〔愛の流れ~なごみ〕
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ここに掲載した文章は
曲集〔 愛の流れ~なごみ 〕の映像作品において
音楽に添えられたものです。
〔 愛の流れ~なごみ 〕 |
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《ロマンス》
「ロマンス」とは ロマンチックなもののことです。文学/音楽/言語の分類で使われるほか 恋愛をも意味しています。
そもそもの意味は「ローマ風の」であり
正当な古典文化「ラテン」に対する 民衆の俗文化を表しています。
音楽におけるロマンスは 叙情的な 自由な形式の甘美な曲です。
つまりは 恋心を歌うものであり ですから歌曲のはずですが
ロマン派以降の器楽曲で 好んでそう名付けられるようになりました。
似たようなジャンルで「セレナーデ」(夜想曲)がありますが
これは 夕刻に屋外で奏でる 多楽章の器楽曲で 雰囲気を表すものです。
ロマンスは独立した曲で 恋心(=主観的で一方的な恋愛感情)の吐露です。
「愛」は 「恋愛」「愛情」「慈愛」「郷土愛」「人類愛」など様々です。
「恋愛」は 好きになった相手に対する自分の(一方的な)気持ちです。
「愛情」は 情が湧く すなわち相手との共感があります。
「慈愛」は 相手が誰であれ どういう状態であれ慈しむ心です。
私たちは様々な「愛」を体験し そして高めていくのです。
「ロマンス」は 相手への好意を臆することなく 自由に表していいんだ
ということを私たちに教えてくれます。
その心の吐露/表出から 相手との共感 相手への思いやり
そして慈愛へと高めていく その出発点となるのです。
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《アルペッジオ》
アルペッジオとは 分散和音です。幾つかの音を重なり合わせて鳴らすのが和音ですが
その和音を 同時に音を出すのでは無く ずらして音を出すのが 分散和音です。
和音には 音が協和し合う( = ハモッている)「協和音」と
協和せずに音が濁る「不協和音」とがありますが
基本的には それぞれの曲は 協和音の連続と旋律(メロディー)とによって成り立っています。
つまり 一つの曲において たくさんの音が奏でられますが
それぞれの音は 他の音と関連し合って 有機的な流れを作っているのです。
しかし それは音楽だけではありません。
音楽は 私たちが存在している 宇宙のあり方を表しているのです。
私たちが存在しているこの宇宙には 私たち地球人類や 地上の動植物だけではなく
私たちの目からは遥か彼方に見える星々もまた それぞれに意識を持った生命体であり
私たちの目から見ると それらの存在はバラバラの 別個のものに見えますけれども
しかし 「宇宙」という 一つの有機体を構成している全てが
他と関連し合っている存在なのです。
つまり 私たちは「宇宙」という 一つの音楽を共に奏でているのです。
私たち一人ひとりは 宇宙という一つの曲の中の 一つひとつの音に相当するのです。
音として捉えると それは関連し合って聞こえますけれども
しかし 楽譜に書かれた音符として目で見ると 別個の独立した存在に見えてしまいます。
私たちは 物質の世界において 肉体を持って生きることによって
バラバラの存在として認識していますけれども
本当は 私たちは「宇宙」という一つの曲を構成している
一つひとつの音であり お互いに繋がり合っている存在なのです。
そして お互いに他の音と 協和した音を奏でているのです。
もしも 私たち一人ひとりが
協和音が分散した 音の一つひとつなのを 感じ取ることが出来たらば
この地球上で この宇宙の中で
他の存在たちと協和し合って生きてゆきたいと 思えるのではないでしょうか。
他の音と共に 素晴しい響きを奏でたいと 思えるのではないでしょうか。
私たち一人ひとりが その人生を美しく 輝かしく生きることが
すなわち 宇宙という音楽を素晴しく奏でることになるのです。
どの音も それぞれの 長さ 高さ 音色を持っています。
その響きの違いが 私たちの「個性」なのです。
私たちの「個性」も 「能力」も 「長所」もいずれもが
この宇宙という音楽を 素晴しく奏でるために必要不可欠なものなのです。
私たち全ての存在が 宇宙という音楽を分散和音の音の一つひとつとして
美しく 素晴しく 輝かしい響きを奏でていけますように。
祈りをこめて…
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《海》
目の前に広がる大海原その時に私たちが感じるのは
自分の「ちっぽけさ」ではないでしょうか。
海の大きさや力強さと 自分とを比べて。
地球人類は 特に欧米人は
長いこと海と戦ってきました。
海とは あるいは自然とは 人間が克服すべき対象なのです。
しかしそれは 克服できるものなのでしょうか?
日本人 = 大和民族は 海と調和し合って生きてきました。
自然とは 克服すべき対象では無かったのです。
調和し合い 共栄共存し合う仲間だったのです。
生かし 生かされ合う存在なのです。
海は 怒って荒れ狂ったりはしません。
どれほどに豊かなエネルギーを持っているかを現しているのです。
その豊かなエネルギーによって たくさんの生命が
そこで生まれ そして 育まれていくのです。
その豊かなエネルギーによって 地球全体を浄化し 潤しているのです。
目の前に広がるこの大海原は 海の幸の宝庫です。
豊か過ぎるほどの海の幸で 私たちを生かしてくれているのです。
「海」とは「生み」なのです。
生命力が出ずる元なのです。
だからこそ 私たちは海に「宇宙」を感じるのです。
私たち一人ひとりは 宇宙から生み出されているのですから。
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《夢》
この曲は 夢の中に出てきたメロディーで作られたので 《夢》と題されています。夢には 寝ている時に見るものと 起きている時に見るものとがあります。
どちらも 日常の「現実」とは違った世界に意識が行っている状態 と言えるかも知れません。
しかし 私たちが「現実」だと思っているものは 物質的な現実 肉体的な現実であって
私たちの意識体としての現実では無いのです。
私たちは「肉体」と「心」と「魂」という三重構造であり
魂の中に心と肉体とが存在しています。
つまり 本当の私たちとは 肉体でも 心でも無く
魂と言われる生命エネルギー体なのです。
その生命エネルギー体が肉体に宿っているのです。
肉体というのは 生命エネルギー体が
「この世」という物質界で存在するための入れ物なのです。
睡眠とは その入れ物を休ませるためのものであると共に
生命エネルギー体=魂が肉体という入れ物から出て
本来の世界へと戻るためのものなのです。
本来の世界へ戻ることによって エネルギーを補給し
生命本来のあり方から逸脱しないようにしているのです。
夢の中では 時空間を超越しています。
過去のことも 現在のことも 未来のことも出てきますし
瞬時にして場所や場面が変わったりもします。
なぜならば 「あの世」とは時空間の無い世界であり
その「あの世」に生命エネルギー体が戻っている時のことを
私たちは「夢」として認識しているからです。
本当は 肉体を必要としている「この世」という物質世界が仮のものであり
夢の世界 「あの世」こそが 私たちの本来の世界なのです。
ということは 私たちが「夢」の世界に生きること 夢を見続けることは
私たちにとっては 現実からの逃避では無く 本来のあり方なのです。
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《躍り》
この曲は フリーダンス( = 自由舞踏)のために作曲されました。フリーダンス( = 自由舞踏)とは あらかじめ決められた振付け無しに
音楽に合わせて その時その場での即興で踊るダンスのことです。
ただし おおよその構成や動きを考えておくこともあります。
つまり 演技者が持っている技術や表現力を元に
決められた形無しに 自由自在に踊っていくのです。
例えば 俳句や短歌は音の数が決まっていますし
あるいは 詩にも韻を踏むものがありますが
そういった決まりごとが無い 「自由詩」に相当するものです。
とは言っても 詩は書かれたもので 自由舞踏は即興だという違いがあります。
「おどり」には「踊り」と「躍り」の 二種類の書き方があります。
「踊り」が 舞踏として一般的な書き方ですが
それに対して「躍り」の方は 躍動や跳躍の言葉のように
より大きな動き 生き活きとした動きを表しています。
自由舞踏の即興性から この曲では「躍り」の字が当てられています。
しかし 即興性というのは どういうことなのでしょうか?
私たちの日々の生活における言動 すなわち言葉や行動は「即興」です。
それは 「行き当たりばったり」のものなのでしょうか?
あるいは実際には 決まりきった言動の反復に過ぎないのでしょうか?
そうなのです。私たちの日々の生活は「いつものこと」の繰り返しなのです。
「こういう言葉を誰かに贈ろう」とか 「こういう動作で行動しよう」とか
きちんと認識し自覚していることは滅多にありません。
「いつもの自分のやり方」に基づいた「行き当たりばったり」なのです。
つまり きちんと認識していない 自覚していない言動ばかりなのです。
人間と他の動植物との決定的な違いは「創造性」です。
何かを生み出す つくり出す「創造性」なのです。
ということは 人間であるからには 日々の生活は「創造」の連続であり
生活の中での言動が 創造的であるべきなのです。
「創造」とは より素晴しいものを生み出すことです。
自由舞踏とは 私たちの日々の生活が より素晴しいものを生み出す創造であり
自らの言動が 何をどう表現するのかを認識し自覚して行う
「創造行為」であって良いのだ ということを表しているのです。
そうやって 心を躍らせ 魂を躍らせて生きていくことが 「幸せ」なのです。
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《奔流》
宇宙は動きです。宇宙は常に動いています。
その宇宙の動きの中で 存在している全てのものも動いています。
私たちは 宇宙の流れの中に存在しているのです。
これまで 数千年にわたって 私たち地球人類は それぞれの人生を
何か見えない力によって 翻弄されているように感じてきました。
目には見えない流れに 人生を押し流されているように感じてきました。
そして そのような逆らいがたい人生を
「運命」「宿命」といって 自らの力では自由にはできないものと あきらめてきました。
宇宙の中の全ての天体は 決まった動きをしています。
私たちの人生も 決まっているのでしょうか?
しかし 私たちは 決まった動きの安定性よりも
流れから抜け出せない不自由さを感じてきました。
人生とは 創造です。
生きるとは 創造の連続です。
私たちは 宇宙の決まりごとの中にいながらも
自らの人生を創造して良いのです。
宇宙の決まりごととは 私たちを縛るものでは無く
私たちの創造性を発揮させるためのものなのです。
その流れに身を任せ 自らの力で人生の流れを創り出して良いのです。
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