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ロンドン・ナショナルギャラリー

その主要展示作品

《幸也の世界へようこそ》《幸也の書庫》《絵画を見る目・感じる心》 → 《ロンドン・ナショナルギャラリー》

この文章は ロンドンのナショナルギャラリーで見た作品から得た印象をまとめたものです。
(個人の印象ですので 絵の解説ではありません。)
また 画像を添付したのはどの絵か分かるようにであって
本物を見なければ絵からのエネルギーは受け取れません。

【目次】
ロンドンのナショナルギャラリー
①《婦人の肖像画》?作・・・「喜び」
②《雨傘》ルノワール作・・・「慈愛」
③《バレーダンサー》ドガ作・・・「生命力の発露」
④《聖体拝領》ニコラス・プサン作・・・「神性」
⑤《岩窟の聖母子》レオナルド作・・・「宇宙の中の地球」
⑥《読書をするマグダラノマリア》ロヒール・ファン・デル・ウェイデン作・・・「非物質界」
⑦《三王の礼拝》ペーテル・ブリューゲル作・・・「カトリック批判」
⑧《ジョヴァンニ・アルノルフィーニ夫妻の肖像画》ヤン・ファン・アイク作・・・「キチキチの写実」
⑨《思い出》ヤン・ファン・アイク作・・・「身元不明人の肖像画」
⑩《向日葵》《椅子》フィンセント・ファン・ゴッホ作・・・「神の眼差し」

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 


ロンドンのナショナルギャラリー

ロンドンのトラファルガー広場に面して建っているナショナルギャラリーは
2025年に創立200年を迎えました。
開設以来 幾多の寄贈を受け 今日では
パリのルーヴル美術館と並んで 世界で最も質の高い美術館とされています。

この美術館は その多くの所蔵品を整理するために 四つの部分に分かれています。
(しかし 2025年3月現在 1400年までの作品の部門は閉鎖されています。)

また 概ね年代順の展示ではありますが それぞれの部屋はジャンルごとに纏められています。

ここでは 数回見学に行った時の印象を記していますけれども
全ての所蔵作品2600点が常時展示されているわけではありませんので
素晴しい作品 有名な作品でも ここで取り上げていないものもあります。
(また 公式ウェブサイトで取り上げている「必見の30点」とも合致しているわけでもありません。)
初めの六つが「最も素晴しい」と感じた(すなわち 自分の人間性に影響を与えるような)作品
そして その後に挙げたものは「有名な」(=多くの人が立ち止まっている)作品
あるいは 氣になった作品です。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 


① 《婦人の肖像画》
?作・・・「喜び」

RobertCampin_portrait_vrouw_(1425-30)_165x240.jpg(52461 byte)
(縦40,6cm 横28,1cm)
(ここをクリックすると大きい画像が別画面で開きます。)

この作品は 「Robert Campin ロベール・カンパン作」だとされています。
(しかし 明らかに違います。彼の他の作品と比べてみれば一目でわかります。)
15世紀初めの フランダース写実主義絵画の初期のものです。
ですので 画面の中の何もかもが「本物そっくり」です。
しかし 「本物そっくり」を通り越して 生身の女性が目の前に居るとしか思えない描き方です。
それは 「生命感」が溢れ出ているからです。
「瑞々しさ(みずみずしさ)」が溢れ出ているからです。
「作品に生命を(あるいは魂を)吹き込む」という言い方がありますが
この作品は生命感が吹き込まれているのでは無く 生命感そのものなのです。

しかし それ以上に伝わってくるのは
この女性の肖像画がこのように描かれたその仕上がりに
彼女の夫はどれほどに喜んだか という喜びの気持ちです。
(つまり 描かれている人の気持ちでは無く 彼女の夫の気持ちが現れているということです。)

ですから この女性は既婚者です。彼女の夫の肖像画も在ります。
(並べて展示されている時と 間に他の作者の作品が挟まっている時とがあります。
後者の場合には いかにも奇妙な印象で 全く不可解な展示の仕方です。)
赤いターバンを頭に巻いているのが 彼女の夫です。

RobertCampin_Portrait_man_(1425-30)_164x240.jpg(53829 byte)
(縦40,7cm 横28.1cm)
(ここをクリックすると大きい画像が別画面で開きます。)

二人共に お互いを見ている視線です。
どちらも愛情のこもった眼差しです。
しかし 妻の方の肖像画には 描かれた本人の喜びの気持ちでは無く
夫の気持ちが籠められています。
ということは この絵を描いたのは 彼女の夫です。
ですから 夫の肖像画の方は自画像だということになります。
そうです この奥さんのことが可愛くてたまらないのです!!
と思いきや 夫の方を良く見てみると
「彼女はすでに死んでいる」と言っています。
ということは 彼女の顔は生きている時の顔を描いたのでは無く
死んでから 奥さんがそばでずっと生き続けているかのように描いたということになります。
亡くなった奥さんを愛し続ける気持ちの強さが これ程の生命感となっているのです。
本当に素晴しすぎる作品です。
この作品一点を見るためだけでも ナショナルギャラリーに行く価値はあります。

ところで この画家は誰なのでしょうか?
この描き方は ヒューベルト・ファン・アイクでしょう。

ちなみに 同じ部屋に弟のヤン・ファン・アイク作の(彼の代表作の一つとされている)
「ジョヴァンニ・アルノルフィーニ夫妻の肖像画」があります。
そして 彼の(同じく赤いダーバンの)自画像だとされる作品もあります。
比べてみると 兄弟の描き方の違いがはっきりと分かります。
そして その違いが ベルギーのゲントにある「神の子羊」の絵で描かれている
この兄弟の描き方の違いと同じものなのです。

(上記のように ナショナルギャラリーでは この二つの作品は
ロベール・カンパンのものだとされています。
カンパンは 作品に署名を入れたものは一点もありません。
ですので 全て推測憶測で彼の作であろうとされています。
以下のページで彼の作だとされている作品の一覧をご覧いただけます。
これらと比べてみれば この二つの肖像画が彼の手によるものではないのは一目瞭然です。)
「Robert Campin 作品一覧」


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② 《雨傘》
ルノワール作・・・「慈愛」

PierreAugusteRenoir_The_Umbrellas,_ca._1881-86_LNG_305x480.jpg(55957 byte)
(縦180.3cm 横114.9cm)
(ここをクリックすると大きい画像が別画面で開きます。)

パリの雑踏で 急に降り出した雨に傘を差す人々のようです。
しかし そういう情景だということを見る前に 描かれている人々の表情や仕草から
「慈愛」というものが伝わってきます。
女の子と その子を見る母親の表情。
それ以外の人々も 誰の顔にも「慈愛」が溢れています。
画面全体からも「慈愛」が溢れています。

この絵は 他のルノワールの作品と比べてみると
色合いが「ルノワールらしさ」が出ていなくて
黒を多用した 彩りが少ない作品のようです。
しかし あえて比べる必要もありません。
他の作品でどういう色使いをしようと この作品の価値とは関係ありません。
それでも比べてみると 他の作品では「生きる喜び」が表現されているようですけれども
この作品ほどに「慈愛」を表しているものはありません。
慈愛とは 特定の人だけに向けられた愛ではありません。
人間全般に対する あるいは生き物全般に対する愛です。
生命に対する愛です。
この絵にそれが表現されているということは すなわちルノワール自身が
その慈愛の眼差しを持っていたということです。
そして それこそが彼の「悟りの境地」「次元(あるいは波動)の高さ」であり
(私たち凡人よりも)「神に近い存在」であることの証しなのです。


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③ 《バレーダンサー》
ドガ作・・・「生命力の発露」

EdgarDegas_BalletDancers_ca1890-95_LNG_247x240.jpg(84634 byte)
(縦72.5cm 横73cm)
(ここをクリックすると大きい画像が別画面で開きます。)

ドガは 代表作とされる「踊り子」を初めとして
バレリーナの姿を描いた作品を多く残しています。
これもその内の一点です。(同じ題名の作品が他にもあります。)
数人のバレーダンサーが一列になって 練習をしているのか 踊る準備をしているのか。

身体の動きに籠められた生命感が ひしひしと伝わってきます。
バレーダンサーにとって 「生きる」とは「踊る」ということです。
しかし この絵では「踊る」ことよりも「生きる」ことの方が出ているようです。
舞台の上での本番を踊っている様子ではありません。
主役を踊る華やかさが表現されているわけではありません。
それなのに この絵からは「生命の躍動」とも言える生命感が溢れ出ています。

ドガが 人間の身体の動きや姿勢にその人の感情が現れていることを絵で表現している
その彼の特色が発揮されています。


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④ 《聖体拝領》
ニコラス・プサン作・・・「神性」

NicolasPoussin_The Eucharist_1647_240x306.jpg(70161 byte)
(縦95.5cm 横122cm)
(ここをクリックすると大きい画像が別画面で開きます。)

天井の高い部屋の中で イエスによる聖体拝領が行われています。
イエスの顔も 十二使徒一人ひとりの顔も はっきりとは描かれていません。
ですから 一人ひとりのこのときの感情を表すことよりも
全体の印象の方を重視したのでしょう。
実際に 絵全体の雰囲気が厳かさを現しています。
この世の一場面と言うよりも 天に近いどこかでの一場面のようです。
その雰囲気は 真中のイエスから広がっているようです。
厳かと言うだけではないこの雰囲気は どういう言葉で表現できるでしょうか?
「神性」なのかもしれません。

そのような表現ができるということは 作者プサンは
イエスに近い何かを持つ人だったのでしょうか?
彼は 意味を隠した神秘的な絵を幾つも残しています。
(この絵の近くに 彼の他の作品が複数展示されています。)
この絵は特に 「神性」を感じさせる雰囲気で満たされています。


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⑤《岩窟の聖母子》
レオナルド作・・・「宇宙の中の地球」

この作品とほぼ同じものがパリのルーヴル美術館にあります。

Leonardo_da_Vinci_Virgin_of_the_Rocks_1491-1499_1506-1508_LNG__311x480.jpg(43651 byte) Leonardo_Da_Vinci_Vergine_delle_Rocce_1483-86_(Louvre)_302x480.jpg(155963 byte)
左=ナショナルギャラリー蔵 右=ルーヴル美術館蔵
(縦189.5cm 横120cm)
(画像をクリックすると大きい画像が別画面で開きます。)


右側の天使ウリエルの手と
(後から書き加えられた)長い十字架と光輪
そして全体の色調が 主な相違点のようです。
しかし 全体の構図や雰囲気は共通しています。

レオナルドの作品は ルーヴル美術館で見た「聖母子と聖アンナ」の印象が強かったので
それと比べるような見方になってしまいますが
この作品にも同様の「宇宙」を感じることができます。
建前としては キリスト教絵画です。
しかし実際に描かれているのは つまりレオナルドが表したかったのは
それを通り越したもっと大きな世界観/宇宙観のようです。
それと同時に キリスト教カトリックとイエス・キリストとの関係をも表現したかったのでしょうか。

背景には「モナリザ」や「聖母子と聖アンナ」と同様に
荒涼とした 地球上の場所とは思えないj景色が描かれています。
なぜ こんな場所に彼らは居るのでしょうか?

四人の人物は 四角形を形作っているというよりも
三角形の組み合わせで配置されているように あるいは
聖母の左手を交差部とする十字の形のように感じられます。

二人の子供は どちらがイエスでどちらが(後の洗礼者)ヨハネなのでしょうか?
ヨハネの方が半年早い生まれですから 身体が大きい方がヨハネのはずです。
つまり 左に描かれているのがヨハネ 天使のそばに描かれているのがイエスです。
しかし 聖母のそばにいるのがイエスではないかと
(あるいは 位置的に上にいるのがイエスだと)
思う人がいても当然です。
ですので 第三者の手によって ヨハネに(彼のシンボルである)柄の長い十字架が描き加えられたようです。
(つまり 十字架はキリストの象徴ではあっても 柄の長い十字架は洗礼者ヨハネの象徴であることを
誰もが知っているという前提で付け加えられたわけです。)
そのヨハネは イエスに向かって祈っています。
あるいは 何かをお願いしているのでしょうか?

それに対して イエスはヨハネを指差して 何か言っているようです。
(パリの作品では ウリエルもまた右手でヨハネを指差しています。)
何か 諭しているのでしょうか?
「自分よりも先に生まれた使命や役割があるんだよ」と言っているような。

聖母は どちらの子供を見ているわけでも無いようです。
つまり どちらにも同じように気持ちを向けているようです。
聖母の右腕からヨハネへ ヨハネからイエスへというエネルギーの流れと
聖母の左手は イエスに触れずにエネルギーが流れて行っている という
二つの流れが在ります。
しかし 手が触れているために ヨハネの方により多くエネルギーが注がれているように思えます。
聖母の左手が イエスに触れずにエネルギーを送っている というのは
何を意味しているのでしょうか?

上下の位置関係が 上から 聖母マリア/ウリエル/ヨハネ/イエス となっていますが
姿勢のために その流れというのは見えてきません。
このような配置になっているのは なぜでしょうか?

いや そもそもこの場面に なぜ天使であるウリエルが居るのでしょうか?
天使は非物質ですから 肉体を持ちません。
ということは この場面は 物質界における情景を描いているのでは無い ということになります。
イタリアでは 絵画の制作を画家に注文する際に
注文主と画家との間で詳細な契約書が交わされました。
絵の題材/登場人物/その配置/服/背景 などなどが予め決められました。
ということは この絵は注文主がこのように描かれることを希望したわけです。
幾つもの「?」に どういう意味が籠められているのでしょうか?
これらの 幾つもの「?」がちりばめられたこの絵で
レオナルドは何が鑑賞者に伝わることを期待したのでしょうか?

パリの「聖母子と聖アンナ」が現しているように この絵でも
聖母マリア=太陽 ヨハネ=月 イエス=地球 ウリエル=宇宙エネルギーを
現しているようにも見えます。
(しかし それでも上記の全ての「?」が解決したわけではありませんが。)
たとえ 意味が分からなくても 私たちはこの絵から「何か」を感じ取っています。
もしかしたら レオナルドは言語での理解を超えた何かを鑑賞者に伝えたかったのかもしれません。
(伝えるというよりも 「感化する」という方が近いかもしれません。)
あたかも 音楽のように。
それが 素晴しい美術作品の共通点の一つなのです。


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⑥《読書をするマグダラのマリア》
ロヒール・ファン=デル=ウェイデン作

RogierVanDerWeyden_The_Magdalen_Reading_1438_LNG_410x480.jpg(54990 byte)
(縦62.2cm 横54.4cm)
(ここをクリックすると大きい画像が別画面で開きます。)

一目見て 「変だ」という印象と マグダラのマリアの素晴しさとの二つを感じ取れます。
変だと感じるその理由は 大きな絵から切り取られた一部だからです。
そもそもの(この時代としては)大きな絵から四分の一弱が切り取られて
マグダラのマリアの姿だけになり それがために
絵の他の部分が 中途半端になっています。

しかし 切り取った理由も想像できます。
マグダラのマリアが余りにも素晴しいからです。
そして その部分だけでも充分な大きさだからです。
「他の部分は要らないよ」と思われたのでしょう。

初期フランダース写実主義絵画として 全てのものが克明に本物そっくりに描かれています。
しかし そこにはヤン・ファン=アイクのような「キチキチ感」はありません。
(これは この後⑧で取り上げています。)
そして その柔らかさは マグダラのマリアの顔にも表れています。
これらの感じはいったい何なのでしょうか?

ファン=デル=ウェイデンは 物質を描きながらも
物質を越えたものを描いていたのです。
つまり 非物質の世界です。
様々な波動の巨大な集合体である宇宙の中で
物質を構成している波動は ごく僅かです。
宇宙のほとんどは 非物質の波動です。
まさにその「宇宙の中で 物質は僅かな部分」であることが表現されているようです。
マグダラのマリアの顔や姿にもそれが現われています。
私たち人間は 非物質の生命エネルギー体が肉体に宿っているのです。
(その一部をオーラとして見ることが出来る人がいます。)
ファン=デル=ウェイデンの描き方は それを表現している 表現し得ているのです。
そしてだからこそ 絵の全体を「清純さ」が覆っているのです。
「安らぎ」が覆っているのです。
まさに 絵の全体が「天界」となっているのです。

この絵は 彼の作品の中でも特にその特色が発揮されている絵のように思えます。


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⑦《三王の礼拝》
ペーテル・ブリューゲル作・・・「カトリック批判」

PeterBruegel_de_aanbidding_door_de_wijzen_(1564)_LNG_359x480.jpg(107544 byte)
(縦112.1cm 横83.9cm)
(ここをクリックすると大きい画像が別画面で開きます。)

ブリュッセルにあるベルギー王立美術館に この絵と似た構図の絵があります。
しかし その絵はブリューゲルの油絵作品としては初期のものであり かつ
(この時代としては例外的に)キャンヴァスに描かれたもので
保存状態が良くありません。
なので 何が描かれているのか不明瞭です。
それに対して この絵は保存状態も良く ですから
何が描かれているのかはっきりと見て取れます。
ですので ブリューゲルが何を表現しているのかも またはっきりと見て取れます。

この絵の題材は「三王の礼拝」すなわち「東方の三博士」とも言われている場面です。
将来の救世主イエスが生まれたことを知った東方の三人の星占い師が
星に導かれて イエスが生まれた馬小屋にやって来ます。
後の時代に 星占い師は三人の王ということに置き換えられました。
三人とは 白色人種/黄色人種/黒色人種の代表ということであり
世界の全ての民族がイエスの誕生を祝うという設定となったわけです。
そして 王たちは高価な捧げ物を持ってきます。

さて この絵を見てみると違和感だらけです。
誰もが貧相な顔をしています。
三人の王も 高価な服を身に付け 高価な捧げ物を持ってきてはいますけれども
王としての威厳がありません。
絵全体としても 宗教画らしい雰囲気が全く出ていません。
聖母マリアの右上に描かれている 髭の老人がブリューゲル本人のようです。
その右側にいる男が ブリューゲルにひそひそとなにか耳打ちしています。
左下に描かれている王の右の袖は なぜあんなに長いのでしょうか?

そして 全ての人物が貧相な顔で描かれているだけでは無く
目がうつろです。
きちんと見ている人がいないようです。
そして 一人も耳を出していません。

この絵は一体何を描いているのでしょうか?

ブリューゲルの時代 16世紀後半はヨーロッパでは宗教改革のために
旧教カトリックと新教プロテスタントの激しい対立が起こり
世の中は大混乱になりました。
そういう中で ブリューゲルはカトリックだったのかプロテスタントだったのか?
あるいや カトリックやプロテスタントをどう思っていたのか?
その答え(の一部)がこの絵だということです。

「見ざる/聞かざる/言わざる」

カトリックは ヨーロッパ全体を統治し 全ての人を支配していました。
カトリックの教義以外のことはありえないのです。
カトリックの枠組みに全ての人を押し込め カトリックという檻に入れていたのです。
そういう中で カトリックの教義と違うことは 見ることも聞くことも言うこともできません。

そして カトリックの聖職者たちは 人々からの献金を私利私欲のために使っていました。
そういう世の中で 聖職者たちへの賄賂も横行します。
溜め込んだ「袖の下」で 聖職者の服の袖が伸びてしまったのです。

そういう中で ブリューゲルは誰かに真実を告げられています。

嘘と腐敗とで築き上げられているカトリックの世界を このような
宗教心を感じさせない 貧相な表現で描き出しているのです。

なんて分かりやすい絵なのでしょうか。


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⑧ 《ジョヴァンニ・アルノルフィーニ夫妻の肖像画》
ヤン・ファン=アイク作・・・「キチキチの写実」

JanVanEyck_The_Arnolfini_portrait_(1434)_LNG_351x480.jpg(41051 byte)
(縦82.2cm 横60cm)
(ここをクリックすると大きい画像が別画面で開きます。)

初期フランダース写実主義の代表者とも言われているヤン・ファン=アイクの有名な作品。
なぜ有名なのでしょうか?
一つには 写実主義の極致も言える 画面の中の全てのものが 本物そっくりに克明に描かれているからです。
(ただし そういう点ではベルギーのブルージュにある
「聖母子を崇めるファン=デル=パーレ」の方が完成度が高いようです。)
もう一つには この絵の中には「謎」が幾つも描かれているからでしょう。
描かれているのがジョヴァンニ・アルノルフィーニ夫妻であることは分かっています。
しかし これは結婚の記念に注文されたものなのでしょうか?
そういう状況には思えません。
しかし それなのに「ヤン・ファン=アイクがこの場にいた」という但し書きがあります。
あたかも結婚の証人であるかのように。
この時代には 日常の一場面を絵に描くことはありませんでした。
ですから そういう場面では無さそうです。
しかし なぜサンダルが二足共にきちんと揃えられていないのでしょうか?

この絵は有名なので ほとんどの見学者がこの絵の前に立ち止まり 写真を撮ります。
そして ガイドたちも長々と説明をしています。
しかし 見学者たちは この絵の何を「素晴しい」と思ったのでしょうか?
ガイドたちは この絵の何を「素晴しい」と説明しているのでしょうか?
確かに 全てのものが克明に描かれています。
これはすごいことかもしれません。
しかし (他の彼の作品同様に)余りにも「キチキチ」と描かれていて 息が詰まりそうです。
そして (これも彼の他の作品と同様に)人の顔に生気がありません。
まるで人形のような 物質的な描き方です。
(これが 先述したロヒール・ファン=デル=ウェイデンとの大きな違いです。)

美術館には絵を見に行ってはいるのですが しかし同時に
見に来ている「人間」の方にも興味があります。
一体人々はこの絵に何を感じているのでしょうか?
何を素晴しいと思ったのでしょうか?
それとも単に「有名だから」見ているのでしょうか?

この絵を見てから 再度先述した(すぐそばに展示されている)《婦人の肖像画》を見ると
より一層 「生命感」を感じ取れるかもしれません。
あるいは ロヒール・ファン=デル=ウェイデンの「マグダラのマリア」と見比べてみると
より一層 「非物質の世界」をも描かれていることが感じ取れるかもしれません。


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⑨ 《思い出》
ヤン・ファン・アイク作・・・「身元不明人の肖像画」

JanVanEyck_Leal Souvenir_1432_LNG_n-0290-00-000131-hd_480x480.jpg(154231 byte)
(縦33.3cm 横18.9cm)
(ここをクリックすると大きい画像が別画面で開きます。)

上記の絵の隣に 同じくヤン・ファン・アイク作の《思い出》と題された小さな肖像画があります。
この一枚だけを見ると 当たり前の男性の肖像画のように思えるかもしれません。
しかし 他のヤン・ファン・アイクの作品を知っている目からすると
彼の作品としては 特異な描き方に思えます。
なぜならば 彼のお得意である「無機質な 物質的な顔」では無いからです。

ここに描かれているのが誰なのかは 記されていません。
これもまた特異なことです。
なぜならば この時代には肖像画は金持ちが画家に注文して
本人か家族かの肖像画を描かせるのが当たり前だったからです。
そして 描かれているのが誰だかわかるように 家紋や名前を入れるのが当たり前でした。
しかし この絵は「思い出」と題されているだけで 描かれているのが誰なのかは記されていません。
それは 記せない事情があったから? ということになります。
この時代は 宗教改革が起こる前の ヨーロッパの誰もがカトリック信者だった時代です。
誰もが 家の近くの地区教会に属していましたが
金持ちは更に 信仰を深めるための親睦団体にも属していました。
ヤン・ファン・アイクもブルージュでそのような団体の一つに属していました。
ここに描かれている人は その団体の事務員をしていた人のようです。
しかし 彼は同性愛者でした。
この時代 ブルージュでは同性愛に対して非常に厳しく
フランダース地方で最も多くの同性愛者が「異端」ということで死刑となりました。
異端で死刑になるということは その人は人間ではないと認定されるということであり
なので その人がこの世に生まれて生きたこと自体が抹消されます。
ですから 名前を出せないのです。
しかし 彼は ヤンにとってとても大事な人だったのでしょう。
弟のように可愛がっていたようです。
その「大事」という気持ちがこの絵には表れています。
その気持ちが この絵を彼の絵としては例外的に「生身の人間」として描せたのでしょう。

そうすると もう一度隣にある《ジョヴァンニ・アルノルフィーニ夫妻の肖像画》を見てみると
「どうして 顔を無機質に 物質的に描いたのだろう?」という疑問がますます強くなります。


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⑩ 《15本の向日葵の静物画》《ファン・ゴッホの椅子》
フィンセント・ファン・ゴッホ作・・・「神の眼差し」

VincerntVanGogh_Still Life_Vase with Fifteen Sunflowers_1888_LNG_380x480.jpg(57950 byte)
(縦92.1cm 横73cm)
(ここをクリックすると大きい画像が別画面で開きます。)

ゴッホは向日葵の絵を幾つも描いています。
晩年に 三日に一枚ずつ仕上げていたようです。
その中で 「最も出来が良い」とされているのが
このナショナルギャラリー所蔵のものだということですので見てみました。
そして 同じくゴッホの有名な作品《椅子》も同じ部屋にあります。
VincerntVanGogh_stoel van Gogh_1888_LNG_n-3862-00-000042-hd_480x480.jpg(225479 byte)
(縦91.8cm 横73cm)
(ここをクリックすると大きい画像が別画面で開きます。)

先にも触れましたが 美術館では 絵画だけでは無く人間も見ています。
多くの見学者がこの二枚の絵の前で立ち止まります。そして写真を撮ります。
しかし この冴えない色の向日葵や 歪んだ椅子の絵を
「素晴しい」とか「美しい」とか感じているのでしょうか?
そうとは思えません。
一体 何を感じ取っているのでしょうか?
「有名だから」見ているのでしょうか?
では「なぜ有名なのか」は考えてみたのでしょうか?
なぜ 美しいとも思えない絵が何億円何十億円もの値段が付けられているのか
考えてみたことはあるのでしょうか?
不思議です。本当に不思議です。
美術館で「絵を見る」ということは 一体何なのでしょうか?
「有名な作品(の本物)を見た」ということが 満足感を生むのでしょうか?
そのために多くの人が海外からやってくるのでしょうか?
インターネットの発展に伴って ますます「見る」という行為が
「一瞥する」だけの行為となっているようです。
一瞥しただけで 見たつもりになる。
その対象から 何の情報も受け取っていなくても。
そういう人が多い中でも しかしきちんと絵の前で立ち止まって見ている人もいます。
ですが 心底「素晴しい」と感じている様子の人はほとんどいません。
ロンドンのナショナルギャラリーは 素晴しい作品があるだけでは無く
「ものすごく素晴しい作品」がある美術館です。
(それなのに入場無料です。貧富に関わらず誰でもが芸術に触れられるようにという国策によってです。)
作者が 人生をかけて描いた まさに「魂を籠めた」作品が見られるのです。
ファン・ゴッホは 聖職者になる夢を(ということは 神と関わる仕事をしたかったわけですが)諦めて
絵が全く売れず 収入が全く無くても それでも絵を描き続けました。
何かに取り憑かれたかのように描き続けました。
まさに「魂を籠めて」描いていたのです。
しかし 彼の頭の中の様子が 絵に描き出されているようです。
「美しく描こう」と思ったわけではなさそうです。
「美しいものだから描こう」と思ったわけでもなさそうです。
彼なりに見えている様子 あるいは印象を描いているようです。
描いている対象が「美しい」「素晴しい」と思えるものではなくても
しかし 存在しているということは 何らかの価値があるのです。
美人では無い人にも 存在している価値があるのど同様に。
そういう目で見られるということが すなわち「神の眼差し」なのです。


(2025/03/30)


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