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フランス印象派絵画

画家たちは何を表現したかったのか

《幸也の世界へようこそ》《幸也の書庫》《絵画を見る目・感じる心》 → 《フランス印象派絵画》

この文章は パリのルーヴル/オルセー/オランジュリーの三つの美術館で見た
フランス印象派の作品から得た印象をまとめたものです。

【目次】
① 印象派の画家たちの共通点
② 《ピサロ》・・・「価値判断をしない神の目」
③ 《モネ》・・・「生命は光」
④ 《ルノワール》・・・「生命の歓び」
⑤ 《ドガ》・・・「生命力の発揮=身体の動き」
⑥ 《セザンヌ》・・・「不可視のエネルギー体」
⑦ 《ピカソ》・・・「キュービズムとは」
⑧ 《レオナルド》・・・「宇宙の中の地球」

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「フランス印象派」としてひとくくりにまとめられている画家たちがいます。
19世紀後半から20世紀初めにかけて
フランス(の主にパリを中心とする北フランス)で創作活動を行った人々です。
それらの画家たちには ある共通点多あるからこそ「印象派」としてまとめられているわけですけれども
勿論それぞれの画家では 表現したかったもの 表現しているものが違っています。
その共通点と それぞれの画家の表現しているものとを 簡単にまとめてみました。


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① 印象派の画家たちの共通点

「印象派」という名は (現在パリのマルモッタン美術館に展示されている)
モネの作品「印象 日の出」から付けられたと言われています。
その作品は 一人の画家が見て感じた ある日の日の出の印象を描いたものだ ということであり
そこから「印象派」というのは 画家個人の印象を絵として表したもの という解釈を導き出します。
あるいは 絵を見た鑑賞者それぞれが どういう印象をその絵から得るか
それぞれの人にその感じ方や解釈が委ねられている というようにも理解できます。
けれども ピサロ/モネ/ルノワール/セザンヌ といった「フランス印象派」の絵画を見ると
そこに 画家の個別の表現は現れてはいるものの 共通したものを感じ取ることが出来ます。

それは「神」の存在です。

その「神」とは キリスト教の神ではありません。
そもそも印象派の画家で 宗教画を描いた人はほとんどいません。
ゴッホは聖職者になりたかった人ですので キリストの姿を絵に描いたりはしていますし
ゴーギャンもまた描いてはいます。
しかしながら いかにもキリスト教絵画らしい作品はありません。
その他の印象派の画家たちも 宗教画は描いてないようです。
しかし 彼らの絵に共通しているものは「神」なのです。

キリスト教の神では無いのだとすると そこに表されている「神」とは一体何なのでしょうか?

「神」とは 「生命」なのです。
その「神」=「生命」という共通の意識を持ちながらも それぞれの画家は
その「神」=「生命」を何に見出したのか それがそれぞれの画家の表現の違いになっているのです。



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② 《ピサロ》・・・「価値判断をしない神の目」

ピサロは 印象派の画家たちの中でも 早い生まれで ということは年長者でした。
そして いつでも落ち着いた性格で 印象派の画家たちからは
「神様」のように思われ 慕われ 尊敬されていた人だそうです。

そのピサロの作品は 主に風景画です。
多くの絵画が並べられている美術館の中でも 一際目を引くのがピサロの風景画です。
一体彼の絵の何に惹かれるのでしょうか?
ピサロの絵を見ると 非常な均一感というものが一番の特色であるように感じられます。
その均一感とは何なのでしょうか?
「一切の価値判断をしない」ということです。
この「価値判断をしない」ということが 多くの人にできないことなのです。
ほとんどの人が日常生活において価値判断をしているのです。
「良い・悪い」「綺麗・汚い」「美味しい・不味い」「好き・嫌い」というように。

しかし ピサロの絵からはそのような「価値判断」というものが感じられません。
彼が表しいているのは「価値判断」を超えた世界であり それはすなわち「神の心」なのです。
しかし それはキリスト教の神ではありません。
人々の魂を天国に行くか地獄に行くかを決める神ではありません。
キリスト教の神は「裁きの神」なのです。

ピサロが描いている神は それではありません。
「神」とは 「生命」であり 「宇宙」なのです。
生命は裁きません。宇宙も裁きません。
《生み出す》《育む》《生かす》《調和する》
それが 「生命」であり「宇宙」なのです。
存在している全てのものに対して 一切の価値判断をせずに 慈しみの目で見守る。
それが「神の目」であり ピサロが表しているのはまさにその「神の目」なのです。
その視点で その心で絵を描いているのです。
だからこそ 彼の絵に自然と惹きつけられるのです。


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③ 《モネ》・・・「生命は光」

モネは 彼の代表作とされる「睡蓮」を初めとする
彼のジヴェルニーの自宅の庭の様子を描いた絵や 風景画が多いようです。
それらの絵に共通して表れているのは「光」です。
彼は 水面を描いても 草花を描いても 干草を描いても
それらに表現されているものは「光」なのです。

モネは この世に存在する全てのものは「光」であることを理解していたのでしょう。
そして その「光」こそが 生命の現れであり かつ神なのです。
生命の煌き 生命の輝きとは すなわち「光」であり
遍在する光を描き出すことによって 神の存在を描き出しているのです。

オルセー美術館に ルーアンの大聖堂の正面を描いた絵が三点並べて展示されています。
朝と昼と夕方の それぞれの光の当たり方の違い=見え方の違いを描き出しているようです。
光の当たり方にこだわったことからも 彼の中で「光」が重要な位置を占めていたことがわかります。
(残念ながら 今では額にガラスがはめられていますので
絵のエネルギーがそのままに伝わってくる訳では無いようです。
以前に見た時には まだガラスがはめられていなかったのか その三転の絵の前に立つと
絵から光がこちらへと飛んでくるのが感じられたのですけれども。)
その光の当たり方の違いで 彼が表現したかったものは 単なる見え方の違いだったのでしょうか?
そうではなさそうです。その三点に見ることが出来るのは
あたかも人間の青年期・壮年期・老年期のようなものであり
建物という物質を描きながらも
モネはそこに「生命」を見ているかのように描き出されています。
存在する全てのものは「光」であり その「光」とは「生命」の現れであり
つまり「生命=光」を描き出したのがモネだったのです。

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④ 《ルノワール》・・・「生命の歓び」

ルノワールの絵も 一目で彼の作品だと分かる特色があります。豊満な女性の姿です。
なぜ彼は そのような豊満な女性の姿を好んで描いたのでしょうか?
実際に絵を見ると 豊かに描かれている女性の身体と
 その周りに描かれているものとに質感の相違は感じ取れません。描かれている全てのものが
女性の身体と同じように表現されているのです。

ルノワールの絵を見て 一目で伝わって来るのは 「嬉しそうな 楽しそうな表情」です。
彼が表現したものは まさにその「嬉しい」「楽しい」という感情であり
それはすなわち「生きている歓び」なのです。
その「生きている歓び」が 女性の顔の表情や身体からだけではなく
画面の全てのものに描かれているのです。

私たち この地上に生きている多くの人間の中で
一体どのくらいの人が「生きていて良かった」
「この世に生まれてきて良かった」と心の底から言えるでしょうか?
彼は 何の迷いも無く それを表現しているのです。
そして あの豊満な女性の身体は 「生きる歓び」という気持ちの豊かさを表すものなのです。
もし あのような身体が 官能性を表すものだとしたら
どうして周りのものも身体と同じタッチで描かれているのでしょうか?
あれは官能性の表現では無いことは明らかです。

「この世に生きる 生命の生きる歓び。」
その生命の生きる歓びの表現に「神」を感じ
それを絵として描き出したのがルノワールなのです。



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⑤ 《ドガ》・・・「生命力の発揮=身体の動き」

ドガの代表作は「踊り子」だとされています。
それ以外にもバレリーナの姿を描いたものも多いですけれども
基本的には 「動いている人間の姿」を描いたものがほとんどです。
彼の絵では 感情表現もまた 身体の動きとして表されています。
それら「動いている人間の姿」を見ると ドガが感じ取り 表現したものは何なのかが分かります。
彼は 「身体の動き」に「生命の発露」を見たのです。
「動いている身体」に「生命力の発揮」を見
それに「神」を感じたのです。

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⑥ 《セザンヌ》・・・「不可視のエネルギー体」

オランジュリー美術館に りんごを描いた 似たようなルノワールの絵とセザンヌの絵とがありました。
その二点を見比べてみると セザンヌの絵の特色が見えてきます。
立体感・奥行き感があるのです。どのセザンヌの絵を見ても それが感じられます。
更に良く見ると その立体感というものが 何から出てきているのかが見えてきました。
全ての物質は 目に見える「物質」としてのエネルギーと
目には見えない不可視のエネルギー体とから成っています。
目に見えるエネルギー=物質はほとんどのものが曲線で
特に自然界には直線はほとんど存在しません。
(これが アール・ヌーヴォーの曲線の元になっています。)
しかし 不可視のエネルギー体は 直線が基本です。
直線で構成された立体です。
正四面体(正三角形四面)・正六面体(正方形六面)・正八面隊(正三角形八面)・
正十二面隊(正五角形十二面)・正二十面体(正三角形二十面)・
星型正四面体(上下逆向きに合わさった二つの正四面体)というような。
そして これらの立体形が回転すると 円を描きます。
つまり円という曲線が出来ます。 

セザンヌは このような規則性のある立体として物質を捉えていたようです。
ということは 彼は 不可視のエネルギー体を感じ取っていたということになります。
これは何も不思議なことではありません。一般の人には見えないものを見て
それを絵として表現するのが画家です。
一般の人には聞こえないものを聴いて それを音楽にするのが作曲家です。
目の前にあるものから言葉を感じ取って それを書き留めるのが詩人です。
物質の中に内在している 本質としての不可視のエネルギー体を感じ取り
それを元に絵を描いているのがセザンヌなのです。
そのものの見方は すなわち「神の目」です。
物質しか見ていない ものの表面しか見てない 人間の目ではないのです。
そしてそのようなものの見方で絵を描くことによって 立体感・奥行き感を描き出し
神のものの見方を表現しているのがセザンヌの絵なのです。

しかし それを感じ取るのは容易ではないかもしれません。
ですから もっと簡単に表現し もっと簡単に受け取ってもらえるように
ピカソは「キュービズム」を始めたのでしょう。
(この続きは ピカソの項をご覧下さい。)

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おまけ (1)

⑦ 《ピカソ》・・・「キュービズムとは」

ピカソは 印象派の中には入れられていないかもしれません。
しかし 十代の頃には印象派風の絵を描いていました。
二十歳前にすでに非常に素晴らしい印象派風の絵を描き そこから更なる表現の世界へと
カリカチュア風の絵を描く時代を経て キュービズムへと移っていきました。
ですから 印象派から出発したとも言えるわけです。

では なぜ 印象派風のスタイルからキュービズムへと 絵の描き方を変えたのでしょうか?
その間の カリカチュア風の絵の時代に試みていたのは
ごく単純な線で 人間の内面を表現するというものでした。
感情表現というものは 表現されているもの=外から見えるものです。
しかし 人間の心は 外から見えるでしょうか?
彼は感情表現として表現されていない 内面的な心のあり方を
なるべく切り詰めた線で表現したのです。
そして その後に出てきたのがキュービズムです。

そもそも キュービズムとは何なのでしょうか?
何を表現しているのでしょうか?
多くの人々が「訳が分からない」と捉えています。
しかし キュービズムというのは ごく簡単なことです。
私たち人間が 目に見ているものは 一つの方向からしか見ていません。
しかし 見えていない面も 同時に存在しています。仮に今 手のひらを見てみます。
すると 手の甲は見えません。しかし手の甲はちゃんと存在しています。
見えていなくても存在している それら全ての面を
絵という平面上に 一度に描き出したのがキュービズムなのです。
そして このようなものの見方は 人間の目での見方ではありません。
それは 「神の目」の見方なのです。

(しかし残念なことに キュービズムが何を表現しているのか分からない人たちが
「訳の分からない表現をするのが芸術だ」と勘違いをしてしまったのです。
それによって二十世紀の芸術は混乱してしまいました。
「自我」=「エゴ」の表現となってしまったのです。
勿論それはピカソの責任ではありませんが。)

ここまで見てきて分かることは フランス印象派からキュービズムに繋がる流れというのは
イギリスの前ラファエル派から大陸のアール・ヌーヴォーへの流れと同じく
「神の目」の復活だということです。
西洋絵画の流れが 今から五百年前に
フランダース写実主義からイタリア・ルネッサンスへと大きく転換し
「神の目」という視点を捨てて 「人間の目」という視点で絵を描くようになった
その流れを ルネッサンス以前に戻そうという
それが19世紀に入ってからヨーロッパ各地で起きたということです。

これは 1)産業革命によって 様々なものが機械化され 工業製品として生産されるようになり
心のこもった手作り品が少なくなったこと 
2)産業革命により より強力な武器が作られるようになったことから
戦争の規模が大きくなり 悲惨さが増していったこと 
3)産業革命により 工場で機械を相手に働く人が増え
道具を使う人間から 機械に使われる人間へと変わっていったこと
  4)フランス革命の後 帝政の復活と その前提としての(王権は神から与えられたものですから)
キリスト教の復活 という時代において
ではキリスト教は そういう時代の人々を幸せに出来るのか?という問い
それらから出てきたものなのでしょうか。

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おまけ (2)

⑧ 《レオナルド》・・・「宇宙の中の地球」

レオナルド(・ダ・ヴィンチ)は 印象派ではありません。
イタリア・ルネッサンスです。
しかし 彼が表現しているものは 印象派と重なり合っていますので あえてここに加えておきます。

ルーヴル美術館(本当は美術館というよりも博物館ですけれども)には 「モナリザ」があります。
「ジョコンダ婦人」とも言われている絵で これが世界で一番有名な絵画作品なのだそうです。
ですから ルーヴルに行く人は とりあえずは「モナリザ」を見ます。
しかし 実際には見ている人はほとんどいません。ほとんどの人は 写真を撮るだけです。
ですので 近くに寄れないようになっています。つまり 近くでは見られないようになっています。
防弾ガラスに覆われ 木の手摺のような柵がその前にあり
更にその前に仕切りがありますので 5mほど離れたところから見ることになります。
見る人がいないという前提の展示の仕方なのです。
しかしそれはまた「見せない」という展示の仕方でもあります。なぜ見せないのでしょうか?
その距離から見ても 一目見て そこに展示されている「モナリザ」は 偽物だと分かります。
なぜ偽物だと分かるのでしょうか?

ルーヴルにはもう一点 レオナルドの傑作「聖アンナと聖母子」があります。
こちらと見比べてみると 「モナリザ」がレオナルドの手によるものではないことが分かります。
「モナリザ」の絵からは レオナルドのエネルギーが出ていません。
そこから出ているのは「本物のとおりに模写しないと」という 模写した人の気持ちです。

模写ではあっても この絵に表されているものは何なのか 分かるのは以下の点です。
1)この絵は ジョコンダ夫人の肖像画ではなく レオナルドの自画像である。
なので 女性らしさがほとんど表されていない。
2)レオナルドは 地球に来る前には他の天体に居た(地球外生命体であった)。
なので 眉毛が無い。かつ 中性的に描かれている。
3)服の胸元の刺繍の模様が (何らかの効果をもたらす)図形となっている。

ルーヴルの「モナリザ」の絵からは レオナルドのエネルギーが出ていませんので
ここでは「聖アンナと聖母子」の印象について記しておきます。

聖アンナは聖母マリアの母親です。
この絵は 子羊と遊んでいる幼児イエスを見守り聖母マリアと
その聖母マリアを見守る聖アンナの姿が描かれています。
ルネッサンスの特色である ぼけた輪郭線/ぼけた背景による遠近感/三角の構図
これらにより いかにもルネッサンス的な絵画となっています。
しかし その中でよく見ると いくつかおかしな点に気付きます。

まず 聖母マリアの後ろにいる聖アンナの顔の方が 聖母マリアの顔よりも大きく描かれています。
顔だけではありません。聖母マリアは聖アンナの上に腰掛けていて
聖アンナの身体の方が明らかに大きく描かれています。
どうして聖アンナの方がこんなに大きいのでしょうか?
やや違和感があります。
そしてもう一点 幼児イエスは子羊と遊んでいるのでしょうか?
遊んでいるというよりは 足で押さえつけ 手は角をつかみ いじめているように見えます。
そのイエスに対して 聖母マリアは イエスのしていることを止めようとしているように見えます。
その聖母マリアの優しい顔に対して イエスの顔は「何がいけないの?」と やや反抗的にも見えます。

もう一点興味深いのは 肌の色です。
聖母マリアは明るい肌の色ですけれども 聖アンナは暗い色で イエスもまた白い肌ではありません。
そして ルネッサンスの特色の一つとなった 「ぼかし(スフマート)」が
画面のいたるところで使われてはいますけれども 場所によってぼかし方が違っています。
特に イエスの顔はぼけています。
(ちなみに この作品は一般的には「未完」だとされているようです。)
これはどうしてなのでしょうか?

こういったことを見ながらも 絵の前に立っていると 伝わってくるものがあります。
それは「宇宙」です。「宇宙の中の地球」です。

この絵は 宇宙の中の地球を表しているようです。
背景と 手前の三人のいる場所の描き方からそれが伝わってきます。
そして三人の人物像は その肌の色の違いから
聖アンナは黄色人種を 聖母マリアは白色人種を イエスは黒色人種を表しているように見えます。
しかし同時に この三人の姿は
聖アンナが太陽を 聖母マリアが地球を イエスが月を表しているようにも受け取れます。

そして更に 子羊をいじめている幼児イエスと それを止めようとしている聖母マリア
その二人を慈愛の表情で見守る聖アンナは
地球上の動植物を痛めつける人類と(景色の潤いの無さにもそれが出ています)
それを気遣う地球意識そしてそれらを見守る太陽意識のようにも受け取れます。
このように 幾つかの意味が重なり合わされて
「宇宙」というものが表現されているように受け取れます。
宇宙の中の地球。宇宙の中の人類。宇宙の中の生命。

これが 輪郭線がぼけている理由なのです。
輪郭線をはっきりくっきり描くと 特定のものしか表現できません。
輪郭線をぼかすことによって 特定の一つのものではなく 抽象的に表現できるのです。

私たちは なぜ この地球上に生まれ 生きているのだろう?
そもそも 生命というものは なぜ存在しているのだろう?
私たちの存在を見守る何かがあるのだろうか?

絵というものは 問いかけでもあるのです。
作品を作るということは そこに作者の「悟り」が籠められているのです。
そしてその「悟り」が 見る人への問いかけにもなっているのです。
「あなたは何を悟っていますか?」という。
その人の悟りに応じたものしか 人は受け取ることが出来ないのです。

私たちは 日々の生活の中で 一体どのくらい
「宇宙の中での存在」ということを自覚しているでしょうか?
地球に育まれ 太陽に生かされていることを自覚しているでしょうか?

レオナルドに関して このような逸話があります。
ある時 彼は教会の中で絵を描いていました。
その日の仕事を終えて家に帰ろうとすると その教会の司祭さんが彼に言いました。
「あなたは 絵を描いている時間よりも 居眠りしている時間の方が多いですね。」 
それに対してレオナルドはこう答えました。
「ええそうですね。その時間の方が 沢山の仕事をしているのです。」

このレオナルドの言葉の意味が分からない人には 彼がその作品によって
何を表現し伝えようとしたのかが 理解できないかもしれません。
そして そのことが分からない学者たちが 美術の解説を書くのです。
天才を 凡才の世界に引きずり降ろしていることに気付かずに。

ルーヴルには 膨大な数の作品がありますので 西洋美術の流れが分かるように展示されています。
イタリア絵画を見ていると 宗教画ではあっても 安っぽい表情の絵が多いことに気付きます。
そういう絵画が主流だったイタリアにおいて レオナルドの画風は 際立って違うものであり
それがその当時のイタリアにおいて受け入れられたということは 意外でもあります。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 


「絵を見る」ということは 単に目で見るという行為だけではありません。
その絵画作品の前に立つことによって その絵から発散されている
 その絵にこめられた作者の「気持ち」というエネルギーを受け取っているのです。
ですから 絵の前に立つときには「チャクラ全開」が条件なのです。
ほとんどの学者さんたちには このことが分かっていませんから
重箱の隅をつつくよう絵の見方しか出来ないのです。
そして何の本質も突いていない解説(もどき)の文章を書くのです。

ですから この文章をご覧になって下さった皆さんも
ではどんな絵なのかとインターネットで画像を検索してそれを見ても
この文章に書かれたものを感じ取ることは出来ないと思います。



(2014/08/06)


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