デジタルとアナログ
《幸也の世界へようこそ》 → 《幸也の言葉》 → 《公演でのお話から》 → 《デジタルとアナログ》
(この文章は 《デジタルの音》からの続きです)
別項《デジタルの音》で述べましたように
私たちの日常生活において
この35年来 徐々に生活の中に入り込んできたデジタル技術を使った音の響きが
私たちのものごとの考え方・感じ方・捉え方・表現の仕方にも影響を与えてきました。
つまり デジタル音の持っている特徴と同じものが
私たちのものごとの考え方・感じ方・捉え方・表現の仕方に現れ
私たちの性格に現れるようになってきました。
何かに接しても それに相対する心の姿勢として
充実感を感じ取れない 潤いや深みを感じられない
そして ものごとの感じ方・捉え方においても
ものごとの関連性・連続性を捉えられない 表面的にしか捉えられない
あるいは 表現にも潤いや深みが感じられず パサパサとしている
考え方においても 時間的な前後の関連性や ものごと・他人との関連を捉えられず
一貫性の無い考え方をし
その結果 行動も言動も同じように一貫性が無い
また 他人やものごとに対して関心が薄く よそよそしい
といった特徴です。
これは特に 1970年以後に生まれた人たちに多い特徴ではないかと思います。
これはまさに この世代の人たちが
世の中においてジタル文化が発達し定着してきた時代に生まれ育ったからではないかと思います。
けれども このような特徴は
人間のあり方として 自然なものなのでしょうか?
宇宙の中に存在している 一つの生命としての人間のあり方として
本来の姿なのでしょうか?
① 宇宙の本質は デジタルでは無く アナログです
私たちが存在している宇宙は そのもの=その中の全てが繋がり合っています。
全てが関連し合っています。
私たちが 自分と何か・誰かとを 他の存在・別の存在だと思っているにしても
それでも 宇宙は一つで 全ては繋がり合っています。
切り離されたものは存在しません。
存在しているように思えるのは 切り離されていると思っている考え方のためです。
そもそも 全てが一つ=一体で ひとつながりなのにも関わらず
ものごとをバラバラに分けて認識しようとするのは
その対象に 名前を付ける ということと関わっています。
名前を付けることによって 人間はものごとを認識しやすくなり
かつ 人間の思考は そのほとんどが言葉を使っていますから
ものごとに名前を付けることによって 思考しやすくなります。
ところが名前を付けることによって「別々のもの」として
本来ひとつながりのものを 分離させて捉えようとすることになります。
これが理由の一つです。
もう一つの理由は
私たちが この地上において
肉体を使って生活していることにあります。
この地上とは 物質としてものが存在している世界です。
そしてその中で 私たちは 肉体という物質として姿形をとって生きています。
物質 特に固体は 他のものと混ざり合うことが出来ません。
他と 融合することが出来ません。
五感といわれる感覚で私たちが感じるのは
まさに 自分と何かを別のものとして捉えているからです。
触覚とは 自分が何かに触れて「別のもの」ということを感じる感覚です。
嗅覚も 味覚も 「自分」に対して 何か別のものを感じています。
視覚も聴覚も 「自分」から他のものを見て聞いています。
このように 肉体という固体の存在として生きているからこそ
私たちは 自分と何か 自分と他人というように
自己と他とを分けて認識してしまいます。
そして 私たち誰もが 宇宙の中に存在している 宇宙の一部であり
宇宙の全てが繋がり合っていることを感じ取れなくしてしまっています。
肉体という物質的存在として生きている私たちですが
肉体だけがその存在ではありません。
私たち人間という生命の本来の姿は 宇宙の一部としての生命体であり
その生命体がこの地上において 肉体という物質の形をとって存在してはいても
物質化されていない部分もあり それを
心とか魂とか霊とかとして人間は認識してきました。
そして この物質化されていない部分こそが まさに
私たちが宇宙の中で全てとひとつながりであることを認識できるものなのにも関わらず
「目に見えること」を人間が重視し その結果
「目に見えること」だけを真実としようとしてきてしまったために
私たちは 自己と他とは 分離している別個のものだと捉えるのを当たり前にしてきてしまいました。
しかし
私たちが ものごとをどう捉えても どう認識しても どう考えても
それでも 宇宙は一つであり ひとつながりです。
そして 私たちは そのひとつながりの中の一部分です。
そのひとつながりの中で
全てのものは 動いています。
「変化」というのが この宇宙の中に存在している全てのものに共通している性質の一つです。
ひとつながりの中で その部分部分が動いている・変化しているということは
一部分の変化や動きは 周りに影響を及ぼします。
このように 「連続性」=アナログ というのが この宇宙の性質の一つであり
つまり 宇宙の中に存在している全てのものは 基本的に
アナログの動き・変化をするのが自然なあり方だということになります。
② 人間の作り出したものは 人の意識が物質化したものです。
私たち人間は 宇宙の中の一つの存在であり 宇宙の中の一部分ですが
その部分部分が それぞれに意識を持ち 意志を持って生きています。
宇宙そのものにも 勿論 意識があり 意志がありますが
私たち一人一人にも それぞれの意志と意識があります。
これは逆には 宇宙の中での一つの意識体を 生命体と言っている ということでもあります。
そして その意識体が 肉体という物質の形で この地上に存在していますが
肉体は意識体の全てではありません。
意識体の中でも この地上で生きるにあたって 物質を必要としている部分だけが肉体となっていて
それ以外の部分は 物質の形はとっていません。
そして 私たちは この地上=物質界で生きていくにあたって
物質化していない意識や意志が様々な物質を作り出しています。
けれども
正確には 作り出しているのでは無く 物質を加工して変化させて
イメージしたものにすることを「作る」と言っています。
私たちが 創り出しているのは アイデアです。
物質は創り出していません。
そのアイデアという 物質の形をとっていないものを
何かの物質(=原材料)を加工し変化させ変形させて現実化=物質化する
それが 作る ということです。
ですから 私たちが作り出しているものは 全て
私たちの意識を形にしたものです。
何であれ 例外はありません。
私たちが作り出す全てのものは 私たちの意識の現れであり
つまり 私たちが 心の中で何を考えているかの現れです。
私たちの肉体も同様です。
私たちが創り出したものではありません。
でも 作り出したものです。
つまり 今 自分の身体がどういう状態で どういう姿で存在しているかは
自分の意識の表れ以外の何物でもありません。
より正確には 肉体の本来のあり方は 創り出されたものです。
それに対して 本来のあり方とずれている部分が 自分の意識の現れです。
例えば 病気や人相と言われるものは 全て その人自身の心の状態が
物質としての肉体に表れたものです。
あるいは 作り出している何かも同じです。
例えば 私たちは日常的に お料理を作り出していますが
その 料理の味も 盛り付けの見栄えも それを作った人の心が物質として表れたものです。
手紙も同様です。
どういう内容の どういう文章を どういう筆跡で どういう紙に書いたかは
全て その人の心の表れです。
その人の意識 あるいは感情の反映です。
そういうことを私たちは 意識せずに 自覚せずに生きているようでいて
でも どこかで分かっているのではないかと思います。
そして だからこそ
日本では昔から
自分の意識 自分の気持ち 自分の感情を
日常生活において積極的には表さない文化を持っていましたが
(ということは 消極的には表してきたということですが)
今の生活でも 私たちは その文化を保ち続け それが現代の文明の中で形を変えて表れているようです。
自分の意識 自分の気持ち 自分の感情を 日常生活において積極的には表さない
ということは 別の表現をすると
ポジティブなことをも意識的には表現しない ということです。
逆に 自分の意識 自分の気持ち 自分の感情を 消極的に表現しているというのは
意識せずに表現されてしまっている ということでもありますし
ネガティブなこともまた表現されてしまっている ということでもあります。
自分は 他人に 何をどう伝えたいのか という意志がはっきりしていれば はっきりと表現するし
はっきりと表現されてしまうのではないでしょうか。
ですから はっきりと表現しないのは はっきりと表現できないからであり
それは 自分が他人に 何をどう伝えたいのかの意志・意識がはっきりしていないからです。
そして 「伝える」ということは 「分かち合う」ということであり 「与える」ということであり
「共有する」「共感する」ということです。
(自分のネガティブな感情を爆発させる あるいは 自分のエゴを押し通すために はっきりと表現するのも
「私のことを分かって欲しい」「私のことを大事にして欲しい」という
「共感してほしい」「分かち合ってほしい」気持ちの表れです。)
このように 誰に何をどう表現し伝えたいのかという意志が強ければ はっきりと表現しようとしますし
弱ければ 表現されてしまった部分の方が多くなります。
しかし いずれにしろ
行動も 言動も 作り出したものも 全てに
その人の心の状態が表れ出ています。
けれども それを自覚していない人々 かつ
自分が他人に何を与えたいのか 他人と何を分かち合いたいのか
何を共有し共感し合いたいのかがはっきりしていない人たち
あるいは もっと積極的に
他人と何かを分かち合いたく無い 他人に何かを与えたく無い
共有したり共感し合いたく無い人たちは
何かをはっきりと表現しようとはせずに 逆にものごとを隠そうとします。
隠せないにもかかわらず 隠そうとします。
隠そうとする行動にすでに その人の気持ちが表現されているのですが…..
それでも 隠そうとします。
あるいは 隠そうという意志無しに 隠すことを選択します。
例えば 現代の生活において
自分で料理を作らずに 買ってくる
自分の筆跡を見られないように活字を使ってタイプする
ということを選ぶ人が多くなっているのではないかと思います。
その方が便利だから という理由を挙げる人もいるかもしれませんが
これらは 自分の気持ちを表現したく無い という気持ちの表れです。
これに限らず
自分は 他人に 何をどう伝えたいのか
それによって 誰に何を与えたいのか 人と何をどう分かち合いたいのか
誰と何を共有し共感し合いたいのか という意志がはっきりしていたら
そういう選択はしないのでは ということが日常生活において多々あるのではないでしょうか。
つまり 沢山の人が
「分かち合うこと」「与えること」「共感すること」を避けて生きている すなわち
幸せを創り出すことを避けて生きていることの現れ以外の何物でもありません。
「便利」という表現は しばしば 心を籠めたく無い場合の言い訳にしか過ぎません。
心が籠もっていない=ポジティブなものごとを積極的に表現し伝えたく無いということを
「便利」という理由で選択して
それが 相手の役の立つのでしょうか?
相手は幸せを感じるのでしょうか?
相手と何かを分かち合い 共感できるのでしょうか?
それを受け取った人は どう感じるのでしょうか?
そこに感じるのは「いい加減な気持ち」ではないでしょうか?
あるいは 他人と目を合わせない イヤホンで音楽を聴きながら歩く というのも
自分と他人とを切り離している 他人と関わらないようにしたい気持ちの表れですが
それもまた
「分かち合うこと」「与えること」「共感すること」を避けて生きている姿です。
そういう気持ちを積極的に表現する意志は無くても
それは 自ずと表現されてしまっています。
そのようにして 自分と他人とを分離させる 自分と世の中とを分離させる
その意識は 同時に 自分を宇宙から切り離そうとしていることになります。
でも それは勿論出来ません。
なぜなら 私たちは 宇宙の中に存在しているからです。
出来ないことをしようとすると つまり 無理なことをすると…..
苦しくなります。
不自然なことをすれば 苦しくなります。
しかし 「苦しいから 自分を他と分離させるんだ」というのが その人たちの言い分です。
そうやって「自分」を守ろうとしている訳です。
しかし それは 全く逆です。
そうすればそうする程に もっと苦しくなります。
なぜなら 自分を宇宙から切り離すという 出来ないことをしようとしているからです。
丁度 大気圏の中にいるのに 自分を空気から分離させようとしているようなものです。
これが 宇宙はひとつながりであり 連続性がある=アナログである
ということの 一つの現れです。
③ デジタルな思考・アナログな思考=デジタルな生き方・アナログな生き方
このように
「分離」の意識で生きれば 苦しくなり
「ひとつながり」の意識で生きれば 自然で楽だ ということです。
そもそも 自分の気持ちをはっきりとは表さないのが 昔からの日本人の美徳ともされた民族性でした。
けれども 今の世の中において 自分が何を表現しているのか
自分の言動に何が表現されてしまっているのかを自覚しない人が多い理由の一つが
テレビの普及ではないかと思います。
テレビにおいては コミュニケーションは成り立ちません。
なぜならば テレビから視聴者への一方的な伝達だからです。
視聴者からテレビへは返答が出来ません。
ですから 会話は成り立ちません。
そして多くの人が 会話が成り立たないという関係を
当たり前だと思ってしまうようになりました。
(最も 正確には「会話が成り立っていないことをも自覚していない」と言えますが。)
テレビからの一方的な伝達だということは
視聴者が何をどう表現しても テレビからの返事はありません。
その結果 自分が何をどう表現しているのかを認識しない自覚しない人が多くなってしまったのです。
そして・・・・
人間関係においても テレビとの関係と同じようになってしまいました。
他人と接していても 会話を成立させられないのです。
対話をすることが出来ないのです。
テレビとの関係では
相手(=テレビ)が何をしていても それと全く関係ないことを視聴者がすることは可能です。
それと同様に 他人がいても
その人と全く関わらないということもまた
当たり前と思う人が多くなりました。
これは デジタルの状態です。
アナログではありません。
「デジタル」というのは「分離」です。
「アナログ」というのは「連続」であり すなわち「一体」です。
つまりの世の中の人間関係は どんどんデジタルになってしまったのです。
それは行動だけではなくて 思考にも影響を及ぼします。
多くの人々がデジタルな思考をするようになってしまったのです。
目の前に居る人と関われない
物事の関連性がつかめない そして
自分が何をどう表現しているのか自覚していない
そういう人が増えてしまったのです。
そして 人間にとって一番近いのは誰との関係でしょうか?
それは「自分自身」との関係です。
他人と関われない ということは
実は「自分自身とも関われない」ということなのです。
他人と会話が出来ない 対話が出来ない 理解し合えない というのはすなわち
自ら自身とも対話が出来ないし 自らのことをも理解できないということなのです。
そして
物事の関連性がつかめないということは
「自分の思考」「自分の行動」の関連性も またつかめないということです。
それは 自分の頭の中で考えていることの関連性も把握でないということであり
(物事は必ず「原因」と「結果」の流れですから)
「なぜそれをするのか」「なぜそれを選択するのか」の理由も自覚できません。
ですから その結果として「自分が何を表現しているのかを自覚してない」
という生き方になるのは 当然のことなのです。
それはすなわち
「自らの言動に責任を持たない」ということでもあります。
そもそも「責任」ということさえ自覚していませんから。
「自分自身」とも「他人」とも関われない人は 社会とも関われません。
「社会の中での自分」ということも考えられません。
「社会に対して自分は何をできるのか」も考えられません。
結局「デジタル」というのは「分離」です。
「アナログ」というのは「連続」であり すなわち「一体」です。
けれども テレビとデジタル機器の普及により
人間の思考もまた デジタル化してしまっているのです。
人間の行動もまた デジタル化してしまっているのです。
デジタルな思考=分離 ですから
「他人と関われない」
「物事の関連性が把握できない」
「社会の中での自分という認識が出来ない」
そして「責任を自覚できない」
生き方になってしまうのです。
それに対して
アナログな思考=一体 ですから
「他人と理解し合い」
「物事の関連性を把握でき」
「社会の中での自分を認識し」
「責任を自覚する」
生き方となるのです。
私たちは誰もが宇宙の中に存在している宇宙の一部です。
宇宙の中の全てがひとつながりです。
ということは 私たちの本来は
「アナログな思考」なのです。
「デジタル=分離」の生き方によって
宇宙と自らとを切り離すという できないことをしようとする
苦しい生き方を選択するのか
それとも
「アナログ=一体」の生き方によって
宇宙の中での本来の自然な生き方を選択するのか
(宇宙の法則の一つが その中に存在している全てのものの「自由意志」ですから)
それは私たち一人ひとりに委ねられています。
「アナログな思考」「アナログな行動」という「一体」=宇宙の本来のあり方を選択するのか
「デジタルな思考」「デジタルな行動」という「分離」=宇宙に反したあり方を選択するのか
その選択をするに当たって
日々の生活で その選択に影響を与えるもの すなわち
(MP3やCD/DVDなどの)デジタルの音や デジタル電子機器やテレビと どう関わるのか
それをまず認識し選択していることが
今の時代にはとても重要なことであるかと思われます。
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(この文章は 2004年9月の公演でのお話を基にして 新たに書いたものです。)
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