モデルになり合う
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(この項は《 快感と感動 》から続いています)
私達人間も そして他の動物も
共通した性行パターンを持っています。
その内の一つとして
目に見たもの 耳に聞いたものを模倣するということが挙げられます。
特に 人間においては
日常生活で得ている情報のほとんどが視覚から入ってくるものです。
私達は 「見る」という行為によって 沢山の情報を得ています。
そして 「見る」という行為によって 物事を判断しています。
動物の子が その親の行動を真似するのは周知のことです。
それによって 犬は犬らしくなり 猫は猫らしくなり 鶏は鶏らしくなる訳です。
あるいは 特定の鳥の種類では 雛が卵から孵って
まず最初に目にしたものを親だと思い込む という習性があります。
これは人間でも同様で
「子は親の鏡」という諺が伝えているように
子供は 親の行動を真似て育っていきます。
と言うよりも 「そういうもんだ」と思って育っていきます。
ただし 実際には 親の子への影響は 行動よりも 観念の方が大きく
(行動は観念の具体化したのもだからですが)
親が(自覚していなくても)何を考えて生きているかが
子供に以心伝心で伝わっていき
それを子供は矢張り 「それが当然のこと」として
その親の観念のとおりに行動するようになります。
なぜならば
子と親とは一体だからです。
一つのものだからです。
あるいは別の表現をすると
そういう空気の中で育っているから
それを当然だと思って育つ ということです。
ですから 子育てにおいて
何よりも大切なことの一つが
子供は何かを教えられて育つのでは無い ということです。
「学ぶ」という言葉が 「真似る」から来ているように
育っていく中で 身の周りにあるもの 目の前にあるもの 耳にするものを
吸収し 真似て育っていきます。
だからこそ 両親の話している言語を話せるように成る訳ですし
逆に 耳にしたことの無い他の言語は話せるようにはならない訳です。
そして 子どもの頃に真似て身に付けたものは
成長してからも癖として 性向として 繰り返し続けることになります。
何でも 上達の基本の一つが 繰り返しです。
ということは 癖であっても 繰り返しによってより上達する
つまり その癖 あるいは無意識の行動がより強化されることになります。
ですから
子供が親の行動を真似て育つということは
親が 子供に望まないこと・してほしくないことは自らしない自覚が大切になります。
そして 子供にしてほしいことは 自ら実践することが大切になります。
あるいは 幼児ではなくても もっと大きくなってからでも
人は 見ることによって容易に行動を真似ることが出来ます。
何かの行為を 言葉で説明しても なかなか理解してもらえないようなことでも
絵や図で示すと あるいは目の前で行動で示すと
簡単に理解され そして実行できるようになります。
かつ この時 視覚的な情報を受け取る時には
言葉は使っていません。
ただ 見ているだけです。
けれども それによって新たに物事が出来るようになることがしばしばあります。
ということは
他人に何かの情報が伝わる時
言葉での伝達も可能ではありますが
言葉を使わない伝達の方が より効率が良いことになります。
あるいはこれは
聴覚的なことでも同様です。
たとえば どういう音をどういう響きで発音するのかを
言葉で説明するよりも
実際にその発音を目の前でして見せた方が 相手により早く確実に伝わります。
つまり
身体の動きに関することや 感覚的なことは
言葉での説明では無い伝達の仕方の方が効率良い
と言えるかと思います。
言葉とは 記号であり 符号であり
つまり 何らかの概念を記号化したものであり
記号であるからは 伝えられる内容が限られてしまいます。
イメージがアナログなのに対して
言葉はデジタルだとも言えるかと思います。
だからこそ 言葉での伝達は 不完全・不十分なものになり易い訳です。
さて
子育てにおいて 子は親の行動を真似て育つ訳ですが
そして だからこそ 親は子どもに望むことは自らも実践し
望まないことは 自らもしない という心掛けが大切な訳です。
では 大人が相手の場合はどうなのでしょうか?
私達は しばしば 大人には
「話せば分かる」と思いがちです。
でも 実際はどうでしょうか?
話せば分かってもらえるのでしょうか?
基本的に 相手が子供であれ大人であれ
人間関係は 同じです。
行動に関して
あるいは 五感に関わる感覚的なことは
言葉での説明よりも
そのものを実際に目の前で示した方が 確実に効率良く相手に伝わります。
けれども 相手が子供の場合と大人の場合とでは
二点 大きな違いがあります。
その一つは
「理解力が違う」ということです。
大人は様々な経験から 物事を早く理解することが出来ます。
つまり 自分自身の経験から 「これはこうすれば良いんだ」と
理解することが出来ます。
ただし この場合は その理解に言葉が関わっています。
もう一つの違いは
大人の場合には しばしば
「観念」あるいは「エゴ」が理解の邪魔をする ということです。
人間は その人自身の観念でもって生きています。
その人の観念でもって 物事をどう受け止めるか
どう受け入れるか どう感じるかが違ってきます。
つまり 観念が 物事を受け入れる入り口でフィルターになっていて
その観念を通ったものがその人に入ってきて
観念を通らないものは入ってきませんし
あるいは 違った形で入ってくることになります。
色眼鏡と言っても良いかもしれません。
赤いフィルターは 赤い色として光を通します。
青いフィルターは 青い色として光を通します。
そのように ある特定の観念が その観念のようにしか外の物事を受け入れない
フィルターになっています。
そして その観念の中でも
特に硬いのが エゴ=自我 です。
エゴ=自我 というのは その字のように 自分+我 です。
つまり 宇宙の中の一つの存在として自分自身を捉えているのでは無く
「自分」しか無いと思い込んでいる状態 あるいは
宇宙から自分自身を切り離そうとして
「自己」という枠の中に自分自身を押し込めようとしている状態です。
ですので 自我の強い人は
強力なフィルターを使っているのと同じことですから
当然 その人に入っていくものはとても少なくなります。
そして とても限定されたものになります。
ということは
他人が言葉で説明しても
あるいは ある行為を目の前で実行して見せても
受け取れるものがすごく少なくなります。
ですから 幾ら沢山の経験をしていても
その経験にこだわっていたならば
それ以外のやり方なり可能性なりに心を開けないことになってしまいます。
それに対して
子供は 自我がまだ少ないですから
目にするもの 耳にするものを そのままに受け取ります。
このように
子供と大人とでは 違いがありますが
基本的には 言葉での説明よりも
実際に行為で示した方が 正確に確実に早く相手に伝わることが
しばしばあります。
その時に
大人の方が 子供よりも有利な点は
大人は その行為のポイントに着目することが容易なのに対して
子供場合はそうでは無い ということです。
これは 子供には 時間の感覚や 距離の感覚がまだ
発達していないのと共通していることですが
子供には 目の前にあるものの全てと等距離ですから
何に着目すれば上達が早いか という捉え方は出来ません。
それに対して 大人の場合は
時間や距離といった この世的・地上的な感覚が発達していますから
ある一点に着目することが容易になり
つまり 何がその行為の中でポイントとなるのかを捉え易くなります。
具体的な行為や 感覚的なことは
以上のように 言葉では無い伝達が 効率良い訳ですが
では 目に見えない 心の動きは どうやったら伝わるのでしょうか?
先に触れたように
親の観念は 子供に以心伝心で伝わっていきます。
けれども 大人の場合は 以心伝心で伝わることよりも
伝わらないことの方が多いようです。
なぜならば 先述したように 大人には 自我が大きいことがしばしばあるからです。
あるいは思い込みが大きいことがしばしばあるからです。
それら 自我や思い込みがフィルターとなって
他人の思い・気持ちなどを そのままに素直に受け取る邪魔をしてしまっていることが
多いのではないでしょうか。
それは 大人から大人への伝達の際に
相手のエゴ=自我や 観念・思い込みなどを考慮しないと
伝えたいことが伝わらない 伝えられない ということでもあります。
たとえば こちらが白い光を発していても
相手が赤いフィルターを通して受け取っていたら
相手が受け取るのは白ではなく赤です。
そして ただ赤として受け取るだけではなく
こちらが白い光では無く 赤い光を発しているのだと相手は思います。
「だから自分は赤を感じているんだ」と思う訳です。
これが 「相手のせいにする」 ということです。
本当は その人自身の受け取り方に原因があるにもかかわらず
それを自覚していないからこそ
その原因は相手にあるんだ と思う訳です。
ここで 相手の何かを伝達する時に
相手の自我=エゴや 観念・思い込み等を考慮しつつ
つまり 相手がどうやって受け取るかを考慮しつつ発信した方が良いのか
それとも それにこだわらずに伝えたい内容を発信し続けた方が良いのか
という選択肢が現れます。
もしも 相手の自我=エゴや 思い込み・観念等を
本当に分かることが出来れば
それを考慮しつつ発信することが可能かもしれません。
しかし それは出来るでしょうか?
これは相手の心をすっかり読める・感じ取れるかどうか という問いです。
もしそれが出来ないのであれば
もう一つの選択をすることになります。
つまり 相手がどうであれ 自分は
それに合わせること無しに ある情報を発信し続ける という選択です。
人間関係というのは
常に お互いに 何かを影響させ合っています。
自分が発信した何かが 相手に影響を与える。
相手の発信した何かから 影響を受ける。
あるいは 自分の発信した何かを 相手の受け取り方で受け取る。
相手の発信しているものを 自分の受け取り方で受け取る。
そして 発信も 自覚しているものと 自覚していないものとがあります。
しかし いずれにせよ
人間関係とは 影響し合う関係です。
では 私達は一体 何を影響させ合いたいのでしょうか?
何を発信して なにを受け取ってほしいのでしょうか?
残念なことに 多くの人がこのことを自覚せずに
日々の生活を送っています。
「自分は一体何を発信したいのか?」「自分は何を発信しているのか?」
「他人にどういう影響を与えたいのか?」
ということを考えずに生きています。
そういう日常生活の中で しかしながら沢山の
意図しない影響 望まない影響を他人に与えてしまっています。
全ての生命が持っている根源的な思いは
「幸せに生きたい」思いではないでしょうか。
ということは 私達がその日常生活において
人間関係で何を伝達し合いたいのか
どういう影響を与え合いたいのか
その答えは その全ての生命の根源的な思い=「幸せに生きたい」思いに合致するものであるか
つまり 幸せに生きることに繋がるかどうかから
導き出されてくることになります。
誰もが幸せに生きたい その思いを実現させるにはどうしたら良いのか
その為にヒントとなり 導きとなり 実例となり 影響を与え合うのが
人間関係の本当のあるべき姿ではないでしょうか。
私達の心に幸せを生み出すのは
ポジティブな選択です。
ポジティブなことを選択していく心が
幸せを感じ取れる心です。
ですから
ポジティブなことのみを選択していく という生き方が
周りにいる人にとっての良い例となり 影響を与え
それが ポジティブな分かち合いを導くことになります。
相手の自我やこだわりや思い込みや
そういうものに影響されずに
そういうものに相対するのでは無く
ただ 自分は ポジティブな選択のみをしていくモデルとなる
それによって 周りの人々は
何をしたら良いのか どうしたら良いのかを
言葉では無く 目の当たりにし
自分もまたどう生きればよいのかを体感・実感して
あるいは意識せずに受け入れて
同じように行動するようになる
それが人間関係のポジティブな分かち合いのあり方ではないでしょうか。
あるいは 相手がどうしてなのかを意識せずに
「なんだか気分が良くなった」「なぜだか分からないけれど嬉しくなった」
「いつの間にか気持ちがはれた」というように
どうしてなのか分からないうちに気持ちが明るい方に変化していく
そういう切っ掛けになれたらば
それこそが ポジティブな影響を与えている証しな訳です。
ということは 御礼を言われるのは
影響を与えていることにはならないということでもあります。
「あなたの御陰で」と言われるのは
その相手が意識で受け止めているのであって
本当に相手の中には入っていないことの現れでもあります。
ちょうど私たちが 日々の生活で
太陽の光や 空気の存在をそれ程には意識せずに生きているように
相手が意識せずに なんだか分からないうちに影響を与えてしまう方が
実は 相手は本当に受け止めていることになるのではないでしょうか。
ポジティブな選択を常にしていくこと。
そのポジティブな選択を常に 言葉・行動で発信し続けること。
そういき続けること自体が 他の人・他の生命にとってのモデルになり
無意識のうちに影響を与える
そういう人間関係を築いていくことが
誰でもが「幸せに生きたい」願望を叶えることに繋がっていくのではないでしょうか。
(この項は《 癒しの時代から生かし合いの時代へ 》に続きます)