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真のキリスト者とは

《幸也の世界へようこそ》《幸也の言葉》《祈りの言葉》 → 《真のキリスト者とは》


ヨーロッパはキリスト教社会です。
そして ヨーロッパ諸国の植民地となった南アメリカ大陸やアジアも 
ヨーロッパ人によって作られた国アメリカも キリスト教社会となりました。
キリスト教は大きく三つに分けられますが(ローマカトリック/正教/プロテスタント)
今は全世界で 
カトリック信者が10億8千万人 
正教信者が2億2千万人 
プロテスタント信者が3億5千万人 
その他の教派3億9千万人 
計20億4千万人とされています。

キリスト教とは 
ナザレのイエスをキリスト(救い主)と信じ
彼が 神の国の福音を説き 罪深き全人類を救済するために十字架にかけられ その後復活したことを信じ
三位一体(父なる神/その一人子イエス/聖霊)を神として信仰する宗教です。
ですから キリスト教徒とは それをしている人々のことです。

しかし 本当のところ何がイエス・キリストの教えだったのでしょうか?
それを知るには キリスト教の聖典とされている聖書を参照することになります。
聖書は「旧約」と「新約」とに分かれています。
「約」という字が付くのは 「神との契約」だからです。
「旧約」は イエスが生まれるまでのことを
「新約」は イエスが生まれて以後のことを記したものです。
しかしながら 非キリスト教信者にとって分かりにくいのは
イエス以前のことを記したものが なぜキリスト教の聖典なのか? です。
イエス・キリストが生まれる前に書かれたものだったらば
そこには 彼の教えが書かれているはずがありません。
そこには「預言者たちが イエスの到来を予言したことが書かれている」から聖典なのだそうです。
「新約」の方は 四つの福音書と その他多数の手紙とで構成されており
しかし 四つの福音書というのはイエス・キリストの伝記(のようなもの)であり
イエス・キリスト自身が書いたものではりませんから
イエスが生まれてから死ぬまでのことが書かれてはいますが
イエス・キリストの言葉は それらの中のごく一部に ほんの僅かに記されているだけです。
また 四つの福音書の内容は ほぼ似通っていますのでイエスの言葉も重複しており 
実際にはイエス・キリストの言葉というのは 「新約」の中の全てを集めても
10ページに満たないものです。
その他のたくさんの手紙は いずれも初期キリスト教の信者集団に宛てられたもので
これらもイエス・キリストの文章ではありません。
ですから「新約」は聖典とされてはいますが 
本当にイエス・キリストが何を説いたのかを知るには
「手がかりになる」という程度のものかもしれません。

そういう 僅かにしか残されていないイエス・キリストの言葉に対して
キリスト教カトリックは 実にたくさんの教義を打ち立ててきました。
新約聖書は 4世紀後半にカトリックが編纂したものです。
イエスの死後350年ほどたってからのことです。
カトリックがローマ帝国の国教となり 
国教の聖典としてふさわしいものとして編纂されたのです。
その後 カトリックから分かれた正教とプロテスタントも
カトリックと同じ「新約」を使い続けています。
ということは 分かれたにしても (カトリックが編纂した)「新約」を
正典=聖典として認めているということになります。
(ということは 解釈の違いから分かれたということになります。)

しかしながら 非キリスト教徒にとってもう一つ分かりにくいのは
キリスト教と イエス・キリストの教えとの関係です。
なぜならば キリスト教の歴史を見てみると
実に多くの争いが起き 実に多くの殺し合いがあり 実に多くの破壊行為が行われました。
しかし それらはイエス・キリストの教えを実行したものなのでしょうか?
非キリスト教徒にとっては それらは当然
キリスト教徒がイエス・キリストの教えとして実行している と捉えるか
キリスト教徒はイエス・キリストの教えを守っていない と捉えるかのどちらかになるはずです。

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ヨーロッパの西暦(キリスト教暦)の二千年の歴史を見てみると
それはすなわち キリスト教の歴史です。
なぜならば ヨーロッパ=キリスト教社会だからです。
しかし そのヨーロッパの歴史というものは 戦いと略奪と破壊と殺戮の歴史でした。
封建制の世の中で 地主である地方領主も国王も「自分の利益」だけのために
領土の拡大を図って戦いをしました。
そして戦いにおいては 略奪と破壊と殺戮が行われました。
ヨーロッパの全ての人がカトリック信者だった
ということは 彼らは「キリストの教え」に従って生きていたのです。
ということは 「キリストの教え」に則ってそれらの戦いをしていたのでしょうか?

狩猟民族であるヨーロッパ人たちは
「狩猟」が基本ですから 「殺す」のも「取る」のも当たり前としてきました。
全ては 「自分の都合」で殺しても取ってもかまわないのです。
すなわち 「奪うこと」が当たり前なのです。
ですから ヨーロッパ人は 世の中全体を略奪社会にしました。
略奪するのが当たり前の世の中にしたのです。
自分たちの必要なものは自分たちの手で作り出すのではなく 取ってくるのです。
ということは 必ず 誰かが奪う人であり 誰かが奪われる人なのです。

そういうヨーロッパに広まったキリスト教は では
「奪う側」になったのでしょうか 「奪われる側」になったのでしょうか?
イエス・キリストの教えに則って・・・(のはずですが)
「奪う側」になったのです。
ヨーロッパの全ての人間が カトリック信者であり 全ての人は罪人であり
全ての人は教会に献金をしなければならず 収入の十分の一を教会に納め
更に 懺悔しては献金を納め 金持ちである程罪深いからたくさんの献金しなければならない
としてきました 
そして「略奪文化」を肯定し ヨーロッパ諸国の植民地主義を正当化しました。
人間=キリスト教徒であり カトリックに帰依しないのは人間では無い(=殺しても奴隷にしても良い)として 
ヨーロッパ諸国の植民地獲得競争の先鋒を切って「伝道」という名の植民地化にくり出したのです。

これらは全て イエス・キリストの教えに基づいてのことなのでしょうか?
非キリスト教徒にとっては これがキリスト教が分からない一番の理由なのではないでしょうか。。

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そして(当然のことながら)カトリック信者の中でも
それに疑問を持つ人たちがいました。
日本に来たイエズス会士の中で 「イエズス会の活動は世界各地の植民地化である」ことに気付いて
イエズス会から逃亡した人もいます。
スペインのイエズス会士で やはり同じことに気付き脱退したかった一人は
しかし脱退を許されず 職も奪われ 軟禁状態で余生を過ごしたことが 
その著書に書かれています。

あるいは「奪う側」と「奪われる側」以外の可能性をとった人たちもいます。
その可能性とは「自分たちの手で作り出す」ことです。
その一つが 修道院でした。
修道院は 自給自足の生活をしました。
「自分たちにとって必要なものは自分たちの手で作り出す」 という
当たり前のことをしたのです。
しかし 修道院は 自給自足の生活をしただけではありません。
膨大な蔵書を納める図書室を持ちました。
それらの蔵書は キリスト教関係のものだったのでしょうか?
そういうものもありました。しかしそれだけではありません。
本来はカトリックから「異端」と言われるものもあったのです。
それはすなわち 「イエス・キリストの本当の教え」でした。
カトリックが封印してしまった イエス・キリストの本当の教えを
隠れながらも学び 伝えようとしていたのです。

そして そういうことをした他の人々が 芸術家たちでした。
芸術家たちもまた 隠れて「イエス・キリストの本当の教え」を学んでいたのです。
それらの教えとは 錬金術に関わっているものもあり
中世の画家たちは自ら絵の具を作りましたので 必ず錬金術に関わっていました。
かつ 芸術家たちというのは 敏感な人々です。
感性に優れ また頭も良く 教養に富んでいる人々です。
彼らは 当然キリスト教の在り方に疑問を持っていました。
しかし それを公言することはできません。
公言はできなくても 何とか「真のイエス・キリストの教え」を人々に伝えたい。
そういう思いで芸術作品を作り出したのです。

聖書の中には ごく僅かしかイエスの言葉はありません。
その僅かな言葉の中で最も文章としてまとまっているのが「山上の垂訓」といわれるものです。
イエスが山の上で 集まった会衆に向かって説いた言葉です。
キリスト教のあり方に疑問を抱き 「イエス・キリストの本当の教え」を知りたいと望んでいた人たちは
この「山上の垂訓」にそれを見出したのです。
感性豊かな芸術家たちは この「山上の垂訓」にこそ イエス・キリストの本当の心を見出したのです。
これこそがイエス・キリストの本当の教えであることを理解したのです。
このイエスの言葉に魂を揺さぶられ 人生を転換させ まさに生まれ変わった人たちは
その感動を人々に分かち合いたいと思いました。
こうして 多くの作曲家たちが この「山上の垂訓」を元に楽曲を作りました。
画家たちは 絵画に描きました。

彼らは 感性が豊かであり 純粋な心を持っており そして理解力もまた豊かでした。
そして更には 「分かち合いたい」気持ちもまた豊かでした。

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「真のキリスト者」とは どういう人のことなのでしょうか?
聖職者ならば真のキリスト者なのでしょうか?
そうではないことは 歴史が証明しています。
足繁く礼拝に行く信者なのでしょうか?

画家のヴィンセント・ファン・ゴッホは 牧師になりたくて
ベルギーの炭鉱にある小さな教会に見習い牧師として赴任しました
しかし彼は正式の牧師にはなれませんでした。
なぜならば 彼が炭鉱労働者たちに余りにも献身的に尽くしたので
他の牧師の妬みをかったからです。
そして 牧師になる夢を経たれた彼は 画家となります。
しかし ゴッホが生きている間に売れた作品はたったの一点だけと言われています。
作品が売れないにも関わらず 彼はひたすらに描き続けました。
なぜ描き続けたのでしょうか?
彼はその作品で 何を表現したかったのでしょうか?

彼はこういう言葉を残しています。
「芸術の表現するものはたった三つしか無い。
それは 神そのものの存在か 神の思いか 神の創ったものの美しさである。」
絵が売れるかどうかではないのです。
ただひたすらにこれを表現したかったのです。

あるいは 作曲家のルードヴィッヒ・ファン・ベートーベンは言いました。
「神性の輝きを音にして 全人類に注ぎかけること以上に美しいことは無い。」
「多くの人びとに幸せを与えること以上に 崇高で素晴らしいものはない。」
「私は人類のために 甘美な酒をもたらすバッカスだ。」

作曲家イゴル・ストラヴィンスキーは言いました。
「もし私に音楽の才能があるとするならば それは神から与えられた神聖なものであり
多くの人々のために役立てるべきものである。」

作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハは言いました。
「音楽の究極の目的は 神の栄光を表し 魂を浄化することである。」

彼らは 例外なく「神」を実感し
自らが作り出した作品と触れ合う人々の人生が幸せになることを願って
創作をしていたのです。

それはすなわち マザー・テレサが残したこの言葉の通りです。
「あなたのところに来た人たちを 誰一人として それ以前よりも幸せにせずに立ち去らせてはなりません。」

どこかの教会に属している人が「真のキリスト者」なのでしょうか?
毎週教会に通っている人が「真のキリスト者」なのでしょうか?
教会に献金している人だけが「真のキリスト者」なのでしょうか?
聖職者たちは皆「真のキリスト者」なのでしょうか?

偉大な芸術家たちは 彼らの作品に触れ合った人々が 
より幸せに より美しい人生を生きていけるように
その切っ掛けとなり その導きとなるようにと創作をしていたのです。
その思いのみで生きることによって 作品にその思いをこめることができたのです。
そういう彼らこそが 「真のキリスト者」です。
彼ら偉大な芸術家たちこそが 本当のイエス・キリストの思いを 教えを受け取り
それを実践して生きていたのです。
そして それを多くの人々に分かち合ってきたのです。
そして 私たちは彼らのなしたことによって 「真のキリスト者」としての生き方を学べるのです。

本当の聖職者とは 人々の心を美しくし 人生を美しくし 世の中を美しくする人たちです。
つまり 真の聖職者とは 美しいものを生み出す芸術家なのです。
聖職者=芸術家 であるからこそ 芸術家=聖職者 なのです。
「自分の人生」を生きようとするのではなく 「祈りと奉仕の人生」を生きているのです。
そういう彼らの生き方を知り 残した作品に触れ合うことによって
キリスト教がこの二千年間にしてきたことがどういうことであれ
私たちは 一人ひとりが 今この瞬間に 「真のキリスト者」として生きることを選べるのです。



(2019年5月5日))




祈りの言葉
幸せ色の空気 幸せの波動 感動の時代へ向けて
分かち合いの時代に向けて 新年を 新世紀を
地球上で迎えられる皆様へ
2001年末にあたって
2002年のクリスマスに 2003年に 2004年の終わりに
そして2005年の初めに
宇宙とは 「癒し」とは 芸術の目的
生きるコツ ものごとを理解するコツ 真のキリスト者とは


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