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ブリューゲル《イカロスの墜落(のある風景画)

《幸也の世界へようこそ》《幸也の書庫》《絵画を見る目・感じる心》 → 《イカロスの墜落》

この項では ブリュッセルのベルギー王立美術館に展示されている
ピーテル・ブリューゲル(一世)作《イカロスの墜落(のある風景画)》について
その絵が表現しているもの その絵から読み取れるものを公開しています。

ただし その作品が ブリューゲルの手によるものなのか
後の時代の第三者の手によるものなのかという点には触れません。
(一番最後に簡単に記してあります。)
あくまでも 一つの芸術作品として何が表現されているのか
何を鑑賞者に伝えるために描かれているのかの点に絞った観点です。


イカロスの墜落

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* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

そもそも「イカロスの墜落」というこの絵の題材は
ギリシャ神話です。
イカロス少年の父親のダイダロスは ミノス王に仕えていた建築家ですが
ミノス王の不興をかい 捕らえれ
自ら設計した島の牢獄にイカロス少年と共に監禁されました。
そこから逃げ出すには 空を飛ぶしか可能性はありません。
そこで二人は 鳥の羽を集め
ろうそくの蝋で背中に留めて飛ぶことにしました。
飛び立ったイカロス少年は 空を飛べたことがあまりに嬉しくて
父親の制止を聞かずに 空高くに上がって行き
太陽の熱で蝋が溶けて羽が取れ 海に落ちた
という話しです。

さて 絵を見てみましょう。
イカロス少年はどこにいるのでしょうか?
画面の右下に 海から彼の二本の足が出ています。
周りには 飛び散った鳥の羽が見えます。

しかし・・・イカロスの墜落に注目している人はいるでしょうか?
一人もいません。
農夫は黙々と畑を耕し 羊飼いはあらぬ方をボケッと見ていますし
漁夫もすぐそばにいるにもかかわらず 魚を捕ることに集中しています。
かつ この絵の中で「イカロスの墜落」を表しているのは
僅かにイカロスの二本の足と その周辺の鳥の羽だけです。

更に 空高く飛んで太陽の熱で蝋が溶けたという話しなのに
太陽は高いところにはありません。
朝日が描かれています。
(これを夕日だと見る人もいるようですが
もし夕日だったらば この30分後には真っ暗になります。
この時間まで外で仕事をしているはずがありません。)

この朝日が何を意味しているのかというと
朝日は 錬金術師のシンボルマークなのです。
この時代には まだ絵の具は売られていませんでしたので
画家は絵の具を自ら作らなければなりませんでした。
そのために 画家は錬金術と関わっていたのです。

更に 船は錬金術では「窯」を意味しています。

そして 錬金術師は万物を構成しているものは
四つの元素だと認識していました。
「土」「水」「空気」「火」です。
その四つの元素が この絵の中に表されています。
農地は「土」を 海は「水」を表し 
そして 青空は「空気」を 太陽は「火」を象徴しています。

ということは この絵は
ピーテル・ブリューゲル一世が 錬金術と関わっている
ということを表しているようです。
しかしもっと良く観てみると
単に 関わっていたということだけではなく
どういう思想で関わっていたのかが表されています。

この絵には イカロス以外に三人の人物が描かれています。
まず一番近くにいる漁夫ですが
イカロスの姿に全く気付いていない様子で
手に持った釣竿に意識を集中させています。
「海」は 広いもの 大きいものを表しますが
「宇宙」をも意味しています。

錬金術師とは 物質を化学反応させることによって
金を作り出すことを探求しているのだということになってはいますけれども
しかし 錬金術師が目指していたものは それだけではありませんでした。
宇宙とは 物質だけの世界ではありません。
物質を探求するだけではなく 非物質の世界をも探求していたのです。
つまり 宇宙の真理を探究していたのです。

「海」は「宇宙」を表しています。
その宇宙の真理を探っている 真理を宇宙から吊り上げようとしている
それがこの漁夫の姿なのです。

しかし 宇宙の真理を探究するには
物質の世界だけとの関わり合いでは不十分です。
非物質の世界をも探求しているのですから。
その非物質の世界の探求のためには
瞑想が必要なのです。
その「瞑想」ということが ボケッとした羊飼いの姿で
表されています。

では 農夫の姿は何を表しているのでしょうか。
彼は黙々と土を耕しています。
この 耕すということが何かを意味しているようです。
そして なぜ 農夫が一番大きく描かれているのかにも
意味がありそうです。

錬金術師が目指した 究極のものは何だったのかということ
宇宙の真理を解明することによって
「どうやったらば 自分自身の人生を黄金にすることが出来るか」
つまり 幸せに生きる方法を
充実した人生を 実り多い人生を生きる方法を探究していたのです。
そして その実り多いというのは 物質的な豊かさのことではありません。

「幸せに生きるには どうしたらよいのか?」

なぜ 漁夫や羊飼いは 農夫よりも小さく描かれているのでしょうか?
幸せを得るには それなりの条件があるということです。
どこかから「棚から牡丹餅」のように幸せが落ちてくるわけではないのです。
自分が 幸せを得るための何かをしなければならないのです。

漁夫も羊飼いも 何も作り出していません。
漁夫は 海にいる魚を捕るだけです。
羊飼いも 羊を守り養うだけです。
彼らは何も作り出してはいないのです。

農夫が畑を耕している姿が 一番大きい理由は
「幸せを得るためには 自分の心を良く耕し そこに良い種(原因)を蒔けば
それが何百倍もの収穫(幸せ)として受け取ることが出来る」
ということを表しているからなのです。

「自分の心を良く耕す」とは どういうことでしょうか?
素直な心で無ければ 幸せは受け取れないということです。
幸せを感じるのは 受け取る能力なのです。
素直な心でこそ 幸せを受け取れるのです。
あるは それは「心を耕す」ということをも意味しています。
豊かな心でこそ 豊かさを受け取ることが出来るのです。
その「素直」や「豊かさ」とは何なのかというと
心の中 頭の中で考えていることが 貧しく 卑屈で 否定的だったらば
幸せにはなれないということです。
貧しい心とは 自分の目先の利益のことしか考えられない「エゴ」「自分勝手」のことです。
そして 貧しい心とは「欲」の心です。「もっと欲しい」という。
イカロスが海に落ちたのは「もっと高く飛びたい」という欲からでした。
欲が身を滅ぼしたのです。
卑屈とは 物事を素直には受け取れない 悪い方へと曲解する心のことです。
否定的とは 愚痴や不平不満や怒りの心です。 

「良い種を蒔く」とは
仏教で言う「身口意」つまり 日々の行動と言葉と思いとは
常にまわりに種を蒔いていることだという意味です。
日々の 頭の中で考えている「思い(想念)」
自らが発している「言葉」
そして 自らの「行動」
それらは常に何らかの表現となり 身のまわりに影響を与えています。
これらが幸せを生み出すものになっているかどうか ということです。
日々 不平不満を撒き散らしていたら 幸せは得られません。
日々 目先の利益のみを追い求めたり 自分勝手な行動をしていたらば 幸せは受け取れません。
日々 愚痴や他人の悪いところばかりを考えていては 幸せは感じられません。

つまり 日々の生活で
「感謝」や「祝福」という良い種を蒔くことによって
それが成長し いつの日か何百倍もの収穫として つまり幸せとして
受け取ることが出来るのです。

そして 農夫は持ち物を身に着けてはおらず 畑の外に置いています。
世俗の重荷は 心の中に持ち込まないようにということです。
そして 本当の幸せを感じるには 金銭も身を守る道具もいらないということを現しています。
また 誰もイカロスに注目していません。
欲で身を滅ぼした人に気をとられる必要は無いのです。

背景に描かれている港は イタリアのナポリの様子です。
画面右下の帆を膨らませた船は スペインの軍艦です。
ナポリは長いこと スペインによって支配されていました。
この絵が描かれた時代に ベルギーが
スペインのよって支配されていたいたことを重ね合わせているようです。
しかし 帆を膨らませて改進しているような船のすぐ下に
海に落ちたイカロスが描かれています。
これもまた 武力や暴力で得たもので豊かになったつもりでも
それは本当の豊かさでは無いということを表しているようです。

結局 この絵は「イカロスの墜落(のある風景画)」と題されてはいますけれども
実際のところは イカロスの話しを表現するためよりも
「幸せに生きるには」という 錬金術師が探求していたものを表している絵であり
つまり ピーテル・ブリューゲルが 錬金術と関わり それは
どういう理念で関わっていたのかが表されているということになります。
(彼の原画による銅版画に「錬金術」と題されたものがあり
物質的な金とそれによって得られる金銭のみを追求する錬金術師は
身を滅ぼす という内容になっています。)
そして もしここまで読み取ることができたのであれば
この絵が 観ている私たちへの問いかけになっていることにも気付けるはずです。
ブリューゲルは この絵を通して私たちに訊ねているのです。
「あなたは 幸せになるために 心を耕していますか?」
「日々 良い種を蒔いていますか?」と。
芸術に触れ合うということは
芸術作品との「対話」なのです。
私たちが絵の前に立って 自分勝手な思いで絵を解釈することが
鑑賞なのではないのです。
絵との対話を通して 作者がその作品にこめた心を 想念を 理念を感じ取る
それが芸術作品の鑑賞なのです。
目の前に居る人の 気持ちや身体の状態(痛みなど)を感じ取ることを
感応と言います。
あるいは 目の前にある物から そのものを作った人の気持ち
以前の持ち主の気持ちなどを感じ取ることが 感応です。
芸術作品と触れ合うとは 感応を体験することによって
そこからのメッセージを受け止めるということなのです。
そして 受け止めることによって 自分自身をより豊かにするということなのです。

ブリューゲルの絵は 一目見て「きれい!」「美しい!」
という印象のもので絵はありません。
つまり 彼の絵は「観念的」であり「哲学的」なのです。
ということは 感覚的な捉え方だけではなくて
観念的哲学的な捉え方もまた必要となるわけですけれども
しかし いずれにしても その前提は
「感応」なのです。

ところで 肝心のイカロスの二本の足は 何を意味しているのでしょうか?
イカロスの上には船が描かれています。
船は キリスト教では「教会」を意味しています。
(教会の主身廊の天井が船底のように見えるので 主身廊のことを「船」と言います。)
その 教会を意味する船の下に イカロスの足が二本 曲がって海から出ています。
これは 壊れた二本の棒が落ちた様子を表しています。
二本の棒とは・・・十字架です。
このイカロスの足は 壊れた十字架を表しているのです。
では ブリューゲルは カトリックだったのでしょうか
それとも プロテスタントだったのでしょうか?

十字架は カトリックとプロテスタントの両方で使われています。
ということは そのどちらをも否定しているということになります。

錬金術師は 宇宙の真理を探究しています。
宇宙の真理を解明し それに則って生きるということが
すなわち「悟り」なのです。

悟った人間は 宗教を信じません。
宗教というものが 神が創ったものでは無く
人間が作り出したものだと分かっているからです。
宗教とは 人間が作り出した 一つの枠組みに過ぎないことを分かっているからです。
宗教を信じるということは 神を信じているのではないのです。
宗教をやっている人間を信じているのです。
ブリューゲルの生きた16世紀は
旧教(=カトリック)と新教(=プロテスタント)の対立が表情に激しく
たくさんの人々が殺され たくさんの教会の中が破壊されました。
神はそんなことを願ったのでしょうか? それが神の意志なのでしょうか?
宗教とは(特に中世のキリスト教カトリックは)
人々を染脳し管理し束縛し搾取するための組織であることを
そして それに反抗したプロテスタントも
「どういう世の中を作りたい」という理念に基づいたものではなく
たんにそれまでの世の中に対する暴力による反発/反抗であって
つまりどちらも 宇宙の真理とは遠くかけ離れたものであることを
ブリューゲルは分かっていたからです。

ブリューゲルの絵のほとんどは 「俯瞰」として描かれています。
その「俯瞰」とは 人間の視点ではなく 神の視点なのです。
(勿論ここで言う「神」とは キリスト教の神ではありません。)
神の目から見たら 幸せに生きるには
「世俗に囚われた心を捨てなさい」「宗教に縛られた生き方を捨てなさい」
「宇宙の真理にのみ則って生きなさい」ということが
ブリューゲルの絵で表されているのです。

画面右側に描かれている船を見てみましょう。
帆に風をいっぱいに受け止めて大きくはらませています。
(彼の他の銅版画でも このように描かれています。)
「自然の力に逆らわずに それを充分に受け止めれば豊かに生きられる」
すなわち 宇宙のエネルギーの流れに身を任せれば
「順風万帆」で生きられるということを意味しています。

ブリューゲルの作品は そのどれもが一目見て「美しい」「素晴しい」というものではありません。
それにもかかわらず なぜ彼の作品は何百年にもわたってたくさんの人々を引き寄せてきたのでしょうか?
それはすなわち 彼の作品には「宇宙の真理」というものがこめられているからです。
見た人がそれをどこまで受け止め(頭で)理解できたかは分かりません。
しかし そこにこめられているそのエネルギーを無意識の内に受け止めているのです。

ブリューゲルがこの絵にこめた彼の悟りを
観た私たちがどこまで読み取ることが出来るか 受け止めることができるかで
私たちの悟りの高さが試されているのです。
「あなたはどう生きたいのですか?」という
私たちへの問いかけになっているのです。

さあ あなたは そのブリューゲルの問いかけに
どう答えるのでしょうか?

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《この絵の信憑性について》
この絵が ブリューゲル自身の手によるものなのかどうかは
長年にわたって議論され調査されてきました。
なぜかというと もう一枚あるからです。
この王立美術館所蔵のものはキャンヴァスに描かれています。
この時代には 絵は木の板に描くのが一般的で キャンヴァスに描くのは
旅行などに持っていくための簡易なものでした。
かつ 他の絵から模写した痕跡が見つかっています。
ということは 元になる絵があり
それをどこか遠い所に持っていくためか
あるいは手元に保存しておくためかで作られた複製です。
この「イカロスの墜落」のもう一点は
ブリュッセルのファン・ビューレン美術館に展示されています。
《別画面でご覧いただけます》

一見して そちらの絵は ブリューゲルのエネルギーが出ていません。
その作品は木の板に描かれていますが その木の板の年輪を調べたところ
ブリューゲルの死後数十年たってからのものであることが判りました。
ということは 息子あるいは弟子によって模写されたものだと思われます。
そして 太陽が描かれていません。
(この時代の模写のやり方では 表すことが難しかったためです。)
太陽の代わりに イカロスの父ダイダロスの姿が描かれていますが
これは明らかに後から描き加えられたものです。
それに対して王立美術館のものは 太陽が描かれています。
しかし ダイダロスの姿はありません。
そして こちらの作品からは ブリューゲル自身のエネルギーが出ています。
つまり こちらの絵は ブリューゲルではない誰か
(あるいはブリューゲル自身)の手によって制作された模写ですが
完成に当たってブリューゲル自身の手が加わっているということです。

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《ブリューゲルの「悟りの四段階」》
ブリューゲルによると 悟りには四つの段階があるとのことです。

1)知る(=気付く)
2)理解する/納得する
3)それを出来るようになる(=実行する)
4)そのものになる(=そう生きるのが当たり前になる)


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《ブリューゲルの絵画を観るにあたって》の項もご覧頂くと
より理解し易くなるかと思います


(2014/11/11)




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