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ベルギーの世界遺産(有形)

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ベルギーの世界遺産(有形)
0)世界遺産とは
1)カルパチア地方とその他のヨーロッパの古代と原生のブナの森
2)スピエンヌの火打石採掘場(4ヵ所)
3)フランダース地方のベギン会院(13ヵ所)
4)ベルギーと北フランスの鐘楼(33ヵ所)
5)トルネの聖母大聖堂
6)ブルージュの歴史的地区
7)プランタン=モレトゥス博物館(住居/公房/図書室)
8)ブリュッセルの大広場
9)ワロン地方の主要な炭鉱(4ヵ所)
10)中央運河の船舶昇降機(4ヵ所)
11)建築家ヴィクトール・オルタの都市邸宅(4ヵ所)
12)ストックレ邸
13)ル・コルビュジエの建築作品

ここでは「ベルギーの世界遺産」の内 有形のもの全ての概要をご紹介しています。
全部で13件 場所にすると69ヶ所あります。
ご紹介するのは 時代順です。(登録された順ではなく そのものの年代順です。)

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0)世界遺産とは

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世界遺産とは・・・「人類が共有すべき『顕著な普遍的価値』を持つ物件」としてユネスコ(国際連合教育科学文化機構)が世界遺産一覧表に登録したもののことです。1978年に初めての登録が行われました。
大きく二つに分けられていて 一つは「文化遺産(=人間が作ったもの)」と もう一つは「自然遺産」とです。(その両方を含む「複合遺産」もあります。)
世界遺産のロゴマークの 外側の円が「自然」を 内側の四角が「人間が作ったもの」を表わしています。(このマークはベルギー人がデザインしたものです。)
登録の基準は10項目あって その内の一つにでも該当すれば登録されます。ここではそれら10項目の概略のみを挙げ 個々の物件の項でどれに該当するのかを説明していきます。

①人類の創造的傑作
②人類の価値の重要な交流
③希少価値
④時代的価値(歴史上の重要な段階を物語る見本)
⑤伝統的集落
⑥顕著な普遍的価値を有する出来事/作品
⑦最高の美的な自然現象/地域
⑧歴史上の主要な段階を示す顕著な見本
⑨種の変遷
⑩自然生息地

ベルギーでは13件登録されています。その内の12が文化遺産 一つが自然遺産です。ただし 一つの指定で複数個所のものがありますので 合計すると69ヵ所となります。
これら全ての概要をご紹介すると共に 「なぜ世界遺産に登録されたのか」 つまりそれにはどういう『顕著な普遍的価値』があるとされたのかも説明していきます。

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1)カルパチア地方とその他のヨーロッパの古代と原生のブナの森(ヨーロッパ各地25ヶ所の内の一つ) ゾニエン/ソワーニュの森

【概要】
最初はウクライナからスロヴァキアにかけての「カルパチア山脈の先史時代のブナの森」としての登録でしたが その後地域が拡大されて 今現在はその他ヨーロッパの13カ国にまたがっています。その内の一ヶ所としてベルギーではブリュッセルの南方に広がるゾニエン/ソワーニュの森が その一部として登録されています。
今から一万年前の最後の氷河期の終わり以来 ヨーロッパのブナは カルパチア山脈/ディナルアルプス山脈/アルプス/ピレネー山脈/地中海から 数千年という短い期間でヨーロッパ各地へと広がっていき 現在もなお広がり続けています。
大陸全体へ拡大したのは 気候的/地理的/物理的条件と木の適応性/耐性が合致したからです。つまり ブナの木にとってヨーロッパ大陸は生存しやすい環境だったのです。

ブリュッセルの南方に広がるゾニエン(蘭語)/ソワーニュ(仏語)の森は 15世紀までほぼ完全な形で残っていました。12世紀末にブラバント公爵の所有地となり 森は狩場として利用されました。また この時代には宗教団体が森の中に定住し修道院が幾つも建てられ 宗教的/文化的な生活の中心地となりました。しかし 18世紀に入ると木は伐採されてしまいました。ぶなの木は燃やすと火力が強いので 薪として使われたのです。その後のオーストリア統治時代に再びブナの木が大量に植えられ 今日の荘厳なブナの森となっています。

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〔世界遺産に登録されているぶな原始林の場所〕 〔ゾニエン/ソワーニュのぶなの森〕 〔秋のゾニエン/ソワーニュのぶなの森〕

【世界遺産になった理由】
基準(ix): ほとんど手付かずに残された多様なブナの森は 生態学的/生物学的な変遷を示す顕著な見本である。

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2)スピエンヌの火打石採掘場

【概要】
ベルギー南部のスピエンヌにある新石器時代の火打石採掘場は まとまった古代採石場としてはヨーロッパ最大かつ最古の遺跡であり 世界で最も重要なものとなっています。
六千年以上前から新石器時代の人々が スピエンヌ近郊の台地で火打石の露天掘りを行い 採取された石が加工されていました。その後 新石器時代の農耕民が縦穴の坑道を掘り始め 鉄器時代の紀元前8世紀頃まで続きました。100ha以上の面積に 火打石を採掘するために掘られた縦穴が約二万本も残されています。発見地はシュピエンヌ村の南側の3つの部分で この地域では その後の青銅器時代から鉄器時代にかけての集落/土器/人骨なども見つかっていますが 墓地はまだ発見されていません。
非常に硬いこれらの石は 特に斧や刃物などの石器を作るのに適しています。石材は 専門の石材加工職人が現場で加工しました。火打石の地下採掘は 直径約1mの縦穴を火打石の鍬や鹿の角のスコップなどの道具を使って地面を掘って行われ 8m~最大16mの深さに達しています。縦穴の底では 周囲の層を探り 長さ数mの横穴が掘られていました。良質な火打石だけが持ち出され 不適な材料はすべて すでに掘られた横穴に保管されていました。
ここで採れた火打石は 周辺の半径50km以内に分布し 半製品や完成品 主に斧の頭は半径160km以内にも流通/分布していました。
この注目すべき古い採石場の存在は1842年に石切り場の労働者によって発見されましたが 大規模な発掘調査が行われたのは19世紀末から20世紀初めにかけてです。

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〔スピエンヌの火打石採掘抗〕 〔スピエンヌの火打石露天掘り場〕 〔火打石〕

【世界遺産になった理由】
基準(i)創造的傑作:初期の人類の発明と応用の進化の顕著な例を提示しています。(原始人=サルと人間の間が石を使い加工することを思いついた)
基準(iii)希少価値:新石器時代という 人類の文化的/技術的進化の主要な節目となった文化の到来が示されている。
基準(iv)時代的価値:新石器時代の火打石採掘技術の優れた例であり 人類の文化的/技術的進化の重要な段階を示している。

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3)フランダース地方のベギン会院(13ヵ所)

【概要】
ベギン会とは 中世ヨーロッパの未婚女性たちの生活共同体です。その中で暮らす女性たちをベギンと言い ベギン会の建物など有形不動産をベギン会院と言います。
(13ヶ所の画像を開設された時代順に並べています。)
中世のヨーロッパは 人口の男女比が女性の方が多い世の中でした。乳幼児の死亡率が男の子の方が高かったこと 十字軍などの戦で死ぬ男性が多かったこと などが理由です。キリスト教社会においては 人間は結婚するものでした。ところが 女性の方が多い世の中ですと結婚相手が見つからない女性たちがいます。その人たちにとって最も安全確実な生き方は 修道院に入り修道女となることでした。しかし 修道院には厳しい戒律があり それに付いていけない女性たちが 「もっとゆるい戒律で でも宗教的な生活をしよう」「世俗にとどまりつつも神に仕える生活をしよう」と自然発生的に始まった生活共同体がベギン会です。
12世紀末にベルギー東部のリエージュで始まり その後西北ヨーロッパに普及しましたが 14世紀初めヴァチカンによって禁止され フランダース地方にのみ残されました。
13世紀に建てられたフランダース各地のベギン会院は その最も典型的な特色を残しています。フランダース地方の様式を示す煉瓦造りの住居や教会と付属建造物,緑地帯などの一群の建築複合体は 街型/広場型/複合型の三つに分類されており 世俗にとどまりつつ神に仕えるベギンたちの宗教的生活空間とその長い伝統を 今もなお慎ましく物語っています。
フランダース地方に残されている26ヵ所のベギン会院の内の13ヵ所が世界遺産に登録されました。
ただし 2013年4月14日に最後のベギンであるマルセラ・パテインさんがコルトレイクのベギン会院で亡くなったことにより 800年にわたるベギン会の歴史は幕を下ろしました。

開設年 名称 所在地
1232年以前 Groot begijnhof Leuven
1238年 Begijnhof Kortrijk
? (1239年最初の記録) Sint-Catharinabegijnhof Tongeren
1240年 Klein Begijnhof Ter Hooie Gent
1242年 Prinselijkbegijnhof Ten Wijngaerde Brugge
1253年 Sint-Catharinabegijnhof Diest
1257年 Begijnhof Lier
1258年 Groot Begijnhof Mechelen
1259年 Begijnhof van Sint-Agnes Sint-Truiden
1270年 Sint-Alexiusbegijnhof Dendermonde
? (1372年最古の記録) Begijnhof Turnhout
1380年 Onze Lieve Vrouwbegijnhof Hoogstraten
1874年 Sint-Elisabethbegijnhof Sint-Amandsberg

GrootBegijnhof_Leuven_320x240.jpg(125134 byte) Begijnhof_Kortrijk_320x240.jpg(131028 byte) Begijnhof_Tongeren_320x240.jpg(98640 byte)
 〔ルーヴェン〕  〔コルトレイク〕  〔トンゲレン〕

Begijnhof_Gent-sint-elisabeth_320x240.jpg(98691 byte) Begijnhof_Brugge_320x240.jpg(121354 byte) Begijnhof_Diest_320x240.jpg(103796 byte)
 〔ゲント〕  〔ブルージュ〕  〔ディースト〕

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 〔リール〕  〔メッヒェレン〕  〔シント・トルイデン〕

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 〔デンデルモンデ〕  〔トゥルンハウト〕  〔ホーグストラーテン〕
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 〔シント・アマンズベルク〕

【世界遺産になった理由】
基準(iv)時代的価値:中世に特徴的な 世俗的価値観と宗教的価値観の両方を結び付けた宗教運動の建築複合体としての傑出した例である。
基準(iii)希少価値:中世の北西ヨーロッパにおける 自立した未婚女性たち(が規則に則って集団の生活をする生活共同体として)の文化的伝統の顕著な証しとなっている。
基準(ii)文化交流/基準(iii)希少価値:フランダース文化圏に特有の様式(=煉瓦造り/十字窓など)で宗教的建築と伝統的建築を組み合わせたものである。

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4)ベルギーと北フランスの鐘楼(33ヵ所)

【概要】
ベルギーと北フランス(旧フランダース伯爵領を中心とした地域)の合計56の鐘楼が世界遺産に認定されており そのうちベルギーには(フランダース地方に26 ワロン地方に7)33 北フランスに23があります。
現存している最古の鐘楼はトルネのもので1200年頃の完成とされています。
鐘楼とは 高く細長く建てられ 鐘を吊るした建物であり 特に典型的なフランダース地方の鐘楼は 中世の最も重要な世俗建築の一つです。初めは木造で建てられましたが それらは今日は残されておらず その後煉瓦造り/石造りとなったものが残されています。
現存する鐘楼の形態は様々ですが 主に三つに分類できます。①典型的な独立した塔の鐘楼 ②市庁舎に付けられた鐘楼 ③鐘楼の役割を果たした教会の塔
ヨーロッパの他の地域では 塔が貴族や教会の権力を示すことが多かったのに対し 旧フランダース伯爵領の鐘楼は この地域の都市の権力と富を象徴しているという違いがあります。ヨーロッパの中でも特に経済的に繁栄した旧フランダース伯爵領とその周辺地域において 都市が封建制度=領主の統治から独立し 職人や商人たち市民の手による自治が行われるようになった民主主義の台頭を表わす建物であり 封建的/宗教的な影響から市民が独立していったことを象徴した建築となっています。
見張り塔としての機能は 侵略者や泥棒/火事/嵐などを見張ると共に 公の告知をするためのものでもありました。また 町で最も安全な場所として 塔では通常 市議会が開かれ 都市の公文書館や金庫 あるいは刑務所をも兼ねていました。
鐘楼に吊るされている鐘は 16世紀からカリヨン(組鐘)と呼ばれ 時を知らせ 城門の開閉を知らせ 労働時間の開始と終了を示したり お祭りのために鳴らしたりしました。
カリヨンの響きと共に フランダース地方の鐘楼は 時を経てさらに都市の景観の中に溶け込み続け フランダース地方の生活において欠かせない情景となっています。
 
所在地 物件 所在県 建築年 高さ
Tournai 鐘楼 Hennegau 1200年頃 72 m
Ieper 毛織物館 Westvlaanderen 1200-1230年 70 m
Zoutleeuw 聖レオナルド教会 Vlaamse-Brabant 1231年から
Kortrijk 鐘楼 Westvlaanderen 1307年/1411年 最古の部分
Tienen 聖ゲルマヌス教会 Vlaamse-Brabant 1323年
Binche 鐘楼 Hennegau 14世紀 35 m
Mechelen 鐘楼 Provincie Antwerpen 14世紀
Lier 市庁舎 Provincie Antwerpen 1369年 42,5 m
Dendermonde 毛織物館 Oostvlaanderen 1377年 40,3 m
Gent 鐘楼 Oostvlaanderen 1313年頃-1380 95 m
Namur 鐘楼 Namur 1388年 1450年改築 1753年修復 20,6 m
Aalst 市議会議場 Oostvlaanderen 1460年
Brugge Westvlaanderen 1486年 83 m
Antwerpen 聖母大聖堂北塔 Antwerpen 1518年 123 m
Mechelen 聖ロンバウツ大聖堂 Antwerpen 1449-1520年 97,3 m
Oudenaarde 市庁舎 Oostvlaanderen 1526年~
Herentals 毛織物館 Antwerpen 1534年 35 m
Leuven 聖ペテロ教会 Vlaamse-Brabant 1507-1541年
Tongern 聖母教会 Limburg 1442-1544年
Tielt 鐘楼 Westvlaanderen 1275年 再建1402/1452/1560 36 m
Antwerpen 市庁舎 Antwerpen 1561-1564年
Lo 市庁舎 Westvlaanderen 1565-1566年
Sint-Truiden 市庁舎 Limburg 1608年
Menen 市庁舎 Westvlaanderen 1574-1610年 33 m
Roeselare 市庁舎 Westvlaanderen 最初の建物 1260年代 再建1493/1615
Veurne 市庁舎 Westvlaanderen 1617-1628年
Thuin 教会 Hennegau 1639年 60 m
Mons 鐘楼 Hennegau 1661-1672年 87 m
Gembloux 修道院 後に市庁舎 Namur 1789年以降
Nieuwpoort 市庁舎 Wesvlaanderen 1922年 35 m
Eeklo 市庁舎 Oostvlaanderen 1932年(市庁舎は 17世紀) 35 m
Charleroi 鐘楼 Hennegau 1936年 70 m

Belfort_Doornik_120x240.jpg(52284 byte) Belfort+Lakenhal_Ieper_300x240.jpg(80715 byte) Belfort_Zoutleeuw_St-Leonarduskerk_200x240.jpg(77625 byte) Belfort_Kortrijk_120x240.jpg(37679 byte)
Belfort_Tienen_Sint-Germanuskerk_235x240.jpg(72170 byte) Belfort_Binche_160x240.jpg(57484 byte) Belfort_Mechelen_360x240.jpg(101393 byte)
Belfort+Stadhuis_Lier_240x240.jpg(73248 byte) Belfort_Dendermonde_291x240.jpg(62809 byte) Belfort_Gent_107x240.jpg(54653 byte) Belfort_Namur_120x240.jpg(48133 byte)
Belfort_Aalst_160x240.jpg(53696 byte) Belfort_Brugge_120x240.jpg(48242 byte) Belfort_Antwerpen_Kathedraal_190x240.jpg(65125 byte) Belfort_Mechelen_SintRomboutskathedraal_160x240.jpg(56700 byte) Belfort_Oudenaarde_Stadhuis_159x240.jpg(31286 byte)
Belfort+Lakenhal_Herentals_180x240.jpg(55220 byte) Belfort_Leuven_Sint-Pieterskerk_220x240.jpg(78263 byte) Begijnhof_Tongeren_320x240.jpg(98640 byte)
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Belfort_Gembloux_110x240.jpg(41647 byte) Belfort_Nieuwpoort_262x240.jpg(66422 byte) Belfort+Stadhuis_Eeklo_275x240.jpg(88813 byte) Belfort_Charleroi_117x240.jpg(43893 byte)

【世界遺産になった理由】
基準(ii)文化交流:封建制度から独立した都市の出現と 都市での民主主義の始まりを象徴している。また 世俗的な権力と宗教的な権力との間の繋がりも象徴している。

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5)トルネの聖母大聖堂 

【概要】
1140年に建設が始まり1325年まで手を加え続けた大聖堂で 全長134mという今日でもベルギー国内で最大規模の教会建築です。
1140~1191年までの50年年間に ロマネスク様式での大規模な建物(身廊/通路/五つの塔/聖歌隊)が建てられましたが 完成して50年後ゴチック様式に建て替えることになり しかし建て替えられた部分と建て替えられなかった部分がありますので このような外観となっています。すなわち 三つの部分から構成されています。
①(左)ロマネスク様式の身廊・・・元々平屋建てで 尾根の吹き抜けは後から追加されたものです。
②(中央)ロマネスク様式の交差部・・・ゴシック芸術の始まりを示す5つの塔を持つ
③(右)ゴシック様式の聖歌隊席・・・ ロマネスク様式の聖歌隊席は13世紀に取り壊され 1242年~1255年にかけて当時の建築の最先端であったフランスの盛期ゴチック様式によって堂々たる聖歌隊席へと作り変えられました。
その後 建物全体をゴチック様式に建て替える計画は放棄されました。

この部分が そもそものロマネスク様式による身廊です。ロマネスク様式の特色がはっきりと見て取れます。(半円形アーチ/少ない装飾/ギャラリー)
こちらが ゴチック様式に建て替えられた部分です。ゴチック様式の特色がはっきりと見て取れます。(尖角アーチ/豊かな装飾)

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 〔トルネの聖母大聖堂 南側からの眺め〕  〔トルネの聖母大聖堂内部 ロマネスク様式の部分〕  〔トルネの聖母大聖堂内部 ゴチック様式の部分〕

【世界遺産になった理由】
基準(ii)文化交流.:ゴチック建築の開花に先立つ12世紀初頭の短い期間に 北フランス/ノルマンディー地方/ライン川流域の建築の間で交流があり影響し合っていたことを表わしている。
基準(iv)時代的価値:セーヌ川以北の大規模な教会建物様式の顕著な例であり ゴチック様式の壮大な大聖堂が(アミアン/シャルトル/パリ/ルーアンなどに)続々立てられたその先駆けとなっている。

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6)ブルージュの歴史的地区

【概要】
ブルージュはベルギー西部 大西洋近くに位置し 1180年までフランダース伯爵領の首都でした。毛織物工業と織物取引と長距離貿易の中心地として栄え その巨大な利益から13~14世紀には西ヨーロッパ有数の商業都市として君臨し ブルージュを中心とするフランダース地方は 初期の資本主義経済の発祥の地の一つとなりました。
15世紀にブルゴーニュ公爵の宮廷が置かれて最盛期を迎え その擁護のもとに当時ヨーロッパで最も経済的/文化的に繁栄した都市の一つとなり 多くの画家や音楽家たちが活躍する舞台ともなりました。ブルージュは戦争や大規模な火災で破壊されたことがないため 救世主大聖堂/聖母教会など多くの教会建築や 鐘楼/市庁舎などの公共建築 そして多くの世俗建築など ゴシック様式の建築を主とする歴史的建造物や中世の町並みが非常によく保存されています。

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 〔1572年のブルージュの地図〕  〔鐘楼からマルクト広場方面を見下ろす〕  〔赤帽子岸からの眺め〕

【世界遺産になった理由】
基準(ii)文化交流:長い時代に渡っての建築(特にレンガ造りのゴチック建築)の発展に影響を与えるかなりの交流があった証しとなっています。
また 油絵の具の発明によるフランダース写実主義絵画原発祥の地として 中世の絵画の芸術的/技術的開発に革新的な影響を与えました。
基準(iv)時代的価値:公共建築/世俗建築/宗教建築を含む街並みは 中世ヨーロッパの商業と文化の歴史の中での重要な段階を示しています。(=ブルージュを中心とするフランダース地方が経済的/文化的にどれほどに繁栄したのかの証しとなっている。)

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7)プランタン=モレトゥス博物館(住居/印刷工場/図書室)

【概要】
アントワープの旧市街にあるプランタン・モレトゥス博物館は プランタン・モレトゥス印刷出版社の旧本社の工場と住居と図書室の複合体です。(博物館/美術館は世界遺産に認定されないという決まりでしたが)2001年に世界で初めて博物館として世界遺産に登録されました。
16世紀にクリストフェル・プランタンが設立し 活版印刷を初めて工業化し その発展と普及に大きく寄与しました。それによりアントワープは(パリやヴェネツィアと並び)ヨーロッパの初期印刷術を先導する「印刷工業の街」となりました。当時としては世界最大の規模で 最大16台の印刷機と80人以上の従業員を抱えていました。
プランタンは その当時の重要な人文主義者たちの著作や 宗教改革やカトリック(=反宗教改革)の本をあらゆる言語で印刷していました。彼の死後印刷所を引き継いだ義理の息子であるヤン・モレトゥスは ピーター・パウル・ルーベンスと親交があり ルーベンスもまた工場の本の挿絵やモレトゥス家の家族の肖像画を描いています。
印刷所は1867年まで機能していましたが 1876年には エドワード・モレトゥス(1804-1880)が全在庫の印刷所をアントワープ市に売却し 博物館が設立されました。
建物自体に重要な建築学的価値があるだけでなく 16世紀にヨーロッパで最大の印刷所だった頃の活気や業績が 今も十分に読み取れます。
金曜市場に建つ建物は 工場と住居を兼ねていました。壮麗な邸宅(住居部分)には 芸術的家具/(ルーベンスの作品を含む)絵画/金革の壁紙/彫刻/磁器などが置かれています。
公房には 世界最古の印刷機(1600年頃)2台を含むルネサンスとバロック時代の印刷機が現存する世界で唯一のコレクションと 無数の金属製の活字の宝庫があります。
約25,000冊の古い本を所蔵する図書室では 16世紀から19世紀までのプランタン・モレトゥス印刷出版社の印刷物のほぼ全容を知ることができます。

【世界遺産になった理由】
基準(ii)文化交流/基準(iii)希少価値:その出版物を通して 16 世紀のヨーロッパのヒューマニズムの重要な中心地となり 科学と文化の発展の中で重要な役割を果たしたその証しとなっています。
基準(iii)希少価値:その図書室は 商業帳簿や 世界的に有名な学者や人文主義者の書簡などを含んでいます。
基準(vi)価値ある出来事/作品:図書室には卓越した普遍的な意義を持つ思想的/宗教的/技術的/文学的/芸術的作品を保存されています。
基準(iv)時代的価値: 16世紀/17世紀/18世紀の家族の生活環境/仕事の世界/商業の世界との関係を示す優れた例として ルネサンス/バロック/古典主義といったヨーロッパの歴史の重要な時期に関連した他の追随を許さない記録的価値を持っています。

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8)ブリュッセルの大広場(グラン・プラス/グローテ・マルクト)

【概要】
ベルギーの首都ブリュッセルの中心にある ほぼ長方形の長さ110m幅68mの広場。
フランス語ではグラン・プラス=大広場 オランダ語ではグローテ・マルクト=大きい市場と呼ばれています。ブリュッセルは ブルージュとケルンを結ぶ中継地として発展し始め 毛織物業などで特に15~16世紀に繁栄しました。
元々この広場の場所は現在より1.20メートル低い泥沼地で その上に建物を建てることができず 最初の建物は隣の砂州とその周辺の泥沼地の杭の上に建てられていました。聖ニコラス教会の周辺の商人街に近接していたため 広場は市場として利用されるようになり 12世紀に入ってから広場が街の中心地として発展し ギルドや商館が集まるようになりました。14世紀以降役場をはじめとする多くの公共建築物が建設されましたが 経済的な成功による経済力と市民の力の高まりの表れとして 16世紀以降 広場には2つの権力の中心が向かい合って建っていました。北側には統治者=領主であるブラバント公爵家の権力の象徴「メゾン・デュ・ロワ(王の家)」 南側には市民の力の象徴である市庁舎がありました。
15世紀から17世紀までの様式の建物が混ざり合っていたこの広場は 1695年8月フランス軍の砲撃を受け ほぼ完全に破壊されてしまいました。その後三年かけて建てられた建物が今日まで残されているものです。
大広場は市庁舎(15世紀前半)やギルド・ハウス(17世紀末) 邸宅など公共建築と市民建築が一体となって取り囲まれ それらは政治/経済の中心地として栄えたこの街の 高度な社会的/文化的水準を物語っています。

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 〔ブリュッセルの大広場 東側からの概観〕

【世界遺産になった理由】
基準(ii)文化交流/基準(iv)時代的価値:ゴチック様式とバロック様式の建物に取り囲まれたこの広場は この地域の文化と社会を特徴づける建築様式と芸術様式の折衷的で非常に成功した例である。
基準(iv)時代的価値:建築と広場の優れた質によって 北ヨーロッパの商業都市として特に繁栄したその進化と成果を顕著に表わしている。

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9)ワロン地方の主要な炭鉱(4ヵ所)

【概要】
ワロン炭鉱盆地はヨーロッパで最も古い炭鉱であり ヨーロッパ大陸における産業革命の始まりを象徴するものです。鉱山跡の内 その質/多様性/保存状態から四ヵ所が世界遺産に認定されました。
13世紀に最初の炭鉱が掘られるようになり 16世紀には比較的大規模に石炭が採掘され 各地へと運ばれていました。18世紀初頭に多くの鉱山会社が設立され 19世紀には炭鉱業とそれに依存する金属産業やガラス産業のおかげで リエージュを中心とするワロン地方はヨーロッパ大陸最大の工業地帯へと発展しました。この時代には 石造りの道路や運河が作られ この地域の発展に大きく寄与しています。また 1850年にジョン・コッカリルの製鉄/鉄工所が設立され 後にベルギーの国営となり 世界最大の製鉄鉄工所となったことも この地域がヨーロッパ大陸で最も重要な工業地帯となる要因となりました。
19世紀前半から20世紀の後半にかけて稼動した炭鉱群は 地上と地下の両方の炭鉱産業に関する多くの技術的な遺構を含み 炭鉱関連の産業建築や労働者住宅など 炭鉱の町における都市計画の様相をも伝えています。

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 〔ブレニー炭鉱〕  〔ボワ・ド・カジー炭鉱〕

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 〔ボワ・ド・ルック炭鉱の労働者住宅街〕  〔オルヌ炭鉱〕

【世界遺産になった理由】
基準(ii)文化交流:ワロン地方の4つの炭鉱はヨーロッパで最も古く最大のものであり 産業革命の技術的/社会的/都市的な革新が早くから広まったことを物語っており 技術的/社会的な例として重要な役割を果たしました。また ベルギー/ヨーロッパ/そして後のアフリカからの労働者を雇用することで 大量産業から生まれた異文化交流の最も重要な場所の一つでもある。
基準(iv)時代的価値:産業革命の様々な時期にヨーロッパ大陸で行われた工業的な採掘の顕著で完全な例を構成している。

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10)中央運河の船舶昇降機(4ヵ所)

【概要】
ベルギー南部ラ・ルヴィエールの中央運河にある四つの船舶用水圧式昇降機は 1888年から1917年の間に完成されたものです。19世紀後半に ベルギーの二大河川エスコー川/シュケルデ川とムーズ川/マース川との間に船を通すための運河の建設が計画されましたが 二本の川には65mの高低差があります。その高低差を船を通すために作られたもので 約17mの落差が三ヶ所 約15mの落差の一ヶ所 合計で四ヶ所となっています。
これらの四つの船舶用水圧式昇降機は 稼動するものとしては世界で唯一のものであり 高度の能力を誇る工学上の記念碑でもあります。運河自体と運河に関連する構造物と並んで 19世紀末の産業の様子を顕著に表わしています。(仕組みの説明)

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 〔ウッデン・エーメーリー〕  〔ウッデン・ゲニー〕

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 〔ストゥレーピー・ブラッケニー〕  〔チュー〕

【世界遺産になった理由】
基準(iii)希少価値 : 19世紀ヨーロッパにおける科学技術としての水力工学の開発の顕著な証しであ(り 稼動する世界で唯一のものであ)る。(=希少価値)
基準(iv)時代的価値 : 運河の建設への工学技術の頂点を表している。(=時代的価値)

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11)建築家ヴィクトール・オルタの都市邸宅(4棟)

【概要】
アール・ヌーヴォー建築の創始者の一人である建築家ヴィクトール・オルタによって設計された建物のうち ブリュッセルにある都市邸宅四棟が登録されています。
これらは ベルギーにおけるアール・ヌーヴォー建築の先駆的な作品の中でも最も注目すべきものです。これらの作品に代表されるアール・ヌーヴォーの様式的な革命は その特徴である「開放的な間取り」「建物の中への光の取り入れ方」「曲線的な装飾線と建物の支持構造との華麗な組み合わせ」に見出すことができます。
当時の新建材である鉄やガラスが多用されていて 金属の彫像性と強さとを生かすことで 光と空気に満ちた居住空間を創り出しました。
世界遺産に登録されている4つの建物は 中産階級の都市邸宅や重厚な邸宅の伝統を受け継ぎ 居住機能とその他の機能を兼ね備えています。インテリアの特徴は 驚くほど豊富なアイデアを持っていることです。床から壁画へと途切れることなく流れる装飾的なモチーフや 錬鉄製の装飾品 大小の家具のひとつひとつや 扉や家具の取っ手のデザインなど 細部にまで気を配ることで 総合芸術としての建物と家具全体のまとまりのある印象を実現しています。

オテル・タッセル(タッセル邸) 1893年
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 〔ヴィクトール・オルタ「タッセル邸」内部〕

オテル・ソルベイ(ソルベイ邸) 1893年
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 〔ヴィクトール・オルタ「ソルベイ邸」内部〕

オテル・ファン・エートヴェルデ(ファン・エートヴェルデ邸) 1895年
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 〔ヴィクトール・オルタ「ファン・エートヴェルデ邸」内部〕

オルタの自宅兼公房 1901年
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 〔ヴィクトール・オルタ「自宅兼公房」入り口〕  〔ヴィクトール・オルタ「自宅兼公房」サロン〕  〔ヴィクトール・オルタ〕

【世界遺産になった理由】
基準(i)創造的価値:芸術と建築における影響力の強いアール・ヌーヴォー様式の最高の表現を代表する 人間の創造性に満ちた天才的な作品である。
基準(ii)文化交流:19世紀末のアール・ヌーヴォーの出現は 西洋における建築の進化の決定的な一段階を示し その後の発展を予見させるものであった。
基準(iv)時代的価値:アール・ヌーヴォー建築が19世紀から20世紀への芸術/思想/社会の変遷を見事に物語っているその優れた例であり かつその急進的/革新的な表現の証しである。

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12)ストックレ邸

【概要】
ストックレ邸(仏語:Palais Stoclet)は ベルギーの実業家アドルフ・ストックレの依頼によりブリュッセル郊外に建てられた邸宅で オーストリアの建築家ヨーゼフ・ホフマンが設計し 1911年に完成しました。この建物は ホフマンの最高傑作であり アール・ヌーヴォーの最後の作品と考えられています。
総合芸術作品の制作を依頼されたホフマンは 芸術と工芸の融合を目的として彼自身が設立したウィーン分離派の様々な芸術家たちに装飾を託しました。ホフマンとその仲間たちは 財政的な制約に縛られることなく 最も高級な素材(大理石/金メッキされた金属/革)を使用することができました。ストックレ邸では 建築/外装/内装/装飾/機能的なオブジェ/庭園とその花壇など あらゆる次元での総合芸術作品が作られ 芸術の理想的な表現として 卓越した美的水準と豊かさの証しとなっています。
単純化された幾何学的な形をした建物は ウィーン分離派の最も完全で均整のとれた建築のひとつであり ブリュッセルで生まれた(曲線豊かな)アール・ヌーヴォーとは対照的で 後に一般的になるアール・デコやキュビスム 建築におけるモダニズム運動を先取りしたような形をしており その完成当初から ベルギーや他の国の多くの建築家に影響を与えました。

ベルギー人芸術家のジョルジュ・ミンネが彫刻を制作し フェルナン・クノップフが音楽室のために絵画を制作しました。

ストックレ邸は 20世紀初頭のヨーロッパにおける総合芸術としてのアール・ヌーヴォー運動の美学的研究と刷新との最も完全で象徴的に実現したものの一つであり ほとんどの設備や家具が当時のまま残され 外観・内装ともに全体が良好に維持されており その保存状態は驚くべきものです。
ただし 今日でも個人の所有ですので公開はされていません。

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 〔ストックレ邸俯瞰〕  〔ストックレ邸外観〕 〔ヨーゼフ・ホフマン〕

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 〔ストックレ邸居間〕  〔ストックレ邸食堂〕 〔ストックレ邸台所〕

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 〔ストックレ邸寝室〕  〔ストックレ邸風呂場〕

【世界遺産になった理由】
基準(i)創造的価値:(建築家でありインテリアデザイナーでもある)ヨーゼフ・ホフマンの監督のもとに建てられたストックレ邸は 美学的/概念的に構築された総合芸術であり (建築の表現/独創性/装飾/家具/芸術作品/庭の)並外れた質を通して ウィーン分離派の創造的な天才の傑作である。
基準(ii)文化交流:完成当初からウィーン分離派の代表的で洗練された作品の一つとして認識されており アール・ヌーヴォーの中心地であるブリュッセルに建設されたこの邸宅は 建築のモダニズムとアール・デコの誕生に多大な影響を与えました。

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13)ル・コルビュジエの建築作品(世界各地17ヶ所の内の一つ)

【概要】
スイス・フランスの建築家であり都市計画家でもあるル・コルビュジエの17の作品が 3大陸7カ国にまたがる国境を越えた世界遺産としてまとめられています。その17の作品は フランスに10カ所 スイスに2カ所 ベルギー/ドイツ/アルゼンチン/インド/日本にそれぞれ1カ所ずつです。
これらの作品は 20世紀のモダニズムと呼ばれる革新的な表現様式の建築の証しとなっています。また 20世紀に新しい建築技術の創造によって 近代建築運動が社会的な要求を解決しようとしてきた努力を反映しています。(新しい建築技術=鉄筋コンクリート/ガラス 社会的な要求=より大きく/便利に/早く/安く)
これらは ル・コルビュジエが「辛抱強い研究」と表現した方法により 半世紀にわたって建築されました。
また 20世紀の建築の国際化を示す傑作ともなっています。近代運動の誕生と発展に関連して 半世紀にわたり世界規模で人間の価値観の前例のない交流が行われたことを示しています。

ベルギーにある唯一の作品は「ギエット邸」と呼ばれているもので アントワープの画家ルネ・ギエットのアトリエ付き自宅として建てられました。アントワープ郊外のWirlijk地区のポプラ通りにあることから 「Les Peupliers」とも言われています。1926年のこの建物は ル・コルビュジエの初期の作品の一つです。
ル・コルビュジエは1958年にブリュッセルで開催された万国博覧会のために イアニス・クセナキスとともにフィリップス館を設計しましたが 博覧会終了後に取り壊されたので この「ギエット邸」ベルギーでは残されている唯一の作品です。

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 〔ル・コルビュジエ「ギエット邸」〕  〔ル・コルビュジエ「フィリップス館」〕

【世界遺産になった理由】
基準(ii)文化交流:ル・コルビュジエの建築作品は 近代モダニズム運動の誕生と発展に関連して 半世紀にわたる世界規模での人間の価値観の前例のない交流を示しています。
(ただし この物件は三回の却下を経て 基準を変えて登録されたもので 世界各国で世界遺産の登録件数に差があるということで その差を少なくするために各国にまたがった登録を増やそうという方針によって登録されたという経緯がありますので 真に「人類が共有すべき『顕著な普遍的価値』を持つ物件」なのかどうかは疑問がもたれます。)

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すでに登録済みの他に 申請中の物件も多々あります。

申請中の物件
ルーヴェン(大学の建物 歴史的中心部内の6世紀の遺産) (02042002)
アントウェルペンの歴史的な核 (シュケルデ川から1250年頃の旧城壁まで) (02042002)
ゲントの中世の歴史的中核 (02042002)
ブリュッセルのアーケード Les Galleries Royales Saint-Hubertus (08042008)
アンリ・ファン・デ・ヴェルデの建築 (08042008)
ブリュッセルの裁判所 (08042008)
オート・ファニュの台地 (08042008)
ワロン地方に位置するローマ街道(ブローニュ・ケルンのババイ・トングレ区間)
リエージュの司教領主の宮殿 (08042008)
ワーテルローの戦場 (08042008)
ワーテルローの戦いのパノラマ (08042008)
モザンの要塞 (08042008)
Hoge Kempen 田園風景 - 産業の変遷 (25052011)
Koloni?n van Weldadigheid(農業の貧困層) (27092013)
第一次世界大戦(西部戦線)の葬儀と記念の場所 (14042014)
H?spital Notre-Dame ? La Rose - Lessines (03042019)
ヨーロッパの主要な水の都市 (03072014)
ワロンのネアンデルタール人の化石遺跡 (03042019)

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この文章は ユーラシア旅行社のオンライン講座【ベルギーの世界遺産(有形)】の内容を文章化したものです。



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