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祈り=宇宙との対話

《幸也の世界へようこそ》《幸也の言葉》《公演でのお話から》 → 《祈り=宇宙との対話》


どうして私・幸也が
自分で曲を作ってそれを演奏しようと思ったのか
そのいきさつをお話しいたします。

私はそもそもクラシック音楽を勉強し
その後オーケストラに所属してコントラバスを演奏していました。
十年間オーケストラにいましたが
段々とオーケストラの中で演奏することに疑問を感じるようになりました。

その疑問というのは 主に二つの点なのですけれども
まず一つには
オーケストラというのは 80人から100人の人たちが集まって演奏するわけですけれども
演奏する音楽は一つ つまり作曲家は1人なのに対して
それを百人が一緒に演奏するに当たって
その百人が同じ意識で作品に向き合っているのかというと
必ずしもそうでは無いわけです。

もう一つには
オーケストラでは クラシック音楽を演奏しますけれども
クラシック音楽 すなわち古典音楽というものは
なぜ昔のものが まだ今日まで演奏され続けているのかというと
時間というフィルターを通ってもそれが残っているのは
何らかの素晴らしさ すなわち普遍的な価値があるからこそなのですけれども
しかし そのようにクラシック音楽には普遍的な価値があるにしても
それぞれの作曲家の作品というものは
ある特定の時代の 特定の土地の つまり
ある特定の文化の枠組みの中でのものです。
例えば 先ほどショパンの曲を演奏しましたが
ショパンは パリで活躍しましたが
そもそもはポーランドの出身です。
ですから「ポロネーズ」=ポーランド風靡曲という曲を幾つも作曲しています。
そのように 作曲は ある特定の「土地」や「時間」の
「文化」の枠組みの中にあるわけです。
けれども私は それよりももっと普遍的なものを表現したいと思うようになったのです。
あるいは 「今の時代」の音楽というよりも
「今からの時代」のための音楽を作って演奏したと思うようなったのです。

今日の演奏会では 私の作った曲を主にお聴き頂いていますけれども
つまり「幸也作曲」となってはいますけれども
本当のところ 「作曲する」というのはどういう行為なのかというと
「自分」が作っているのではないのです。
作曲家によって 作曲のやり方は違うようですけれども
私の場合には「メロディー型」で つまり
メロディーがインスピレーションとして頭の中に降りてきます。
それを五線譜に書き留めて それに伴奏を付け
シンセサイザーで音色を当てはめていく というやり方をしています。
この過程の一番初めの部分
メロディーをインスピレーションで受け取るというのは
あくまでも降りてきたものを受け取るのであって
そこには「自分」というものは入っていません。
その後の 伴奏を付けたり シンセサイザーで音色を割り振って行くという過程では
「自分」が作業をしているということになります。

音楽が専門ではない皆さんに どうしてこういう話しをしているのか
と思われるかもしれません。

私はこうやって演奏会をするに当たって
主に教会を会場として使わせてもらっています。
それはどうしてかということ
一つには 天井か高くて 音の響きが良いからということがその理由です。
もう一つには 「雰囲気」ということです。
一般の演奏会が行われるのは多目的ホールですけれども
そういったホールでは 様々なジャンルの様々の種類の音楽が演奏されますので
こういった教会とは違った雰囲気となっています。
教会というのは キリスト教の施設なのですけれども
本来は「祈りの場」なのです。

では「祈り」というのは何なのでしょうか?
日本の場合 キリスト教の教会は少なくて
仏教のお寺と 神道の神社が多いわけですけれども
日本人のおよそ四分の一の方々がお寺や神社に初詣に行かれるそうです。
初詣に行くのは (不思議なことに)お寺でも神社でもどちらでも良いということで
日本は宗教的に寛大な国だともいえますけれども
その初詣に行った方々は そこで何をしているのでしょうか?
実は 「お祈り」をしている人はほとんどいないのではないかと思います。
大抵の人は何らかの「願い事」をしているのです。
「商売繁盛」「家内安全」「交通安全」「受験合格」「安産」などの。
そういった「願い事」が「祈り」なのかというと
そういうわけではありません。
「願い事」というのは 本当のところ
神様に対して「ねだりごと」をしているのです。
「ねだりごと」と「祈り」とは違うものです。

教会というのは何なのかというと
「神様の家」なのです。
つまり 今皆さんは神様の家に招待されて入ってきているということなのです。
では その神様の家で何をするのかというと
神様とお話しをする場 対話をする場なのです。
そして その「神様との対話」ということが すなわち「祈り」なのです。

私たちの多くは 「自分」というのは「自分の身体」という
「肉体」なのだと思っていますけれども
でも実際には「自分」というのはどこに存在しているのかというと
「宇宙」の中に存在しているのであって
私たちは 誰もが「宇宙の一部」なのです。
この「自分は宇宙の一部なんだ」という認識が
「祈り」へと繋がっていくのです。

「祈り」という「神様との対話」は
「自分が宇宙の一部なんだ」という認識によって可能になるのもなのです。
私の言っている「神様」というのは
特定の宗教の 例えばキリスト教や仏教の神様ではなくて
究極の神様というのは何なのかということ
「宇宙そのもの」なのです。
私たちは誰もが宇宙の中で生きているのですけれども
宇宙というのは 生命力なのです。
その生命力が「神様」なのです。
ということは「宇宙」そのものが「神様」なのであり
「神様との対話」というのは すなわち「宇宙との対話」なのです。

私の場合には 作曲するということは インスピレーションを受けるということであり
そうやって神様と対話をしているのですけれども
そういう芸術に関わっている人間だけではなくて
皆さんも日々の生活の中で「自分は宇宙の一部なんだ」と認識することによって
宇宙と対話する 神様と対話することができるのであって
それにが「自分はどうしてい生まれてきたのだろうか」
「何のために生まれてきたのだろうか」ということを
考える切っ掛けとなるのです。

そういうこともあって 私は演奏会場として教会を使わせて頂いているのです。
今回の演奏会は「大地のぬくもり」と題していますけれども
「大地のぬくもり」とともに「宇宙のぬくもり」というものをも感じ取って頂けたらと思います。


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(この文章は 2014年9月27日 山口県周南市の徳山カトリック教会で行われた演奏会での
演奏の合間の話しを 文章化しまとめ直したものです)


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