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「自分」て何? 「自分」て誰?

 

《幸也の世界へようこそ》《幸也の言葉》 → 《「自分」て何? 「自分」て誰?》

 

【自分って?】

普段私たちは「自分の考え」とか「自分の意見」とか「自分の好み」とか「自分の行動」とか
いろいろなことで「自分の」ということを思って生きています。
しかし 一度立ち止まって 一体「自分って 何だろう?」と考えたことはありますか?

 

名前が自分? 
しかし 一人でいるときには名前は必要ありません。名前は「個体識別記号」です。
他と区別するために付けられています。
そして 今の名前でなくても「自分」は存在します。
そもそも自ら付けたものではありません。

 

身体が自分?
しかし 考え(想念)や感情は自分のものではあっても 身体ではありません。

 

思考が自分?
しかし 身体も自分です。

 

さあ 「自分」とは何なのでしょうか?

 

私たちは生まれてきた時には言語を話せません。
社会的な慣習も知りません。つまりは「白紙」の状態で生まれてきます。
そして 言語を覚えるというのは 身の周りにいる人たちが話しているのを聞いて覚えるわけです。
あなたがスワヒリ語を話せないのは 周りにいる人たちがスワヒリ語を話さないからです。
そして言語だけではありません。
飲食には食器を使うとか 排便は特定の場所でするとかも 教えられてするようになります。
ということは 白紙で生まれてきた幼児のその白紙に 周りにいる人たちが
いろいろなことを書き込んでいく というようにも言えるわけです。
そして 育つと共にどんどんと書き込まれていきます。
学校に行くようになれば家族からだけではなく 教師や他の子供たちの言動も書き込まれていきます。
あるいは テレビなどで見たことも同様に書き込まれていきます。
そして それら「書き込まれたこと」を元にして ものごとを判断したり 考えたり 選んだりするようになります。
そして 「自分の意見」とか「自分の考え」とかを持つようになります。

 

しかし そもそもは白紙だったところに誰かが書き込んでいったのです。
ですから「自分の意見」だというそれも 実は「他人の書き込み」に過ぎないのです。
いろんな人が書き込んでいったその寄せ書きを振りかざして「これが自分の意見だ」と言っていることになるのです。

 

それが「自分」?

いえいえ それは「他人の寄せ書き」ではありませんか?

 

つまり 大人が言う「自分の意見」とは 結局は「他人の書き込みの集大成」なのです。
「他人が書き込んだことを基にした思い込み」なのです。
それが「自分」?

 

では 一体何が「自分」なのでしょうか?

 

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【性癖】

誰にでも「性癖」というものがあります。
これは「性的な癖」とは限らず いろいろな癖です。
口癖は言葉の癖ですが その他にも思考の癖や行動の癖や嗜好の癖や感情表現の癖があります。
そして そういう性癖の中には「他人に言えない」ようなものもあったりします。
知られたら恥ずかしいようなことです。そういった様々な癖も 他人から学んだものもあります。
しかし そうではないものもあります。
身の周りの人でそういうことをした人がいないのであれば あるいはテレビなどでも見たことが無いのであれば 
他人から学習した(=書き込まれた)わけではありません。
もしかしたら そういう性癖こそが 持って生まれた「自分」なのではないでしょうか。
そうです 他人に言えないような性癖こそが「自分」なのです。
ところが なぜか多くの人が「他人の寄せ書き」である「自分の意見」の方は恥ずかしがらないのに
本当の自分である性癖の方は恥ずかしがったりします。

 

なぜでしょう?

それって おかしくありませんか?
「自分では無い自分」は恥ずかしくない。
「本当の自分」は恥ずかしい。
では 自分って 何のためにいるのでしょうか?
他人に書き込まれるため?

 

つまり 多くの人は「他人に書き込まれる」ことを当たり前として育ちます。
更には 親など身の周りの人から いろいろなことを禁止されたり強制されたり矯正されたり怒られたりして育った結果
「他人=良い」「自分=悪い」という思い込みとなっているのです。
「本当の自分は悪いんだ」と潜在的に思い込んでしまっているのです。
だからこそ 本当の自分である性癖は恥ずかしいのです。
他人の寄せ書きは恥ずかしくないのです。

 

しかし それでは何のために「自分」は存在しているのでしょうか?
他人の意見のように考えて行動するため?
他人が言うとおりに行動するため?
でも その「他人」だって 更に他人からの書き込みなのです。

 

「反抗期」という言い方があります。思春期になった子供が親に反発することです。
「不良」という言葉があります。これは (不良品のように)単に「出来が悪い」という意味ではなくて
「反社会的」という意味も含まれていますが 結局は他人の言うことを聞かないということです。
このどちらも 本人は「これが自分」だと思っている何かがあるのです。
ですから親とか大人とかに反発するのです。しかし そこで思っている「自分」とは何なのでしょうか?
結局は「他人の書き込み」なのでしょうか?

 

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【決まりごと】

私たちの社会 すなわち世の中には 様々な決まりごとがあります。
それらは 人間が作り出したものです。例えば 食事をするときには箸を使う。
これは人間が作り出した決まりごとです。ですから 猿は箸を使いません。
ところが 人間の誰でもが箸を使うというわけではありません。
インドでは 手掴みで(指で)食べます。
西洋人もそうです。温かい料理など特定のものだけはフォークなどを使います。
彼らにとっての当たり前である「手掴み」を日本でしたらば叱られるか顰蹙を買うかで 止めさせられます。
多くの人が自覚していない決まりごともあります。その一つが「貨幣経済」すなわち金を使っての売買です。
多くの人がそれを「当たり前」と思い込んでいるようです。
しかし 人間以外の生き物はそういうことはしません。
ほとんど全ての人が 収入を得るために仕事をします。
収入を得るために仕事をしなければならないと思い込んでいます。
ですから 仕事というのは収入を得るための行為だと思い込んでいます。
では 貨幣経済が無かった頃のいわゆる原始人たちは 仕事をしていなかったのでしょうか? 

 

こういった世の中での決まり事は それなりに認識しやすいものです。
では それと同様に 自分に書き込まれた他人の寄せ書きの一つ一つもまた
「誰かに書き込まれた」ということを認識できないでしょうか? 
そして それを書き込まれる前の状態には出来ないのでしょうか?
そうすれば「本当の自分」が出てくるのではないでしょうか?

 

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【言語】

ほとんどの人は「言語」を使ってものごとを考えたり認識したりしています。
そしてそれが当たり前だと思い込んでいます。しかし 言語は他人から修得したものです。
言語とは記号であり つまり 言語という記号を使っての思考や認識とは
結局は誰かによって書き込まれたものを元としたものにしか成り得ないのです。
それに対して 言語を使わない思考や認識もあります。
例えば いわゆる「五感」と言われる感覚がありますが これらはそもそもは
例えば肌に何かが触れると それを感じてから「痛い」とか「かゆい」とかの言葉に変換しています。
言葉に変換する前の「感じたこと」が本当のことであって それをどういう言葉で表現するのかは学習の結果です。
つまり 本来は「感じる」ことがあって それを言語に変換しているのです。
ところが 他人に伝達するには言語を使います。
なぜならば 「感じたこと」そのものを他人に伝えることが出来ないからです。
ですので 「痛い」とか「痒い」とかの言葉に変換して伝達します。
ということは 「感じたこと」が真実であり 「言葉での表現」は真実では無いのです。
ところが多くの人が「言葉での表現が真実だ」と思い込んで生きています。
だからこそ他人の寄せ書きを「自分」だなどと思い込めるのです。
そして 「感じたこと」を信じられないのです。自分が感じたことも 他人が感じたことも。
そして「感じる」のは 五感での感覚だけではありません。
いわゆる「第六感」というものがあります。実はそれが最も重要なのです
とごろが 多くの人は「何かおかしいな」と感じても それを否定します。
「世の中ではこういうことになっている」という理屈で。
「こうした方がいいんじゃないの?」と感じても それを否定します。
「他人はそうはしない」という理屈で。
言語での思考の前の「感じ」こそが本当なのです。
それなのに それを言語に変換してから「他人」とか「世の中」とかと結び付けて 結局は「感じたこと」を否定する。
そうやって私たちは「本当の自分」を生きないようにと自らを仕向けてきたのです。

 

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【感情】

思考と感覚の他にもう一つ 「感情」というものがあります。
「喜怒哀楽」という言い方がありますが 「楽しい」「嬉しい」「快い」「怒り」「悲しい」
「寂しい」「悔しい」「憎い」「不愉快」「怒り」「羨ましい」「つまらない」などです。
これらの感情も 学習して=他人から
「こういう時にはこういう気持ちになるものだ」と書き込まれてそうしているものもあります。
しかし全ての感情がそうだというわけではありません。逆にそうではない自然発生的な感情もあります。
感情とはなぜどうしてどういう時に出てくるのでしょうか?
「自分の(潜在的あるいは顕在的な)観念と違っているものごとに遭遇した時の反応」です。
つまり中と外との摩擦によって生じるものです。
「外」が 誰かの言葉や行為であったり 何かの出来事であったり です。
「中」とは「自分の(潜在的あるいは顕在的な)観念」です。
この観念が 生まれて以来他人に書き込まれたものです。しかしそれだけではありません。
「楽しい」とか「嬉しい」とかの感情は それ以前のものなのです。「宇宙の感情」なのです。
私たちは本来 自然に「楽しい」とか「嬉しい」とか感じているはずなのです。
あるいは「快い」「満たされている」「充実感」も同様です。
これらは 上記のような「摩擦」から生じるものでは無く 自然発生的なもので 「内から湧き上がってくる」ものです。
それ以外の感情が「摩擦」によって生じるものです。
自分の思っていることや知識と違う情報が入って来ると 大抵の人はその情報を否定したがります。
あるいは無視したがります。それは「自分の考え」「自分の知識」を守るためです。
そしてそれは その考えや知識を持っている「自分」を守るためです。
ところが それらの「自分の考え」とか「自分の知識」と思っているもののほとんどが「他人jの書き込み」なのです。
「他人の寄せ書き」なのです! 

 

実は「楽しい」「嬉しい」「満たされている」「快い」といった自然発生的な本来のもの以外の感情とは
「それらから離れた生き方をしている」ことを知らせてくれるものなのです。
「怒り」「悲しい」寂しい」「悔しい」「不愉快」といった感情は「否定的な」ものです。
否定的とは何に対しての否定なのかというと「宇宙意識」に対してです。
「本来のあり方とは違っている」という合図なのです。
つまり 宇宙意識の流れに乗っている時には「楽しい」「嬉しい」「満たされている」「快い」と感じます。
流れに反している時には否定的な感情が起きます。
ですから それら否定的な感情が湧いてきた時には それを分析して 自分は「何に」対してそういう感情を持ったのか
「なぜ」そういう感情が湧いてきたのかを把握すれば 自分がどう宇宙意識の在り方と違っているのかが分かるわけです。
そして それこそが「本当の自分」なのです。
「楽しい」ことに 知識は必要ありません。「嬉しい」ことに言語は必要ありません。
「快い」ことを他人から教えられる必要はありません。それらは本来「ある」ものなのです。
「楽しい」「嬉しい」「快い」「満たされている」といった感情は
「宇宙とは豊かであり その宇宙の豊かさによって全ての存在は生かされている」ということを実感して生きている証しなのです。
これこそが「本当の自分」なのです。それらを感じるのに「知識」は不要です。
「慣習」も不要です。「他人が何をしているか」も関係ありません。

 

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振り出しに戻りましょう。
「自分」て何? 「自分」て誰?

 

「自分」とは「宇宙意識」の一部です。それ以外の何者でもありません。
あなたが思っている「自分」というのが 実は「自分では無い」と気付けた時に 本当の自分を見出すことができるのです。
そして 他人の目を気にして「本当の自分」を恥ずかしがる必要は無いのです。
その「恥ずかしがる」気持ちもまた 宇宙意識と反するものなのですから。

 

誰の目をも気にせずに 他人の考えに惑わされずに
素直に「楽しさ」「喜び」「充実感」「快さ」を実感しつつ存在している それが「自分」なのです。

 

 

(2022/1/26)


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