メニューにカーソルを乗せると展開します

インディゴの光

《幸也の世界へようこそ》《幸也の言葉》《公演でのお話から》 → 《インディゴの光》


今日はまず
この演奏会の題名となっている「インディゴの光」とは
どういう意味なのかをお話させて頂きます。

「インディゴ」というのは 色の名前です。
「インディゴ・ブルー」という言い方もされますので
ブルー系統の色であることが分かりますが
しかしブルーとは違う色なので 違う名前になっています。
日本では「藍色」と言います。
「藍は青より青し」という言葉をご存知かと思います。
つまり 青系統の色ではあっても 青とは違うということです。

この「藍色」「インディゴ」は 染料として使われてきました。
植物から採った染料です。
日本では昔から 浴衣などを染めるのに使われてきました。
アメリカでは ジーンズを染めるのに使われました。
ですから 「ブルージーンズ」という言い方がありますけれども
あれは本当は ブルーではなくて インディゴ色なのです。

**

今から30年ほど前から
世界各地でそれまでいなかったような子供たちの存在が報告されるようになりました。
その子供たちは 共通した特色を持っていました。
1)言葉が遅い(一歳になっても二歳になっても三歳になっても話しません)
2)他の子供たちと遊ばない
3)動物や植物と仲良くする
4)ものを作ったり 絵を描いたりが好き
5)音楽(リズムやメロディー)に敏感に反応する
6)感受性が豊かで 繊細 敏感

これらの特色を持った子供たちの もう一つの共通点は
インディゴ色のオーラを持っている ということでした。
ですので これらの子供たちは
「インディゴ・チルドレン」と名付けられました。

しかし この子達は
言葉が遅い ⇒ 知恵遅れ
他の子供と遊ばない ⇒ 協調性が無い
あるいは 自閉症であると判断されることが多く
つまり問題児扱いされてしまいました。

***

私は 今から八年ほど前に
一人のインディゴ・チャイルドと出会いました。
そして その人との出会いを元に
「藍の響き」という12曲からなる曲集を作曲しました。
今日最初にお聴き頂くのが その「藍の響き」からの四曲です。
しかし これらの曲の題名には「インディゴ」ではなく
「天使」という言葉が付けられています。

「天使」というのは ヨーロッパの存在です。
東洋には天使はいなくて 「天子」あるいは「天女」がいます。
ヨーロッパでは 昔から宗教画に天使の姿が描かれてきました。
しかし そもそも天使とは人間の目には見えない存在です。
肉体を持っていませんから。
その肉体を持たず 人間の目には見えない天使の姿を
宗教画では姿あるものとして描いてきました。
どうしてでしょうか?
なぜならば 描かないと絵にならないからです。

つまり もしも人間の目に見えたらばこういう姿なのでは
と描かれているのです。
そして天使の姿を描くにあたって
決まりごと あるいは定型というのが出来てきました。

天使は
1)背中の羽
2)後輪(後光)
3)明るい色の フワッとした服
4)男性でも女性でもない 中性の顔
で 一目見て天使だと分かるように描かれるのが一般的になりました。

このような描き方はどうしてかというと
天使は 肉体を持たない不可視の存在ですけれども
敏感な人には 天使のエネルギー体が
明るい色の光として見えるのです。
これらが 上記1)から3)の描き方の元になっています。
(東洋の天女の羽衣も 同じものです。)

そして 中性的な顔に描くのはどうしてかというと
そもそも 私たちは「魂」という生命エネルギー体が
「肉体」という器に入って生きています。
魂が入っている肉体は「生きている身体」
魂が入っていない肉体は「死体」です。
肉体は 必ず男性か女性かのどちらかです。
しかし 中に入る魂は中性なのです。
中性の魂が 無理して男性の身体か 女性の身体に入っています。
(ですから 最近は自らの肉体的な性に違和感を感じる人たちも出てきましたけれども
感じても当然なのです。)
天使は肉体を持たない存在ですから 中性なのです。
それを男でも女でもない顔で表しています。

敏感な人たちには
天使の存在がなんとなく見えるように
それ以外の 視覚ではない感覚で捉えられる人もいます。
天使の存在を 芳しい香りで感じたり 暖かさで感じたり。
そういった天使たちのあり方や 天使の存在の感じ方
それを音楽にしたのが「藍の響き」の曲集だとも言えます。

なぜならば インディゴ・チルドレンというのは
肉体を持ってこの世に生まれてきた天使たちだからなのです。

****

天使は 何のための存在しているのでしょうか?
それは 地上の人間たちを助けるためです。

地上で生きている あるいはこの世で生きている人間たちは
とても大事なことを認識していません。
それは 私たちは「宇宙の中に存在している」ということです。
その証しが「宇宙人」という言い方です。
地球人だって宇宙の中に存在しているのですから 宇宙人なのです。
それなのに どうして「地球外の存在」だけが「宇宙人」なのでしょうか?

自分たちが宇宙の中に存在しているのを認識していないのと共通しているのが
「あの世」と「この世」の関係です。
地球が宇宙の中の一部分なのと同様に
「この世」というのは 「あの世」の中の一部分なのです。
(ですから 本当は「あの世」という言い方はおかしいのです。)
これも多くの地球人たちが認識していません。

天使たちは 不可視の存在だということは
あの世に居ます。
その天使たちから見ると このように
自分たちがどこに居るのかも認識していない地球上の人間たちの生き方は
おかしく見えるのです。
それだけではありません。地球上には様々な決まりごとがあります。
そういう 人間が作り出した「世の中」で生きるのは
天使たちから見ると「大変だろうな」と思えるのです。
ですから助けたいのです。

ところが 助けられる側の人間たちはどう思っているのかというと
天使たちの思いとはずれがあるのです。
「この世の中が当たり前」と思って生きている人が多いのです。

例として一つ挙げますと
あの世 すなわち宇宙には 本来は「否定形」はありません。
「肯定形」しかありません。
ところがこの地球では 人間は当たり前に否定形なこと思い
ものごとを否定的に受け止め そして
否定的な言葉を口から出しています。

天使たちからみると
これだけでも「大変なこと」なのです。
「人間たちは なんて大変な世の中で生きているのだろう」と思えるのです。
けれども 人間である皆さんは どう思っていますか?
「これが当たり前」と思っていませんか?

このように 地球の人間を助けたい天使たちと
助けられる側の人間たちとでは
物事の認識の仕方に大きな違いがあるのです。

***** 

なぜ インディゴ・チルドレンたちは
先に挙げたような特徴を持っているのでしょうか?
なぜ「問題児」とされるのでしょうか?

これで理由はお分かりかと思います。

肉体を持たない「あの世」では 天使たちは
テレパシーで交信しています。
肉体を持たないのですから 口から言葉を発することは出来ません。
インディゴ・チルドレンたちも テレパシーで交信しているのです。
ですから 言葉を発しないのです。

インディゴ・チルドレンたちは
否定形の無いあの世でのあり方を覚えています。
(正確には 覚えているのではなくて あの世でのあり方のままに生きています。)
ですから 否定形を使いません。
しかし 他の子供たちは 当たり前のように
「嫌だ」とか「ダメ」という否定形を使います。
そういう子供たちとは一緒には遊べないのです。

しかし動物や植物は 否定形を使いません。
ですから インディゴ・チルドレンたちは 自然の中に居るのが好きなのです。
動物や植物と触れ合うのが好きなのです。
そして 動物や植物の側でも インディゴ・チルドレンたちと関わり合うのを好むのです。

そして ものを作り出す「創造行為」を好むのも
進化した存在ほど 創造能力が高いからです。

五感を超えた感覚を持っているからこそ
敏感であり かつ繊細なのです。

つまり インディゴ・チルドレンたちは
問題児でも何でもありません。
「問題」なのは この地上で「この世の中」を「当たり前」だと思って生きている
地球人類の方なのです。

******

インディゴ・チルドレンたちは
この地上に 人間を助けるために生まれてきた天使たちなのです。
天使たちは肉体を持ちませんから 「手助け」を出来ません。
「どうしても手助けをしたい」ということで あえて
この地上で肉体を持って生きることを決心してきた天使たち
それがインディゴ・チルドレンなのです。

この世を照らし この世を明るくするために生まれてきたのです。

インディゴ・チルドレンとの出会いから作曲された「藍の響き」の
どの曲にも「天使」の言葉が曲目に付けられているのは
そういう理由からであり
今日の演奏会の題名も そのような意味で付けられるわけです。

*******

私の作曲した音楽は クラシックの曲と聴き比べて感じて頂いたように
感情表現ではありません。
では何を表現し 何を皆さんにお伝えしようとしているのでしょうか?

私の音楽 私の演奏を聴いた多くの方々が共通して感じているのは
「宇宙的」だということです。
そのとおりで 私が音楽で表現し お伝えしたいのは
「宇宙」なのです。

私の音楽 私の演奏を聴くことを通して
皆さんが「宇宙の中の存在」であることを思い出し
そして その宇宙の中では どう存在するのが
どう生きるのかが自然なのか 当たり前なのか
そこに意識を向ける切っ掛けになれればということなのです。

*******************************************************

(この文章は 2016年10月7日 東京の八重洲ホール および
2016年10月10日 山口県下松市の専明寺で行われた演奏会での
演奏の合間の話しを文章化しまとめ直したものです)


*******************************************************



このページの初めに戻る