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楽器の演奏法

 




11)解釈

 

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〔解釈〕

音楽を演奏するに当たって 「解釈」ということが言われます。すなわち ほとんどの音楽は作曲家が作曲したものを楽譜に記し 作曲者とは別の演奏家がその楽譜を見て読み取り演奏(=音に)しています。これは 作曲者が思い描いた演奏をするために 二つの障害があるということです。作曲者と演奏者とは別の人であることと 楽譜というのはとても大雑把な表記の仕方であるという。

楽譜の表記を 言語の表記と比べてみれば分かり易いでしょう。言語というものは 私たちの想念を伝達するためには あるいは頭の中で何かを想像するためには とても大雑把なものです。例えば「こういう色」というのは その色を見せれば簡単に伝わりますが それを言葉で伝えるのは至難の技です。匂いや味にしても あるいは様々な(特に物質では無い)物事や概念を想像したり伝えたりするためには 言語は余りにも大雑把なのです。そして それは 楽譜も同様です。ほとんど 音の高さしか記されていません。強弱は六つの目盛りだけです。作曲者が何を意図していたのかは全くと言って良いほどに記されていません。

ですので「解釈」ということが出てくるわけです。演奏者が楽譜をどう解釈するか という。しかし これは間違っています。演奏がすべきことは「読み取る」ことであって 「解釈する」ことでは無いのです。読み取る場合には その主体は楽譜であり 記されている音楽であり それを作った作曲家です。しかし 解釈する場合にはその主体は「(演奏をする)自分」なのです。あくまでも「自分はこう解釈した」ということなのです。しかしそれでは「読み取った」ことにはなりません。

 

ですので 「解釈」はしません。

実際 多くの作曲家が「解釈して欲しくない」「楽譜に書いてあるそのままに演奏して欲しい」と思っています。

 

〔型〕

解釈の他にもう一つ 「それぞれの楽器の演奏の型」というものがあります。例えば ほとんどのピアニストや声楽家はルバートをかけます。他の楽器ではそれほどはかけませんし ましてや管弦楽曲の演奏では ルバートはほとんどかけません。ヴィブラートの掛け方もまた 弦楽器と管楽器と声楽とでは違い 楽器によって型があります。つまり 解釈をする以前にほとんどの演奏家はそのような「型」にすでに嵌められているのです。では それは作曲家が意図したものなのでしょうか? 勿論違います。なぜならば それらの型は時代や地域によって違っているからです。けれども ほとんどの演奏家が「楽器を演奏している」のであって 「音楽を奏でる」という主目的を認識していないからこそ そのように「型に嵌める」ことになるのです。

 

〔読み取る〕

演奏の主体は「楽曲」そのものです。演奏家ではありません。楽器ではありません。演奏家の個人的「解釈」によって 作曲者の意図とはまるで違った表現をするのであれば なぜその曲を演奏するのでしょうか? 演奏者が表現したいような曲を自ら作れば良いだけのことです。しかし それをする創造性が無いから 中途半端に他人のものを変えることしかできないから そのような演奏をするわけです。結局それは 演奏者の個人的な趣味/嗜好を表現しているのであって 作曲の作った楽曲を表現しているのではありません。

 

20世紀のニ大指揮者トスカニーニとフルトウェングラーは 演奏スタイルがまるで違っています。

トスカニーニはこう言いました。「演奏者のすることは 楽曲を作曲者の意図の通りに音にすることだ」。フルトウェングラーはこう言いました。「作曲家の意図に対して 演奏者の個性をなるべく控えめにすることは 全ての演奏家に徹底すべきだ」。

つまり 考えていることは同じだったのです。しかし 演奏は違っているどころか かなり違っています。何をどう読み取れるかが 人によって違ってしまうのです。

 

では どうやったらば本当に「読み取る」ことができるのでしょうか? それは 読み取る時に「自分」を介在させないということです。

宇宙というのは「意識体」です。その宇宙(意識)は 宇宙の中で起きた全てのことを把握し そして記憶しています。つまりは 宇宙の中には情報庫があるのです。(それを「アカシック・レコード」と言います。) ですから 作曲者が意図したことも 宇宙の情報庫に記録されています。それを読み取れば良いということです。

それはどうやれば良いのでしょうか? 「宇宙に訊ねる」ということです。演奏すべき音は 宇宙の中にあるのです。ところが多くの人は「宇宙」というのは 地球と離れていると思い込んでいます。なぜそんな勘違いをするのでしょうか? 地球というのは宇宙の中にあるのです。ですから どこもが宇宙なのです。身の周りも そしてあなた自身も。

演奏すべき音は宇宙の中にある ということは 出すべき音は身の周りの空気に漂っているのです。これが 演奏する時に「宇宙と一体であること」「宇宙を呼吸すること」が重要なもう一つの理由なのです。そして それによって 「楽曲に同調して動く」「(意識しなくても)自然と動く」ことができるのです。そこに「解釈」が入る余地はありません。

 

〔音楽と言語〕

「楽譜に忠実に」ということと 「解釈しない」ということとを結び付けている人たちもいます。しかし ここで気をつけなければならないのは 必ずしも「楽譜に忠実=作曲者が望んだとおり」ではないということです。これは 楽譜が不完全な表記法であることから来ています。同様に不完全である文字を例にしてみますと 例えば日本語の文章をローマ字表記した(=アルファベットで書いた)ものを日本人では無い人が読み上げたらばどうでしょうか? きちんとした日本語に聞こえるでしょうか? 聞こえません。発音や抑揚や間の取り方が 日本語を母国語としている人が聞くと「おかしい」と感じられるはずです。「書いているとおりに読んだ」のです。文章に忠実に。しかし その響きは作者が望んだものなのでしょうか?。

楽譜もこれと同じことなのです。多くの人が認識してませんけれども 音楽は言語です。日本人の作った曲は「日本語の音楽」なのです。ロシア人の作った曲は「ロシア語の音楽」なのです。ドイツ人が作った曲は「ドイツ語の音楽」なのです。それを無視して演奏すれば 不自然な響きになってしまうのです。

 

では 私たちは大人になってから習得した言語を その言語を母国語としている人たちと同じように話せるようになるでしょうか? これは とても難しいです。これが 多くの演奏家が不自然な演奏をしている理由の一つなのです。それぞれの言語の響きというものを無視して演奏しているからです。指揮者の岩城宏之さんが言っていました。「世界のいろんな所で演奏したけれども どこででも同じように受け入れられたのは ベートーヴェンだけだ」と。音楽は 言語/民族性/文化といったものと結び付いているんだということを無視して「解釈しました」などというのは 「自分勝手」以外の何ものでも無いのです。

 

多くの演奏家は 「解釈」することによって 実は「自分勝手」「自己満足」という想念を聴衆に押し付けているのです。それぞれの曲がどう演奏される(=どう響かせられる)べきなのかは 作曲家の意図であると共に それ以前にその作曲家に与えられた「霊感」が元になるはずです。すなわち 宇宙の中に漂っている波動を受け止めたものですから それらに対する謙虚さというものが 実は素晴しい演奏の元なのです。 

 

 

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