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子育てについて

《幸也の世界へようこそ》《書庫》 《子育てについて》 → 《子育て1の前提》


Ⅰ 子育ての前提

目次
親が「自分」を基準としない
育つものを育てる
誰もがあの世から生まれてくる
あの世=天国を基準とする
宇宙とは
天国を家庭で実現する
子供は泣かない
誰もがその人の速度で生きている
親の都合で子育てをしない
子は親の鏡
三つ子の魂百まで
トラウマ・カルマの解消
つわり
親の役割
した方が良いこと・しない方が良いこと
成長と脳波
社会での子育て



親が「自分」を基準としない

 私たち人間は ほとんどの人が「自分が普通」と思って生きています。
 自分の考え方・感じ方・表現のし方を「当たり前」と思って生きています。(自覚はしていないかもしれませんが…..)
 そして その普通である「自分」に対して「他人は違っている」「他人が違っている」という認識をしています。
 更に 単に「違っている」と思うだけではなく 大抵の場合その「違っている」という捉え方から 反発・否定・拒否・無視などの反応が生まれます。
 つまり 「自分」と違うことに対して 大抵の人は「そんなの違うよ」と反発したり 「そんなことないよ」と否定したり 「そんなのおかしいよ」と批判したり 「私はそうしない」と拒否したり あるいは見て見ぬふりをしたりします。
 それらは全て 受け入れられないことの現れです。
 なぜ受け入れられないのかというと つまり「自分」というものを普通と思い そしてその普通である「自分」を守らなければならないと無意識に思っているからです。
 このことを「自我=エゴ」と言います。
 私たちは肉体を持って生きていますが その肉体には「寿命」というものがあります。肉体として生きていることの終わりが「死」です。私たちは大抵 この「死」を避けようと無意識に思っています。つまり 自分の肉体を守り存在させ続けるようにと無意識に思っています。
 この 自分の肉体を守り存在させ続けたいという無意識の思いが 自分を他よりも優先させて生き長らえさせることを選ばせ 更には 生死に直接には関わらないことであっても 「自分」を他よりも優先させようという意識になります。
 この 「自分の肉体の死を避け 存在させ続ける」無意識の思いが 自分の肉体を尊重するところから 更には肉体だけでは無く その肉体を使って行われる行為=思考・感覚・表現といったものにおいても 「自分」を守り優先させる無意識の思いとなり ものごとをそう選択させることになります。
 けれども この世の中には沢山の人間がいます。その沢山の人の誰もが「自分が普通」と思い 優先させようとすると 当然のことながらそこには摩擦や衝突や反発が生じます。
 これは子育てでも同じことです。親がもしも無意識ではあっても「自分が普通」と思って生きていたら それに対して子供は親と全く同じ存在ではありませんから 当然親とは違うものごとの考え方をし 違う捉え方をし 違う表現のしかたをするかと思いますが その場合にそこには摩擦や衝突や反発が生じることになってしまいます。
 その摩擦や衝突や反発を避けるには 親の側の「自分が普通」だと思い その普通である「自分」を基準にして考えたり判断したり選択したり感じたり表現している それを変える必要があります。
 では一体 何を基準としたら良いのでしょうか?


育つものを育てる

 私たち人間は「生命体」のひとつです。動物や植物と同様に。これらの動植物は「生命体」としてこの世に誕生し 成長し そして死んでいきます。生きている身体と 死体との違いは そこに「生命」が入っているかいないかの違いです。
この「生命」が私たちの肉体を成長させ 生きさせているものです。
 例えば 植物の種は 特定の環境の中で発芽し育っていきますが 発芽するのは 特定の環境におかれたことは切っ掛けであり そもそもはその種の中にある「生命」の力=「生命力」が発芽させている訳です。
 全ての生命は このような「生命力」があって その力によって成長していきます。
 これは人間でも同じことです。
 ところが 沢山の人が 人間の成長には教育が必要だと思い込んでいます。あたかも教育によって人間は成長していくかのように思い違いをしています。何か手をかけなければ育たないかのように思っています。本当にそうなのでしょうか?
私たち人間もそもそもは「生命力」によって育っていく「生命体」のひとつです。本来はそのままで育っていくのが本来のあり方です。それなのにどうして沢山の人が「育てなければ」育たないと思い込んでいるのでしょうか。
 子育ての一番の基本はまず この 生命はそもそも育っていくものだという「生命力」に対する信頼ではないかと思います。その生命のもっている力によって生かされているから成長し生きている 更にはそれぞれの生命にとって最善の生き方を自ずと選択するようになっているという「生命」に対する信頼が 子供という生命を育てるに当たっての一番の基本ではないかと思います。つまり本来 子供は育てるものではなく 育っていく「子供」という生命が一番その生命力を発揮できるように手助けするのが 本当の子育てです。



誰もがあの世から生まれてくる

 もうひとつ 子育ての基本は 子供は一体どこから生まれてくるのかという認識です。
私たち人間を含めて この地球で生きている生命は全て この地球において生まれ変わるという生き方をしています。つまり 生命体として(この生命体のことを一般には「魂」と言っていますが)地球の周りに存在し 地表において肉体と共に生まれ・育ち・死ぬ過程を体験して また肉体を使わない存在に戻るということの繰り返しをしています。これを「転生輪廻」あるいは「輪廻転生」と言いますが 肉体を使わないで存在している その場のことを一般に「あの世」と言っています。それに対して 肉体を使って生活しているのはこの地球の表面ですが その場のことを「この世」と言っています。
 ですから 私たち人間を含めてどの生命であっても 「あの世」と「この世」とを行ったり来たりしている訳で ということは 誰でもが「あの世」からこの地上「この世」に肉体を使った生活をするために生まれてくることになります。(正確には「あの世」が全体であり 「この世」は「あの世」の中の一部分です。)
 この 誰もが「あの世」から「この世」に生まれてくる という認識が 子育てをするに当たってのもうひとつの基本ではないかと思います。
 では その「あの世」と「この世」とでは 何が違っているのでしょうか?



あの世=天国を基準とする

 「あの世」と「この世」との違いはまず 肉体を持っているいないの違いであり これは肉体だけではなく 物質というものが存在するしないの違いでもあります。つまり 「この世」には物質が存在しますが 「あの世」は物質の無いところだということです。
 この 物質が無いのに存在している というのが 私たち地球人 つまりものごとの多くを「目で見て判断する」という生き方をしている(ということは ものごと=目で見える物質だと思っている)存在にとっては認識し難いことかもしれません。
ですから 沢山の人にとって 目で見えない「あの世」のことは良く分からない と言うことになってしまうのではないかと思います。
 私たちがこの世で肉体という物質として存在するということは 目に見える・触れる などの感覚(五感)を使って生きていることでもあります。では 物質の無いあの世では 感覚無しに存在しているのでしょうか? 五感という感覚はありませんが いわゆる第六感と言われる物質的では無い感覚でものごとを感じ取っています。
 「あの世」においては物質は無い訳ですが 「あの世」でも「この世」でも共通しているのは 全てのものは生命として存在していることであり 全ての存在=生命とは 波動である ということです。
その波動は 精妙な=細かい波動から 荒い波動までいろいろありますが 精妙な波動を「高い波動」 逆に荒い波動を「低い波動」と言っています。
 一般に人格と言われているものは この波動の高さ低さを言ったものであり つまり 波動の高い(=細かい波動)の人は人格が高く 波動の低い(=荒い波動の)人は人格が低いということになります。 これは 肉体と言う目で見える物質を伴った場合の言い方ですが 肉体が無い状態での言い方が「霊格」になります。
 「この世」は 目で見える認識ですと ただひとつの「この世」ですが 波動の世界であるあの世には 波動の高い低いによって場の違い(あるいは層の違いとも言えますが)があります。特に 宇宙との調和の度合いによって 調和が取れているものと 調和が取れていないものとははっきりと区別されています。
宇宙との調和がある程度以上取れている波動の世界を 「天国」と言い 調和が取れていない波動の世界を「地獄」と言っています。
 本来 この宇宙の中の全てのものは 調和し合うのがその本来のあり方として存在しています。
それに対して 特に調和が取れていない波動の場を この地球では「地獄」という言い方をしています。
私たち 全ての人間は 肉体を持って地上で生きるに当たって 「あの世」から「この世」に来る訳ですが 「あの世」とは言っても 必ず「天国」から来ることになっています。
 つまり 「地獄」というあの世での調和が取れていない状態から この世に生まれては来られないようになっています。なぜならば この宇宙の中では 本来全てのものが調和が取れているのが当然であり いかに多くの生命と調和できるかが すなわち「成長」と言われているものですが ということは 本来「この世」での成長も 肉体的に大きくなるのだけが成長なのではなく いかに沢山の生命と調和し合えるようになるかが成長だからです。その「成長」のためにこの世に生まれてくる訳ですから あの世の不調和な場である「地獄」からはこの世へは生まれてくることは出来ない訳です。
下に 「宇宙とは」という 宇宙のあり方をまとめたものを載せてありますが これらが宇宙そのものの在り方であると共に それぞれの生命のこの宇宙の中での本来の在り方でもあります。なぜならば それぞれの生命とは 宇宙の中に存在している宇宙の一部であり ということは 宇宙と一体であり 宇宙と同じだからです。
 「あの世」(天国)とは このような場であり そこから「この世」に生まれてくる訳ですが しかし 「この世」の様子はこの「宇宙とは」に書かれているものとはかなり違っています。
 この世では 沢山の人間が「自分(という肉体)を守り優先させたい」という「自我=エゴ」の思いで生きていることが 宇宙の本来のあり方とかけ離れたものにしているのです。
 でも 私たちは そのような「自我=エゴ」で生きるためにこの世に生まれてくるのではありません。この世で肉体を使って生きている この場においても 宇宙の中での本来の生命のあり方を実現するために生まれてきているのです。その様な肉体を持つという制限の中で生きることによって より沢山の生命と調和しあえるように学び成長していくのが この世に生まれてくる理由です。


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宇宙とは
全ての存在を
生み・育み・生かし・蘇生するエネルギー
無条件の/無制限の愛 調和 感謝 慈愛(偏在の愛) 無条件の受容
  歓び あるがまま 無限 自由 豊か 完全 永遠
生命 生き活き 伸び伸び 美しい 素晴らしい
輝かしい 明るい 楽しい 嬉しい 至福 歓喜
恍惚 幸せ 平和 平安 安らぎ 安心 暖かい 優しい
穏やか 柔らかい 清らか 純粋 一体
(全て=自分・あなた=私)
正直 親切 思いやり 素朴 素直 誠実 祝福 尊敬 感動 学び(気付き)
こだわらない とらわれない 判断しない 分析しない 詮索しない 裁かない 責めない
批判しない 非難しない 決め付けない 推測しない 押し付けない 強制しない 禁止しない
制限しない 条件付けしない 許可しない 管理しない 指図しない 否定しない 拒まない
さからわない 対立しない 無視しない 期待しない 求めない 嘘をつかない 隠し事をしない


祝福と感謝と歓び   尊敬心と愛情と共感

☆ 必要なものは全て用意されている・・・求めずとも 与えられている
☆(何が起ころうとも)全てをあるがままに そのままに受け入れる
何もかも捨て去り(後ろに流し)受け身になる=自然にまかせる       
からっぽ・・・何も無い・誰でも無い・何でも無い(・・・宇宙そのものと一体)
☆ 教えない・・・「他にどういう選択があるか」を自分で考えるように導く 
考えるヒントを与える=欠点は本人が気付くまで待つ
(全てはおのずと肯定と成長の流れに乗る)
☆ 全てがプラス・・・相手の言動を100%肯定し 感謝する
相手の言動の理由を考える(・・・否定の心=宇宙との分離)
☆ 相手の全てを包み込む・・・同化・一体化=肯定・認める  
☆ 常に(対象に)エネルギーを注ぎ続けている

全ての生命は その中で  全てを知り尽くされ 理解され
受け入れられ 許され 完全に愛されている


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天国を家庭で実現する

 ですから この世において あの世であり方を実現するのが この世に生まれてきた意味であり これを認識するのが 子育てのもうひとつの基本になります。
 あの世が非物質の場であることも この世との大きな違いであり 非物質であるからこそ
この世では当たり前のことがあの世であは当たり前ではない あるいは逆に あの世であは当たり前のことがこの世では当たり前ではない ということが多々あります。
 例えば 私たちはこの世では「五感」を使った認識をしています。触ったり 見たり 聞いたり 嗅いだり 味わったり という感覚でものごとを認識しています。しかしこれは肉体を使っているものであり 肉体の無いあの世では このような認識の仕方はしていなことになります。
 あるいは 言葉での意志の疎通も同様です。私たちはこの世で 言葉を声として発して それを他人が耳で聞いて受け取る というやり方で意志を伝え合っていますが 非物質の場ではそうではなく 全ては観念という波動として全宇宙に波及していきます。
 肉体とは ある意味「入れ物」です。生命体がこの世で生活するために入る入れ物です。入れ物であるということは 外と内とを区切っています。内(自分)と外(自分以外の存在)とを分かつ認識の仕方を私たち人間がしているのは この肉体という入れ物を使って生活しているためです。けれども あの世ではそうではありません。肉体という入れ物が無いですから 外と内という区別はありません。自と他という区別もありません。「自分」を他と分けて認識しているのではなく 全体の中の一部として認識しています。
 このような あの世とこの世との違いを踏まえることが 子育てをするに当たっての(特に三歳半までの子育てにおいての)もうひとつの基本になります。この前提があってこそ
 この世であの世のあり方=天国を実現することが可能になるからです。
 この世には沢山の生命が生きています。沢山の人間も生きています。それらの人間と共に私たちは社会を形成していますが 社会の基になるのが家庭です。なぜならば 私たちは妊娠・出産・成長という過程を経て大人になり社会の一員となっていきますが その妊娠・出産・成長という過程がなされる場が家庭だからです。その それぞれの家庭の集合体が社会です。
 ですから それぞれの家庭を天国にすることが 家庭の集合体である社会全体を天国にしていくことになる訳です。



快感を基本に・・・「楽しい」「嬉しい」「美味しい」「きれい」「いいきもち」

 先程 「宇宙とは」どういう場であるか どういう状態であるか どういう性質であるかの一覧を載せましたが これらを家庭の中で そして子育てにおいて実現するのが 「親」としての役割になります。
ただし この一覧に載せたのが全てということではありません。「~しない」中に感情的なことに関して(例えば「憎まない」「怒らない」など)は入っていません。けれども 宇宙とは 肯定の場です。ですから まずは 「どういう」というのがあり 「どうではない」というものがある訳ではありません。「~ではない」「~しない」方にはもっともっと沢山のことが入るかとは思いますが 「どういう状態である」ことを理解できれば おのずとそうでは無い状態がどういうものであるかは分かる筈です。否定を積み重ねていっても肯定は生まれません。間違いを幾ら重ねても正しさは生まれません。まずあるのは「どういう状態である」という肯定です。そして それに対して「そうではない状態」です。その「そうではない状態」を認識する一助として「~しない」幾つかの例を挙げてある訳です。
 宇宙が肯定の場である ということは「はい」しか無くて 「いいえ」が無いということです。「~です」だけがあって 「~ではない」が無い場です。
 そして 宇宙とは 快感だけがあって 不快感の無い場です。このことが子育てにおいて
子供に接する基本のひとつです。子供に接するに当たって 全ては「はい」であり「いいえ」はありません。そして全ては「楽しい」「嬉しい」あるいは「美味しい」「きれい」「いい気持ち」という快感しか無いことを子供と共感し合うのが 家庭です。これら肯定と快感が 家庭の中の全てです。親と子との関わり合いの全てです。



子供は泣かない

 赤ちゃんが泣くのは ①お腹がすいた時 ②排便したい時 ③身体の何かが不快な時 以上三つの内のいずれかです。つまり 何かが不快だから泣くということです。ということは 子供が泣く=子供を不快にさせている ということになりますし 子供を泣かせている ということでもあります。
 しかし ほとんどの親はそのことに気付いていません。「子供が泣く」のだと思っています。けれども これは 親の怠慢です。子供は不快でなければ泣きません。そして 子供が不快にならないようにするのが親の役目です。その親の役割を果たさずに「子供が泣く」と思えるのは親の怠慢か鈍感かのいずれかです。
 子供は不快でなければ泣かないし 子供にとって常に快よさを感じられるような環境を作り続けるのが親の役割ですから 子供は 泣かないのが当たり前のはずです。



誰もがその人の速度で生きている

 私たちそれぞれの人間は それぞれその人なりの速度で生きています。それは 他の動植物を見てみれば容易に納得できることかと思います。私たち人間もそれぞれの人が その人なりのやり方で感じたり考えたり話したりしています。その「それぞれ」とは つまり違いとは何なのかというと ひとつには「やり方(=方法)」の違いであり もうひとつは「速度」の違いです。やり方の違いとは 結局はどういう道を通るかの違いです。そしてその道をどういう速さで進むかが 速度の違いです。どういう道を通るかの選択ということは つまり 方向を選んでいることになります。ですので それぞれの人の「それぞれ」とは 人によって選ぶ「方向」と「速度」とが違っている ということを意味しています。
 ということは そのそれぞれの「方向」と「速度」とを認識することが人間関係において そして子育てにおいて大切なことになります。
 子供が育っていく ということは その「生命」=「生命力」が肉体を育て この世での生活に適応できるような力を育てている訳ですが その成長に当たっても その生命なりの方向と速度とで育っていきます。このことに親は手出しは出来ません。子供が育っていくのを親がもっとこうしたいああしたいと思っても それは無理です。人間には生命力をコントロールする力はありません。私たち人間は「生命」を生み出すことは出来ないように 「生命」をコントロールすることも出来ません
 親に出来るのは 育っていく生命が その生命力を最大限に発揮できるように手を貸す あるいは環境を整えることだけです。子供という生命がもっとも自然に効率良くその生命力を発揮できるように 育っていけるように 環境を整える お膳立てをするのが親の役割です。そのお膳立てに当たって 子供という生命がどういう方向にどういう速度で生きている=成長しているのかを捉えるのが 宇宙そのもの(あるいは「あの世」)のあり方を認識することの次にくることになります。
 つまり 親と子とはそれぞれが違った速度で違って方向に生きていることを認識し 子供が自然に自由に成長していけるように環境を整えるのが親の役割であって もし親がそのやりかた・考え方・感じ方を押し付けた場合には 子供は自然な自由な=最善の成長はできないということです。



親の都合で子育てをしない

 ですから 親が「自分の都合」でもって子供に接するのは 子供の成長を妨げることになります。生命の中にある本来の生命力が最高に発揮されるためには 「解き放つ」ということが肝心です。自由に伸び伸びと生かすことが それぞれの生命の生命力を最高に発揮させることになります。なぜならば 本来 生命は育つように出来ているからです。育つように出来ているものを「育てなければならない」と思うこと自体がすでに子供という生命の成長を妨げています。
 世の中の大抵の親は あるいは大人は 「自分が普通」「自分が正しい」という思い込みで生き それを子供や他人に押し付けようとしています。しかしその結果 他人とぶつかり合うのは誰もが体験していることです。ぶつかり合うということは それぞれの生命の自由な方向や速度の選択を妨げることになります。つまり子供にとっては本来の成長が出来ないことになります。
ですから 子育てをするに当たって 決して「親の都合」でもって子供に接してはいけないということになります。しかし ほとんどの親は 何が「自分の都合」なのかを認識していません。大抵の親は 毎日何度も子供に「早くしなさい」「ちょっと待って」「駄目」という言葉を発していますが そのほとんどは親の都合によるものであり 親の都合を子供に押し付けているものです。
 子育てにおいて 親のすべきこととは 子供にとって最良の環境を用意すること 子供が育っていくに当たって一切の障害が出て来ないような環境をお膳立てすることです。もし親自身が「自分の都合」でもって子供に接したら それは子供とぶつかり合うことになりますから 当然子供は素直に育っていかない=素直で無い人間に育っていくことになります。



子は親の鏡=子供の育ち方は親の観念・行動の反映=全ては親の責任

 子供は 親がしていることを見て それを真似て育っていきます。ですから 子供がすることは すなわち 身の回りの大人がしていることです。
 親がしていることを子供がする その一番明瞭な例は 言葉です。子供は 親が話している言葉を聞いて それを自然と身に付けていきます。親が話すような語彙を使い 親が話すような抑揚で話すようになります。親がその土地の方言を話しているのに 子供には標準語を使いなさいと言っても 家庭の中にそれを話す人がいなかったら覚えようがありません。
 子供が身の回りに人たちの言葉・話し方を真似して育つように 子供は親や身の回りにいる人たちのしていることを見て その行為を真似して育ちます。子供にとっては全ては「学ぶ=真似る」です。ですから 子供に真似てほしくないことは 親がしないことです。子供に真似されたら困るようなことは 親がしなければ子供は覚えません。
 これら 言葉に関して あるいは 行動に関しての例は 認識しやすいかと思いますが しかし 目には見えない「意識」や「観念」というものも 同じように子供に影響を与えています。
 私たちは 無意識のうちに「自分が普通」「自分が正しい」と思い込んで生きていますが
 それを目に見える形で他人に押し付けているだけではなく 意識として つまり心の中に思っていることであっても他人に影響を与えています。
 誰か身の回りにいる人が暗い気分でいると 自分の気分もまた暗くなるのは誰でもが経験したことがあるかと思います。あるいは 身の回りにいる人が怒っていたとすると それをなんとも思わないでいられる人は少ないのではないでしょうか。
これらはまだ 心の状態が外から目に見えるように表れていますが 外からは見えない心の中の思い あるいは観念といったものもまた 身の回りの人に影響を与えています。
 子育てをするに当たって この 目に見えない部分というものも認識することが大切になります。なぜならば 親の間に見える形での子供への接し方だけではなく 目に見えない
 「意識」「観念」といったものが 常に子供に影響を与えているからです。子供は 親の心の状態を あるいは 心の中に持っていることを 目には見えなくても感じ取っています。
 子供がこの世に生まれてくるということは 宇宙の中の地球上に肉体を持って生きていくことを始めるということですが これは 宇宙の中の地球の表面という限定された場に入っていくということでもあります。この地上で生きていくに当たって 私たちは沢山の制限=決まりの中で生きています。例えば 人間として生まれるには 目が二つ 耳も二つ 口は一つ と誰でもが一緒なのは そういう決まりだからです。私たち地球人はこういう格好で地上に生きようと皆で決めた約束に従って生まれてきます。ということは そういう制限の中に生まれてくるということです。「私は口が二つが良かった」と思っても そうは出来ません。そういう地球文化の制限の中に生まれると共に 更には ある特定の場に生まれるということは ある国なり ある民族なりの中に生まれるということですから その国の あるいは その民族の制限の中に生まれるということになります。つまり 文化とは 制限だということになります。それと同様に ある家庭の中に生まれるということは その家庭の制限の中に生まれることに生ります。そして その家庭とは 父親と母親とが作っているものですから 家庭=親の観念の空間と言えますが 父親と母親との考え方・観念という制限の中に子供は生まれてくるということです。
子育てをするに当たって 子供は「親の観念」という制限の場である家庭に生まれて育っていくこと その「親の観念」は目には見えなくても子供に影響を与えていることを認識することもまた 子供という生命が本来の可能性を発揮するために大切な点になります。
 子供は「親の観念」の場である家庭に生まれ育つのですから 子供がどう育っていくかは
全て 親の責任ということになります。親の責任では無いことは何もありません。一切が親の責任です。親が心の中で思っていること もしかしたら親自身が自覚してはいなくても 無意識に思っていることであっても子供に影響を与えます。だからこそ 全てが親の責任だと言える訳です。



三つ子の魂百まで=三歳半までの育ち方が人間としての人格・性格・生き方を決める

 子供は「家庭」という場に生まれてきますが 生まれてきた時の子供の心は「白紙」です。
 何も書かれていません。しかし この世に生まれて生きていくうちに その白紙だった心に様々なものが書き込まれていきます。つまり 体験したことは全てそこに書き込まれていきます。親が自分にどう接したか 親が自分に何をどう言ったか 親が自分のそばでそういう行動をしたか なども全て 白紙だった心に書き込まれていきます。そして 一度書き込まれたものは消えません。たとえ意識として思い出せなくても 心の中には記憶されています。そして 白紙に黒いインクのペンで書いていくとすると 書き込まれていくに従って 白い部分が段々少なくなってきます。大人の心には すでに白い部分はほとんどありません。ほとんどの部分が黒く塗られています。「腹黒い」という表現はここからきている訳です。
 ですから 育っていくとは 白紙だった心に段々といろいろなものが書き込まれていくことであり 何が書き込まれたかによって その子の性格・人格というものが決まってきます。
 生まれたときは全くの白紙だった心に 育っていくに従っていろいろと書き込まれていく訳ですが 特に妊娠中の胎児の時期から 生後三歳半までの間に心に書き込まれたことは
心の中で大きな意味を持ちます。なぜならばこの時期に心に書き込まれたものは 白紙だったところに書き込まれたものですから その子の心に簡単に染み込んでいくからです。これは簡単に想像できることではないでしょうか。白紙に何か書き込んだのと すでにいろいろと書かれている紙に同じことを書いたのとでは 印象が違います。白紙に書かれたものの方が印象が強いです。
 胎児の時期から 生後三歳半までの間に心に書き込まれたことが その子供の性格・人格・生き方を決めることになるからこそ 昔から「三つ子の魂百まで」という言い方がある訳です。この時期に心書き込まれたことは その子の一生の方向付けをすることになります。大人になってからも その人の性格や癖として現れているものは ほとんどがこの時期に心に書き込まれたものです。
 そして 書き込んでいるのは誰かというと すなわち「親」です。
「トラウマ」という言葉がありますが これも 三歳半までに体験した否定的なことが 大人になってからの不調・病気を引き起こしている原因であるということです。
 でも逆に この時期に体験した肯定的なことも その子の一生に影響を与えます。
 この時期に 宇宙の「楽しい」「嬉しい」「いい気持ち」といった本来の在り方を十分に体験した子供は 当然大人になったからもそう生きていきます。逆に この時期に否定的なこと 例えば「悲しい」「辛い」「我慢」などを体験した子供は大人になってからもそういうものを自ずと引き寄せて生きてしまうことになります。



特に女性にとっては 最も簡単なトラウマ・カルマの解消の機会

 子供にとって 胎児の時期から生後三歳半までに体験したことがそれ以後の人生を方向付けることになるからこそ この宇宙の中での「当たり前の」「本来の」「自然な」在り方をこの時期に体験することが大切な訳ですが 子育てを通してこれを実践するということは すなわち 子育てをしている家庭をこの状態するということです。

 カルマという言い方がありますが つまり 過去世(生まれ変わりの過去の人生)において体験したことが 今世(今回の人生)においても現われる あるいは 過去世でやり残したことを今世でするとか 過去世でした否定的なことを今世でやり直して解消する または過去世でした否定的なことの報いを今世で受ける というようなことに使われる言葉ですが 子供の心が白紙で生まれてくることと カルマとはどう関係しているのでしょうか。
 過去世の体験はカルマとして現われるものも含めて その全てを魂として持っているものです。でも それら沢山の体験は 何かによって引き出されなければ出てはきません。私たちは 沢山の転生(生まれ変わり)をしています。そのそれぞれの人生において 沢山のことを体験しています。それらは全て 魂=生命体として記憶されてはいますが 今回の人生に生まれるに当たって それらは記憶庫にしまわれたままになっています。そのしまわれているものが 何かを切っ掛けとして出てくることがあります。
 その切っ掛けとは 育っていく中で親の子供へのかかわり方によって生じることがほとんどです。親が何を思って生きているのか どう子供と接しているのか という子育て=家庭の中のあり方によって 子供の中に潜在している過去の記憶が引き出されることになります。
 それは 肯定的なことかもしれませんし 否定的なことかもしれません。つまり 肯定的な接し方をされれば 肯定的な記憶が呼び起こされますし 逆に否定的な接し方をされれば 否定的な記憶が出てくることになります。
そして一度出てきた記憶は 心の中で何度も呼び出されて その結果心の中で固定化していくことになります。 そうやって その人の性格となっていく訳です。
 ですから あの世=天国から生まれてきた子供が なぜ 否定的なことをしたり 思ったりするようになるのかというと それはすなわち親がそういう働きかけをして 否定的なものを引き出したから他なりません。だからこそ 子育ては100%親の責任だと言える訳です。
 けれども 子育てをするに当たって どういう子育てをしたいのか つまり 宇宙の法則に則って 宇宙そのもののあり方をこの地上で実現したいという意志を持った場合 親としてそれを実行していく中で 肯定的なことしか思わない 肯定的なことしかしないという生き方を実践していけば 子供にとってどういう影響が出るかということだけではなくて 親自身にとっても 心の中を浄化することになっていきます。
 過去に親自身がどういう育てられ方をし 過去世のどういう記憶が引き出され どういう性格の人間となったかは 「自分の意志」でそうなったのではなく 親にそれされたのだ そう育てられたのだ と言えるかもしれませんが その「そうされた」ことを 子育てを通して 親自身が自分の意志で解消していくことが出来ます。子育てという 子供を育てることを通して 自分自身の幼少期をやり直すことになるからです。
 ですから 親になるということは 特に母親になるということは カルマやトラウマの解消には 最適の機会となりえる訳です。



つわり

 つわりは何が原因かというと 母親と胎内の子供との波動の違いです。しかし 母親と胎児とは 必ず波動は違っているにもかかわらず なぜ つわりになる場合と ならない場合とがあるのでしょうか。
 これは 音という波動で簡単にイメージできるのではないかと思います。母親と胎児ということは 二つの波動になりますが 二つの音が鳴っているとすると 「ハモる」場合と「ハモらない」場合とが出てきます。例えば 「ド」の音と 「ド」の音でしたらば ハモります。でも 「ド」の音と「シ」の音とはハモりません。
 あるいは 同じ「ド」の音でも 僅かな周波数の違いは「うなり」を生じます。調律の狂ったピアノの音を思い出せるでしょうか。ひとつの鍵盤をたたいても 汚い音に聞こえます。これがうなりです。
 このように 母親と胎児とで ハモっていない あるいはうなりを生じているのが「つわり」です。
では つわりにはどう対処できるのでしょうか? ハモるようにすれば良いことになります。うなりが出ないようにすれば良いことになります。
 つわりがあるのは しばしば わがままな人 あるいは 意固地な人です。なぜこのような わがままな人や意固地な人につわりがあるのかというと つまり 他人とハモれない人だからです。ですので 自分の胎内の胎児ともハモれません。
ですので つわりへの処方はただひとつ わがままでなくなる 意固地でなくなる ということです。他人と協調できるようになれば 自ずとつわりは解消します。
 そして そうやって「協調する」ことによってつわりを解消しておけばそれは必ず 出産後の子育てにおいても役立ちます。



親の役割

ここで「ハイポニカ農法」という 一本のトマトの木に2万個の実を生らせたやり方を開発された 野澤重雄さんの言葉を引用します。この「ハイポニカ農法」とはまさに 生命の持っている可能性を最大限に発揮できるような環境を作ったら どういう結果が出るかを私たちに見せてくれたものです。

『一番大事なのは、まだ小さい苗のとき、物心もないようなときに、
どんどん成長しても必要なものは充分入ってくるよ、どんどん成長しても大丈夫だよ、
という「安心感」を与えてやることです。
そして、母親の立場、与える立場の側は「疑わないこと」。
植物の種は、もうすでに親から離れて、独立して生きるのだから、
生きるためのすべての要素はすでに持っているはずで、そこに不備なものは絶対にない。
生きるための完璧な機能を、種自身の中にすでに持っている。
それを引き出してやるという立場で、種にとって非常に良い状態を与えるのです。
そのときに、種の力を「疑わないこと」が大切です。
「この程度まで育つだろう」「このくらいの樹になるだろう」
という無意識の制限を心に持たない。
生態自身の選択に任せ、ただただ無心に良い状態だけを与えてやる。
すると、植物は我々の想像を遥かに超える成長を見せるのです。』

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 子供にとって 母親とは一体どういう存在なのでしょうか?子供にとって 母親とは 宇宙そのものです。肉体を持った存在は母親の胎内に発生し その中で育ち そして子宮から出てきても母親の乳を飲んで育っていきます。
 私たちは 宇宙の中に存在し その中で肉体を持った個として生まれ育ち生きていきます。
 生きている間に必要なものは 存在に必要なものは全て宇宙が用意してくれています。
 ですから 子供にとって母親とは宇宙と同じであることが分かるかと思います。
 子供にとっては母親=宇宙ですから すなわち 母親のすべきこととは 宇宙そのものが子供にすることと同じです。子供が 安心して育っていける 必要なものは全てが身の回りにあって手に入れることが出来る 子供という存在のもっている可能性が最高に発揮できるように 潜在的な能力が最大限に発揮できるように 「何があっても大丈夫」「何があっても安心」という状態にいつでも子供がいられるようにするのが 母親の役割だということになります。
 そして 母親=宇宙であるということは 子供と母親とは切り離せないということでもあります。大人はしばしば 「自分」と「他人」というように 自他を分けて捉えますが
 子供にはそういう感覚はありません。自分=母親です。母親=自分です。なぜならば 自分は宇宙の中の存在であり 宇宙の一部であり そして 母親=宇宙なのですから 当然「自分と母親とは一体」という感覚で生きています。
 しかし もしもそれを 親の側が自他を分かつ感覚で生きていたらどうなるでしょうか?
 自分は宇宙の中に生きています。その自分を宇宙から切り離すことは出来るでしょうか?
出来ません。出来ないのに もしも母親が自他を分かつ感覚で「自分と子供とは別個の存在」という意識で生きていたら それは子供にとっては 自分というものが存在する「場」が無くなることを意味しています。これは子供にとっては非常な不安となります。
 宇宙が消滅してしまったら 私たちの存在する場はあるでしょうか。子供にとっては 母親が「私と子供とは別個のもの」という意識で生きているのは 自分が存在している宇宙が無くなるのと同じことです。ですから 子供にとっては 母親との一体感というものが育っていく上で必要不可欠のものになります。




した方が良いこと・しない方が良いこと=すべきこと・してはいけないこと

 今までに述べてきたことをまとめ そして 親として子供に何をしたら良いのか どう対したらよいのか 逆に何をしない方が良いのかを具体的に挙げてみます。

育つものを育てる
 全ての生命は「生命力」です。その「生命力」とは 宇宙の一部であり宇宙そのものと一体です。この世に生まれる前からある「生命力」が この世で肉体という固体を使って生活するために生まれてきます。ですから 育つのも生きるのも 私たちがしているのでは無く 宇宙の一部としての「生命力」がしていることです。
 その そもそもある育つ力=生命力が 何の制限も無く最大限に発揮できるような環境を作るのが親の役割です。

誰もがあの世から生まれてくる/あの世=天国を基準とする/天国を家庭で実現する
 子供という生命は 誰でもが「あの世」=天国からこの世に生まれてきます。ですから 育っていく場=家庭を天国にすることが 子供の成長に最も良いことになります。
 「天国」とは 肯定しか無い場です。否定の無い場です。そして快感しか無い場です。不快感の無い場です。そして 必要なものは全てがある場です。

快感を基本に・・・「楽しい」「嬉しい」「美味しい」「きれい」「いいきもち」
 宇宙の中では全ての生命が 生き活きと 伸び伸びと 輝かしく存在しても良い(というよりも それが当然なのですが)ということを 育っていく場=家庭で実現するためには
快感を基本として子供に接し いつでも快さを子供が感じていられるようにします。
そして 「何をしても大丈夫」という安心感が育っていくように 損なわれないようにします。子供が何をしても良い 何をしても大丈夫 という環境を作ることが親の役割になります。
 これは同時に 世の中の否定的なものごと 不快なものごとから子供を守るのが親の役割だということでもあります。
 たとえ世の中に否定的なものごと・不快なものごとが存在するとしても 自分たちの家庭の中には存在させないのが親としてすべき環境作りです。

親が「自分」を基準としない/親の都合で子育てをしない
 子育てにおいて ものごとの判断の基準とすべきは「親」では無く 「宇宙」あるいは「天国」です。
 親が「自分」を基準にした場合には 親のエゴや親の都合を子供に押し付けてしまうことになります。それは 子供にとっては制限となります。子供がその生命力を発揮し 生き活きと生きる妨げになってしまいます。

誰もがその人の速度で生きている
 成長の速度は 子供によりそれぞれです。生きている速度は生命により様々です。その方向も様々です。その それぞれの生命の生きている(育っている)速度と方向とを邪魔せずに生かしてあげることが それぞれの生命力を最高に発揮させることになります。ですから 親は 子供がどういう状態で どういう方向に どういう速度で生きているのかを把握し それを邪魔しないように あるいはそれが邪魔されないような環境を作ることになります。

子供にとっては母親=宇宙/子供と母親とは一体
 子供にとっては 母親は宇宙そのものです。そして 子供にとって 自分と母親とはひとつのものです。
 ですから 宇宙そのもののあり方を体現するのが親のすべきことです。
 そして 子供と母親とは一体ですから 自他を分かたないことが 子供にとっての安心感の基になります。「母親=子供」「子供=母親」という認識をどこまで出来るかが 子供を本当に安心させて 最も成長させることになります。

子は親の鏡=子供の育ち方は親の観念・行動の反映=全ては親の責任
 子供にとって 母親とは宇宙ですから その母親の観念というものが大きな影響を与えます。つまり 母親の「観念」という中で育っているとも言えます。
 ですので 子供がどう育つかは全て親の観念のとおりであり 従って子供がどう育ったかは全てが親の責任です。
 「こうなってしまった」「こんなふうに育ってしまった」ということはありません。必ず
 親の観念の影響を受けてそうなっています。ということは 親がそうした ということです。そう育てた ということです。

三つ子の魂百まで=三歳半までの育ち方が人間としての人格・性格・生き方を決める
 特に 育っていく中で 受胎してから誕生後の三歳半まで(およそ四年半)に親から受けた影響は その子のその後の人生の方向を左右することになります。つまり この時期にどう育てられたかが その子の性格・人格を決めることになります。
 だからこそ この時期に親がどういう観念で生き 子供にどう接するかが 非常に大切になります。親が 自分の考えていることを 自分のしていることを きちんと把握し管理し 子供に何を与えているのか どう接しているのかをきちんと捉えることが 特にこの時期には重要になります。


具体的な話しかけ方・・・その影響・結果
 全てのものごとは 単純です。「こうすれば こうなる」「ああすれば ああなる」というように したことが原因となって ある結果を生み出します。基本的に「原因=結果」「結果=原因」です。
 けれども 原因と結果との間には 時間が存在します。そのために しばしば ある結果を目の前にしても その原因が何であったのかが分からないことがあります。特に子育てにおいては 親が子供にどう接したか(=原因)の結果が すぐに出ることもあれば 何年もたってから出ることもあり あるいは子供が大人になってから出ることもあります。なので 余計に何が原因だったのかを捉えられないことがあるのかもしれませんが 基本である「原因=結果」「結果=原因」をきちんと認識していれば 原因と結果との間に時間があっても 原因が何であったかは把握できるかと思います。


言わない言葉・言い方→→→その結果→→→言った方が良い言葉・言い方

「~しなさい」「~してごらん」→→→命令したり押し付けたり指図したりすると 自分の頭で考えられない人間に育ちます。あるいは 親に反抗する子供に育ちます。→→→「~してみる?」「一緒に~してみようか」

「~してはいけない」「~していい」→→→禁止や許可も 自分の頭で考えられない人間に育ちます。あるいは 親に反抗する子供に育ちます。→→→してはいけないことを言うのでは無く 何をしたら良いのか どうやったら良いのかを言います。あるいはそれを目の前でやって見せます。「こうやってみようか」

「だめ」「いけません」→→→この二つの禁止・制限の言葉は子育てにおいて決して言ってはならない言葉です。これらの言葉を言われた時に子供の心は「したいことをさせてもらえない不満」「自分のことを受け入れてもらえなかった寂しさ」で満たされます。その結果子供は反抗するか萎縮するかになっていきます。→→→「~してみる?」

「何してるの」→→→非難・批判・詮索の言葉は子供に自信を持たせないことになります。→→→「どお?うまくいく?おもしろい?」「こうやったらうまくいくかな?」

「~だよ」「違うよ」→→→決め付けたり否定したりすると 子供は自分の頭で考えられなくなりますから 想像力の無い・思考力の無い人間に育ちます。→→→「~かなぁ?」と問いかけて子供が自分で考えるように導きます。

「早くしなさい」「ちょっと待って」→→→子供は子供自身の速度で生きています。それを認められず 親の速度を押し付けるのは 「自然に 自由に 伸び伸びと生き活きと生きて良い」ということを否定している訳ですから 子供は窮屈に感じます。そして 不自然な 萎縮した 生気の無い子供に育っていきます。→→→必ず 子供の速度で親も一緒に動くようにします。

「そっちじゃないよ こっちにおいで」→→→子供は子供自身の興味の方向に向かって生きています。それを邪魔することは 子供の思考力や想像力が育っていくのを妨げることになります。」→→→「あれっ!?あれ何だ?」「あそこにあんなものがあるね」もしある方向に行かせたいのならば その方向に興味が向くようにします。そして ごく自然にその方向へと行くように導いていきます。

「~しないと~するよ」「~したら~してあげる」→→→条件付けする・脅す言葉は 子供の自発性を損ないます。そして 親に気に入るようにと 陰日なたのある行動をするようになります。つまり親の目の前では「いい子」をし 親の目の届かないところでは鬱憤を晴らすような滅茶なことをします。

即答・・・子供が親を呼んだら 必ずすぐに返事をします。「即答」によって子供は親と一緒にいる安心感を得ます。

いつでも子供の視野の中にいる・・・子供にとってひとりで置き去りにされるのは大変な恐怖です。なぜならば自分と母親とは一体だからです。ですので いつでも 母親は子供の視野の中にいるようにします。子供が寝ているときに席を外すことがあるかと思いますが 子供が目を覚ました時に まず母親の姿が目に入ることは子供にとっては何よりの安心となります。あるいは 一歳を過ぎるとひとり遊びができるようにはなりますが 一人で遊んでいる途中にも必ず母親の姿が視野の中に入るように 子供がフッと顔を上げた時に母親の姿を見られるようにすることが 子供の心に安心感を育みます。

いつでも肯定的な言葉をかける・・・「楽しいね」「嬉しいね」「きれいだね」「素敵だね」「美味しいね」「優しいね」などの肯定的な言葉をなるべく沢山子供にかけます。いつでもそういう状態が当たり前だ というように 常に肯定的な言葉を口にするようにします。

否定しない・・・子供がしていること 子供が言ったことを 決して否定せずに しているまま 言ったままにしておきます。それを変えたい時には 否定したり強制したりするのでは無く どうやったら良いのか どう言ったら良いのかを 目の前でして見せます。この場合にも「教える」という態度・姿勢では無く ただそれが目の前にある というようにして見せます。

教えない・・・子供に対して 何かを教えるのは 親と子供とを分離した捉え方からきています。その結果 子供は 親との一体感を失い 安心感を失っていきます。自分は親と別の存在だという認識は三歳半までに自然に育っていくものですから それを敢えて教え込む必要はありません。第二に 子供に何かを教えるのは 子供の自信を育てることにはなりません。全ては 身の回りにあります。教えるのでは ただそういうものごとがある というように目の前で見せる あるいは注目させるだけで充分です。その結果子供は自分からそれに興味を持ち 学んでいきます。第三に 子供に何かを教えることは 自分で考える力・想像力を削ぎ 依存心を強めていくことになります。

手助けしていないように手助けする・・・いかにも「手助けしています」という接し方は
子供に対して「あなたは非力です」「あなたは無能です」と言っているのと同じです。
それによって子供の能力は育っていくでしょうか?子供は自信を付けていくでしょうか?
手助けする時には あたかも本人が自分の力でしたかのように手助けをします。それによって子供は あたかも自分でしたかのように思い ものごとをする・やり遂げる自信が育っていきます。

子供のしていることを中断しない・・・子供が何かをしている時には 決してそれを中断させないようにします。子供はしていることを中断させられると 段々と集中力の無い人間に育っていきます。根気の無い人間になっていきます。そしてものごとをやり遂げることを知らない人間になっていきます。ですから 子供が遊んでいる時 何かしている時には 決してそれを中断させないように 邪魔しないようにします。ですから

理由無しに子供に声をかけない・子供の名を呼ばない・・・何の理由で呼ばれたのかが分からない呼びかけをするのも 子供のしていることを中断させますから 集中力を削ぐことになります。根気の無い人間になっていきます。そして 親の言うことに耳を貸さない子供になっていきます。

禁止しない・・・子供に触られたら困るもの・壊されたら困るものは しまっておくことです。手が届くところに置いておきながら 「触った」「壊した」と叱られ 責められるのは 子供にとっては理不尽なことです。なぜなら 子供には それが何なのか どういう価値があるものなのか 何のためのものなのかが分かっていないからです。ただ 身の回りにあるものの一つとして触る そしてその結果壊れてしまった というだけのことです。
 ですから 子供に触ってほしくないもの・壊されたら困るものは 押入れや戸棚にしまっておきます。戸棚をひとつ買う方が 叱ったり責めたりして子供の人格を歪めるよりも はるかに世の中の役に立ち 地球人類のためになります。

子供の手から 持っているものを奪い取らない・・・これは強制・禁止・非難・否定が合わさった行為です。子供が何か持ってほしくないものを持った時 してほしくないことをしている時には 他のものを目の前に置き それに子供の注意が行くようにします。ごく自然に興味が他のものに移行するように 持っていたものを自然に手放すようにもっていきます。

叱らない・怒らない・・・子供を叱ったり 子供に対して怒ったりするのは 子供にとっては「親が怒っている」ということだけを受け取ることになります。「どうして怒られているのか」は分かりません。親が幾らそれを言っているつもりでも それは伝わりません。子供が受け取るのは ただ 親が怒っている というそれだけです。ですから叱ることは何の役にも立ちません。子供は萎縮するか反抗するか悲しむかのどれかです。子供にしてほしいことを 親が目の前でして見せるのが 唯一の解決策です。

家の中をゴミ箱にしない・・・家の中で愚痴を言ったり 人の悪口を言ったり 「疲れた」「いやだ」「痛い」「辛い」といった言葉を使わないようにします。これらは 心の中から出てくる邪気ですが その邪気を発散するということは 身の回りにばら撒いているのですから ゴミをばら撒いているのと同じです。家の中はゴミ箱ではありません。あるいは ため息をつくのも同じです。ため息とはそもそも 吐く息として邪気を体外に放出させることです。
 家の外で何か 不愉快なことを体験したとしても それを家の中には持って入らないようにしましょう。世の中の人がどういう不誠実なことをしても どういう不愉快なことをしても それを家の中に持ち込む必要はありません。そういうゴミは家に持って帰らずに その場に置いてくるようにします。



これら全ては一言で言うと 子育てにおいて親のすることは
全ての生命は その中で
全てを知り尽くされ 理解され 受け入れられ 許され 完全に愛されている

という状態に常に子供を置く ということになります。


 ですから 逆に そうでは無い状態の中で育ったら あるいは否定的な言葉を耳にして育ったらどうなるのでしょうか。
 子供が「こう育ってしまった」(これは否定的な意味でですが) というのは つまり 親がそう育てたからです。子供のしていることは 親のしていることです。

親の言うことを聞かない・・・これは 親が子供の言うことを聞かなかったからです。子供に命令したり 押し付けたり 禁止したりを 当たり前だと思ってしてきた結果です。子供が何をしたいのか どうしたいのかを良く見ずに したいようににさせず「~しなさい」「~でしょ」「~してはいけません」と親の考えや都合を押し付ければ 子供はそう育っていきます。
 子供が親の言うことを聞かないのは すなわち 親が子供の言うことを聞かなかったからです。そして もしかしたら 子供は 親の言うことを聞かないだけでは無く 学校の先生の言うことや あるいは大人になって社会に出てからも 身の回りの人の言うことを聞けない人間になるかもしれません。

素直で無い・・・子供が素直で無いのは 親が子供に対して素直で無いからです。子供を 育っていく生命として捉え 自然と育ちたいように育っていく手助けをするという立場で親が子育てをすれば 自然な素直な子供に育ちます。

わがまま・・・子供がわがままなのは 自分がしたいことをさせてもらえずに育った結果 自分のしたいことを過剰な表現で表わしているものです。したいことをしていいんだ という環境で育てば 余計なゼスチャーをするようにはなりません。過剰な表現をしなければ親に分かってもらえないからそうしている訳です。ですから 子供がわがままに育ったのは 親が鈍感か それとも威圧的かです。子供のしたいことを捉えられない鈍感さか 子供のものごとを押し付ける態度が 子供に過剰な表現=わがままな表現をさせることになります。

集中力が無い・・・これは 親に集中力が無いからです。集中力が無い親は 「集中する」ということが分かりませんから 平気で子供のしていることを中断させます。子供は大抵大人よりも ひとつひとつのものごとにじっくりと相対しています。それを 横から声をかけて中断させたり あれもこれもと目移りさせるような話しかけをすれば 当然子供はひとつひとつのものごとにじっくりと相対することが出来なくなりますから 集中力の無い 根気の無い子供に育っていきます。そして ものごとを作り上げる 完成させる満足感や喜びを知らない人間に育っていきます。

怖がる・・・すぐに怖がる子供は 親の不安感の現れです。親自身が心の中で怖がっているからです。そして この不安感とは 「分離」からきています。
 そもそも子供は 何を「怖い」とか「不安」として感じるのでしょうか? 自分が守られていないと感じた時です。子供にとって 自分を守ってくれるのは親です。けれども 親が 「私」と「子供」と というように分離して認識している場合に 子供は親との一体感を感じ取れませんから 自分が守られている安心感を得られません。
 では 親はどうして 「私」と「子供」と というように分離して認識してしまうのでしょうか。これは 「私」と「子供」と というだけではなくて 「自分」と「他人」と という分離した捉え方であり また同時に 「自分」が「宇宙」の中の一部としての存在であることを感じていない 宇宙と自分とを分離させた観念とからきています。
 誰でもが宇宙の中にいますから 自分を宇宙から分離させることは出来ないのに それにもかかわらず分離させようという思いが 不安を生み出します。自分を宇宙から分離させようとする思いはそもそもどこから来るのでしょうか。これは わがまま というところから来ています。「わがまま」とは「我儘」です。「私のやりかた」「私のあり方」です。この「私が」という思いが 自分と他人とを分離させ 自分と宇宙とをも分離させてしまいます。けれどもこの「分離」という観念が 宇宙から自分を分離させるという本来出来ないことをしようとしている訳ですから 当然に不安が生まれてきます。
 この不安感が 子供に移っていくことになります。
 ですので 子供がすぐに怖がるのは 親がわがままで 子供に安心感を与えるような一体感を感じさせないで育てたからです。

萎縮する・・・これは一見 怖がるのと似ています。けれども 萎縮するのは親の言動を怖がるということです。親がすぐに怒る・叱る場合に 子供は「いつまた怒られるか・叱られるか」と いつでも身構えてしまうようになります。そして エネルギーの強い子供の場合には 親の目の届かないところで鬱憤を晴らすようなことをしますが エネルギーの弱い子供の場合には いつでも萎縮してしまうことになります。そして 何も自発的に出来ない人間になっていきます。と同時に責任感の無い人間になっていきます。


子供がある程度大きくなって(13ヶ月を過ぎて)から 以下のことにも注意します。

白紙を使う・・・子供が絵を描きたくなったらば 必ず 未使用の白紙を与えます。すぐにゴミになるのだからと 広告の裏を使わせたり 書き損じの紙を与えたりせずに 必ず未使用の白紙を与えるようにします。
 子供には まだ紙に何が書かれているのか分かりません。ですから どの紙が必要なもので どれが不必要なものなのかは分かりません。それなのに すでに何かを書かれている紙を渡されたらば 無差別に手当たり次第にそこにある紙に何かを書くことになりかねません。その時に子供に注意したり叱ったりするのは 子供にとっては全くの理不尽なことです。親が「何かが書いてある紙を使って良い」と許可したにもかかわらず怒られたことになるからです。はじめから必ず白紙に書くようにしていれば その様なことは起きません。

流用しない・・・全てのものは 目的があって作られています。「何をするために」「何のために」という目的があって作られている ということは 用途が限定されているということです。三歳半までの子供には(あるいは子供の前では) 決して ものを流用せずに そのものが作られた本来の目的に適った使い方だけをするようにします。流用することによって 想像力が豊かになることも 頭の柔軟性が良くなることもありません。
 これは丁度 整理整頓された家の中で育った子供は 「片付ける」ということをできるようになりますが 整理されていない雑然とした家の中で育った子供は 「片付ける」ということが分からない人間に育ちますし それは頭の中でものごとを整理できないということですから 仕事をする上でも 人間関係においても 金銭面でも 全てにおいて「片付ける」「整理する」ということができない人間になります。決して 整理されていない雑然とした家の中で育ったからといって 想像力が豊かになることも 頭の柔軟性が良くなることもありません。
 それと同様に ものの使い方が整理して理解されていないと ものには 目的があって作られているということも理解できませんし そのものの本来の使い方でさえ分からない人間になってしまいます。これはひいては 因果関係が分からない人間になるということにもなりかねません。ですから 必ず そのものが作られた本来の目的に適った使い方だけをするようにします。

例外をつくらない・・・「いつもはこういうことはしないのだけれど 今だけ特別に(例外的に)こうする」ということが 生活の中では起こり得るかと思います。しかし 子供には 何が・いつが「いつも」で 何が・いつが「今だけの特別(例外)」なのかは分かりません。理解できることもありますが 基本的には それは理解できないと思って なるべく例外をつくらないようにします。
 特に 13ヶ月を過ぎた子供は 親(や身の周りの人)の行動をすぐに真似ますし かつ その真似がいつまた繰り返されるかは分かりません。そして子供は その親にとっての「例外」を 当たり前のこととして受け入れてしまいます。
 例えば 普段は雑巾で床を拭くのは手でしています。しかし 両手に何かを持っている時に拭かなければならなくなって「今だけ」足でした時に 子供はそれを 親がする当たり前のこととして受け取り 真似をするようになります。それを幾ら口で「今だけの特別」「例外」だと言葉で説明したとしても それは子供には伝わりません。子供は見たことをそのままに真似します。
 それでいて その真似をしたことを親に怒られたのでは 子供にとってはそれは理不尽なことです。だって「親の真似」をしただけなのですから。
   ですから 基本的に 「例外」をつくらないようにした方が そのような真似も 理不尽な叱責も避けることができます。


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ここに挙げたものが「しない方が良いこと」の全てではありません。
世の中にはもっともっと沢山の「しない方が良いこと」が存在しています。
というよりも 沢山の人々が自覚せずにそれを生み出しています。
ですから 先に挙げた「宇宙とは」を参照して そこから
それぞれに 何をした方が良いのか・何をしない方が良いのかを考え・感じ・実行して頂けたらと思います。




成長と脳波

 「脳波」とは 脳の活動の波動です。
 脳波とは一定では無く その時によって違います。

(「hz」=ヘルツとは 一秒当たりの波動の波の数のことです。)

波動名 hz 状態
δ(デルタ)波波  ~4hz 熟睡状態/無意識状態
θ(シータ)波 4~7hz 睡眠状態/内的意識状態(内的思考)/精神的世界(時空が無い)
α(アルファ)波 7~14hz くつろぎ状態/内的意識状態(内的思考)/精神的世界(時空が無い)
β(ベータ)波 14~21hz 外的意識状態 肉体意識(五感)/時空間の認識/行動
γ(ガンマ)波 26~70hz 活発な肉体運動

(実際には脳波は波動の複合であり その中でどれが強いかが上記の状態です。)

 そして 脳波は年齢によっても違います。生後すぐはゆっくりで 成長と共に脳波は速くなっていきます。
一歳=5hz 三歳=6hz 五歳=7hz 八歳=8hz つまり 胎児から幼児にかけてはδ波 小児はα波状態です。(動物もこの状態です。)そして 歳と共に脳波も一つずつ速くなっていきます。
やがて 思春期に入ると脳波はβ波の時間が長くなります。
 しかし 外からの刺激が大き過ぎると この成長は乱されます。つまりは 本来の成長よりも早くに 速い脳波へと移行してしまいます。これは 子供にとってはストレスになります。かつ 早くにβ波状態になった子供たちは 大人になってから常にβ波状態で生きることが当たり前になってしまい なかなかα波状態になることが出来ません。つまりは 心穏やかに生きることができにくくなります。あるいは いわゆる「左脳人間」つまりものごとを四角四面にしか考えられない=考え方に柔軟性が無い 創造性の無い 情緒に乏しい人間になってしまいます。
 これを避けるために すなわち「当たり前に生きられる人間」になるためには 幼少時に外部からの過剰な刺激によって脳波が本来よりも早くに速い状態になるのを避けることが重要です。「外部からの過剰な刺激」とは テレビ/ラジオ/インターネットからの音声や電磁波 あるいはコンピューターゲーム類 照明 そして(親兄弟など)周りの人たちの罵声などです。  




社会での子育て

 これら全てのことを 子供を生んだ親がすることはまず不可能です。なぜならば 子供を生む年齢の人たちは まだ人生経験が浅く つまり知識も経験も知恵も感性も 子供を育てるには充分ではないからです。
生んだ親自身が まだ人間としては子供なのです。そうすると 「子供が子供を育てる」ことになります。

 これが今の時代の子育ての最も大きな問題点なのです。

 昔の日本では違っていました。「世の中」が子育てをしていたのです。昔の世の中は「村社会」でしたので 村の全員が一つの生活共同体を作っていました。その中では あらゆることが共有されます。
共有されたのは収穫だけではありません。経験も知識も知恵も技術も共有されます。そして 責任もまた共有されます。「自」と「他」という区別が無かったからです。
 縄文時代というのは そういう世の中でした。そして それは 江戸時代が終わるまでは文化的に引き継がれてきました。しかし 明治維新後「世の中」というのが大きく変わり 「世の中での子育て」から「家庭での子育て」へと変わりました。 そして更に 戦後それは「家庭での子育て」から「個人での子育て」に変わりました。父親は子育てには関わらず 母親だけがするようになったのです。
 世の中全体で出来ることと 一個人で出来ることと その差が大きいのは明々白々です。何も子育ての知識も経験も無い人たちが 子育てをしているのです。
 一度も料理をしたことの無い人が いきなり高級フランス料理を作れるでしょうか?
 一度もヴァイオリンを触ったことの無い人が いきなりチャイコフスキーコンクールに出られるでしょうか?
 一度もテニスラケットを持ったことの無い人が いきなりウィンブルドン大会に出られるでしょうか?
 しかし 子育てに関して今の世の中はそういうことを母親にさせているのです。そして その母親は子育てに専念しているのかというと そうではありません。「子育ての費用を得るために働いている」のです。つまり 子育てをせずに家の外で仕事をしているのです。

 ということは 今の世の中では どこでも子育てが行われていないに等しいということになります。野放し状態なのです。

 これが今の世の中の有様であり その原因なのです。

 ということは それを変え解決するには「世の中の子育て」「社会での子育て」が必須であることが分かります。若い人たちは子供を生む。そして年長者が子育てをする。このような「社会全体が 社会の一員となる人間を育てる」意識を持つことが必須なのです。 今でも村社会 集落社会を続けているアマゾン原生林の中で暮らす先住民たちの中には わがままを言う子供はいません。駄々をこねる子供はいません。他人をいじめる子供はいません。引きこもりもりになる子供はいません。自殺する子供はいません。ましてや そういう大人もいません。
 なぜならば「社会全体での子育て」をしているからです。

 今の世の中は「社会」が大き過ぎるのです。だからこそ「社会全体で」何かを出来なくなっているのです。だからこそ「社会の中での責任」を感じられなくなっているのです。「顔も知らない人がいる社会」がそもそもはおかしいのです。誰でもが顔を知っている それでこそ「社会」というものが作れるのです。人間的は関わり合いが無い人たちが集まってもそれは「社会」では無いのです。
 まずは「社会」を作る。そして「社会での子育て」をする。人間の意識が本当の意味での(=宇宙の中での)成長をしていけば きっとそういう方向に行くでしょう。



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