり良く考え感じて言葉を出す。
この会話・対話ができずに
相手に向かって 良く考えずに言葉を発する。
相手の言った言葉に対して 反射的に反応して言葉を返す。
そういう人間になってしまうのです。
それは人間ではありません。
機械です。
そうなのです。テレビゲームという機械を相手にしても
人間が育つわけではないのです。
機械として育ってしまうのです。
〈想像力〉
機械は 想像が出来ません。テレビゲームの画面に反応することをしていても
そこには 想像ということは行われていません。
ということは 想像しない 想像できない人間になるということです。
この「想像力」というものは 「創造」とも関わっています。
想像力の無い人は 創造も出来ないのです。
物を作ることも出来ないのです。
そして 感じることも想像することも出来ない人は
他人の気持ちを感じ 他人の身になって考えるということができません。
機械と自分という関係しか無いのですから。
機械に何を言っても 怒られません。叱られません。
機械に何をしても 悲しんだり 泣いたりしません。
世の中というのは 人間を含めた「生命の場」なのです。
その「生命の場」で生きるにあたって
人間関係を含めた 生命との関係を築けない人間になってしまうのです。
このように テレビゲームをするということは
子供の人間形成において とても重要な影響を与えているのです。
人間として生きていくうえで必要なことを 何一つ学べないどころか
「考える」「感じる」「作る」というような 人間にとっての基本的なことが
出来ない人間になってしまうのです。
〈時間を決める〉
テレビゲームをしても 何も良いことはない逆に とても大きな害があるということを認識した上で
それでも 楽しみ 娯楽の一つとして テレビゲームをするという選択を
全く否定することが出来ないのであれば
次の選択は 時間を限るということです。
一日に15分程度ならば それほどには影響が出ないかもしれません。
しかし 15分を超えると 影響が出ます。
15分というのは 1日のおよそ1%です。
ものごとは1%を超えると 全体への影響が出るからです。
結局 昔からの「遊び」というものは
単に娯楽 楽しみのものというだけではなくて
その中には「学び」が入っていたのです。
そして その「学び」の入っている遊びを通して
「考える楽しさ」「感じる楽しさ」「作る楽しさ」というものを
育んでいったのです。
しかし テレビゲームにはそれがありません。
子供のために おもちゃや遊び道具を選ぶのであれば
そこに「学び」が入っているかどうか これが
一番重要な選択の基準になるかと思います。