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縄文時代/縄文文化

幸也の世界へようこそ《祈りの言葉》》 → 《縄文時代/縄文文化》


縄文時代とは 日本の先史時代の一つであり
(地球人類の学説では)今からおよそ一万六千年ほど前に始まったと推定され
今から三千年ほど前まで続いたと思われています。
つまり 一万三千年ほども続いたということになります。

縄文とは その時代の遺跡から見つかった
縄で模様を付けた土器から名付けられた名称です。
(これに対して弥生時代は 発見地の地名から付けられましたので
なんらその文化の中身を表わしてはいません。)

縄文時代とは すなわち縄文文化とは
それ以後の日本の文化とは大きく違っています。
あるいは「有史時代」と言われる欧米のこの数千年以来の歴史の中では
見出すことの出来ない特色を持っています。


1)縄文人はどこから来たのか?

以前は 中国大陸から移住してきたと言われていましたが
その根拠はありません。
縄文人は ユーラシア大陸からの移住ではなく
レムリア大陸=ムー大陸からの移住者です。
レムリア人=ムー人は 惑星アレモX3から25万年前に地球に来た人たちで
とても平和的な人々でした。
(アトランティス人の方が好戦的で 彼らは後にヨーロッパに移住し白人種の元になります。)
ムー大陸が今から14500年ほど前に沈没した時に 一部のムー人たちが
ムー大陸を逃げ出し環太平洋地域に移住しました。
(これが 環太平洋地域に同じような文化を持った人たち暮らしている理由です。)
その内の一部が日本に来た人々で 彼らが
すでに日本に居た人々と混ざり合って縄文文化を築きました。
ですから 基本的には縄文人はプレアデスから来た人たちの子孫ということになります。
(更にその後 今から五千年ほど前に イスラエルからプレアデス星団出身の人々が
コロンビアからはカシオペア座出身の人々が移住してきて暮らすようになりました。
この カシオペアから来た人たちの子孫が弥生人です。)
(ですので 一般に言われているような 縄文時代が先 弥生時代が後 というわけでは無く
二つの文化は時代的には共存していました。)
(日本語は カシオペアからの言語です。ひらがなも 「ひろはにほへと」も同様です。
それに対して ヨーロッパの言語はプレアデス星団のアトラス星からの言語が元になっています。)


2)縄文文化の特色

縄文人は 「宇宙の中での存在」を自覚していました。
ですから その後の地球人類(特に欧米人)よりもずっと進化していました。
(進化とは 科学技術の発達ではありません。宇宙の中での生命としての意識の成長です。)
宇宙の基本である「全ては宇宙」であり ということは「全ての存在は生命」であり
ということは「全てのものは宇宙の共有」であることを理解していました。
ですから 「私有」ということはありませんでした。

縄文人は 採集農耕民でした。
基本は採集で つまり食べるものを採集していました。
海や川で 魚や貝や海草を採る。
山や森で 木の実や草や果物を採る。
そして ごくわずかに農耕をしていました。
(ですから 水田稲作はしていません。)
狩で動物を獲ることは 鳥や兎などの小動物だけでした。
鹿などの大きな動物は たまたま目の前でパタリと倒れてくれた時だけです。
(これらを 後の弥生文化と比べてみると 違いがはっきりするでしょう。
弥生人は 水田稲作をするようになり 採集は少なくなります。
しかし もう一つ大きな かつ非常に重要な違いは
弥生遺跡からは 人間に殺された人の死体が幾つも見つかっていますが
縄文遺跡からはそれらは一切見つかっていないということです。)

縄文人は 米は食べていたのに 水田稲作をしなかった理由は
「全ては宇宙」だからです。
つまり 「宇宙=神」であり ということは地球という土地も神様なのです。
水田稲作をするということは 自然の土地を水田に変えなくてはなりません。
土地 すなわち地球の表面というのは 神様の身体なのです。
それを勝手に水田にするなどということは 神=宇宙への冒涜です。
(稲作はカシオペア人が盛んにしたものであり
ですから 弥生人は水田稲作をしました。
これはすなわち 弥生人は「宇宙」との繋がりをすでに失っていて
「全ては共有」という意識を持っていなかったことの表れでもあります。)

後の時代に水田稲作をするようになって「村」が形成されるようになり
そして「国」が作られるようになりましたが
縄文人は 国という大きな単位は作らずに 生活共同体で暮らしていました。
しかし 他の生活共同体との繋がりはあり 交流を行っていました。
(私有という概念がありませんでしたので 貨幣制度がありませんでしたから
交易というよりも交流です。)
その交流は 物の交換も含まれていました。
地元で取れたものを それが取れない土地の人に分け与える。
物を手に入れるのは それが必要だからです。
必要というのは 「そのもののエネルギーがどう作用する」という理解を基にしたものです。
ですから 必要以上のものを手に入れることはありえません。

縄文の名の通り 縄文人は縄を使っていましたが
縄は麻で作っていました。
麻は 非常に有用な直物で 実は食べられ 茎は縄や布を作るために使われ
つまり捨てるところが無い植物です。
大きな動物を獲らなかったということは 毛皮を使いませんでしたから 衣類は麻でした。

建物は 木で建てていました。
全ては宇宙ですから 木を切るにも宇宙=神にお伺いを立てます。
どの場所のどの木ならば切っても良いのか。
その土地の自然界を壊さないように 神様と相談しながら選んだのです。
(木を切るということは 木を傷付けることです。
切られる木の想念は一瞬にして他の植物に伝播されていきます。
いきなり切ったらば 恐怖の感情が森全体の植物に伝わってしまいます。
ですから 前もって切ることを木に伝えておきます。
そうすると いざ切る時には その木は「死んだふり」をしてくれます。)
建物は 向き(=方位)や 材木の向きなども エネルギーの流れで選んでいました。

埴輪は 波動形態エネルギー調整装置です。
(これは 今の地球人の科学では解明できないものです。)
また 人それぞれが宝石を身に付けていましたが これも波動調整のためでした。
宝石(鉱物)そのものの波動/色の波動/形の波動で人の波動を調整するもので
ですから 人によって(そして時によっても)違うものを身に付けていました。


3)縄文文化の痕跡

時代と共に 縄文人は大陸から入ってきた人々によって駆逐されていきました。
なぜならば 大陸から入ってきた人々は「戦う」ことを知っていたのに対して
縄文人は戦うことを知らなかったからです。
第一次縄文文化は 日本の中部地方で始まり
第二次縄文文化は九州で始まり その後日本中に広まっていきましたが
その後沖縄と北海道/東北地方にだけ残り それ以外の地域は
稲作を基本とする弥生人によって占められるようになりました。
(北海道で稲作をしていなかったのは 気候風土だけが理由では無いということです。
しかし 東北/北海道が稲作に適していない土地だからこそ 弥生人が入ってこなかったということでもあります。)
戦って人を殺すことも 土地を占有することも 弥生人は平気で出来たのです。
しかし 縄文人には出来ませんでした。

縄文人の一部は 朝鮮半島に移住しました。朝鮮半島には人が住んでいなかったのです。
移住した縄文人は 当然のことながら 日本でと同じように宇宙と繋がった生き方をしていました。
しかし 中国大陸に暮らす人々は「弱肉強食」の奪い合いをしていました。
半島北部の縄文人たちは だんだんとその影響を受け そして同化していきました。
そして 結局は朝鮮半島全体がそうなってしまいました。
(これが今日の朝鮮民族です。)

弥生人とは カシオペアから来た人たちと地球人とが混ざり合ったものですが
日本へは中国大陸から入ってきました。
先述したように 弱肉強食文化を携えて。
そして 日本列島のほとんどの地域が弥生人に乗っ取られてしまいましたが
しかし それでも縄文文化はある程度は受け継がれていきました。
①調和を大事にする
②主語を言わない
③収穫物を神に感謝してお納めする
③一神教を受け入れない
③(神社の)注連縄に麻を使う
などなど。


①調和を大事にする

これは「大和」という言葉や「日の丸」にも現れています。
あるいは 聖徳太子の十七条憲法の第一条にも取り上げられています。
今でも日本人は 自己主張をするよりも 先ずは周りにいる人の顔を覗います。
あるいは「プライバシー」という概念が日本に無かったことも この表れです。
(無かったからこそ 「プライバシー」という外来語を使っているのです。)

②主語を言わない
日本語と他の言語との決定的な違いの一つが
日本語は主語を言わないということです。
宇宙は一つです。宇宙の中で 全てのものは宇宙の一部です。
ということは 宇宙の中では主語は「宇宙」しか無いのです。
一つしか主語が無いのに それを言う必要はあるでしょうか?
ですから 主語を言わないのです。

③収穫物を神に感謝してお納めする
11月23日は 今日では「勤労感謝の日」という祝日になっていますが
そもそもは「新嘗祭(にいなめさい)」の日です。
今でも宮中で行われていますが その年に採れた米を中心とした農作物を
「五穀豊穣」として神に感謝し捧げるもので
宮中では年間を通しての最も重要な祭祀とされています。

③一神教を受け入れない
日本は 神道/仏教/儒教の三本立てで それらが人々の生活の中で共存していました。
どの家にも 神棚と仏壇とがありました。
神道の基本は 「多神」です。すなわち 全て身の周りのものは神だということです。
それに対して キリスト教もユダヤ教もイスラム教も 一神教です。
神は唯一の存在であるとしています。
しかもそれは「遍在の神」では無く どこか遠いところにいて
人間を見張り いつかは罰する 恐ろしい神なのです。
そういう神と一神教とは 日本人の心にはなじまないものでした。

③(神社の)注連縄に麻を使う
注連縄(しめなわ)に麻を使うだけではなく
神社で戴けるお札を「神宮大麻」と言います。
ここにも 日本が麻の文化であったことが現れています。


4)歴史の中での縄文

つまり 日本という国は あるいは日本人は
縄文文化を受け継いできたのです。

同じ縄文人だったのに その後日本人と朝鮮人とは大きく違ってしまいましたが
そこに 大陸からの影響を大きく受けた朝鮮半島と
島国であるがために その影響を大きくは受けなかった日本との違いが現れています。
しかし 島国とは言っても やはり中国大陸や朝鮮半島から日本に入ってくるものもありました。
宇宙と一体の意識で平和に暮らしていた縄文人にとっての最初の脅威が 弥生人の到来です。
中国大陸の弱肉強食社会を逃げ出して 武器と稲作を持って日本へと入ってきました。
(逃げ出してきたということは 力ずくで他人を支配する人たちでは無かったということです。
だからこそ 縄文文化も引き継がれていったわけです。)
水田稲作の広まりによって 縄文の生活共同体は
水田を中心とする生活共同体へと変遷していきました。

今から二千年ほど前から ユダヤ人(ヘブライ人)が日本に入ってくるようになりました。
ユダヤ人(ヘブライ人)は 今から一万二千年ほど前にヘブラ星から来た人たちの子孫です。
しかし 正確には「来た」のではなくて 宇宙船の故障で不本意ながら不時着したのです。
そして まさに不本意であったことは その後の彼らの苦難の歴史でも充分に理解できます。
ヘブラ星と比べると 地球人は余りにも野蛮だったのです。
高度な知性/理性/技術を持つ彼らは それらを使って繁栄していきますが
逆にそれがために他の民族から妬まれ恨まれてしまいました。
そして エジプトを追放され 住む土地を失いました。
その当時 12の部族だったユダヤ人は 各地に散って行き
その内の二つの部族が日本へと入ってきました。
日本語や日本の文化の中にユダヤ(ヘブライ)の影響が多々見られるのはこのためです。
彼らは「東に桃源郷がある」ということで東を目指して移住し続け
そして東の端の日本でまさに桃源郷を見たのです。
彼らの意識に近い縄文人の社会を。
(日本人の姓で「東」の字が入っているのは 基本的にこれらユダヤ人の子孫です。)
ユダヤ人(ヘブライ人)は日本で 世の中に貢献することを選びました。
つまり 彼らは劣った地球人のような生き方はしませんでしたから
決して他人を力で支配したりはしませんでした。
共栄共存の縄文の社会に 共栄共存の意識で参加したのです。

その時代 すでに縄文人が暮らす地域は 沖縄と東北地方と北海道になっていましたので
ユダヤ人が住み着いたのものその地方です。
特に痕跡が残っているのが 東北地方で ヘブライ人の生活共同体として
「ヘブライ人村」を幾つも作りました。
それが「ヘブライ村」と「第一ヘブライ村」から「第九ヘブライ村」で
現在の青森県の「戸来(へらい」村」(=ヘブライ村)と
一戸(いちのへ=第一ヘブライ村)から九戸(くのへ=第九ヘブライ村)です。
(その後最も大きくなった八戸が有名ですが ここは第八ヘブライ村です。)
あるいは 日本の中で馬を使い馬肉を食べる風習が残っている地域がありますが
これもユダヤ人が持ち込んだものです。
また 青森県では米では無い穀物を多く食べたのも同様です。
(小麦を使った南部煎餅などがその例です。)

ユダヤ人がもたらしたもう一つのものが「前方後円墳」に代表される「古墳」です。
(初めから古かったわけではないのですけれども・・・)
石で築くというのは 縄文人はしませんでした。(その後も日本では石造建築はありません。)
前方後円墳は 天皇などの墓所だと思われていますけれども
実際には波動形態エネルギー調整装置であり
同様の機能を有していたピラミッドを平面化した変形です。
円の部分は「あの世=非物質界」を 方の部分は「この世=物質界」を表わしています。
古墳は民衆が総出で造りましたが これは縄文から弥生化していた日本の民衆に
縄文文化を思い出させ受け継がせるのに役立ちました。

五世紀に再び中国大陸から 弱肉強食人種が日本に入ってきました。
(これが古墳文化が突如終わった理由であり つまり古墳文化の時代が限定されている理由です。)
彼らが持ち込んだもので 今日まで残っているものが「漢字」と「仏教」です。
漢字は 日本で広まったというよりも 押し付けられたものです。
そして 「文字」を使うということが すなわち
「退化」あるいは「進化していない状態」を表わしています。
「宇宙と一体」であり「全ては宇宙」であるという意識は
すなわち「全てとひと繋がり」なのですから
伝達はテレパシーを使っていました。
言葉を使わない 意識でのやり取りです。
しかし 宇宙との繋がりを失った人たちが「言葉」を使うようになりました。
そして テレパシーは時空に制限されませんけれども 言葉での伝達は時空に制限されます。
ですので 「目の前に居ない人」に伝達するために文字が使われるようになりました。
(つまり 文字を持っていない=進化していない 文字を持っている=進化している というのは
全くの誤解で 本当はその逆なのです。)

この時代に日本を救ったのが聖徳太子です。
仏教を日本に入れるか入れないかで 曽我氏と物部氏との対立となりましたが
聖徳太子は仏教を入れる側でした。
日本古来の信仰は神道ですけれども これは
「宇宙と一体」であり「全ては宇宙」であり その宇宙の中で
全ての存在は宇宙そのものと同じ意識に戻るまで成長し続けている
すなわち 全ての存在は「宇宙=神」への道を歩んでいる というのが「神道」の意味です。
そして その道を歩むには「自らの気付き」が基本です。
他人に教わって成長するのではありません。自ら答えを見つけて成長するのです。
なぜならば 成長の種=学びの種は「自らの経験」の中にあるからです。
(学校での勉強を考えてみてください。
小学校/中学校/高等学校では「教わる」「習う」というのが勉強です。
しかし 大学では「自ら探求し発見する」ことが学びになります。
つまり 神道は「人生の大学」の学びの導きなのです。)
ところが 縄文文化(=宇宙との繋がり)が失われていくにしたがって
「他人から教わらないと分からない」=「自ら気付くことが出来ない」人たちが多くなってしまいました。
ですから 仏教という「教え」があって他人から学ぶものを導入した方が日本人のためになる と
聖徳太子は判断したのです。
しかし 調和が当たり前だったはずの日本で あえて十七条憲法で「和」を強調しなければならなかったのは
すなわち その時代には「和の精神」が人々から忘れられつつあったからです。
ですから 十七条憲法は「あくまでも日本は縄文文化(=共栄共存)の国である」ということを第一条で言い そして
その後で「しかし(自ら気づくことができない人々のためには)仏教という教えが必要だ」ということを言っているのです。

幸いにして日本は 大陸からの弱肉強食人たちに占領されることはありませんでした。
しかし そこで持ち込まれた「弱肉強食」の思想はだんだんと日本人に浸透していってしまいました。
それが 「武家社会」と後の「戦国時代」の元になります。

そしてその混乱の時代に 日本にキリスト教が入ってきました。
15世紀末から世界各地に植民地を持つようになったヨーロッパ人が
極東の日本をも植民地にしようとやってきたのです。
日本は「黄金の国ジパング」と言われていたからです。
一旦はキリスト教を入れたものの 後にはキリスト教伝道は 実は
植民地化と一体となっているということを見抜いた豊臣秀吉や徳川家康によって
キリスト教伝道師(のふりをした武器商人)は日本から追放されました。
しかし 彼らが持ち込んだ火縄銃(鉄砲)と弱肉強食思想は
戦国時代の混乱をより深刻にする原因となってしまいました。

そうなってしまった世の中を 元の縄文文化に戻そうとしたのが徳川家康でした。
日本という島国の中で 同じ日本人同士が殺し合うのを止め 共栄共存の世の中を復活させるのが
徳川家康が目指したものでした。
そして実際 江戸時代は鎖国をすることで自給自足の社会を確立し
今日まで伝わる日本文化の多くは江戸時代に確立されたものであり
「太平天国」と言われたそれは まさに縄文文化の復活を目指したものだったのです。

しかし 黒船に乗って またまた弱肉強食人がやっていました。
世界各地を植民地にし 奴隷に働かせていた欧米人たちは
産業革命が始まり 物の大量生産が出来るようになったことで
更に物欲と金銭欲とを増長させていました。
そして 太平天国の日本を 彼らの弱肉強食世界へと引きずり込もうとしたのです。
日本は開国することで その弱肉強食世界へと引きずり込まれていきました。
これが明治維新です。
そして それまでの(幕府による統治は)全て間違っていたかのように言われ
ということは それまでの(徳川家康が目指し復活させた)縄文文化をも
否定することになりました。
全国の神社仏閣は破壊され 神道も国家神道へと変えられました。
「西洋文化は素晴しい」と文明開化に走り
「西洋のものは素晴しい」と盲目的に受け入れたのです。
それでも 明治時代/大正時代には それまで日本人の心の中に連綿と受け継がれてきた
「大和心」=共栄共存の思いがすぐには消えませんでした。
だからこそ 日本は弱肉強食世界の国々に対して
植民地主義を止めるように 奴隷制を止めるように
地球上の全ての民族は平等であり どの民族も自立独立して繁栄すべきだ
という「八紘一宇」「五族協和」思想を訴えたのです。

ところが そういう日本の中で 弱肉強食思想に染まり 自我我欲を優先させようという
軍人/軍需産業/政治家によって 日本は違う方向へと進まされてしまいました。
彼らは 天皇と政府とを支配下に置こうとし 三代にわたる天皇を毒殺し
現職将校しか陸軍大臣/海軍大臣になれないという決まりを作ることによって
政府が軍の言いなりなるようにしてしまい
全体主義国家ドイツとイタリアとの軍事同盟 日独伊三国同盟を締結し
そして その結果としての大東亜戦争となりました。
大東亜戦争とは 「八紘一宇」「五族協和」「全民族解放」を理念としながらも
自我我欲を満たすために戦争をしようという一部勢力の画策によって始まったものです。
しかし 日本は戦略の甘さからその対植民地主義国家戦争に敗れてしまいました。
敗れはしましたが 結果的にはその後世界各地の植民地は続々と独立国家となり
「植民地解放」の願いは形となって表れました。

戦後の日本は 「戦前は全て間違っていた」「アメリカは素晴しい」として
世の中と 日本人の考え方を変えていきました。
(明治維新後と同じです。)
それはつまり なんとか細々と受け継がれてきた縄文以来の「大和心」=共栄共存精神を
すっかり捨て去る ということです。
  アメリカ式合理主義が良い ということです。
物質的に豊かになれば それで良いということです。
「自分さえ良ければ」「金さえ儲かれば」「今さえ良ければ」という
「自分だけ」「金だけ」「今だけ」の「三だけ主義」に染まり
そうやって 日本人はどんどん「縄文的なもの」「大和的なもの」を捨てていき
つまり 意識の方向を「縄文」の基本である「宇宙」へと 全く向けていない状態になっているのです。
そして (欧米人と同様に)宇宙を 新たな侵略の対象としか見ていないのです。

かつて 環太平洋に散っていったムー人たちの子孫は いずれもが苦難の歴史をたどりました。
アメリカ大陸でも オセアニアでも 彼ら(=後に先住民と言われた人々)は
弱肉強食の白人によって虐げられました。
「私有しない」=「全ては共有」=「全ては宇宙」ということが分からない愚かな人々によって。
「豊かさ」とは 他から奪うことではなく「自ら生み出す」ことで得られるということが分からない愚かな人々によって。
それがすなわち 「退化した姿」なのです。

そして 今の日本人はまさにその「退化した姿」で生きているのです。
つまり それを選択しているのです。

宇宙には法則があります。
しかし ほとんどの人はそれを知りません。
法則があることをも知りません。
例えて言うと 子供が生まれてから後だんだんと言葉を覚えます。
しかし ある程度話せるようになっても まだ言語には決まり(=文法)があるということは知りません。
今の地球人類は その段階なのです。
宇宙の中の幼児なのです。
それに対して 縄文人はそれを知っていました。
そして その宇宙の法則に則って生きていました。
そして日々の生活の体験から学んでいました。
つまりは 人生の大学生だったのです。
日本人は その人生の大学生から幼児へとこの数千年で変わっていったのです。
それは 成長でしょうか?


「縄文文化を知る」とは そういうことを知ることなのです。


(2021/12/21)


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