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《幸也の世界へようこそ》 → 《幸也の言葉》 → 《アルプスの少女 ハイジ》 |
日本で「アルプスの少女 ハイジ」として知られている話があります。
たくさんの(絵)本が出版されています。
また 1970年代に放映されたテレビアニメは多くの人に視聴されました。
しかし 日本語訳の本やテレビアニメでは 作者の伝えたかったことは一体どのくらい伝えられているのでしょうか?
あの話は かなりの長編です。
しかし 子供向けの話だということで ほとんどの訳本は抄訳となっています。
(岩波少年文庫は 編集方針が完訳ですので全て訳されています。)
あるいは 絵が主体の絵本となっています。
また テレビアニメは「週ごとの区切り」という制約の中で「映像としての見栄え」を優先させています。
(完訳の)本で読むと 抄訳本やアニメでは気付けなかったことに いろいろと気付けます。
例えば 五歳のハイディがはじめてアルムの山に行く日の朝ご飯は 小さなパンと薄いコーヒーだけでした。
日本では五歳の子がコーヒーを飲みますか? スイスでは子供のうちから当たり前にコーヒーを飲んでいるのでしょうか?
ペーターのおばあさんのために ハイディはフランクフルトで毎日 食事の時に出される白パンを食べずに 自分の部屋の戸棚に溜めていきます。
「固くなってしまう」という言い方は幾度か出てきますが 「黴が生えてしまう」という言い方は一度も出てきません。
日本でだったらば 固くなる前に黴が生えます。
ハイディは 朝起きるとおじいさんに挨拶をします。
しかしその挨拶は「おはよう」という言葉だけではありません。握手をします。
この時代のスイスやドイツでは 家族の中でも日々の挨拶に握手をしていたということがわかります。
このように 本で読むと気付けることがいろいろとあるのです。
そして 本で読まないと あの小説の主題 すなわち作者が何を私たち読者に伝えたかったのかという一番肝心なことをも受け取ることが出来ないのです。
そこで ここではあの話で 作者は一体何を伝えたかったのを解読していくことにします。
そうすると あの話の主要な主題の一つが「感性」であることがわかります。
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1)「ハイディ」
2)主題【1】・・・役に立つこと
3)主題【2】・・・アルプスの山々(音と光の世界)
4)主題【3】・・・感性
5)主題【4】・・・神の世界(の仕組み)
6)【自然と共に生きる】
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ヨハンナ・シュピーリが1880年に出版した「ハイディ その修行と遍歴の年月」と 翌1881年に出版した「ハイディは学んだことを役立てる」の二巻を合わせたものが 今日知られている「アルプスの少女 ハイジ」です。
「ハイディ」というのはドイツ語の「ハイデ」の複数形で 九月に咲く花の名です。別名「エリカ」とも言われます。
(「エリカ」の方は女性名として あるいは男性名「エーリック」として知られています。)
キリスト教社会であるヨーロッパでは 子供の名には(生まれた日の祝聖日の)聖人の名を付ける(かつ それが洗礼名となる)のが一般的でしたが 聖人の名ではなく花の名を付けているということで フランクフルトのゼーゼマン家で「奇妙な名前」と受け取られます。
日本語訳で「ハイジ」となっているのは 日本語に「ディ」の音が無いからですが しかし「ハイジ」の音ですと 子供の「廃人」=「廃児」のようです。
作者のヨハンナ・シュピーリは スイスのチューリッヒの近くで生まれ育った人で つまりはアルプスの山々に抱かれて育ったということです。
(これが あの話を生み出している一つの元となっています。)
ヨハンナは牧師の孫娘であり 村の医師の娘でした。
母親も敬虔なキリスト教徒であり 父は医師として村の人々から信頼されていました。
ヨハンナは「神への信頼と委ね」や「多くの人々の役に立つこと」を当たり前として育ったのです。
(これが あの話しを生み出しているもう一つの元となっています。)
その後 弁護士である夫と結婚してチューリッヒの街中に暮らしましたが アルプスの山々への親しみは一生保ち続けていました。
かつ 芸術に対する関心も高く その当時チューリッヒに滞在していたドイツを代表する大作曲家リヒャルト・ワーグナーとも親交があったとのことです。
(これが あの話を生み出しているもう一つの元となっています。)
原題である「ハイディ その修行と遍歴の年月」と「ハイディは学んだことを役立てる」というのは 子供向けの文学としては堅苦しい感じです。
これはゲーテの小説をかなり意識してものだと思われています。ドイツでは「教養小説」や「教育小説」が文学の中で重要なジャンルとなっていました。
ということは まさに作者は この小説を読むことによって読者に何かを「学び取ってほしい」と思っていたわけです。
「学んだことを役立てる」のはハイディだけではなく 読者もなのです。
《主な登場人物》
【ハイディ】生まれて間もなく両親を亡くし 母親の妹デーデに引き取られてラガーツ温泉で育てられ 五歳の時にアルムおじさんに預けられる。
【アルムおじさん(=おじいさん)】アルムの山の上に独りで暮らすハイディの(父方の)祖父。
【クラーラ】フランクフルトに暮らす豪商の一人娘。病弱のために歩けず車椅子での生活。ハイディより4歳年上。
【ペーター】アルムおじさんの近くに暮らす 羊飼いの少年。ハイディより6歳年上。
【おばあさん】ペーターと一緒に暮らし 糸紡ぎを仕事にしている盲目の祖母。
【おばあさま】ホルシュタインに暮らす クラーラの父方の祖母。誰からも信頼され敬われる徳高き人。
【ゼーゼマン氏】クラーラの父。ヨーロッパ有数の商業都市フランクフルトの中でも一番の豪邸を構える資産家。多忙な生活でほとんど家に居られない。
【クラッセン先生(=お医者様)】クラーラの掛かり付けの医師。
【ロッテンマイヤー女史】ゼーゼマン家の女中頭。規則しか頭に無いコチコチの中年女性。
【セバスティアン】ゼーゼマン家の若い召使。不遇な生活を送るハイディに父親のような愛情で接する。
【デーテおばさん】ハイディの母親の妹。金にしか目が無い口先女。
《主な舞台》と〔地名〕
【アルムの山】アルムおじさん(=おじいさん)が暮らすアルプスの山。(現在は「ハイディアルプ」と呼ばれている。標高1111m。)
【フランクフルト】ドイツ中部の大商業都市。
【デルフリ村】アルムの山の中腹の村。(現在は「ハイディ村」と呼ばれている。)
〔マイエンフェルト〕デルフリよりも更に下の 鉄道駅がある町。
〔ラガーツ温泉〕マイエンフェルトから3kmほど離れた所の温泉(湯治場)。
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原題である「ハイディ その修行と遍歴の年月」と「ハイディは学んだことを役立てる」にはっきりと示されているように 「ハイディ」の話の一番の主題は「役に立つこと」です。
「学んだことを役立てる」というのは すなわち「誰かのために役立てる」ということです。
自分が学んだことを 誰かのために役立てる。それはすなわち「自分を誰かのために役立てる」ということです。自分が学んだこと=知識/経験。
それらを使った自分の行動。そして そう行動する自分という存在。それらを「役立てる」=「生かす」ことがすなわち 誰かを「生かす」ことになるのです。
ハイディは常に「誰かのためになること」を考えていました。「誰かが喜ぶこと」を考えていました。「誰かが幸せになること」を考えていました。
盲目で 常に暗闇の中で生きていなければならないペーターのおばあさんに 何とか「光」を「明るさ」を「幸せ」を感じて欲しい。
固い黒パンが噛めないおばあさんに 柔らかい白いパンを食べさせてあげたい。
(そのために フランクフルトで毎日白パンを自分では食べずに戸棚に溜めていく。)
目が見えないおばあさんに 祈祷書を読んであげたい。
(そのために字の読み書きを習う。) 固いベッドで寝心地悪く寝るおばあさんに 良く寝て元気になって欲しい。
(そのために フランクフルトからベッドを送ってもらう。)
病弱で歩けずにいつも車椅子に乗っていて 行動範囲がとても制限されているクラーラに 何とかアルプスの素晴しい景色を見てほしい。
野原に咲く草花の素晴しさを見てほしい。
そのためには 歩けるようになってほしい。
貧しい生活で いつもお腹をすかせているペーターに チーズやパンを分けてあげたい。
それらの「誰かのためになること」「誰かが喜ぶこと」「誰かが幸せになること」というのは 敢えてそうしようというよりも ごく自然にハイディの心の中に出てくる 当たり前に思いつくものなのです。
かつ ハイディ自身がそうであるがために 逆にハイディが誰かから親切にされた時に その親切をきちんと受け止めています。
そして きちんと感謝しています。
それらもまた ごく当たり前に感謝の気持ちが湧き出てきています。(最も強く湧き出てきたのは 神様への感謝です。)
つまり この小説では ハイディ自身/ハイディのおじいさん/クラーラのおばあさま/召使のセバスティアンなどが当たり前に「役に立つ」ということを実践して生きている その姿が描き出されています。
そういう中で いつでも車椅子で過ごしているクラーラは 常に誰かの世話になっていました。
そういうクラーラが ハイディの暮らすアルムの山に行きますが ハイディと一緒に過ごす時間が奪われたペーターはクラーラの車椅子を崖から投げ落として壊してしまいます。
車椅子無しで野原に行きますが ハイディが花の咲き具合を見にクラーラのそばを離れる時に一匹の子山羊をクラーラのそばに連れて来て その羊が食べるための草をクラーラに渡します。
一人 子羊とその場に居残ったクラーラは それまでの人生で一度も思ったことが無い感覚を体験します。
「クラーラは 草の葉を一枚ずつ小雪ちゃんに差し出しました。小雪ちゃんもすっかり馴れて その手からゆっくりと草を食べました。
いつもは 大勢の大きな山羊たちの中で居心地が悪かったので このように安心していられるのはとても嬉しいことでした。
クラーラは 頼みきったような目で自分を見上げる子羊を見ながら 今までには思ったことも無い考えや 知らなかった喜びが胸に湧いてきました。
『自分も 一人前のしっかりした人間になって ただ他人から助けられるだけではなく 他の人をも助けたい。
明るい陽の下で 今小雪ちゃんを喜ばせているように生きていきたい。』
胸に全く新しい喜びが湧いてきて これまでの人生での体験が全く新しいものへと変わったようでした。」
このような「誰かの役に立つ」 これがこの小説の主題の一つとなっているようです。
そして これら「誰かの役に立つ」思いや行動は 他人のためにしてはいても 結局は自分へと戻ってきます。
「自分の思ったこと(=想念) 自分のしたこと(=行動)が 自分に戻ってくる。」
これが宇宙の法則だからです。このことは 主題【4】・・・神の世界(の仕組み)に続きます。
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「ハイディ」の小説には 音と光の描写がたくさん出てきます。あの小説は ハイディが主人公であると主に アルプスの山々もまた主役なのです。
「夕方になると 古いもみの木がサアサアなる音はどんどん強くなりました。激しい風が吹いてきて 茂った梢を鳴らしました。
その音が 耳にも胸にも美しく染み入るので ハイディはすっかりウキウキした気持ちになって もみの木の周りを跳び廻りました。」
「夕方になり 太陽はずっと遠くの山の向こうに沈みかけていました。地面の釣鐘草は 金色のたそがれの中に輝いていました。
周りの草も皆金色に染まり 向こうの大きな岩はキラキラと光っていました。」
「風が吹く日にハイディが一番心を惹かれたのは 小屋の裏に立っている三本の古いもみの木がごうごうざわざわと鳴る音でした。
それを聞くとどうしても 何をしている手も止めて 小屋の外に駆け出さずにはいられませんでした。
その 高い梢の中で鳴る 深い不思議なざわめきほど素晴しいものはありません。ハイディはその下に立って 聞き耳を立てました。
そして 枝の中で強い力が沸き立っている様子を いつまでも飽きずに見たり聞いたりしていました。」
「もみの木下に立っていると ハイディはまるで 風に吹かれる薄い木の葉のようでした。
それでも 風の鳴る音を聞くと 小屋の中でじっとしていることが出来なくて 外へと駆け出していきました。」
「夕日が緑の野原一面に輝き 遠くの大きな雪原からも こちらへと光を送ってよこしています。
突然 赤い光が足元の草の上に落ちました。振り返って見ると こんな素晴しい景色は もう覚えていませんでしたし 夢に見たこともありませんでした。
鷹の巣山の突き出した岩が空に向かって燃え上がり 広い雪原も赤々と燃え 薔薇色の雲がその上を流れて行きます。
下を見れば 遠くの谷が靄(もや)と黄金色の雲に包まれて フワフワと漂っているようでした。」
「頭の上のもみの木がサラサラ鳴る音は 懐かしく 幾ら聞いても飽きませんでしたし 緑の野原の匂いと 金色の花の輝きは 花や目から幾ら吸い込んでも もうたくさんということは無かったのです。」
「四方八方から 澄んだ鐘の音が聞こえてきます。進んでいくほどにその音は いよいよ溢れるように豊かに鳴り渡りました。」
「朝には 明るい鐘の音が遠くからも近くからも 降りて来い 降りて来い と呼んだのでしたが 今は平和な夕べの鐘の音が谷の底から伝わってきて 二人が小屋に着くまで送っていきました。」
「朝焼けが山々の上に赤々と燃え さわやかな朝の風がもみの木の梢をザワザワと鳴らしています。
ハイディはその音で目を覚ましました。その音は いつもハイディの心を捉え どうしても外に出て もみの木の下に行かずにはいられない気持ちにさせられました。
外に飛び出すと 空には薔薇色の雲が流れていました。空が次第に青くなっていき 向こうの山々や牧場の上は まるで純金が流れているようでした。
朝陽が高い岩山の上に昇ってきたのです。」
私たちの身の周りには 常に光があります。常に音があります。私たちは 光や音に包まれて生きています。
ということは それら光や音に影響を受けて生きています。しかし それらをほとんど意識認識していません。
音の中の一つが「言語」です。子供が言語を覚えるのは 身の周りに居る大人たちが話しているからです。
聞いたことの無い言語を覚えることはありません。そして 特定の言語を覚えることによって 特定の思考回路が作られます。
それぞれの言語なりの表現の仕方 表情の付け方を身に付けます。更には 子供は身の周りにいる大人の言い方(語彙や言い回し)を聞いてそれを覚え かつそれを「当然のもの」として育っていきます。
それによって その子供の性格や人格が作られていきます。
しかし 子供の性格や人格の形成に関わっているのは言語だけではありません。
自然の音もまた大きな影響を与えているのです。そして たくさん 豊かに自然の音を聞いて育てば それだけ豊かな感性が育まれるのです。
そして それは光も同様です。様々な自然の光の輝きに触れて育つことによって 光と色彩とに対する感覚が育まれます。
天才は「どういう条件や環境の下で天才となるのか」という調査によると その重要な条件が「美しさが身の周りにあること」だという結論が出されています。
1970年代初めに デジタル録音と それを使ったCDとが開発されました。
「良い音」だという触れ込みで 画期的な発明とされました。しかし そのデジタル録音の音楽を聞いてみると ちっとも良い音ではありませんでした。
そこで言っている「良い音」とは「雑音が入っていない音」のことらしいのです。
(レコードは 針で盤の溝をこするので どうしても雑音が入ります。) しかし 雑音が入っていなくても デジタルの音は「実」が無い スカスカした音でした。
それでも デジタル録音やCDは(簡便さのために)世の中に広まりました。それから十年ほどして デジタル録音の人体への悪影響が医学界で認識されるようになりました。
デジタル録音というのは とても高い音や とても低い音は人間の耳には聞こえないという前提で 録音される(=再生される)周波数が限定されています。
ところが「聞く」というのは 耳でだけ聞いているのではありません。身体全体で聞いているのです。肌からも聞いているのです。
耳では聞くことのできない音(可聴範囲外の高音や低音)も 実は肌を通して身体中で聞いて(=受け止めて)いるのです。
それなのに それらを除外したデジタル録音の音を聞き続けていると 精神的に不安定になることがわかったのです。
ハイディはアルムの山では 風の音やもみの木のざわめきに身を包まれて過ごしていました。耳での可聴範囲を超えた音を全身に浴びて生きていたのです。
それなのに そういう音をフランクフルトでは聞くことが出来なくなってしまいました。これが ハイディが夢遊病になった原因の一つなのです。
(ですので 今では多くの人がヘッドフォンやイアフォンでデジタル録音の音を聞いていますが 実はこれは精神的には悪影響を与える聞き方なのです。
「全身で聞く」ことと「(耳での)可聴範囲を超えた音を聞く」ことが 健全なのです。)
光もまた同様です。目で見えるだけではなく 身体全体で光を浴びて 受け止めているのです。
ですから 目で見える光や明るさ(=可視光線)だけを見ているのでは無いのです。
そして 音と光とに共通しているのは それらをどう受け止めるか どう感じるか です。
ハイディはいつでも それらの美しさを感じ 受け止め そして心揺さぶられています。
そのような「感じる」「受け止める」能力 それが「感性」です。ハイディの豊かな感性は 自然音や光に包まれて生きることで豊かになったのです。
そのようにハイディを育んだアルプスの音と光 すなわち「大自然の音や光が人間を育む」 これがこの小説の主題の一つのようです。
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そのような 音と光の世界の中で それらに包まれて生きることで かつ包まれて生きていることを自覚することで「感性」というものが育ちます。
「感性」とは「感じ取る能力」のことです。その感性が無い人の代表として ロッテンマイヤー女史が描き出されています。
自然というものから全く切り離された 大都会の中での生活を当たり前だと思っている彼女の頭の中には 規則しかありません。
ですから 目の前に居るハイディが食事もとれずにどんどんと痩せていき生気を失っていくことに気付けません。
「規則に則っていること」だけが彼女にとって良いことであり正しいことなのです。
そして その「規則」とは人間が決めたものであって 「宇宙の規則」「自然の規則」では無いのです。
(そういうものがあることでさえ知らずに生きているのです。)
「ハイディは こんなにも素晴しい景色の中に立ち 余りの嬉しさに涙がポロポロとこぼれてきました。
ハイディは 両手を組んで空を見上げ 大きな声で神様にお礼を言いました。
またふるさとに連れ戻してくださったことを。なにもかもが こんなにも美しく これまで知っていたよりもはるかに美しいことを。
そして こんなに美しいもの全てが再び自分のものになったことを 神様に感謝したのです。
ハイディは こんなに素晴しい自然に取り囲まれて幸せな気持ちで一杯でした。
神様にどうお礼を述べてよいのか その言葉が見つからないほどでした。」
「黄金色の秋の日が 山の峰や 緑の谷の上に輝いています。
麓の牧場のいたるところから家畜の群れの鳴らす鈴の音が響いてきます。
向こうの広い雪原の上にも 黄金色の日光がキラキラと輝いています。
朝の風がそよそよと牧場の上を吹き渡り 僅かに残った釣鐘草を微かに揺らしています。」「ハイディはあたりを見渡しました。
楽しそうに頷いている花。青い空。晴れやかな日の光。何もかもが素晴しいものばかりです。」
ところが その同じ場所に居ながら お医者様クラッセン先生はそれを感じ取ることができません。
愛妻を亡くし 愛する一人娘も亡くし 悲しみの心でアルムにやって来たからです。これが「心を閉ざしている」状態です。
感性を閉じている状態です。外からの情報を受け入れられないようにしている状態です。
そういった「閉じた状態」は 心の状態(=感情)と 頭の状態(=思考)とに原因があります。
お医者様クラッセン先生の場合には「心=感情」です。ロッテンマイヤー女史の場合には「頭=思考」です。
心を閉ざしている場合には 感情で受け止めることが出来ません。そして 感情を出すことも出来ません。
なぜならば 入り口と出口とは同じ 一つの出入り口だからです。(心を閉ざすのが常態化/長期化したのが「鬱」です。)
頭(=思考)で 外からの情報が入ってくるのを妨げているその「思考」とは 多くの場合には「思い込み」であり「決めつけ」です。
ロッテンマイヤー女史の場合には「規則」という思い込みです。「規則に則っているのが 真っ当な人間なんだ」という。
デーテおばさんの場合には「金があれば幸せなんだ」という思い込みです。
デルフリの村の人々の場合は「おじいさん(=アルムおじさん)は根が悪い人なんだ」という決めつけです。
(思い込みや決め付けが常態化したものが「石頭」です。)
それらを纏めて言うと「素直で無い」ということです。「素直」というのは ものごとをあるがままに受け止めることのできる心や頭のことです。
つまり ハイディは「素直」だったのです。だからこそ 身の周りの物事を そのままに受け止めて「素晴しい」と感じることが出来たのです。
ということは「感性」とは「素直」と結び付いているわけです。
(ですので 独りよがりの受け取り方をすることは「感性が豊か」だとは言えません。)
そして 入り口と出口と入り口とは一緒ですので ものごとを素直に受け止めることの出来る人は 素直に表現できるのです。
デーテおばさんという 金にしか興味が無い口先女に一歳から五歳まで育てられながらも ハイディが素直な心で育ったのは アルプスの山々に育まれたからなのでしょう。
アルプスの自然の中でこそ 感性が育まれた。それが 作者ヨハンナ自身の姿であり かつ主人公ハイディの姿であり それがこの小説の一つの主題となっているようです。
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この小説では クラーラのおばあさまがハイディやペーターに話すこと(あるいは 諭すこと)が キリスト教の信仰の上に成り立っているものではありますが 実はそれらの中には「神の世界の仕組み」に則ったものがあるのです。
宗教は 人間が作ったものです。神様が創ったものではありません。ですから 不完全です。
かつ 誰か特定の人の利益になるような仕組みにされていることもしばしばです。
しかし そういう宗教の教えの中にも 「真実」というものが含まれている場合があります。
その「真実」とは 「神の世界の真実」であり 「宇宙の真実」です。
「神」というのは 一体何なのでしょうか? これは宗教によって概念が違います。
あるいは 宗教を信じていない人の場合には 人それぞれの概念を持っています。目には見えないものだからこそ「これ」と言えないのです。
しかし 本当の「神」 究極の「神」とは 「宇宙そのもの」のことです。
(ですから「無神論」というのはおかしいのです。
「神は居ない」=「宇宙が無い」ということになりますから。)
そして 宇宙には決まりごとがあります。
そもそも 「宇宙」とは何なのでしょうか? 人間は五感で感じることを主にしてものごとを判断していますから 目で見える物質世界を宇宙だと思って(思い込んで)います。
しかし そうではありません。
「宇宙」とは 「電磁波」です。宇宙の中には電磁波しかありません。
「宇宙」とは 「想念体」です。宇宙そのものは「考える存在」なのです。(「念波」という電磁波だということになります。) 何を考えているかというと
「宇宙」とは 「生み出す」「育む」「生かす」想念です。ですので
「宇宙」とは 「生命力」「生命エネルギー」です。ということは
「宇宙」とは 「愛」です。
これが宇宙の全てです。それ以外には何もありません。生み出す/育む/生かす「愛」の想念という波動 それが「宇宙」であり「神」なのです。
そして 「生み出し」「育み」「生かす」想念体には 「決まりごと」「規則」「原理」「法則」といったものがあります。
クラーラのおばあさまの言葉には それらが含まれているのです。
(だからこそ 誰からも信頼され慕われる徳高き人なのです。)
「神様は 何が私たちにとって良いことなのかをご存知なのです。
神様を信頼する心をなくさなければ 私たちが思っているよりもっと素晴しいことを授けて下さるのです。」
「神様はあなたの願いを全てお聞きになったのです。そして 『ハイディが本当にそれを喜べるようになったらば叶えてやろう』と思っているのです。」
そして ペーターのおばあさんの祈祷書にはこう書かれています。
「黄金色の太陽は 歓びに溢れて輝き さわやかな優しい光を私たちに投げかける。
ものはみな滅びるが 神は永遠。その思いと言葉と意味とはいつまでも変わらない。
私の目は眺める。神様が その力の強さと大きさとを私たちに教えるために創りたもうた万物を。」
「神様は ものごとが上手く運ぶように取り計らってくださいます。
世の荒波がどんなに高まっても 自分は安全であることを考えなさい。」
ものごととは うまくいくものなのです。ものごととは うまくいくようになっているのです。
なぜならば それが宇宙の法則だからです。「生かす」というのが宇宙なのですから。
全ての存在が宇宙の中にある ということは 全ての存在は「生成発展」という宇宙のエネルギーの中に居るのです。
もしもものごとがうまく行かないのであれば それは誰かが邪魔をしているのです。
その「誰か」とは 自分自身です。
宇宙は想念体であり その中の全ての存在もまた想念体です。全ての存在は 想念の世界に生きています。
そして 「自分の想念」以外のものを認識することは出来ません。
自分が見ているもの 感じているもの 認識しているもの 考えているもの 全てが「自分の観念」です。
その個人個人の観念で生きている個々の想念体を 宇宙は「宇宙意識」=「愛」という想念で包んでいます。
ですから 自分の想念を 宇宙の想念に委ねれば 全てはうまくいくのです。
そして「全ては自分の観念」だからこそ 「他人に対してしていることは自分に返ってくる」のです。
正確には「他人に対してしていることは 自分に対してしていること」なのです。
勿論この小説は キリスト教の信仰を基盤にして書かれています。
ですので キリスト教的な考え方が多々出てきます。
それらの中には 宇宙の決まりごとに則っていないものもあります。
例えば「お祈りをしなければ 神様から忘れられる」と書かれていますが しかし全ては宇宙の中に存在していて宇宙の外には出られませんから 全ては「神の想い」の中に生きているのです。
神様から忘れられることはありません。自分が 神様を忘れ 宇宙を忘れているのです。
自分が自分を忘れているのです。
この小説に書かれている「神」という言葉が使われている部分には キリスト教的な「神の想い」が述べられています。
それらの「神の想い」を読み取り 受け止め 人生に役立ててほしいと 作者は読者に伝えたいからこそ「ハイディは学んだことを役立てる」という題名が付けられているのでしょう。
それがこの小説のもう一つの主題となっているようです。
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ハイディは おじいさんと一緒の生活でどんな食事をとっていたのでしょうか? 何を食べていたのでしょうか? 何を飲んでいたのでしょうか?
「ハイディはパンに柔らかいチーズを塗って せっせと食べました。
良く焼いたチーズはバターのように柔らかくなって パンに滲みこみ とても美味しくなりました。」
「ハイディは 山羊の乳の入ったお椀を両手で持ち上げると 一気に飲み干してしまいました。『こんなに美味しいお乳 飲んだことが無い!』」
食べ物は パン/山羊の乳のチーズ/干し肉/バター。飲み物は 山羊の乳。これだけです。
毎日これだけです。スイス名物のレスティーも食べません。(つまり 野菜も果物も食べていません。)
パンは デルフリ村のパン屋で週に一度買います。
それ以外は手作りです。山羊の乳はいつも 搾りたてです。
(昼食時には 朝絞っておいたのを温めて飲みます。) 山羊のチーズは おじいさんが週に一度作ります。
(余剰分を町に売りに行きます。) 肉は おじいさんが山の澄んだ空気で乾かしたピンク色の干し肉です。
現代の食べ物/飲み物とは随分と違います。添加物が一切入っていません。そして 手作りです。
逆に 現代の食べ物飲み物は 添加物がたくさん入れられています。作り立てではありません。
工場で加工されたものばかりです。一度の食事でいろいろな食材を口にします。
それらを纏めて言うと「不自然」だということになります。
自然に即していれば
①添加物が入って無くて当たり前です
②作りたてのものを食べて当たり前です
③手作りのものを食べて当たり前です
④一度の食事で いろいろな食材を食べないのが当たり前です
(もし これらを「当たり前」と思えないのであれば それは現代の食品工業文化に毒されているということです。
食べものでは無く「工業加工製品」を食べているのです。)
ところが そういう自然の食生活をしているのに ハイディはペーターのおばあさんに白いパンや甘いケーキを食べさせてあげたいと思います。
そうすれば力が付くのに 元気になれるのに と。
これは この時代には白いパンの方が色の付いているパンよりも栄養価が低いことが知られていなくて 「口当たりが良い方が身体に良い」と思われていたためかと思われます。
また 19世紀に入ってから アルプス以北のヨーロッパで砂糖が大量生産できるようになり 砂糖が容易に入手できるようになったために多用されるようになり 「甘ければ美味しい」「美味しければ栄養がある」という思い込みが広まったためかと思われます。
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ハイディもおじいさんも 日の出と共に起床します。(おじいさんは日の出前に起きています。)
そして ハイディは 日が沈んだ後夕食を食べて 就眠します。
季節によって 日の出と日の入りの時間は違います。しかし 一年を通して日の出=起床 日の入り=就眠 という生活は変りません。
春から夏 そして秋にかけては 羊たちは牧場へ草を食べに行きます。ハイディもまた山に行き 季節ごとの様々な草花と触れ合います。
冬になるとアルムの山は雪に覆われます。羊たちも牧場へ草を食べに行けなくなります。
人間もまた 一日の大半の時間を家の中で過ごします。
おじいさんは スプーンや椀などの日用品を作ります。
そうやって 太陽の動きや季節の移り変わりと共に生きています。
現代人の生活 すなわち季節に関わりなく 同じ時間に起きて同じ時間に仕事に行くのが自然なのでしょうか?
自然の循環に則って生きるからこそ 自然からの豊かな恵みを受け取ることが出来るのです。
フランクフルトから戻ってきたハイディが夜に寝る時に おじいさんはハイディに月明かりが当たらないようにします。
夢遊病の原因の一つが月光だと思われていたからです。
これもまた 人間は自然の中に生き 自然から影響を受けて生きているという考え方です。
現代の「病気になったら薬」という対処法には 「自然」という要素は全く入っていません。
一日の 季節の移り変わりや循環を意識し それに即して生きているからこそ 宇宙の「生成発展」の流れに身を任せることが出来るのです。
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この小説には 大富豪のゼーゼマン家の様子と 逆に貧しい生活をするペーターの家の様子とが描かれています。
しかし それは経済的な豊かさ/貧しさです。そして だからといってペーターの一家が心貧しい生活をしていたというわけではありません。
おばあさんは何かにつけて「神様がお与えくださったことに感謝」しています。
「豊かさ」「貧しさ」とは 一体何なのでしょうか?
ゼーゼマン氏はどういう人なのでしょうか? 商人として主にパリで仕事をしています。
家に居る時間は僅かです。だからこそ 病弱の愛娘クラーラのことをとても気に掛けています。
その気に掛け方は (ロッテンマイヤー女史のような)「規則」を基にしたものではありません。
「自然に」「自由に」「伸び伸びと」を基にしています。そして それは ハイディへも同じです。
極度のホームシックと夢遊病とになったハイディを クラッセン医師はすぐに山へ返すように言いますが ゼーゼマン氏は「この私の家で病気になった? 痩せ衰えた? そんな状態にして山のおじいさんのところへ返せ? そんなことは出来ない。返すのなら元気にしてからだ!」と言います。
クラーラがハイディの暮らすアルムの山に行き そこに滞在している間に歩けるようになりますが それを見たゼーゼマン氏は言います。
「どんなにお金があったって この子の病気を治すことはできなかった。
でも 今は私は 人生で一番の歓びを感じています。」
ゼーゼマン氏にはわかっていたのです。「豊かさ」とは何なのかが。
「幸せに生きる」とはどういうことかがわかっていたのです。それは経済的な金銭の多い少ないでは無いのです。
逆に それが判らずに生きているのが デーテおばさんです。収入がたくさんあれば幸せに生きられると信じています。
口から出まかせで平気で嘘をつき 他人を傷つけている そういう生き方ではどれだけ収入を得ても幸せにはなれないでしょう。
でもそれに気付いてはいません。
アルムのおじいさんは ほとんど貨幣経済とは関わらずに生きていました。
僅かに 作った山羊の乳のチーズを町に持っていって売り 現金に換え それでパンや塩を買うぐらいです。
それらの収入に所得税はかかっていたのでしょうか? 小屋には固定資産税はかかっていたのでしょうか?
これが 当たり前の自然な生活なのです。
ゼーゼマン氏に御礼をしたいと言われたおじいさんは「私たちには必要なものは全てあります。」と答えます。
それが豊かさなのです。「必要なものは全てある」と自覚できる心こそが「豊かな心」なのです。
そして 自分が豊かだからこそ 他人もまた豊かであってほしいと分け与える それが豊かさなのです。
アルムのおじいさんは 収入を得るための仕事はしていません。貨幣経済とは 人間が作り出したものです。
全ての人は 何も持たずに生まれてきて 何も持たずに死んでいきます。
それなのに 現代では多くの人が 収入を得るために仕事をしています。収入を得るために生きています。
人間というのは 本当にそのために生まれてくるのでしょうか?
おじいさんとハイディは 当たり前に自然な生き方をしているのです。「貨幣経済に縛られない」生き方。
「本当の豊かさ」とは何なのかを体現する生き方。
アルプスの大自然を舞台として 自然の豊かさの中に人間もまた生きているんだということ これがこの小説の一番根底にある主題なのでしょう。
パン屋「あんな遠くから帰って来たところを見ると 向こうではよほど辛かったのかな?」
ハイディ「そんなこと無いわ。とっても大事にしてもらって フランクフルトでほど幸せな生活は無いもの。」
パン屋「それじゃあ なぜそのまま向こうにいなかったんだい?」
ハイディ「だって どんな宝物をもらうより アルムのおじいさんのところに帰る方がいいんだもの。」
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(2023/08/26)