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芸術の目的

<《幸也の世界へようこそ》《幸也の言葉》《祈りの言葉》 → 《芸術の目的》


【目次】

* 芸術とは 表現の手段・伝達の手段~何を表現し 何を伝えるのか

* 過去の芸術~本来の目的を果したか?

* 人はなぜ感動するのか~魂の共鳴~感動は生命力の表れ

* 芸術と宗教~人の幸せを導くもの~誰もが表現者


① 芸術とは 表現の手段・伝達の手段~何を表現し 何を伝えるのか

私たち地球人類は 今までに沢山の「芸術作品」を生み出してきました。
私たちはそれらの作品~音楽・美術・建築・文学等に触れ そこから何かを感じ
人生の歓びの一つとしてきました。
しかしながら 「芸術作品」とはいっても
全てのものに等しく歓びや美しさを感じる訳ではありません。
それぞれの作品によって 私たちの感じるものは違っています。
そしてまた 同じ作品に接しても 人によって感じ方・受け取り方が違います。

それぞれの作品から私たちが何かを感じ取るということは
実は 一方的に受け取るのではなく 作品そのものが何かを発している
それを感じたり受け取ったりしている訳です。
つまり 芸術作品に触れる とは
その作品と向かい合ってコミュニケーションをとっていることになります。
ですからそれぞれの作品を作り出した人(製作者・芸術家・創造者などと言われますが)は
その作品に出会った人々に何かを伝えたいからこそ 作品を作り出していることになります。
私たちは一般に言葉でもって意思の疎通をし 情報を交換し合っています。
けれどもそうでない形でのコミュニケーションの方法として
表現し伝達する手段として芸術作品を作り出している訳です。
「言葉」という記号ではない 違った形での表現・伝達の手段が芸術だともいえます。
では 芸術とは 一体何を伝える為の手段なのでしょうか?
何を伝えるのが目的なのでしょうか?
それは作者によって あるいは作品によって違ってはいるかもしれませんが
しかし 何か共通した基本となるものがあるのではないでしょうか。

② 過去の芸術~本来の目的を果したか?

現代の私たちが 過去の芸術を振り返ってみたとき
それらには大きく分けて二つの分野があることに気付きます。
世俗芸術と 宗教芸術です。
そして 芸術の歴史を振り返ってみると 芸術はそもそも
宗教芸術として始まったのではないだろうかと思えます。
神を招く儀式の為の印・記号として絵画が始まりました。
祈祷の声が抑揚を増して歌になりました。
そして地上において神と一体になるための祈りと瞑想の場として教会建築が始まりました。
ということは 芸術と宗教とは重なり合っている または 同じところから出ている
とも言えるのではないでしょうか。
そもそも 宗教とは 誰もが「幸せに生きたい」思いを実現する為の手引きです。
どうやったら実際に幸せに生きられるのかの導きです。
そして 私たちが素晴らしい芸術作品に出会った時に感動し 幸福感を感じるのは
その 「幸せに生きたい」気持ちの何かと結び付いているからであり
つまり 芸術もまた 私たちに「幸せ」というものを感じさせる為に
あるいはその導きとなる為に存在しているのではないでしょうか。

けれども 今までに作られたいわゆる「芸術作品」の中で
本当に感動出来るもの あるいは 幸福感を味わえるものはどれ位あるでしょうか。
それぞれの作品がメッセージとして作られてはいても
「しあわせ」あるいは「感動」を伝えているものがどれ程あるでしょうか。

③ 人はなぜ感動するのか~魂の共鳴~感動は生命力の表れ

そもそも 人はなぜ感動するのでしょうか?
どういう時に感動するのでしょうか?

感動とは 何かに接して心の奥底から
「素晴らしい」とか「美しい」とか「有難い」とか「嬉しい」とか感じることですが
でも 本当に感動した時にはそういう言葉は出てきません。ただ感動しているだけです。
胸がドキドキしたり 悲しい訳でもないのに泪が出てきたり 身体がジンジンと痺れたりします。

私たち 宇宙に存在しているものは 全て「生命」です。
そして その「生命」は「生ききること」を目的に生きています。
「生ききる」とは その生命の持っている可能性・能力を最大限に発揮して生きることです。
人間もまた それぞれの人がその人なりの性格・特徴・能力・長所等を持っています。
そしてそれらを最大限に発揮した時に 人は幸せを感じます。
なぜなら それらの能力や長所は それを発揮することによって
その人自身と他の生命とが生き活きと生きられるようになる為にこそ持っているものだからです。
つまり 誰にでも どの生命にも その根底には「幸せに生きたい」欲求があります。
その欲求は 誰もが幸せに生きられるようにと自らの能力を発揮した時に満たされます。
そしてその時に 人はもっとも輝いています。
もっとも充実しています。
もっとも生き活きとしています。
実は私たちが感動するのは そのような
生命の煌き 生命の輝き 生命の生きる歓びが感じられた時なのです。
そこに私たちは「素晴らしさ」「美しさ」「有難さ」などを感じるのです。
その時に 対象の中に見出した生命の煌き・輝き・生きる喜びが
自分自身の中の「幸せに生きたい」欲求=自分自身を最大限に発揮したい欲求と共鳴し合って
胸がドキドキしたり 身体がジンジンしたり 泪がハラハラ流れたりするのです。

その欲求とは 結局宇宙そのものの「生み出し・育み・生かす」エネルギーが
個々の生命に宿っているとことの現れではないでしょうか。
その欲求のことを「神性」あるいは「仏性」と言うのかもしれません。
だとすると 感動とは 神性あるいは仏性の共鳴現象だと言えます。

そのように 何かの生命の本質に触れたときに感動するということは
何かに感動出来ること自体が 生命力=幸せを作り出す力を現している訳です。
つまり 感動そのものが生命力の現れな訳です。

④ 芸術と宗教~人の幸せを導くもの~誰もが表現者

芸術も宗教も実は同じように私たち人間が幸せに生きる為の導きです。
その導きとして 様々な形(言葉・音・色・形状など)で何かを表現し発信しています。
しかし 表現し発信しているのはそれらのものだけでしょうか?

私たちは日々の生活の中で 様々な思考をし 様々な行動をし 様々な言葉を発しています。
実はそれらは全て「表現」です。私たちは自分自身の気付かないところで
何かを表現し発信しています。
存在していること自体が表現であり発信です。
つまりそれは芸術作品と全く同じ訳です。
わたしたち生命が存在していることも 芸術作品の存在も同じく「表現」だとすると
私たちもまた 自分が何を表現しているのか 自分が何を表現したいのか
その表現によって他人(あるいは他の生命)に
何を伝えたいのかを自覚することは大切なのではないでしょうか。

何かに「出会う」ということは 
素晴らしいもの 美しいものに出会ったときに感じるように
その出会いによって 「自分もまた 今まで以上に素晴らしく生きたい」
「今まで以上に美しく生きたい」
と思う切っ掛けになることにこそ本当の意義があるのではないでしょうか。

私たち一人一人が常に何かを表現し発信しているということは
私たちに接した人がそこから何かを感じるということです。
その触れ合い・出会いを本当に意義のあるものに 価値のあるものにするのは
私たち一人一人が何を表現し発信しているのかの自覚ではないでしょうか。
つまり 私たち自身が芸術作品なのです。
「自分」という作品をどう作りどう表現したいかなのです。
そして 日常生活での様々な思考・行動・言動で何を表現し
何を伝えたいのか どう表現しどう伝えたいのか
その導きの為にこそ音楽・美術・建築・文学などの芸術作品は存在しているのです。

特に 音楽・美術・建築などの芸術には 言葉以外の感性を使っての伝達という役割があります。
聴覚・視覚・触覚・嗅覚・味覚等は私たちが日常生活でごく当たり前に多用している感覚です。
それらの感覚を通して それぞれの人が日常生活の中で
何をどう表現し 何をどう伝えたいのかの導きになる為に
芸術というものが存在している訳です。

そのような芸術の存在理由を感じ取ったならば
個々の作品に触れ合って感じ取ったものを 受け取ったものを
それぞれの生活で生かしていけるようにと
それに触れ合った方々が今まで以上に
素晴らしく・美しく・輝かしく生きる切っ掛けに・導きになれるようにと
私幸也も 私たちONDEも 祈りを込めて作品を作り演奏して表現し続けています。


(2003/04/24)


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