オルヴァル聖母修道院
Abbaye Notre-Dame d'Orval
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オルヴァル聖母修道院は 12世紀から13世紀にかけて建てられたそもそもの建物の廃墟と
18世紀に建てられフランス革命によって破壊された後再建された現修道院とがありますが
一班に公開されているのは廃墟の方だけです。
オルヴァル修道院の歴史はこのように説明されています。
1070年に 南イタリアからやってきた修道士たちが
ここの領主シニー伯爵に迎え入れられ土地を贈られました。
すぐに彼らは教会と修道院の建築を始めました。
しかし 不明な理由により彼らはその40年後にここを去って行きました。
他の修道士たちがここを引き継ぎ 建物を完成させましたが 経済的に運営がうまくいかず
クレルヴォ―のベルナール(後の聖ベルナルデュス)に助けを求め
シトー派によって運営されることになります。
1132年に新たにやってきた七人と すでに居た修道士たちとで
シトー派の規則に則ってオルヴァル修道院を運営することになりました。
(この年を公式の始まりとしています。)
シトー派は自給自足を原則としていますが
オルヴァルは土地が痩せており農業には適していなかったために
20km離れた土地で麦を作るようになります。
またオルヴァルよりも南(現在のフランス領内)で鉄鋼業を営むようになります。
1252年に大火が起き 建物の大部分が焼け落ちたために再建することになりました。
15世紀から16世紀に掛けては フランスとブルゴーニュとの戦いや 後には
フランスとスペインとの戦いによってこの地方は荒廃します。
しかしその後カール五世が鉄鋼業を許可したために発展するようになり
1533年には教会が再建されます。
この当時修道士は24人になっていました。
17世紀は低地地方にとっては不幸な時代でしたが
オルヴァル修道院は最盛期を迎えます。
南方からやってきたモンガヤールのベルナールの指導により
アルブレヒトとイザベラ公に保護され 運営は安定し
43人(そのうち修道士は27人)の組織となりました。
しかし 1637年から30年戦争(旧教と旧教との対立から始まった
全ヨーロッパにおける戦争)に巻き込まれ壊滅的に破壊されます。
1668年から1707年にかけて ルクセンブルク出身の修道士シャルルによって
再建が行われ 飛躍的に発展し
130人を擁す神聖ローマ帝国内でも最大の修道院となりました。
17世紀末から18世紀初めに掛けては
オルヴァルの鉄鋼業は西ヨーロッパ最大の規模となります。
しかし 内紛が起きたために 1725年に15人の修道士が去って行きます。
1782年には教会が再建されましたが フランス革命軍による数回の襲撃の後
1793年に壊滅的に破壊され 修道士たちは逃げ出すことになります。
1926年に再開され フランス革命軍によって破壊された建物が再建され(1948年完成)
今日に至っています。
(オルヴァル修道院の説明文から)
つまり今現在の修道院は
13世紀から1533年にかけて建てられ 1637~1667年に破壊された廃墟と
1782年に完成1793年に破壊され 1948年に再建された新修道院とで
構成されていることになります。
そして更に この修道院はマティルデの伝説と深い関わりがあります。
【マティルデの伝説】
1076年のこと 未亡人だったトスカナのマティルデ伯爵夫人が
結婚指輪を泉に落としてしまいました。
いくら探しても指輪は見つかりません。そこで神様にお祈りをしました。
すると 一匹の鱒が指輪をくわえて浮き上がってきました。
高価な指輪を再び手にしたマティルデ伯爵夫人は思わず
「ここは本当に 金の谷(Or=金 Val=谷)だわ!」と叫びました。
そして感謝の気持ちからここに修道院を建てることにしました。
見学できるのは廃墟です。
この説明文を知らずに見学しても廃墟です。知って見学しても廃墟です。
そして この説明文以上のことを知って見学しても やはり廃墟です。
つまり 見られるものは廃墟しかありません。
しかし 見学をすると 上記の説明文や伝説に幾つもの疑問を感じます。
「本当にここに指輪を落として見つからなかったのだろうか?」
「本当にここに鱒がいたのだろうか?」
「どうして イタリアの南の端から ここに来て修道院を始めたのだろうか?」
「九人の修道士が建てたにしては 立派すぎないだろうか」
「現在の修道院も 立派すぎないだろうか」
そして この説明文以上のことを知ることによって 更なる疑問が出てきます。
ルイ16世との関わりや ノストラダムスとの関わりなど・・・
ミシェル・ド・ノストラダムスは1540年からの5年間フランス各地を旅行しましたが
そのうちの二年以上はオルヴァル修道院とその周辺に滞在していました。
なぜ彼はオルヴァルに滞在していたのでしょうか?
単なる田舎の修道院では説明が付きません。
1791年 革命が始まっていたパリから 身の危険を感じたルイ16世は
家族全員と共に変装し 200人の兵士に護衛されて逃げ出しました。
向かった先は・・・オルヴァル修道院!
なぜルイ16世は逃亡先にオルヴァル修道院を選んだのでしょうか?
単なる田舎の修道院では説明が付きません。
また マティルデ伝説も 良く調べると疑問だらけです。
(後に詳しく説明しています。)
上記の説明文以上のことを知ることによって 私たちは
その廃墟で何かを感じ取る切っ掛けとすることが出来 そして更に
ベルギー国内のいろいろな場所との繋がりを知ることになり
それによってベルギーという場所がヨーロッパの中で
どういう意味を持っているかまでをも知ることが出来るのです。
オルヴァル修道院とベルギー各地との繋がり
1)クローヴィスとメロヴィング朝(Tournai)
2)カール大帝
3)Bouillon城とゴッドフリード・ブイヨン
4)Bruggeの聖血
5)Lissewegeの聖母教会
6)Bruggeの白鳥
7)Gentの「神の子羊」(「神秘の仔羊」)
8)金の羊毛騎士団
9)Bruggeのエルサレム礼拝堂
10)Tongerlo修道院にあるレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の複製
《マティルデ伝説の疑問》
修道院の説明文は上記のとおりですが これには異説があります。
1)マティルデ伯爵夫人は まだ未亡人では無かった。
2)落としたのは結婚指輪では無かった。
そもそもマティルデ伯爵夫人とは?
ヨーロッパではカノッサのマティルデと言われていますが
11世紀のヨーロッパで最も重要な女性です。
この時代に女性が絵画として残されるということはまずありませんでしたが
その例外中の例外として彼女は肖像画が残され かつ
ステンドグラスにまでその姿が描かれています。
しかもその肖像画は ローマ教皇と並んでいる姿です。
1077年に起きた「カノッサの屈辱」事件において
ローマ国王から命を狙われていると思ったローマ教皇をカノッサ城にかくまったのが
その当時のカノッサ城主のマティルデ伯爵夫人です。
(伯爵の妻という意味ではなくて 彼女自身が爵位を持っていました。)
1046年ごろの生まれとされていますが
母親がアルデンヌ家のロレーヌ公爵ゴッドフリード3世と再婚し
マティルデはその息子ゴッドフリード4世と1069年に結婚しロレーヌ地方に暮らし始めます。
しかし「せむし公」と言われた夫は背が低く容姿も醜く夫婦仲は良くありませんでした。
1076年に夫は暗殺され未亡人となり カノッサに戻って所領を治めます。
さて 1076年に未亡人となり 結婚指輪を泉に落として
見つかったお礼に修道院を始めた という説明が正しいのだとすると
1070年に南イタリアから来た修道士たちがオルヴァル修道院を始めた
という説明と 辻褄が合いません。
また夫の死後はロレーヌに暮らさずにカノッサに戻っています。
《異説・マティルデ伝説》
アルデンヌの森で狩りをしていたマティルデ伯爵夫人(未亡人では無い)は
喉が渇いたのでたまたま見つけた泉で水を飲みましたが
その時に指輪(結婚指輪では無い)を落としてしまいました。
いくら探しても見つからず 一旦その場を離れて神様にお祈りをし
泉に戻ってみると一匹の鱒が口に指輪をくわえで出てきました。
こちらの話しの方が正しそうです。
九人の修道士たちは 南イタリアのカラブリア地方からやって来ました。
カラブリア地方はイタリア半島の先端で イタリアの中でも特殊な地域です。
ピタゴラスが晩年を過ごした地であり その後もピタゴラス教団がその教えを守り続けています。
また イスラム教やユダヤ教 そしてドルイド教(ケルト民族の宗教)やマニ教など
複数の宗教が共存していた地域でもあります。
しかし イタリアの南の端から どうして彼らはわざわざ何も無い 人の住んでいない
農業もできないオルヴァルに来て修道院を始めたのでしょうか?
つまりは アルデンヌ家にお嫁入りしたマティルデが招いたということになります。
九人の内の代表者が Ursusという王子(あるいは領主の跡取り息子)で
もう一人はPierreと言います。
このピエールが後のヨーロッパを揺るがす大事件を引き起こすことになります。
「謎の修道士ピエール」として
ロレーヌ地方を中心に十字軍結成のための大プロパガンダを行った人物です。
彼は 第一次十字軍に同行してゴッドフリード・ブイヨンと共に
エルサレム入りしたことが分かっています。
(注:日本ではフランス語読みのゴッドフロアと言われることがほとんどですが
語源的にこの名はゲルマン語です。 God=神 Fried=平和。
ですので ここではゲルマン語の読みでゴッドフリートと表記しています。)
つまり カラブリア地方からオルヴァルにやってきた九人の修道士たちこそが十字軍を結成したのであり
オルヴァル修道院においてその話し合いが行なわれたのです。
40年後に彼らは忽然と姿を消したという説明ですが いなくなるのは当然です。
1070年に全員が二十歳だったとしても 40年後には60歳です。
この時代には もう死んでいてもおかしくない年齢です。
しかし 彼らは死んだのではありません。
聖地エルサレムが十字軍によってキリスト教徒の手に戻り そして
聖地に巡礼する人たちを保護するという名目で「聖堂騎士団」=「テンプル騎士団」が結成されました。
一般には 1118年に結成されたとされ 結成に参加した九人の名前も伝えられています。
しかしこれは 1180年代に書かれた資料を基にしたものです。
第一次十字軍の成功から20年近くもたってから結成されたというのは おかしなことです。
実際には 聖堂騎士団は第一次十字軍と同時に結成されたものであり
初代総長はゴッドフリード・ブイヨンその人であり
彼の死後二番目に総長となったのがウルズスです。
そして 1132年に修道院の改革をしたクレルヴォ―のベルナール(後の聖ベルネルデュス)は
聖堂騎士団の規則書を書いた人物です。
つまり 聖堂騎士団は 第一次十字軍と一緒にオルヴァル修道院で結成されたのです。
聖堂騎士団は上記のように 聖地への巡礼の人々を
イスラム教徒から守ることを目的として結成されたことになっていますけれども
聖地においてソロモン神殿に宿泊し(ですので聖堂騎士団と名付けられました)
結成の理由とされる「聖地エルサレムへの巡礼者たちを保護する」という
それを実行したという記録は一切見つかっていません。
そのソロモン神殿の地下で発掘を行いました。
数年後に 探していたものを見付けたらしく
それを持って彼らは北フランスへと移動します。
そして その数年後 北フランスにおいて突如「ゴチック様式」が誕生します。
つまりゴチック様式は聖堂騎士団が発明したものであり かつ
彼らがエルサレムで発掘したものと何らかの繋がりがあるということです。
ノストラダムスはなぜ オルヴァルに滞在していたのでしょうか?
フランス革命軍によって破壊された時 オルヴァル修道院の図書館には
一万五千冊もの蔵書があったそうです。
これは中世ヨーロッパにおいては 驚異的な数の本です。
つまりノストラダムスはそれらの本を研究に来たのです。
しかし彼はオルヴァル修道院で瞑想もしました。(修道士にとって瞑想は必須です。)
オルヴァル修道院の薬草園に立っていた楢の木の下で瞑想するのがお気に入りだったそうです。
(ちなみに彼のフランス語は 出身地であるピカルディー地方の方言が主ですが
シュケルデ川とデンデル川に挟まれた地域でだけ話されていた方言も含まれています。)
1555年に 彼の名を有名にした四行詩を出版しますが
その中にはオルヴァルの地名も出てきます。
正確には フランス革命時にルイ16世がどこに逃げ出し
どこで逮捕されるのかが予言されています。
ルイ16世は なぜ逃亡先にオルヴァル修道院を選んだのでしょうか?
一つの理由は王妃マリー・アントワネットがウィーンのハプスブルク家出身であり
フランス領からオーストリア領に入れば保護してもらえると思ったからです。
今現在のベルギーとフランス間の国境と同じく その頃も
オルヴァルの2km南がオーストリア領ベルギーとフランスとの国境でした。
しかし 理由はそれ一つだけでは無いようです。
ルイ16世(およびフランス王家)にとって重要な何かが オルヴァル修道院に隠されていたからです。
そもそも (現在使われている)オルヴァル修道院の建物は とても立派です。
最盛期には130人いたとはいえ 立派過ぎるくらいです。
ですので「修道院のヴェルサイユ」と言われています。
結局この大きさは 何かを隠すためです。
では 何を隠していたのでしょうか?
アルプス以北のヨーロッパで最も重要な文学は「聖杯伝説」です。
この「聖杯伝説」は「白鳥の騎士伝説」と「アーサー王伝説(円卓の騎士伝説)」と結び付いて
一つのものとなっています。
そして 聖杯伝説の舞台は ベルギーです。
(それらを基にした ワーグナーの歌劇「ローエングリン」の舞台もベルギーのアントウェルペン近郊です。)
「聖杯」とは 何でしょうか?
これまで多くの人々が「聖杯」=「キリストの磔刑の時に流れ出た血を受けた杯」であり
その杯には不思議な力があるとされ そのありかを探していました。
しかし 本当の聖杯とは 杯ではありません。物質的なものでもありません。
「キリストの血を受けたもの」のことであり これは「キリストの血筋」
すなわち「キリストの子孫」のことです。
正統派キリスト教カトリックがひた隠しにしてきたことの一つが
「イエス・キリストの結婚と子孫」に関してです。
カトリックは「イエスは聖母マリアの唯一の子供」であり
「イエスは結婚していなかった」と言ってきました。
しかし新約聖書にはイエスの兄弟の名が出ています。
イエスの結婚式の時の描写も出てきます。
イエスの息子の名も出ています。
イエスはマリアムネ(マグダラのマリア)と結婚し子供をもうけていました。
イエス・キリストの死後マリアムネ(マグダラのマリア)と聖母マリアたちは
船に乗ってエルサレムを去り 南フランスのマルセーユに上陸します。
身ごもっていたマリアムネはここで娘を産み サラと名付けます。
そしてマリアムネと聖母マリアはこの地に「イエス・キリストの本当の教え」を伝えます。
その後その教えは 南フランスの(トゥールーズを中心とした)ラングドック地方に広まっていき
やがてそれがカタリ派を形成します。
しかしこのカタリ派は後にカトリックから異端とされ
1209年に始まったアルビジョア十字軍以来弾圧を受けて消滅していきます。
このラングドック地方のカタリ派とは イエス・キリストの本当の教えと
それを引き継いだグノーシス派 そしてユダヤ教/イスラム教/ドルイド教/マニ教などが入り混じった
それら全てに共通する普遍的な内容の教えでした。
ではなぜ 正統派キリスト教(を名乗る)カトリックは それを異端だとして弾圧したのでしょうか?
ヨーロッパは「キリスト教社会」でした。
キリスト教が世の中全体を支配し統治し 全ての人を管理していました。
つまり キリスト教というのは 宗教と名乗ってはいても 実際には世の中を支配し統治する仕組みでした。
王が国を統治するのと同様に キリスト教がヨーロッパ全体を統治していたのです。
何のために?
全ての人から税を取るためです。
カトリックの基本教義の一つが「原罪」であり
アダムとイヴが禁断の実を食べてエデンの園を追放されたがために
その後生まれた全ての人は罪を犯したアダムとイヴの子孫なので
全ての人が生まれながらにして罪人であり
その罪をあがなうために教会に献金しなければならないとして
全ての人から収入の十分の一を取る仕組みを作っていました。
すなわち キリスト教における「献金」とは 罪人であるが故の「罰金」なのです。
そして更に 「金持ちである程 天国に入るのは難しい」と脅して
金持ちたちにより沢山の献金をさせていました。
しかし いくら献金しても いくら懺悔しても 罪はあがなわれません。
なぜならば生まれながらにして罪人だからです。
つまり キリスト教カトリックというものは 人々を幸せにするための宗教では無く
全ての人は罪人であるという罪悪感を押し付けることによって金を集める 集金組織だったのです。
そして効率良く集金するために 世の中全体を支配下に置くという仕組みを作ったのです。
そういうキリスト教にとって 最も困ったものが 「イエス・キリストの本当の教え」でした。
なぜならば イエスは一言も「原罪」や「罰金」について言っていないからです。
そしてイエスはユダヤ人であり すなわちユダヤ教徒であり
ユダヤ教ではたとえ親子であっても「他人の罪を負うことは無い」としています。
ですから 幾世代前だか分からないアダムとイヴの罪を子孫が負うなどということを言うわけがありません
結局カトリックは 世の中を支配し統治するために たくさんの嘘を並べていて
それらがイエスの教えとはまるっきり別のものだったのです。
ですから イエスの本当の教えが世の中に出て来ては困るのです。
イエスの教えとは 古代エジプトから伝わる秘儀と
ユダヤ教/ドルイド教/イスラム教/マニ教などに共通する普遍的な内容とを統合したものであり
それが「普遍的な教え」であるがゆえに それを隠そうとしたカトリックは
自らを「カトリコ=普遍」と名付けたのです。
本当の「聖杯」 すなわちイエス・キリストの血筋はどうなったのでしょうか?
マリアムネ(マグダラのマリア)が生んだ息子ユダと娘サラの子孫はどこに行ったのでしょうか?
五世紀後半に 現在のベルギーにおいてフランク王国が成立し
メロヴィン朝のクローヴィスが初代国王となりました。
このクローヴィスは アルプス以北で最初の国家を打ち立てただけではなく
夫婦でキリスト教に帰依し それによって 後ヨーロッパ全体がキリスト教化していく出発点となったので
ヨーロッパの歴史において非常に重要な人物とされます。
初めはクローヴィスの出身地であるトルネを首都としていましたが やがて首都はパリに移されます。
フランク王国は時代とともに規模を大きくし
八世紀末から九世紀初めにかけてのカール大帝の時代に最大となりました。
これによりフランク王国は ヨーロッパのほぼ全域を治める国となり
それによってはじめて「統一ヨーロッパ」の概念が生まれました。
(つまりそれ以前には「ヨーロッパ」は無く それぞれの土地が
地方領主によって治められているだけだったのです。)
これにより カール大帝は「ヨーロッパの父」とされ 西ローマ帝国皇帝となり
かつ「ヨーロッパの三大偉人の一人」に数えられます。
「ヨーロッパの三大偉人」のもう一人は ゴッドフリード・ブイヨンです。
第一次十字軍を率いて 聖地奪回を果たした彼は
この二千年来のヨーロッパ歴史における最も重要な事件である十字軍を率いただけでは無く
それを成功させたことによって偉人とされています。
三大偉人のもう一人は アーサー王です。
しかし アーサー王に関する話は伝説であり
実在のアーサー王について伝わっているわけではありません。
このアーサー王伝説が 「聖杯伝説」「円卓騎士伝説」「白鳥の騎士伝説」などと結び付いています。
そしてこれらの舞台となったのがベルギーです。
そもそもアーサー(Arthur)とはどういう意味でしょうか?
「熊」を意味しています。
オルヴァル修道院があるのはアルデンヌ Ardenne地方ですが
このアルデンヌというのは ケルト民族の森の女神の名が由来であるとされています。
しかし 「森の主」である「熊」をも意味しているとされています。
この「ヨーロッパにおける三大偉人」は ゲントの祭壇画
すなわち「神の子羊」(神秘の仔羊)にも描かれています。
「キリストの騎士たち」の画面で前方の三人が彼らです。
そして一番手前のゴッドフリード・ブイヨンは 馬では無く驢馬に乗っています。
これは 新約聖書に出てくる「キリストのエルサレム入城」を思い起こさせます。
これによってゴッドフリード・ブイヨンがイエス・キリストと繋がっていることを
すなわち「イエス・キリストの直系の子孫」であることを暗示しています。
そして 旗のうちの一つは聖堂騎士団(テンプル騎士団)のものです。
この画面「キリストの騎士たち」には九人の人物が描かれていますが
この九人とは すなわち聖堂騎士団を創立した九人を暗示しています。
ついでに「修行者たち」の画面を見てみましょう。
修行者たちの守護聖人である聖アントニウスと修行者たちが描かれていますが なぜか二人の女性もいます。
この二人はマグダラのマリアと聖母マリアです。
彼女たちも山にこもって修行をしたのでしょうか?
この画面は南フランスのラングドック地方のカタリ派を暗示しています。
カタリ派は聖アントニウスに導かれているとしていました。
さらに下段中央の画面を見ると 羊の左側に居る天使たちの一人が支えている十字架は
カトリックのラテン十字(縦が長い十字)ではありません。
「T」の字型です。これは「Tau」とも言われていますが 聖アントニウスのシンボルです。
「Tau」はラテン語での「T」の読み方ですけれども 同時に中国語の「道=Tao」をも連想させます。
つまり「道」であり「導くもの」なのです。
羊は右脇腹から血を出しており それによってこの羊がキリストを象徴していることが分かりますが
しかし血の出方が勢いがあり過ぎます。しぶきが飛んでいます。
この描き方によって 血を受けている聖杯を目立たせています。
この聖杯で 「真の聖杯」を暗示したかったと思われます。
このように「神の子羊」(神秘の仔羊)の絵は
聖堂騎士団やカタリ派 そして真の聖杯を描いたものであり
実は(カトリックにとっての)異端 すなわち「反カトリック」を表していることになります。
聖堂騎士団の騎士たちがエルサレムで探し そして見つけたものは イエスの本当の教えであり
それは古代エジプトから伝わる女神イシスの秘儀と
ユダヤ教(カバラ)/ドルイド教/イスラム教(スーフィー)/ピタゴラスの教え
などに共通する普遍的な内容とを統合したものであり
すなわち「人間の霊的生き方」に通じるものであり そしてもう一つがイエス・キリストの血統でした。
そして その血統を守り 「人間の霊的生き方」を広めることが彼らの目的でした。
ゴチック様式とは まさにその目的のために始められたものです。
パリの北の聖ドニ修道院で始まり アミアン/シャルトル/パリ/オルレアンなどに建てられた
ゴチック様式の大聖堂は いずれもが「暗号」を秘めています。
それらの暗号が すなわち「人間の霊的生き方」を現すとともに
「反カトリック」をも表していたのです。
そしてヨーロッパ各地の修道院が持っていた蔵書は それらの教えを記したものだったのです。
つまり 修道院というのはカトリックの信者のふりをしながら
実は「反カトリック」の教えを学ぶ場だったのです。
「燈台下暗し」です。そういう中でもオルヴァル修道院は特別な場所です。
カラブリア地方から来た九人の修道士たちは その地に伝わっていた
それらの教えをオルヴァルへともたらしたのです。
オルヴァルの南西20㎞にストゥネ(Stenay)という村があります。
ここは以前メロヴィング朝の宮廷があった場所であり
679年にフランク王国国王のダゴベルト2世が暗殺された場所でもあります。
メロヴィング朝の存在も カトリックにとっては邪魔なものでした。
クローヴィスのメロヴィング朝からカール大帝のカロリング朝
そしてゴットフリート・ブイヨンに繋がる流れというのは
実はイエス・キリストの血筋なのです。
彼らはイエスの直系の子孫なのです。
だからこそ偉大なことを成し遂げることができたのです。
暗殺されたダゴベルト2世の妻は ラングドックの出身でした。
彼女もまた イエスの直系の子孫だったのです。
つまりイエスの直系の子孫同士が結婚することによって
強力な「真のイエスの教え」を伝える何かが起きるのを恐れたカトリックによって
ダゴベルト2世は暗殺されました。
ということは ヨーロッパの中で ロレーヌ地方において
「聖杯=イエス・キリストの血統」が守られてきたことになります。
オルヴァル修道院というのは そういう中にあるのです。
というよりも その中心となっているところなのです。
21世紀に入って これまで二千年間隠されてきた秘密が明らかになりました。
イエス・キリストの血を継ぎ その教えを守る家系の連合体であるレックス・デウスの存在です。
それらの家系の中でも重要だったのが ロレーヌ公爵家であり
フランダース伯爵家でありブルゴーニュ公爵家でした。
フランダース伯爵領がなぜヨーロッパでも最も繁栄し ヨーロッパの文化の中心となったのか。
それはフランダース伯爵家が「全ての人が幸せに生きる」ことを目指した
イエス・キリストの血と教えを伝えていたからです。
ブルゴーニュの宰相ロランも「全ての人の幸せ」を心底願っていたからこそ
ヨーロッパの施療院の代表であるボーヌの「神の家」を建てたのです。
これで ノストラダムスがなぜオルヴァルに滞在していたのか その理由が納得できます。
「聖杯=イエス・キリストの血統」が守られ続けてきたロレーヌ地方の 「宇宙の普遍的な法則」
すなわち「宇宙の知恵」を蓄えたオルヴァル修道院において それを学ぶためだったのです。
そしてそこから彼の四行詩=予言集が生まれたのです。
そして オルヴァル修道院にはルイ16世の(あるいはフランス王家の)莫大な財産が隠されていたからこそ
そこに逃げ込もうとしたのだと言われていますが
ルイ16世(あるいはフランス王家)にとっての一番の宝は何だったのかというと
それは物質としての金銀財宝ではありません。
カロリング朝に始まるフランス王家の流れが「聖杯=イエス・キリストの血統」と関わり合っている
ということが一番の宝なのです。
聖堂騎士団(テンプル騎士団)は これらを守るための組織であり それが故に
「反イエス・キリスト」である正統派キリスト教(を名乗る)カトリックによって弾圧され解散させられました。
しかし カトリックがいくらイエス・キリストの真の教えを隠蔽したり否定したりしても
「宇宙の真理」「宇宙の智恵」というものは 厳然として存在します。
解散させられた聖堂騎士団の(有形・無形の)財産は主にスコットランドに運ばれ
その後フリーメーソンや薔薇十字団やシオン修道会などへと引き継がれていきます。
そして オルヴァルをはじめとする各地の修道院においても引き継がれていきます。
十字軍とは一体何だったのか 聖堂騎士団とは一体何だったのか
それらを知ることによって またオルヴァル修道院の意味をも知ることが出来ます。
エルサレムは ユダヤ教にとっても キリスト教にとっても そしてイスラム教にとっても「聖地」です。
ですから そのうちのどれかがエルサレムを独占するのはおかしなことです。
ゴッドフリード・ブイヨンは そのおかしなことをしようとしたのでしょうか?
彼は カトリックが言っていたように「キリスト教徒以外は皆殺しにすべき」だと
あるいはイエス・キリストがそう言ったと信じていたのでしょうか?
そうでは無く 彼の目的はあくまでも「聖杯」にありました。
そして 人間が真に幸せに生きるための知恵にありました。
それを探し出し広める実行部隊が聖堂騎士団であり
その聖堂騎士団が エルサレムのソロモン神殿に入れるように
十字軍というヨーロッパ全体をも動かすような大掛かりな行動を起こしたのです。
結局 オルヴァル修道院を見学するということは
「ヨーロッパとは何だったのか」=「キリスト教社会とは何だったのか」
「カトリックの真の目的は何だったのか」を知り理解するということなのです。
カトリックが「全ての人間は 生まれながらにして原罪を背負った罪人であり
罪人として惨めな人生を生きなければならない」という生き方を強要していた
それがキリスト教社会でありヨーロッパです。
そういう中で 「そのような生き方は 人間として本当の生き方なのだろうか?」と疑問を抱き
「本当の生き方」を探求しそれを実践しようとしてきた人たちがいます。
カトリックが「異端」だとして弾圧してきたのは これらの人々です。
一人一人の力では弱いからこそ 集団で(しかし隠れて)それをしてきたのが
グノーシス派でありカタリ派であり聖堂騎士団であり そしてその流れは
15世紀半ばにスコットランドで始まるフリーメイソンに引き継がれ
やがては15世紀に北イタリアに始まるルネッサンス そして16世紀に始まる宗教改革へと繋がって行きます。
アルプス以南のルネッサンスも アルプス以北の宗教改革も いずれもが「反カトリック」運動です。
やがて その流れは19世紀末のベルギーにおいて「アール・ヌーボー」として花開くことになります。
「生活に関わる全てのものが美しくあるべきだ」という理念を実現するために総合芸術となった
アール・ヌーボー様式こそが
「全ての人が真に幸せに生きる」ことを実生活で実現するためのものであり
だからこそ幸せ探しの旅に出る「青い鳥」がアール・ヌーボー文学の代表とされるのです。
(つまり アール・ヌーボーも「反カトリック」です。)
このように 「カトリック=不自然な不自由な生き方」に対する
「(カトリックから見ての)異端=自然な生き生きとした充実した生き方」という構図を知ることが
ヨーロッパを理解することになり そしてその異端の流れの中でも
オルヴァル修道院こそがまさに中心とも言える存在なのです。
ヨーロッパにおける「反カトリック運動」の出発点になった場所なのです。
そしてそれがどれほどの信念の強さで始められたのか
それはヨーロッパ全体を動かすことになった それがその証しとなっています。
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オルヴァル修道院の見学とは 廃墟を見るだけです。
こういったことを知らないで見学しても廃墟ですし 知って見学しても同様に廃墟です。
しかし これらを知ることによってオルヴァル修道院というものが
ヨーロッパの中で ヨーロッパの歴史においてどれほどの重要な場所なのかを納得できるとともに
実際にその場に(特に集会所であった建物に)立った時に
そこで「十字軍と聖堂騎士団を結成し 世の中を反カトリックへと導き
全ての人をカトリックの頸木から解放し 真に幸せに生きられる世の中へと変えていこう」という
九人の修道士たちの崇高で偉大な理想と信念と意志の強さとをいくらかなりとも感じ取りたいと思えることが
オルヴァル修道院に行った意義となるのです。
なぜならば 今の日本は理想も信念も理念も意思も無い人たちばかりの世の中だからです。
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【付記】オルヴァル修道院とベルギー各地との繋がり
1)クローヴィスとメロヴィング朝(Tournai)
メロヴィング朝は メロヴィクスによってはじめられた(のでその名を取っている)とされていますが
実質的にはクローヴィスが初代となります。
1653年にトルネにおいて偶然 メロヴィング朝の チルデリク1世の墓が発見されました。
そこには たくさんの金細工がありましたが 金は
(後のカール大帝も非常に重要視して カロリング朝様式において多用されましたが)
宇宙の基本鉱物であること 金色は宇宙の原色であることを認識していた現れです。
これらの発見品の中で 金の蜂は その後
ナポレオンがフランス皇帝として戴冠する時にその衣装に使われましたが
これによってナポレオンがメロヴィング朝の流れを継承することを表現したかったのでしょうか?
(夫人のジョセフィーヌは レックス・デウスの家系の出身です。)
メロヴィング朝はその後カロリング朝に取って代わられますが その流れはイエス・キリストの直系であり
つまりクローヴィスも(その後のカール大帝も)イエスの直系の子孫だとされています。
2)カール大帝
メロヴィング朝にとってかわったカロリング朝の三代目であるカール大帝は
フランク王国を最大にし 西ローマ帝国皇帝となりました。
なぜ メロヴィング朝はカロリング朝に取って代わられたのでしょうか?
古代ユダヤでは(政治を司る)「統治王」と
(宗教を司る)「祭祀王」との二本立てで国が治められていましたが
イエス・キリストは「祭祀王」の系統でした。
メロヴィング長も同じく「祭祀王」だったので
政治を司るのでは無く祭祀を行うことに重きを置いていました。
しかし 実際的な政治的統治能力は弱かったために国内が混乱し
それを政治が得意なカロリング朝が取って代わったのです。
また カール大帝は(彼自身も含めて)ほとんどの人が文盲であったヨーロッパにおいて
教育の重要性を認識し ヨーロッパ各地の文字を統一し 学校制度を確立して教育にも力を入れました。
ということは 「全ての人は愚かな罪人」であるとして
読み書きを禁じていたカトリックの教えに則っていなかったことになります。
3)Bouillon城とゴッドフリード・ブイヨン
ゴッドフリード・ブイヨンはマティルデ伯爵夫人の甥であり ヴェルデュンの伯爵領を引き継いでいます。
彼の居城であったブイヨン城で1963年に発見された十字架は
「真の十字架=イエス・キリストが磔になった十字架」として
第一次十字軍によってコンスタンチノープルから持ってこられ
その後行方が分からなくなっていたものではないかと思われており 一見の価値があります。
彼の父親が「白鳥の騎士」であり すなわち イエス・キリストの直系の子孫とされています。
4)Bruggeの聖血
1150年に第二次十字軍によってもたらされた聖血=キリストの血。
そもそも なぜブルージュに聖血があるのでしょうか?
世界中で聖血があるのはブルージュだけです。
一般には フランダース伯爵アルザス家のティエリが第二次十字軍において功績があったので
コンスタンチノープルに保管されていたものを与えられたとされています。
しかし 第二次十字軍は聖地奪回を果たせませんでした。
つまり失敗だったのです。
それなのに功績があったとされたのでしょうか?
そして(十字架のかけらなどは到る所にありますが)聖血はヨーロッパの他の地にはありません。
ブルージュは1180年まではフランダース伯領の主都でしたが しかし
なぜそんなに貴重なものが ヨーロッパの中でパリでもなくケルンでもなくローマでもなく
ブルージュにあるのでしょうか?
アルプス以北のヨーロッパ^で最も重要な文学である「聖杯伝説」は
1180年代にブルージュで書かれたものが初めてです。
当時のフランダース伯爵アルザス家のフィリップが「聖杯」に関する情報を提供して書かせたもののようです。
これらが結局は 今日のベルギー王国(=昔のフランダース伯爵領とロレーヌ公爵領)が
「イエス・キリストの血を継ぐ子孫」の土地であることと関係しています。
5)Lissewegeの聖母教会
ブルージュ近郊の村リッセヴェーゲにある聖母教会は 1225年から建築が始められた建物ですが
人口五百人の村の教会にしては立派過ぎます。
この教会は 聖堂騎士団によって建てられた 聖堂騎士団最盛期の建物です。
ヨーロッパにおいては11世以降巡礼が盛んになりましたが
スコットランドからの巡礼者たちがスペインのサンティエゴ・コンポステーラまで行くにあたって
大陸に上陸するのがフランダースの海岸でした。
そしてまず一番初めの巡礼教会がこのリッセヴェーゲの教会でした。
しかし 巡礼者たちを保護することを目的としていた聖堂騎士団ですが
この地方では何が危険だったのでしょうか?
つまり この教会のこの大きさは たんに巡礼者たちを保護することを
聖堂騎士団が目的としていたのではないことが分かります。
スコットランドのエディンバラ近郊にあるロスリン礼拝堂は
聖堂騎士団が解散させられた後 その遺したものが保管された場所(であり
それを伝えるために フリーメーソンが結成された場所)だと思われていますが
それ以前からスコットランドは聖堂騎士団との強い結び付きがありました。
つまり彼ら自身がスコットランドに渡る拠点としていたのが
このリッセヴェーゲの教会だということです。
6)Bruggeの白鳥
アルプス以北のヨーロッパで最も重要な文学は
「聖杯伝説」「アーサー王伝説」「白鳥の騎士伝説」でした。
これらの物語の舞台は 今日のベルギーであり そもそもは
1180年代にフランダース伯領においてこれらの物語が書かれました。
ブルージュの白鳥は オーストリアのマキシミリアン公の命によって1488年以来保護されているということですが
そもそもマキシミリアンが それまでそこにいなかった白鳥をどこかから連れて来て保護するように言うでしょうか?
つまりそれ以前から 白鳥を保護する伝統があり マキシミリアンの命はそれを引き継いだものであり
すなわちこの地が「白鳥の騎士伝説」と結び付いていることを意味しています。
(前ラファエロ派の画家たちは それを知っていたからこそ
それらを題材とした絵をブルージュで描いたのかもしれません。)
また 後にリヒャルト・ヴァーグナーが作曲した「ローエングリン」は
この白鳥の岸伝説+聖杯伝説を主題としたものであり
その舞台はアントウェルペン近くのシュケルデ川となっています。
7)Gentの「神の子羊」(「神秘の仔羊」)
この絵には 聖堂騎士団の創立者たち 南フランスのカタリ派の人々 聖アントニウスのT字など
(カトリックにとっての)異端を暗示するものが幾つも描かれています。
下段中央の画面の 「生命の泉」の左側に描かれているのは「キリスト以前の人々」ですが
その中には以下のような人たちの顔が描かれています。
マーニー(マニ教開祖)/ザラスシュトラ(ソロアスター教開祖)/
マホメット(イスラム教開祖)/ピタゴラス(哲学者)/ソクラテス(哲学者)/
これらの人々は キリストとどう関係しているのでしょうか?
なぜ彼らは キリストを象徴する羊への礼拝に参加しているのでしょうか?
8)金の羊毛騎士団
1430年にブルージュにおいてブルゴーニュのフィリップ善良公によって結成された金の羊毛騎士団は
ヨーロッパにおけるもっとも権威ある世俗騎士団とされ それに参加できるのは大変な名誉だとされました。
建前としては「異端を排除しカトリックを守る」ことを目的としていましたが 金の羊毛は錬金術のシンボルです。
錬金術の歴史は古代エジプトからの秘儀から始まり 異端=真のイエス・キリストの教えと結びついています。
ですから 建前は隠れ蓑として 実際には聖堂騎士団の意思を引き継いでいたのではないかと思われています。
この金の羊毛騎士団に参加したのは レックス・デウスの家系であり
スコットランドのロスリン礼拝堂を建てたシンクレア伯爵も参加していました。
9)Bruggeのエルサレム礼拝堂
エルサレムの聖墳墓教会を模して建てられ 1480年に完成したこの建物は
ブルージュのイタリア系商人のオピシウス・アドメスが自宅の敷地内に建てた個人の礼拝堂です。
この建物と 内部の聖墳墓は 彼自身が二度もエルサレムまで(片道13か月かけて)行って
大きさを測り 本物と全く同じ大きさに作ったものです。
アドメスはスコットランド王の顧問もしており しばしはスコットランドを訪れていました。
(そこで暗殺されています。)
スコットランドのロスリン礼拝堂は丁度この建物と同じ時期に建てられたものであり
アドメスがロスリン礼拝堂と(すなわち聖堂騎士団の遺したものとものと)関わりがあったことは確実です。
エルサレム礼拝堂の内部のゴルゴダの丘には T字架が立てられています。
(ブルージュでは「墓石の奇跡」という伝説が語り伝えられています。
エルサレム礼拝堂内の聖墳墓を完成させ 上部を覆う石板を置こうとしたところ ひびが入ってしまいました。
「よもや 悪魔の仕業では」と 新たに作り直し 再度置こうとしたところ
再び同じ場所に同じようにひびが入ってしまいました。
「これは 何かの間違いがあったからかもしれない」と オビシウス・アドメスは再度エルサレムに行きました。
そして 聖墳墓を見てみると なんと同じ場所に同じようにひびが入っています。
一度目に来たときには気付かなかったのです。
アドメスは安心してブルージュに戻り この「ブルージュの墓石の奇跡」の話は神による御技として語り伝えられています。)
10)Tongerlo修道院にあるレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の複製
1545年以来トンゲルロー修道院にある「最後の晩餐」の複製は
レオナルドの工房において制作されたものであり
中央のイエスとその左のヨハネ(だとされてきましたが ダ・ヴィンチコードによるとマグダラのマリア)の顔は
レオナルド自身の手によるものとされています。
なぜ 彼はこの作品の実物大の複製を 油絵の具で作ったのでしょうか?
ミラノの本物は 壁画でありフレスコ画です。完成した時からすでに劣化が始まっていました。
フレスコの耐久性の無さを実感していたレオナルドが 耐久性に非常に優れた
油絵の具で複製を作っておこうと思うのは当然のことです。
しかしこの絵はキャンヴァスに描かれています。
ということは初めからどこか遠いところに運搬することが想定されていたということになります。
レオナルド自身が この絵の油絵の具による実物大の複製をトンゲルロー修道院に保管してもらおうと考えたのか
それとも誰か依頼者がいたのかどうかは不明です。
(この当時のイタリアでは絵画の制作に当たっては 注文者と製作者との間で詳細な契約書が作られるのが一般的でしたので
注文で作られたものであれば どこかにその契約書があるはずです。)
しかし あえてイタリアのミラノから遠いベルギーのトンゲルローを これを保管する場所として選んだということが
すなわちこの絵の意味しているものと そして ベルギーという地の意味とが重なり合っています。
なぜ 昼の情景なのに「最後の晩餐」と言われているのでしょうか?
中央の人物は イエスなのでしょうか?
その左の人は ヨハネなのでしょうか マグダラのマリアなのでしょうか?
「晩餐」なのに なぜ誰も食べ物に手を付けていないでしょうか?
なぜ キリスト教においてはこの場面でのシンボルである聖杯が描かれていないのでしょうか?
謎だらけです。
それは レオナルドが何かを隠し かつ 何かを暗示したかったからです。
この絵も 反カトリック絵画であることが分かれば この絵がベルギーに置かれた意味も納得できます。
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