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作曲とはどういう行為か

《幸也の世界へようこそ》《幸也の言葉》《公演でのお話から》 → 《作曲とはどういう行為か》


1) 作曲とはどういう行為か

今日皆さんにお聴きいただく曲の内の四分の三は
私自身の作曲となっていますけれども
実は 私自身は 音楽そのものは作っていないのです。

実際のところ 作曲とはどういう行為 どういう作業なのかというと
音楽そのものは私は作っていません。
そもそもの音楽は どこかにあるのです。
その どこかにある音楽が降ってきて
私は 降ってきたものを受け止め 楽譜に書き記し
そしてひとつの曲としてまとめる ということをしているだけなのです。

では そのもともとの音楽はどこにあるのか それは私には分かりません。
そもそもの音楽を一体誰が作っているのか それも私には分かりません。
私は只 降ってきたものを受け止めているだけなのです。

そういうのを日本語では「インスピレーション」と言っていますが
基本的には ものを創る人=創造行為をする人というのは
誰もがインスピレーションを受けていると言われています。
けれども いつ どこで どうやってインスピレーションを得るのかは 人それぞれです。

私の場合には
いつ=日時を決めておきます。
どこで=家の私の部屋で。旅行に行ったときの印象で曲ができることもありますけれども
それらも行ったその土地ででは無く 私の部屋の中で受け取ります。
どうやって=降ってきた旋律を五線譜に書き留めます。

けれども「夢」と題した曲は例外です。
これは寝ているときに夢の中に出てきた曲なのです。
寝ていましたから そのときには五線譜に書き記すことはできません。
(寝ているときにかくのは 寝汗です。)
この曲だけは 後から目が覚めてから書き記しました。

あるいは あらかじめ曲に注文をつけておくこともできます。
例えば 「演奏時間が何分の曲がいいな」と思うと ちゃんとその通りのものが出てきます。

「リースベートのために」という曲も 注文をつけて出てきたうちの一つです。
リースベートというのは女性の名前です。
以前 私がピアノを教えていたときの生徒の一人の名です。
その時 リースベートちゃんは 17歳でしたが ものすごく可愛い子でした。
正確には 可愛いと言うよりも 美しい子でした。
その頃彼女はベートーヴェンの悲愴ソナタをやっていたのですけれども
大抵 ピアノの先生というのは 生徒に弾かせてその横でそれを聞いて指導します。
しかし私は彼女が弾いているときに 横にはいられませんでした。
大抵 後ろに=彼女から見えないところに立っていました。
それはどうしてかと言うと・・・・

後に私は (20世紀最大のチェリストと言われた)カザルスの伝記を読んだのですけれども
丁度同じようなことが書かれていました。
カザルスが少年だった頃 チェロのレッスンに行くと
彼が弾いている間先生はなぜか 向こうを向いて黙って立っているのです。
カザルス少年は思いました。
「きっと自分の練習が足りて無くて先生は怒っているんだ」と。
しかし数十年たって先生と再会したときに 初めて打ち明けられました。
「あれは 君の演奏に感動して出てくる涙を見られたくなかったからだよ。」と。

私もリースベートちゃんのレッスンのときに同じだったのです。
自然と涙が出てきてしまうのです。
それは 彼女の演奏が余りにも美しかったからです。
そして なぜ美しいのかも私には分かっていました。

人間が何かを「表現する」というのは 何が出てくるのかと言うと
中にあるものが出てくるのです。
牛乳の入っているコップをひっくり返すと 出てくるのは牛乳です。
コーヒーの入っているコップをひっくり返すと 出てくるのは牛乳ではなくコーヒーです。
中に入っているものが外に出てきます。
人間の表現も同じです。
必ず 中にあるものが外に出てくるのです。

つまり 「表現」とは その人の「心」「気持ち」の表れなのです。
ですから リースベートちゃんの演奏がなぜそれほどまでに美しいのか
それはすなわち 彼女の心が美しいからなのです。

それで そういう彼女の印象でひとつの曲はできないかな と思って出てきたのが
「リースベートのために」という曲です。


2) クラシック音楽(=西洋音楽)と私の音楽との違い

私は以前 オーケストラでクラシック音楽を専門に演奏していました。
それを止めて 自分で作曲し それを自分で演奏するというように
乗り換えたわけですけれども
クラシック音楽(あるいは西洋音楽全般)と私の音楽とでは 
大きな違いがあります。

西洋音楽の特色のひとつが 「調」があるということです。
その「調」は 大きく二つに分けられます。
「長調」と「短調」です。
(大腸や小腸はお腹の中にあります。しかしオランダ語では長調は大調 短調は小調という言い方になります。)
「長調」は 「ドレミファソラシド」で 明るい感じ 楽しい感じに聞こえます。
「短調」は 「ラシドレミファソラ」で 暗い感じ 悲しい幹事に聞こえます。

けれども 私を通して出てきた音楽は 長調しかありません。
短調の曲は無いのです。
これが クラシック音楽(あるいは西洋音楽全般)と
私を通して出てきた音楽との違いの一つ目です。

そして 長調は「明るい感じ」であるとともに「楽しい感じ」であり
短調は「暗い感じ」であるとともに「悲しい感じ」ですが
「楽しい」:とか「悲しい」というのは感情表現です。
つまり「喜怒哀楽」をはじめとする感情の表現 これが
クラシック音楽=西洋音楽のもうひとつの特徴となっています。

特に 19世紀のヨーロッパでは「ロマン派」といわれる表現が時代を席巻しましたが
「ロマン派」とは その名の通り ロマンチックな表現を目指したものであり
あるいは「感傷的=センチメンタルな表現」を一番の特色としています。
しかし 感情表現というのは 一体誰の感情を表しているのでしょうか?
音楽の場合 1)作曲者の感情 2)作中の登場人物の感情 3)演奏者の感情
この三つがありえます。
つまり 演奏者は自らのものではない他者の感情を表現しなければならないのです。
ですから その表現は本来の表現ではなく芝居がかったものになります。
つまり 「芝居がかった感情表現」がロマン派の特色なのです。

けれども 私を通して出てきた音楽には 感情表現はありません。
私は降ってきたもの受け止めているだけですから そこには私の感情は含まれません。
例えば 雨が降ってきて その一粒一粒には私たちの感情は入っていません。
雨が顔に当たった時に 私たちの心に感情が発生するのです。
感情表現かどうか これがクラシック音楽(あるいは西洋音楽全般)と
私を通して出てきた音楽との違いの二つ目です。


ヨーロッパには 大きく分けて三つの民族が住んでいます。
「ラテン」「ゲルマン」「スラブ」です。
ラテン民族は ヨーロッパのアルプス以南に住んでいますが
気候が温暖なところですので ラテン民族の一番の特徴は「能天気」だということです。
ですから ラテン系の音楽は長調が多いのです。

ゲルマン民族は アルプス以北に住んでいます。
寒く暗い冬が長く続く地域です。
そういうところに暮らしていると 人間も暗くなります。
ですから 暗く寒い冬が一年の半分を占める北ヨーロッパ(特にスカンジナヴィア)では
音楽はほとんどが短調です。
(フィンランド人は ゲルマン系ではなくアジア系民族ですけれども 同じ特徴を持っています。)
スラブ民族(ロシア人・ポーランド人など)は東ヨーロッパにいますけれども
彼らが暮らしているのも北の方ですので 暗く寒い冬が長く続く地域です。
ですから スラブの音楽 例えばロシアのチャイコフスキーやラフマニノフの音楽は
ほとんどが短調で 哀愁を帯びた物悲しい旋律が絶えることなく連綿と続くのが
共通した特色となっています。
結局 民族性というのは 暮らしている土地の気候風土によって作られる部分が大きいのです。
西洋音楽は そういう民族性を含めた感情の表現となっていますけれども
私を通して出てきた音楽は 宇宙から降ってきたものですから
そこには地球上の民族性は現れてはいません。

こういった点が クラシック音楽(あるいは西洋音楽)と
私を通して出てきた音楽との違いとなっています。 


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(この文章は 2017年10月に日本で行われた
複数の演奏会での演奏の合間の話しを 文章化しまとめ直したものです)


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