? 知恵の継承
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知恵の継承

 

《幸也の世界へようこそ》《幸也の言葉》 → 《知恵の継承》

 

「知恵」という言葉があります。
「知恵がある」「知恵が無い」「知恵を使う」などという使い方をします。
では 「知恵」とは一体何なのでしょうか?
  「知恵」と「知識」とはどう違うのでしょうか?
「知識」は「知っていること」です。
自分の中に蓄えてある情報が知識です。
そして その知識をどう使えるかが「知恵」です。
幾ら知識があっても それを持っているだけで使えなければ意味がありません。
その「使うこと」「活用すること」が「知恵」です。
そしてもう一つには 「こうしたらこうなる」という
物事の原因と結果の繋がりが分かって それを活用できるのが知恵です。

「知恵がある」「知恵が無い」「知恵を使う」などという使い方をします。

では 「知恵」とは一体何なのでしょうか? 

「知恵」と「知識」とはどう違うのでしょうか?

「知識」は「知っていること」です。

自分の中に蓄えてある情報が知識です。

そして その知識をどう使えるかが「知恵」です。

幾ら知識があっても それを持っているだけで使えなければ意味がありません。

その「使うこと」「活用すること」が「知恵」です。

そしてもう一つには 「こうしたらこうなる」という

物事の原因と結果の繋がりが分かって それを活用できるのが知恵です。

 

ところが 学校では「知識」を蓄えることは学びますけれども
それをどう使うかの「知恵」の方は何も学びません。
「とにかくたくさん持ちなさい」と持たされて でも
それをどう使うのかは教えてくれないので分からないままです。
そしてそのまま大人になります。
ですから多くの人が「知恵を使う」ということを知らずに生きています。
あるいは「知恵」そのものについても知らずに生きています。
多くの人が「知識を増やす」ことはしても
それをどう使うのかが分からずに生きているのです。
そしてだからこそ「知識が多い」ことが良いことで
でもそれを使っていないという人が多いのです。
単に持っているだけの知識が大事だなどと思い込んでいるのです。

 

*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえちえ

 

では 昔からそうだったのでしょうか? そんなことはありません。
結局は戦後の「暗記教育」のためなのです。
昔の日本人には知恵がありました。
誰でもが家で知識と知恵とを学びました。
そして 誰でもが寺子屋で知識と知恵とを学びました。
ですから「知恵を使う」ということをごく当たり前にしていたのです。
ということは 逆に「持っている知識を使わない」というのは異常なことなのです。
持っているものを使わないのも 使わないものを持っているのも 無駄なことです。
昔の日本は「大家族」であったからこそ
世代から世代へと知識も知恵も受け継がれていきました。
家の主である「主人」「主婦」とその子・孫 その両親・祖父母というように
五世代ぐらいが一緒に暮らしているのも当たり前でした。
そしてそういういう中で いろいろなことを共有していました。

 

例えば 結婚して初めての出産の時に
本人の出産自体は初めてではあっても 姉妹の出産を経験していたり
あるいは母や祖母はそれを経験していますから
それらの経験を生かすことができます。
ということは その家の経験/知識/知恵を総動員することができるのです。
翻って 今の時代の核家族を見てみると 初めての出産で
「出産」ということを経験した人が 母親本人を含めて身の周りに誰もいません。
つまり 何の知識も体験もありません。
ということは そこから知恵が出てくるわけもありません。
この例だけでも どれほどに違っているかが分かるかと思います。
しかし 生活のあらゆる面において こういう違いがあるのです。

 

*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえちえ

 

生活の基本の一つである「食」で例を挙げてみると
昔は大豆が日本の食生活では非常に重要でしたので
当然どの家でも大豆を煮て煮豆などを作りました。
大豆は煮る前に 水に浸して水を吸わせます。
どのくらいの時間?
今の人たちは 料理の本とかを見たり インターネットで調べたりするでしょう。
そうすると「夏は八時間 冬は丸一日」などと書かれています。
しかし これは随分と大雑把です。
昔の人はどうしていたのでしょうか?
やはりこんなに大雑把に「何時間」とやっていたのでしょうか?
結局これは「大豆の状態」を見ていないのです。
肝心なのは「大豆の状態」であり「どういう状態になるまで」なのです。
「何時間」ではそれを全く無視しています。
大豆を水に浸しておくと やがて大豆から泡が出てきます。
白い細かい泡がどんどん出てきて水面に浮き上がります。
その泡が水面の半分ほどを覆った頃が 茹でるのに適した状態なのです。
そういう豆の状態で見なければ何の意味もありません。
しかし 料理研究家が書いたものも そうでは無い素人が書いたものも
このことを言っているものは皆無です。誰も言っていません。
私たちは そういう(当てにならない)情報を漁っているのです。

 

もし 昔のように大家族で 家の中で世代から世代へと受け継がれていけば
こんなことを調べる必要もありません。
全く当てにならない情報を探る必要もありません。
生活のあらゆる面において 同じことなのです。

 

そしてもう一つ上記の例で分かるのは
「ものごとの状態を見ない」ということです。
「時間で測る」ことをしていて 大豆の状態は見ていません。
ですから 乳児に「何時間ごとに授乳する」などと
「乳児が欲しているのか」「乳児は必要としているのか」という
状態を見ずに時間で決めるということが当たり前に行われてしまうのです。

 

そして それは当然生活のあらゆる面において同じことです。
一事が万事 「ものごとの状態を見ない」生き方になっているのです。
目の前にいる人の状態でさえ見えません。
ということは 自分自身の状態でさえ分かりません。
なので 時間で決めて食事をします。
本当に身体が食べ物を必要としているかという状態を感じられずに。

 

現代では 世の中全体がそうなってしまっているのです。

 

*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえちえ

 

日本人は 何万年にもわたって「知恵の継承」をしてきました。
それぞれの家の中でも 世の中全体でも。
それが明治維新後あっという間に変わってしまいました。
いきなりその伝承が途絶えてしまったのです。
(何万年に対しての160年は「あっという間」です。)
それでも 戦後もそれぞれの企業の中で知識や知恵の伝承は行われていました。
だからこそ戦後の日本の産業の発展があったのです。
しかし 今ではそれも失われています。

 

では 日本以外ではどうなのでしょうか?
ヨーロッパでは 家での知恵の伝承はほとんど行われていませんでした。
ですから 「三代で没落」が当たり前でした。
(もっとも 日本でもそういう言い方はありました。
「売り家と 唐様に書く 三代目」
そういう家では知恵の伝承が行われていなかったということです。)
社会としての知恵の伝承もありませんでした。
ヨーロッパはキリスト教社会であり キリスト教が教育を否定し禁じていたからです。

 

イスラム社会の方が しきたりを伝えていくことに熱心です。
しかし それは「しきたり」を伝えているのであって 「知恵の伝承」とは違っています。<
ユダヤ人は教育を重視します。知識だけではなく知恵を重視します。
何千年間も迫害され差別され続けてきたユダヤ人にとっての一番の財産はそれだからです。
商売上手だといわれる彼らがどんなに蓄財しても 金銀財宝を蓄えても 不動産を持っても
結局はいつか誰かに奪われてしまいます。
そういう時に持って逃げられる唯一のものが「知恵」なのです
ですから 「ユダヤ民族としての知恵の継承」をとても重視しています。

 

しかし 日本ではそれは失われてしまいました。
僅か160年という短い期間に。
そして その「知恵の伝承」が失われたことでさえも気付いていないのです。
今の日本人とは そこまで知恵が無くなっているのです。
産業革命以来の 特に第二次世界大戦後の急激な世の中の機械化によって
私たちは余りにも多くのものを失いました。
「世の中は発展している」とか「人間は進化している」とかは 全くの幻想です。
進化したのは機械であって人間ではありません。
人間は逆に退化しているのです。
それとも機械が発達すれば 私たち人間には知恵が必要なくなるのでしょうか?
では 一体誰が機械を作り出すのでしょうか?

 

*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえ*ちえちえ

 

「知識」ではなく「知恵」を
そしてその「知恵の伝承」を
世の中全体で認識し 実行していくことで世の中全体が豊かになる。

 

この当たり前なことに もう人間は気付けないのでしょうか?

 

 

 

(2022/02/01)


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