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特別にしない

《幸也の世界へようこそ》《幸也の言葉》《公演でのお話から》 → 《特別にしない》


私達人間は普段の生活の中で
様々なことに関して 区別したり あるいは線を引いたりしています。
「自分と他人とは違う。」「自分は誰それさんとは違う。」などの他人と自分との比較。
「私の才能は他の人ほど優れていない。」「あの人は特別な才能があるから私達凡人とは違う。」
などの才能の比較。
「早く仕事の時間が終われば良いのに…」「飲んでいる時間は楽しい」など
過ごしている時間で区別する。
「折角旅行に出たんだから羽目を外そう」「お寺の中では神妙にしていよう」など 場所による違い。
このように 人間は
人間・能力・時間・空間などにおいて
様々に区別し 線を引き 自分自身のあり方を
その時その時で変えている生き方をしていることが多いのではないでしょうか。

なぜこのようにして生きているのでしょうか?

一つには 多くの人が 「自分と他人とは別個のもの」と思って生きているからです。
自他は別個のものという観念が 「違い」に目を向けさせます。
これは対象が人間だけという訳ではありません。
動物・植物・鉱物が対象の場合は もっと顕著に
「自分とその対象とは違う」という意識を持つのではないでしょうか。

もう一つの理由は 多くの人が
「自分が普通」と思って生きているからです。
これは意識しているしていないに関わらず
多くの人は その人自身のすることを当たり前だとしていることに現れています。
「無くて七癖」と言いますが
まさに沢山の癖を 当たり前のこととしてしている訳です。
癖は 自覚していないものですが
自覚している事に関してもまた同様です。
「自分が普通」という観念は 別の表現をすると
「自分が基準」ということでもあります。
多くの人が その人自身を基準として
他の人のことを 「優れている」「劣っている」
あるいは 「おかしい」「変だ」「うらやましい」「素敵だ」 
というように捉えています。
更には そう捉えるだけではなく
それに対して何らかの反応なり表現を
その人を基準とした観念でもってしています。

けれども
そのような観念と行動とは はたして
自然なものなのでしょうか?
あるいは 私たち宇宙の中の「生命」にとって
本来のものなのでしょうか?
そして そうする必要があることなのでしょうか?

このように 自他を区別し 自分を基準とするのはなぜなのでしょうか。
結局人間は 肉体をこの世に存在させ続けたいという 無意識の意志を持って生きています。
その為に呼吸をしたり 食事をしたりして生きています。
身体は休み無く 体中に血液を循環させ 意識しなくとも食べたものを消化してくれます。
それをしているのは「自分の」肉体です。
そして 自分の肉体と 他人のそれとは別のものです。
ところが 「自分の身体」を存在させ続けたい という意志が
この宇宙に存在する沢山のものの中で
「自分(の身体)を優先して存在させ続けたい」意識に変わってしまう
そしてそれが 存在させ続けることだけではなく
何かにつけて「自分を優先させたい」意識になってしまう 
実は これが「自我」「エゴ」と言われるものの始まりなのですが
無意識のうちに このような意識へと変わってしまい
かつ それを当然のこととして生きてしまっている人が
実は 非常に多い と言うよりも
地球上に暮らしている人の大部分がそう思ってしまっているのではないでしょうか。

けれども もう一度問いますが
そのような観念と行動とは はたして
自然なものなのでしょうか?
あるいは 私たち宇宙の中の「生命」にとって
本来のものなのでしょうか?
そして そうする必要があることなのでしょうか?

実は 人間のもっているもう一つの潜在的な意志があります。
それは「幸せに生きたい」という意志です。
では 幸せに生きる というのはどういうことなのでしょうか?
どういう状態が「幸せ」なのでしょうか?
それは 自分自身の能力を充分に発揮したとき
そして 自分自身の存在を充分に役立たせたときに感じる気持ちではないでしょうか。
更に言うと 自分自身の能力や存在でもって
自分自身と そして他の生命が「嬉しい」とか「楽しい」とかを
心底から感じられるようなことをしたときに感じられる気持ちではないでしょうか。

これら 「幸せ」「嬉しい」「楽しい」といった気持ちのことを
「ポジティブ」と言います。
その逆に 「哀しい」「苦しい」「つらい」といった気持ちのことを
「ネガティブ」と言います。
では一体 「ポジティブ」と「ネガティブ」とは
何でもってそう分類されるのでしょうか?
結局 宇宙のエネルギーと繋がっているのが「ポジティブ」で
繋がっていないのが「ネガティブ」です。
あるいは 単純に「繋がっている状態」と
「繋がっていない状態」と言うこともできるかもしれません。
全く 自分という一個の存在だけでもって
「幸せ」とか 「嬉しい」とが 「楽しい」と感じるでしょうか?
実は何かと繋がっている 関わりあっているところからそう感じているのではないでしょうか。
それに対して 「哀しい」「苦しい」「つらい」という気持ちの時には
人は 自分自身を何かから切り離そうとしているのではないでしょうか。


ここに一つの答えが見えてきました。
つまり
誰もが「幸せに生きたい」想いをもっているにもかかわらず
自他を別個のものと捉えることが 逆にそれを邪魔してしまっている ということです。
ということは 幸せに生きたい想いを実現させるには
「自他は別個」という観念を止めれば良い ということになります。

ところが 世の中では
沢山の人々が その「幸せに生きたい」想いを叶える為に
宗教を信じたり あるいは「癒し」といわれる療法を受けたりしています。
宗教とはそもそも 誰もが幸せに生きる道を説いたもののはずでした。
ということは その道を歩けば 誰でもが幸せになれる ということを説いているはずです。
しかし 本当のところ 宗教を信じることによって幸せに生きている人はどの位いるのでしょうか?

また 人によっては 「癒し」の療法を受けて幸せを感じようとしていますが
これもまた 本当のところ そのような療法を受けることによって
心底からの幸せを感じている人はどの位いるのでしょうか?
(これに関しては 別の項目「癒し」とは を御覧下さい。)

実は 宗教を信じている人達における
あるいは癒しの療法を受けている人たちにおける特定の観念が
幸せを感じる邪魔をしてしまっているのではないかと思います。

そもそも 「分かたないこと」「自他の間に線を引かないこと」が
幸せを感じる第一の前提でした。
一体感が その前提でした。
ところが 宗教を信じている人達の沢山が
その宗教の教祖なり 指導者なりを「特別扱い」しているのではないでしょうか?
あるいは 「自分達とは違う存在」として 例外扱いしているのではないでしょうか?
癒しを受けている人々もまた同じです。
ヒーラーのことを「特別な存在」とか「特殊な能力をもった人」とか
つまり「自分とは違う人」と思ってしまっているのではないでしょうか?

しかし 「幸せ」を感じるかどうかは 自分自身の存在や能力が生かしきれているかどうかでした。

実は 誰かのことを 「特別だ」と思うことが
無意識のうちに
自分自身の能力を充分に発揮させる邪魔をしてしまっているのではないかと思います。
つまり 誰かのことを あるいは 誰かの能力を
「特別だ」と思うことは すなわち
「自分は違うんだ」と思っているのとイコールな訳です。
そうやって 「自分は違うんだ」と思うことによって
人は その人自身の能力を最高に発揮出来るのでしょうか?
その人自身の存在を最高に生かすことが出来るのでしょうか?

誰でもが その人自身に出来ることをして生きています。
出来ないことをして生きている人はいません。
誰でもがその人自身の能力の範囲内で生きています。
けれども その範囲外の何かを望むと
それをするのに「努力」とか「無理」とかが必要になります。
でも 自分自身の存在や能力を生かしきるには 
自分自身の能力の範囲外の何かを求める必要はありません。
生かしきる=100%発揮する です。
誰もが その人に出来ることをして生きている とは言っても
必ずしもその能力を100%発揮して生きているとは限りません。
もしかしたら10%しか発揮していないかもしれません。
50%かもしれません。
けれどもそれでは自分自身の存在や能力を生かしきることは出来ない訳です。
かといって 自分自身の能力の範囲外の何かを求める必要もまた無い訳です。
つまり 「努力」とか「無理」とかは必要では無く ただ 自分自身の能力を100%発揮する
それが自分自身の存在と能力とを生かすことになります。

しかし 誰かのことを 「あの人は特別だ」と思うことによって
「自分はそうではない」と潜在的に思ってしまうことになります。
あるいは 「あの人は特別だ」と思うことによって
「自分とは違うんだ」と思ってしまうことになります。
ということは それによって 自分自身の能力を最大限に発揮させる邪魔を
自分自身でしてしまうことになります。
潜在的に 自分自身にブレーキをかけていることになります。
自他を分離させないのが幸せに生きる前提のはずなのに
自他を分離させる結果になっている訳です。

ということは
もし ある宗教団体において
その教祖なり指導者が 自らを特別視させているような場合
それは 実は信者たちを本当には幸せに導いていない ということになります。

上に立つ人 他の人々を導く人 つまり 波動の高い人とは
本来 他のものをそれに近付けていく引き金に あるいは磁石になるべきものです。
他の言い方をすると 他の存在をそこに近付けていく指標であり目標であり
あるいはモデルであるべきものです。
全ての存在は その存在そのものや その能力を最大限に生かすことによって
幸せを感じると共に
それによって成長します。
上に立つ人 あるいは波動の高い人とは
ですから より成長した人であって
だからこそ 他の存在にとっての未来の姿を体現しているとも言えます。
だと言うことは
もしそこに自他の分離の意識があったとしたら
それは決して叶わないことになります。

ですから
自らの意識の中に
「特別」あるいは「例外」といった観念が入っていないかを
確認することは 幸せを実感するために
あるいは成長するために とても大切なことになります。
何かを あるいは 誰かを特別な存在としてしないか。
誰かの能力を 特別なもの あるいは例外的なものとしていないか。

また 時間的な あるいは空間的なことに関しても同様です。
祈りとか瞑想の時間を一日の中でとっていたとしても
もしも 瞑想のための時間 あるいは 祈りのための時間を
一日の生活の中で他から切り離して特別なものとしているのだとしたら
だったら それ以外の時間は何なのでしょうか?
それ以外の時間は 嘘なのでしょうか?

もしも 教会や神社に行ったときに
それ以外の場所や時間とは違うと捉えているのだとしたら
矢張りそれも 普段は嘘を生きていることになるのでしょうか?

教会や神社にいるときが「特別」
瞑想している時間や 祈っている時間が「特別」と思うのは
それもまた 分離した考え方をしているがために
普段の生活を その「特別」に近付けていくことを難しくさせてしまいます。

ですから
人・才能・時間・空間 どれをとっても
誰か あるいは何かを 特別扱いしないこと 例外としないことによってこそ
自分自身の能力を最大に発揮することが出来ますし
その理想に近付いていくことができます。

誰と一緒にいても その人の幸せを願っているか。
どこにいても 心に平安を感じ 祈りの境地にいるか。
いつでも・どこでも・誰とでも・何にでも 自分の100パーセントを
自分にできる最高のことをしているかどうか。
そういう状態に自分自身をしていくことが
理想に近付いていく 一番の近道ではないでしょうか。

そして 自他を分かたないということは
良く感じる しっかりと味わうということでもあります。
味わう とは 対象と一体になることです。
感じる というのも 本来は相手の何かを感じるということです。
しかし 多くの人が 感じる行為を「自分の感じ方」だと思い
そこに好き嫌いの気持ちを入れることを
あるいは 良い悪いの判断をすることを当然だと思っているようです。
けれどもそれでは 本当には感じていることにはなりません。
感じるとは 相手の何かを受け止めることです。
決して自分自身の受け止め方・受け入れ方を言う訳ではありません。
これは例えて言うと 入り口の大きさよりも大きなものは入らない ということです。
対象を感じているのか 入り口の大きさを感じているのか
それを取り違えている人が実は多いのではないでしょうか。
それが 「自分自身」を基準にしている現れなのですが。


なぜ 対象と一体となって 感じること 味わうことが大切なのかというと
人間の行動は
感じる→決心する→行動する という行程をとるからです。
もう少し詳しく見ると
感じることが二段階になっていて
感じる(受け止める→味わう)→決心する(決断する)→行動する(実行する)
という 四つの過程だと捉えられます。
ということは この四つの過程は
起承転結になっているのですが
この起承転結の四過程によって 人間はより良い行動が出来るからこそ
最初の「起」に相当する「感じる(受け止める)」ことが
とても大切なことな訳です。
感じること無しには 決心や行動は独りよがりのものになりかねません。
決心しないで行動すると しっかりとした行動にならずにいい加減なものになってしまいます。

あるいは この「感じる」ことには
インスピレーションを受け止めることも含まれるかもしれません。
つまり この過程では 全くの受身になることが肝心なのですが
「自分」という意識が必要無い とも言えます。
入り口を大きくしておかないと 入り口以上に大きなものは入ってきませんから。
しかし その後になって 「自分」という意識が必要になってきます。
なぜなら 決心するのも 行動するもの 「自分」だからです。

そして 「起」に相当する
「感じる(受け止める・味わう)」の過程を最も効率良くするためにも
何かを特別だと思ったり 例外だと思ったりすることは必要無いどころか
障害になってしまいます。


ですので
より良く生きたい 幸せに生きたい 幸せを生み出したい
と思って生きている人にとって
何かを特別扱いする気持ち 例外扱いする気持ちが
たとえそれが 何かに対する敬虔な気持ち 尊敬や憧れからきているにしても
実はその気持ちが
自他を分かち 一体化を妨げることになってはいないかを確かめることは
そして 自分がその対象に近付くのを妨げる原因になってしまっているのではないかを確かめることは
とても大切なことのように思えます。


(この項は《 快感と感動 》へ続きます)



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