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ポール・デルヴォー

《幸也の世界へようこそ》《幸也の書庫》《絵画を見る目・感じる心》 → 《ポール・デルヴォー》



20世紀のベルギーのシュルレアリスム画家の代表者とされているのが
ポール・デルヴォーとルネ・マグリットです。
しかし マグリットは表面的なシュルレアリスムであり
それに対してデルヴォーの方は中身がシュルレアリスムです。
それなのになぜか美術界での扱いにかなりの差があります。
マグリットの方はブリュッセルの王立美術館の別館として「マグリット美術館」が開設されました。
しかし デルヴォーにはそういうものはブリュッセルにはありません。
なぜそのように扱われ方が違うのでしょうか?
それはすなわち「理解のされ方」が違うからです。
まさにシュルレアリスムであるデルヴォーの作品は
それが一体何を表しているのかが ごく少数の人にしか分かりません。
それに対して マグリットの作品はそもそも「意味」はありませんので 表面的な見方だけで充分です。
「変わってるね=奇妙だね」だけですむのです。
しかし デルヴォーの作品に表現されているものは もっとずっと深いものであり
それを受け取れる人は少ないのです。
デルヴォーという姓は アルデンヌ地方のものです。
ベルギーのアルデンヌ地方とフランスの北の端に集中している姓で「谷」を意味しています。
その名のとおりにデルヴォーの表現は深いのです。
1897年の世紀末に生まれ 20世紀の初めに育ち 思春期に第一次世界大戦を経験した彼は
ブリュッセルの美術学校でマグリットと同期生でした。
1930年代半ばに ジョルジョ・キリコの絵を見てシュルレアリスムに目覚めた点では共通していますが
しかし その後二人は全く違った道を歩みます。

デルヴォーの作品を見ますと
☆幻想的 ☆鉄道 ☆同じ女性 ☆向こうを向いて立っている少女 ☆真っ直ぐな道
といった「決まりごと」が描かれています。
それらは一体何を意味しているのでしょうか?

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「道と路面電車」《La rue aux tramways》1946年

Delvaux_rue aux tramways_1946.jpg(59803 byte)
こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

デルヴォーは少年の頃に出現した路面電車に心を奪われました。
そしてその後は鉄道に惹かれました。
乗り物が好きだったのでしょうか?
しかし 船や飛行機や自動車は彼の作品に描かれていません。
あくまでも鉄道です。すなわち「線路の上を走るもの」です。
「線路の上を走る」=「通るべきところが決まっている」ものです。
私たちの人生は 通るべきところが決まっているのです。
人生の線路が敷かれているのです。
「自由」などという言葉があり 人々は自由に生きて良いんだなとと言いますが
しかし人間は自由に生きることはできません。
自分の顔でさえ自由に変えられないからこそ化粧をするのです。
この世の中で貨幣を使わずに生活できるでしょうか?
どうして 空を飛ぶのに自分で飛ばずに飛行機を使うのでしょうか?
「腕が三本あったらな」と思っても そうできるでしょうか?
自由ではないのです。
そして 肉体を持った自分の力ではどうしようもない
大きな力でもって人生は動かされています。
そういったものの象徴が鉄道なのです。

そしてだからこそ 線路と同様に道も真っ直ぐです。(次の絵で見られます)
くねくね曲がった線路などありません。

つまり 鉄道も真っ直ぐな道も デルヴォーの人生観の表れだと言えます。


「孤独」《Solitude》1955年

Delvaux_lsolitude_1955.jpg(102603 byte)
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向こうを向いて立っている少女は「私」です。
「私」とはデルヴォーのことではありません。
誰にとってもの「私」です。ですから今この絵を見ている「あなた」が「私」です。
そもそも デルヴォーの絵は 彼自身を表しているよりも「普遍性」の表れです。
(素晴しい芸術作品というものは基本的には「普遍性」の表現です。)

芸術というものは表現です。
しかし 何のために何をどうやって表現するのでしょうか?
それは それぞれの作者=芸術家によって違います。
例えば 中世ヨーロッパの宗教画では
何のために=キリスト教を人々に伝えるために
何を=聖書の場面を あるいは 聖人の人生の場面を など
どうやって=写実的な絵画として というように。

しかし 宗教画であれ風景画であれ肖像画であれ静物画であれ どんなジャンルの作品であっても
「素晴しい」と感じられるものと そうで無いものとがあります。
その違いは何なのでしょうか?
それが「普遍性の表れ」なのです。
普遍性が表現されているものに「素晴しさ」を感じます。
逆にそれが表れていないものには素晴しさは感じません。
そして その「普遍性」というのは 「一体感」でもあります。
すなわち 「個」の表現 作者の「自分が」という意識が
強く出ているものには 素晴しさは感じないのです。
普遍性も一体感も感じられないからです。
(それに反応して 特定の人たちが惹かれることはありますが。
それを「人気」と言います。
普遍性にでは無く 人の気に引かれて集まるということです。)
日本の文学には 「自小説」という分野がありますが あれも
作者が「自分の人生」というものを描いてはいますが
しかしそこには個人の体験を超えた「普遍性」というものが表現されています。

そして その「普遍性」というものをどこまで認識できているのかが その人の「悟り」なのです。
ものごとをどの位遠くまで見ることができるか どの位広く見ることができるか その認識力が
すなわち「悟り」へと繋がっていきます。
簡単に言えば 自分のことしか考えられない「自己中心」の人は
普遍的で無い 悟っていない ということです。
そういう人の言うことに感動するでしょうか?
芸術も同様です。作者の悟りの境地がそれぞれの作品に表れています。

デルヴォーの作品には「普遍性」というものが表現されています。
この場面を見ている普遍的な存在としての「私」がこの少女なのです。

この絵には「孤独」という題が付けられています。
「孤独」という言葉は 本来は「一人でいる」という状態を表しているのですが
一般的には「一人でいて寂しい」という感情がこめられて言われることが多いようです。
しかし この絵の場合はどうでしょうか?
この絵には「孤独感=寂しさ」というものは表れているでしょうか?
たんに「一人でいる状態」が描かれているだけです。
この絵は「夜の列車」というシリーズの一枚です。
ですから夜の情景です。列車は止まっています。
「私」は満月と向かい合って立ち 月明かりに照らされたその情景を見ています。
「私」は今 この情景を見ています。
しかし 他の場所にいる「私」は違う情景を見ています。
同じあの満月の光に照らされている情景を。
地球上の様々な場において それぞれの「私」がそれぞれの体験をしそれぞれの人生を生きています。
宇宙とは その経験の集合体です。
宇宙一人では体験できることは僅かです。
ですから 宇宙の中のそれぞれの部分を独立させて様々な体験をさせ それを共有しているのです。
人間が本を読んだり映画やテレビを見て「他人はこういう経験をしているんだ」
と知ることが出来る それと同じようなことです。
そういう それぞれの場においてそれぞれの人生を生きている
そのことになぜ「寂しさ」を感じなければならないのでしょうか?
この絵には「寂しさ」は表現されていません。たんに「一人でいる」だけです。
月は 地上のそういう個々の人間の生の営みを見守り 照らし続けています。
それぞれの人が その人の人生の一場面を見ている 体験している という「普遍性」を
この「孤独(=一人でいる)」という絵から感じ取れるのではないでしょうか。


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【ポール・デルヴォーとジュル・ヴェルヌ】
デルヴォーはヴェルヌに傾倒していました。
ですので ヴェルヌの作品が絵画に取り入れられていたり
作風が共通している点があります。
☆ デルヴォーの作品の幾つかに
ヴェルヌの「地球の中心への旅」(和訳名「地底旅行」として知られています)の
主人公であるリーデンブロック教授の姿が描かれています。
(ヴェルヌの作品の多くは 文字だけの書籍と 
豊富な挿絵を入れた美しい装丁の豪華本との二種類が作られました。
その挿絵に描かれている姿を借りてきています)
☆ ヴェルヌの作品では 「わたし」が語る形式を取っています。
デルヴォーの作品も「わたし」が見ている情景です。
しかしそれは 「私」が見たものを語ってはいても 
それを「(読者や鑑賞差である)私たち」に見せることによって 
「わたし」の視点=「私たち」の視点となっています。
☆ ヴェルヌの作品は 「SFのはしり」と言われました。
「サイエンス・フィクション=科学空想小説」です。
その当時の最新の科学技術と共に 将来発明されるであろう物も登場します。
あるいは「地球の中心への旅」(「地底旅行」)では
地球空洞説を取って地球内部の様子を描写し 
あるいは「海底二万里」では深海の様子を描写し というように 
その当時の「現実世界」とは違う世界を描き出しています。
デルボーも 一般の人々が「これが現実社会」だと思っているのとは
違う世界を描き出しています。
しかし それは空想の世界ではなく「本当の現実の世界」なのです。
デルヴォーもヴェルヌもそのような共通した信念で それらの世界を描き出しています。
☆ ヴェルヌの作品は 女性は(ほとんど)出てきません。
彼の三大代表作の内 「二年間の休暇(和訳名「十五少年漂流記」)は
和訳名の通り少年だけが出てきます。
「海底二万里」にも女性は全く出てきません。
「地球の中心への旅」(「地底旅行」)では
語り手である「わたし」の婚約者が 最初と最後とにほんの僅かに出てくるだけです。
それに対して デルヴォーの作品には 男性がほとんど描かれていません。
女性ばかりの世界です。
このように ほとんど単性の世界を描いていることも共通しています。

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「影」《Ombres》1965年

Delvaux_ombres_1965.jpg(51788 byte)
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デルヴォーの母親は威圧的でした。
そういう母親に育てられたために 彼は女性と接するのが苦手になりました。
(しかし独身を通したわけではありません。二度結婚しています。)
ですので 彼の絵に描かれている女性は 生身のモデルではなくて人形です。
ですから どの女性も同じ顔で同じ体型です。
そして 彼の中で「女性性」や「男性性」に対する観念や感覚が育っていきました。
「女性性とは何か」「男性性とは何か」を考えるようになったとも言えます。
デルヴォー自身は 女性性の強い男性です。
それは すごく男性的な男性よりもバランスが取れているということでもあります。
そしてそれが 彼の絵に「普遍性」を表現させることに繋がるのです。

彼の作品の中で 全ての女性像は人形を描いていますが
ですから「生身の」感じがしません。
いつも同じ顔です。表情はありません。
そして 裸体で描かれていることがしばしばです。
乳房を露(あらわ)にしている姿も多く登場します。

人間としてこの世で生きるには すなわち
「魂」がこの世=物質世界で生きるためには
「肉体」という物質的な入れ物に入る必要があります。
肉体が「私」「自分」なのではありません。肉体は入れ物です。
「魂」の方が「私」「自分」です。
そして 誰でもが 裸で生まれてきます。
そして 本当は誰でもが生まれてきたときと同じように素直に自然に生きて良いはずです。
「この世」の社会での決まりごとに縛られて生きるのが 自然な生き方なのでしょうか?
貨幣経済に縛られて 収入を得るために働いて生きるのが自然なのでしょうか?
「あの世」から見たらば「この世」はしがらみだらけです。
でも そういう世の中でしがらみだらけの生き方をするために生まれてきたのでしょうか?

この地上での世の中は 数千年前から「男性性」の世の中になりました。
特に20世紀がそうです。20世紀は 欧米=白人が世界を支配しました。
その欧米=白人社会というものが 「男性性」の社会なのです。
「女性性」=生命力/調和/柔らかさ/曲線
「男性性」=肉体力(暴力・武力)/競争/固さ/直線
欧米=白人主導の世の中は 暴力や武力を用いた弱肉強食の世の中です。
そして 20世紀後半には どんどん女性が男性化していきました。
つまり 男性性が異常に強く バランスが崩れているのです。

私たちの人生は「この世」のものだけではありません。
「あの世」から一時的に「この世」に来ています。
「あの世」という普通の世界から 「この世」という特殊な世界へ来ています。
「肉体は魂の入れ物に過ぎない」「誰もが裸で生まれてくる」
「生まれてきたそのままで生きていいんだ」「男性性と同じように女性性を表していいんだ」
デルヴォーの絵の中の人形を描いた(裸の)女性の姿から
そういうことが表現されているのを感じ取れるのではないでしょうか。

さて この絵には「影」という題が付けられています。
画面中央に 木の影が描かれています。
「私」は海岸にいます。桟橋の上なのに室内か列車の中のようです。
左側の線路は 海に入る前で止まっています。
向こうには 海と空とが描かれています。
その海と空とで表されている「向こう」が「夢の世界」であり「あの世」です。
手前の「私」がいるところは「現実」或いは「この世」です。
人生の線路は この世のものであの世には繋がっていません。
しかし 「私」がいる桟橋は その上を歩いていけば「あの世」にまで行けそうです。
私たちの本体である魂は あの世に戻るのです。
そして 「あの世」という私たちの本来の世界がすなわち「霊界」とも言われていますが
「宇宙のエネルギー」で満たされているところです。
その「あの世」からの光で「この世」の全ての存在は照らされています。


「トンネル」《Le Tunnel》1978年

Paul Delvaux_Le Tunnel_1978)
こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒

いつも向こうを向いて立っていた(=顔を見せなかった)少女が
とうとうその前面を表しました。
しかし 鏡に映っての姿です。
その左の女性は 画面の中で最も大きい姿です。
そして 鏡の中の少女に何かを紹介しているような
少女に何か説明しているかのような仕草に見えます。
右の方の女性たちは 例によって それぞればらばらな感じですが
一番右端の女性は 生身の人間としてではなく
彫刻かのように描かれている感じがします。
奥の方にもポツリポツリと人が描かれていますが
舞台に乗っているように見えます。
題名となっているトンネルは 画面の真中に描かれています。
この絵は一体何を表しているのでしょうか?

鏡に映っている少女が「私」です。
(すでに見てきたように 一人の「私」ではなくて 誰にとってもの「私」です。)
「私」は 今から「この世」に生まれていきます。
(「あの世」から見れば「この世」が「あの世」で 「あの世」が「この世」なのですが。)
その左側の女性は 「私」の守護霊です。
「この世」に生まれるということを説明しているのです。
そして 「この世」に生まれてから 人生の道を歩んで行きます。
様々な人生の場面を生きていきます。
(つまりどの人物も「私」です。)
「人生」とは それぞれの「私」を主役とした舞台の上での演劇なのです。
いつでも「私」が主役です。
肉体は 「私」が「この世」で生きるに当たっての
入れ物/乗り物/衣装のようなものです。

「あの世」と「この世」とを結ぶのが「トンネル」です。
誰もがその「トンネル」を通ります。
「この世」という舞台への通り道がトンネルなのです。
この「トンネル」という絵は 
誰もがそこを通ってきたんだということを
思い出すためのものなのです。

デルヴォーが80歳を過ぎてから描いたこの作品が
彼の人生の集大成であり すなわち彼の悟りの境地であり
彼が絵画で表現し人々に伝えたかったこと すなわち
「ポール・デルヴォー」という個の表現ではない
宇宙の中での地上での人間の生き方の普遍性の表れなのです。


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