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〔太陽のそよ風〕

《幸也の世界へようこそ》幸也の言葉《音と言葉》 → 《太陽のそよ風》


ここに掲載した文章は
曲集〔 太陽のそよ風 〕の映像作品において
音楽に添えられたものです。

〔 太陽のそよ風 〕

《太陽》
《走るオルガン》
《くつろぎ》
【悟り(I)】
《雲海》
《芽生え》
《満山の歓び》
【悟り(II)】
《香りと匂い》
《そよ風》

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《太陽》

太陽 それは大和言葉では「お日様」と言われてきました。

「日 = ひ」の音は 母音が「い」ですが これは
「日」が「火」「氣」「黄」などと関係していることを表しています。

つまり 太陽を大きな火の塊であり 大きな氣の塊であり
黄色いものとして認識してきた ということです。

しかし 火の塊であるという認識は間違っていました。
太陽は燃えているのではありません。

太陽のエネルギー層と 地球のエネルギー層とが重なり合ったところで
熱と光とが発生するのです。

しかし 氣( = エネルギー)の塊である という認識は正しいものであり
それなのに 現代人の多くが実感していないことです。

地球上の全ての生命は 様々な氣( = エネルギー)を享受して生きています。
地球の 太陽からの そして宇宙そのものからの。

その中でも 最も認識しやすいのが太陽からの氣(エネルギー)です。

植物は 太陽の光を浴びて 伸び伸びと育っていきます。
花は 太陽の方向へとその向きを刻々と変え続けます。
その様子は 日の光を浴びる喜びが溢れ出ているようです。

なぜ 日に干した洗濯物は 芳しい香りがするのでしょうか?
なぜ 天日で乾燥させた乾物(野菜/果物/海草など)は美味しいのでしょうか?

太陽からのエネルギーが 全ての生命にとって必要不可欠なものだからです。

そういう「お日様」を 大和民族は大切に思い 感謝してきました。

そして「日出ずる国」の民として 自らを誇りに思ってきました。

日の出を「御来光」として崇める 初日の出を見に富士山に登る などは
世界中の有色人種が持ち続けてきた 太陽への敬虔な思いの一つなのです。

しかし 私たちが享受しているのは 太陽からの「氣」だけではありません。

地球からも そして宇宙からも受け取っているのです。

それら無しには 受け取らずには 私たちは存在し続けられないのです。

しかし 私たちの多くが それを認識していません。

燦々と輝く太陽に顔を向け その氣を身体中で感じ取ってみましょう。
そして更に 地球からの氣を 宇宙からの氣を感じ取ってみましょう。

身体中でそれらの「氣」を呼吸してみましょう。

そうした時に 私たちは自らが宇宙の一部であり 宇宙と一体であり 
自らも「光」であることを自覚できるのです。

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《走るオルガン》

「オルガン」は 英語では 楽器の種類の一つを表しています。

しかし もう一つ 生物の「器官」をも意味しています。
(これは ゲルマン語の「orgel = オルガン」と 「organ = 器官」とか混同されたからです。)

人間には様々な器官があります。
それらは 外側から認識できるものと できないものとがあります。
皮膚や筋肉は認識できても 内臓はできません。

体内の様々な臓器に 今まで意識を向けたことはありますか?
それぞれの臓器の声に耳を傾けたことはありますか?

身体の中では たくさんの臓器がいつでもせっせと働いています。
私たちは それを自覚していませんが…
それら内臓の働き無しには 私たちは生存し続けられないのです。

そして それら内臓の働きは 自動的になされているようですが 実は
「意識」によってなされているのです。
私たちが自覚していない しかし私たちの中の「意識」によって。

実は 私たちは 自分の中の世界を何も知らないで生きているのです。
自分がどういう意識を持っているのか
あるいは 心の中でさえ知らないのです。

体内でせっせと働いているそれぞれの臓器に意識を向けてみましょう。
それをすることが 心の中の声に耳を傾けることへと繋がるのです。

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《くつろぎ》

「くつろぎ」とは くつろぐこと くつろいだ状態のことです。

しかし 「くつろぐ」とは一体どういうことなのでしょうか?
あるいは「くつろぐ」という言葉の原義は何なのでしょうか?

「くつろぎ」とは ゆるい状態 きつくない状態のことを表します。
それらは 肉体で感じるものと 心で感じるものとがあります。

「くつろいだ雰囲気」とか 「くつろいだ気持ち」とかは
物質的ではない「緩さ」を表しています。

「くつろいだ格好」は 姿勢のことや服装のことを表しています。
これらも「かたくない」様子や 「かしこまっていない」様子のことです。

くつろぎに似た言葉で「リラックス」という言い方があります。
「弛緩する」ということで これも「かたいものを緩める」意味です。

堅い/硬い/固い などの「かたい」の対極にあるのが「くつろぎ」です。
きつい/狭い/堅苦しい などの対極にあるのが「くつろぎ」です。

私たち人間にとって 最も重要な「かたさ」とは何でしょうか?
それは「心のかたさ」です。

頑なな心/意固地な心/偏屈な心 これらはいずれもが「かたい心」です。
「決め付け」や「不寛容」も それらの「かたい心」の表われです。

そのような「かたい心」が 肉体など目に見えるものにも表われるのです。
「くつろぎ」とは そういった「かたい心」の対極のものなのです。

先ずは かたい心を緩めることが くつろぎの第一歩なのです。

肉体とは 霊体や想念体の意識+意思が物質化したものです。
ということは 先ずは肉体の元である想念体に働きかけるべきなのです。
「自分が思っていること」が肉体の状態を作っているのですから。

想念体をくつろがせるとは すなわち
自分の「思い」「思考」「考え方」をくつろがせるということです。

ほとんどの人は たくさんの「こだわり」を持って生きています。
人の想念とは その人のこだわりと同じだとも言えます。
それを認識し 自覚し 解き放つことが必要なのです。

自分の思い/想念/気持ち/感情 それらから生まれる意見/判断/好悪
それらのほとんどが 実は「こだわり」なのです。
自分なりの「決め付け」なのです。
すなわち「かたくなさ」なのです。

それを自覚して その頑なさから自らを解放しましょう。

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【悟り(I)】
《雲海》
《芽生え》
《満山の歓び》

《雲海》

この三曲からなる組曲は 「悟り」の状態を表しています。

しかし 「悟り」とは ある一つの特定の状態のことではありません。
「悟り」には 様々な状態があるのです。

例えば 音で比喩してみると 「高音」とか「低音」とか言っても
では どの音からが「高音」で どの音から下が「低音」なのか
きっちりと決まっているわけではありません。

あるいは「美しい音」とか「汚い音」とかも同様です。
どういう音ならば「美しい」といえるのかは漠然としています。

「悟り」もそれと同じようなものです。

しかし それでも「悟っている」というのは ある状態のことです。
その一つが「自由自在」「変幻自在」だということです。

それは「囚われない」あるいは「こだわらない」
すなわち 心がある状態に固定されないことです。

私たちの想念/思考/嗜好などのほとんどが「思い込み」であり
その「思い込み」をもとに ものごとを決め付けています。

私たちの想念とは「思い込み」であり 「決め付け」なのです。

ということは 私たちの思っている「自由」とは すなわち
どう思い込むか どう決め付けるかの「自由」なのです。
それが「自由」なのだと 多くの人が思い込んでいます。

でも それって本当に「自由」なのでしょうか?
自分のことをどう縛ろうと 自由だと思っているのです。

雲海は 変幻自在に形を変える雲の集合体です。

自分自身の思考も嗜好も「思い込み」「決め付け」であることを自覚し
そこから自分自身を解き放った 本当に自由な変幻自在な
囚われの無い こだわりの無い状態を思い起こさせてくれます。

その状態が「悟り」の一つのあり方なのです。

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《芽生え》

芽生え それは植物が芽を出すことですが
そこから 様々なものごとが育ち始めることをも意味しています。

「才能が芽生える」とか「アイデアが芽生える」とか。

そもそも「芽生え」には 元になるものがあります。
植物の場合には 種や球根や枝から芽が出てきます。
それら 種や球根や枝の中に「生命力」があるのです。

その生命力が 宇宙エネルギーと化合することによって あるいは
共鳴し合うことによって芽が出るのです。

つまり何も無いところから出てくるのではありません。

そもそも 宇宙の中に「何も無い」という状態はありません。
なぜならば 宇宙の中のどこもが「宇宙」なのですから。

宇宙とは 意識です。宇宙は意識体なのです。
遍在する宇宙意識によって 全てのものは生かされているのです。
つまり 宇宙意識とは 全てを生かす宇宙エネルギーなのです。

そして その宇宙エネルギーとは すなわち「慈愛」なのです。
全ての存在は その「慈愛」によって生かされているのです。

ですから 「慈愛」が「悟り」のもう一つの状態です。
芽生えさせることが 育むことが 生かすことが「悟り」なのです。

それぞれの存在が持っている生命力を認め 引き出し
最大限に発揮させることが すなわち「育む」ということです。

「愛」とは 特定の対象へのものですが
「慈愛」とは対象を選びません。
「遍在する愛」が「慈愛」なのです。

自分という存在が慈愛である それが「悟り」の一つの状態です。

私たちは 宇宙意識 = 宇宙エネルギー = 慈愛を
植物の芽生えから学ぶことが出来るのです。

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《満山の歓び》

山の木々に生い茂る緑。
緑に覆いつくされた山々。

それらの緑は 生命力の発露であり 生きる歓びの表われです。

多くの山は森で覆われていますが
そもそも「森」という言葉の意味は 「生命力が盛っている場所」です。
生命力がもりもりと盛っている場所であり 状態のことです。
(それに対して「林」は 人手で木を生やした場所です。)

様々なたくさんの生命に それぞれの生命力を発揮させる場が「「山」であり
そのための「氣」( = エネルギー)を与えているのが「山」なのです。

つまり 「山 = やま」の「や」とは 「弥」( = ますます/いよいよ)なのです。
(三月を弥生月と言うのは 春に生命力がどんどん出てくることです。)

山は そこにいる全ての生命に 分け隔て無しに 生きる場を提供し
生きるための環境を与え きるための氣を与えています。

そして 全ての生命が生き活きと生きているのを見守っているのです。

つまりは 山とは愛情と慈愛とが山盛りになっている場所なのです。
そして そうやってたくさんの生命を育むことが 山にとっての歓びなのです。

「よろこび」には「喜び」の他に 「歓び」「慶び」「悦び」という
四種類の書き方があります。

顔が嬉しさでほころぶのは「喜び」です。
「歓び」は 「歓喜」のよろこびで 賑やかに華やかによろこびます。
「慶び」は「慶事」の時のよろこびで お目出度いことをよろこびます。
「悦び」は「悦に入る」よろこびで 満足した(個人的な)よろこびです。
たくさんの生命と共に 心だけではなく 魂がよろこんでいるのは「歓び」です。
「魂の歓び」 これがもう一つの「悟り」の状態なのです。

心で喜ぶ個人的な気持ちを越えて たくさんの生命と共に共感し合う
その 魂が歓んでいる状態が「悟り」なのです。


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【悟り(II)】

この曲集の二曲は「悟り」の状態を表しています。
あるいは 「悟り」への導きとなっています。

しかし「悟り」とは ある一つの特定の状態のことではありません。
「悟り」には 様々な様相があるのです。


《香りと匂い》

鼻を通して すなわち嗅覚で感じるものを総称して「匂い」と言います。
その「匂い」の中で 良いものを「香り」という別の言葉で言います。
「良い香り」「快い香り」「芳しい香り」などのように。
「芳しい匂い」という言い方はしません。
(そう言っても間違いではありませんが。いかにもセンスが無い言い方です。)

私たちの身の周りには いつでも様々な匂いがあります。
しかし 人間は情報の七割以上を目から取り入れていますので
いつでも匂いは感じているはずなのに 多くの人はそれを自覚していません。
強い匂いが漂ってきた時にだけ認識します。
食べ物の匂いや 香水の匂いなど。

五感の内 肉体と離れていていても感じ取れるのは
「視覚」と「聴覚」と「嗅覚」です。
つまり 物質と音と匂いです。
「味覚」と「触覚」は 直接身体と対象とが触れないと感じ取れません。

私たちは いつでも何かを見ているだけではなくて
いつでも何らかの音を聞いています。
いつでも何らかの匂いを嗅いでいます。
しかし それを認識していません。

「悟り」のひとつの状態が 「高い認識力」です。
それは 深く感じ取れるということと 広く感じ取れるということの両方です。
私たちは いつでも何らかの音を聞いているはずなのに 聞こえていない。
私たちは いつでも何らかの匂いを嗅いでいるはずなのに 嗅いでいない。
そういう状態よりも より多くより広くより深く認識できる それが悟りの状態です。
なぜならば 宇宙意識は宇宙の中の全てを把握し認識しています。
その宇宙意識に近付くことが 悟りであり成長だからです。



そして 悟った人は 他人が「そこにあるものを感じるか感じないか」に関わり無く
自らは「匂い」ではなく「香り」を漂わせようとしているのです。

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《そよ風》

そよ風は 肌で感じることは出来ますが しかし 目には見えません。

さわやかなそよ風
心地良いそよ風

それは 実も心も和ませてくれます。

しかし そよ風に感謝する人は余りいません。
そして そよ風は感謝されたがっているわけではありません。

ただ そよ風であるだけです。
しかし その「ただそよ風である」 それが心地良さ 気持ち良さを
誰かに 何かに感じさせているのです。

私たちの言動は 意図していても 意図していなくても 必ず
誰かに 何かに影響を与えています。

「自分が誰かにしたことで感謝される」というのは「我」があるのです。

はっきりと目に見える形で 誰かに何かをして感謝されるのでは無く
相手には気付かれなくても 良い影響を与えることが 「悟り」の状態なのです。


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