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Het lam Gods

『神の子羊(の礼拝)』(通称『神秘の子羊』)







以下の文章は
Gent ゲントのSint-Baafs Kathedraal聖バーヴォ大聖堂に置かれている
Het lam Gods 『神の子羊(の礼拝)』(通称『神秘の子羊』)について
実際に絵を観ている時の参考になるように
必要最小限の しかし本質的な点を漏らさずに
なるべく簡潔な解説をしたものです

(画像をより詳細に鮮明にご覧になりたい方は
http://closertovaneyck.kikirpa.be/ をお開き下さい)





Hubert van Eyck ヒューベルト・ファン・エイク と Jan van Eyck ヤン・ファン・エイク兄弟作
(1360/70?~1426)     (1385?~1441)
制作  1420~1436  /  1426~1432/5/6


聖ヨハネ教会(現在の聖バーヴォ大聖堂)の礼拝室の一つに置かれる
Vydファイト家の祭壇に掲げるために注文され作製される。
1420年に兄Hubertヒューベルトが構想を練り制作に着手。6年後に死去。
弟Janヤンが継いで1432/5/6に完成・公開。


☆ ★ ☆ ★ ☆ 主題・・・新約聖書の「ヨハネの黙示録」から ☆ ★ ☆ ★ ☆
「あらゆる国民・部族・民族・国語のうちから、数えきれないほど大勢の群集が、白い衣をまとい、
棕櫚の枝を手に持って御坐と子羊との前に立ち、大声で叫んで言った。
『救いは御坐にいますわれらの神と子羊からきたる』」

①全ての存在の輝き ②人間の尊さ ③神の存在と尊厳 を表現。
それにより中世キリスト教カトリックの「原罪」「人間罪の子」思想を超えた、
イエス・キリストの本来の教えである「人間神の子」像を提示。


☆ ★ ☆ ★ ☆ 特色 《油絵の先駆》 ☆ ★ ☆ ★ ☆ 

①1400年代初めにフランダース地方で発明された油絵の具を使った極めて初期の作品でありながら
その後今日に至るまで 最も完成度の高い作品であること。
それにより 油絵の具が絵画の主流になることを決定付けた作品。
②それまでの絵の具(テンペラ/水彩)には無い 油絵の具の長所(①強く 長持ちする表面 ②優れた柔軟性 ③厚く塗ることも薄く塗ることも可能・・それにより 光沢のある色鮮やかな描写/光の描き方/色彩の微妙な変化/細かい描写が可能になる)を発揮し 15世紀フランダース写実主義絵画の礎となる。
③油絵の具の長所を利用した空気遠近法による明るい画面。
④人間の個別な表現・物質界の豊かさを本当の(目に見える)質感・色彩であらわす。
それにより
⑤絵画が 宗教(キリスト教)における挿絵的な立場から 独立した芸術ジャンルへと発展していく切っ掛けとなった作品。



☆ ★ ☆ ★ ☆ フランダース(写実主義)絵画の特徴 ☆ ★ ☆ ★ ☆ 

①油絵の具の発明・利用 および油絵技術の開発と
②経験的合理主義の精神に基づく 
③緻密な観察と丹念な写実とによる(気分や雰囲気の表現ではない)
④ゴチック絵画(同時代のイタリアルネッサンスの影響を受けていない)



☆ ★ ☆ ★ ☆ ゴチック絵画の特色 ☆ ★ ☆ ★ ☆ 

①ロマネスクよりも多様な表現
・・・決まった形で無い構図・ゼスチャー
・・・血と肉としての(象徴では無い生身の)人間像
・・・人間の(顔・姿の)個別な表現
②宗教的題材が 自然や画家の当時の室内の様子を背景に描かれる
③宮廷風の優美さ・高価な宝石や布地・自然の美しさを 写実的に(目に見えるとおりに)表現
④遠近法が(イタリアで)確立される前の 全てのものを克明に描写した表現
⑤ロマネスクの円(曲線)の構図から 縦の垂直性を強調した構図への移行





開いた面




上段

☆「父なる神」〔画像 〕・・・豪華な衣装・宝石のちりばめられた冠など 地上において神の観念を体現している二つの存在 ローマ法王=宗教的権威(頭上の冠)と 神聖ローマ帝国皇帝=政治的権威(足元の冠)のイメージをかりて描き出されている。非西洋人的な顔立ちと髭(この当時のフランダースの人々は髭を伸ばさなかった)によって 実在の人物ではないことを表現。背景の文字は「王の中の王 主の中の主」。(この人物像をイエス・キリストであるとする説に関しては 後述します。)

☆「聖母マリア」〔画像〕・・・宗教画としては珍しい とても素朴な初々しい顔立ち。「ヨハネの黙示録」の中の描写による 12の星の付いた冠。冠には四種の花(百合=純潔/おだまき=謙遜/薔薇=愛/谷間の百合=聖母マリア)も。背景の文字は「この人は太陽や星々よりも美しく 光よりも輝かしい」。
沢山の宝石によって 神の国=光の国であることと その豊かさとを表現。 

☆「洗礼者ヨハネ」〔画像〕・・・背景の文字は「これは 人間を越え 天使のような 洗礼者ヨハネ」。膝の上に置かれた旧約聖書は イザヤ書の1ページが開かれ その文字は読めるように描かれている。(この絵で使われた油絵技術が フランダース地方の高度な細密画技法=手書き本の作成技術と関わり合っていることの証し。)

☆「楽器を奏でる天使たち」〔画像 〕「歌を歌う天使たち」〔画像〕・・・服の模様や刺繍・床のタイルの精密な描写 天使一人一人の表情の克明な表現 オルガンのパイプの光り方や木彫り彫刻の質感など 油絵の具の発明によって初めて可能になった克明な本物そっくりの色と光の表現。(=ものの質感/人間の感情が絵画史上初めて表現できるようになる)

オルガンを弾いているのは 聖セシリア(音楽の守護聖人)。15世紀のヨーロッパの音楽は 多声音楽(6人または8人がそれぞれ別の声部を歌う声楽曲)が主流で フランダース地方出身の音楽家がその中心をなした。

☆「アダム」〔画像〕「イヴ」〔画像〕・・・西洋絵画史上初めての正確な裸体画。(その為に1781年にオーストリア皇帝ヨゼフ二世によって宗教画としてはふさわしくないとして取り外され 1861年に服を書き加えられた絵が代わりに掛けられる。)イヴのお腹が大きいのは 母性愛の象徴。「人類最初の罪人」としてよりも「人類の祖先」として描き出されている。
しかし 身体は非常に写実的であるにもかかわらず 背景の感じから 物陰から天上界の存在を窺い見ているような表現になっている。

☆「カインとアベル」「カインのアベル殺害」・・・彼らがその収穫を神へ捧げている様子(神はアベルの羊は受け入れたのに カインの農作物は受け入れなかった)。その為に 兄カインが弟アベルを妬んで殺害。しかし この二つの部分は この開いた面で唯一 彫刻風の描写がしてあり かつ 左右上端に置かれることによって 極めて象徴的に 「昔々 地球ではこういう出来事もありました」という表現がなされている。 



下段

☆「生贄の子羊」・・・キリスト教において 全人類救済の為に犠牲となったイエス・キリストの象徴。または三位一体(父なる神・神の一人子キリスト・精霊)の象徴。
本来は羊文化圏の中近東において 自らを他の生命のために役立たせる(弱きものには乳を与え 強きものには肉を与え 裸の者は毛で包み 寒い者は毛で覆う)無我の慈悲の象徴。
羊(=キリスト)とその上の鳩(=精霊)と上のパネルの父なる神とで 三位一体を表現。脇腹から吹き出る血と 周りを取り囲む聖遺物を手にした天使たちによって キリストを象徴させている。(更には 中世のフランダース地方が毛織物産業で栄えたことを象徴)

☆「聖遺物を手にした天使たち」・・・聖遺物=茨の冠・脇腹を刺した槍・キリストが磔になった十字架・釘など。

☆「聖者たち」「聖女とたち」・・・聖なる殉教者たち。主にキリスト教が公認される前に殉教し聖人となった人たち。女性の一群には聖アグネス(羊)・聖バルバラ(塔)・聖カタリーナ・聖ドロテア(花籠)・聖ウルズラ(矢)など。
手に持った棕櫚の枝は 男性は凱旋(=キリスト教の勝利)を 女性は純潔を象徴。

☆「生命の泉」・・・永遠の生命が湧き出る泉。

☆「旧約聖書の人々(キリスト以前の人々)」・・・跪き旧約聖書を手にした預言者たちと キリストの到来に先立って救世主の出現を信じ予告した人々。その後ろ(左側)には キリスト以前の立法学者・哲学者・異教徒たち(キリスト以前に生まれた為にキリスト教には帰依できなかったが 善き行いをした人たち)が険しい顔立ちで描き出されている。

☆「新約聖書とその後の人々(キリスト以後の人々)」・・・白衣で跪く十二使徒。その後ろ(右側)に福音の僕たち(ローマ法王・司教・司祭・修道院長など)が 穏やかな表情で キリストによるこの世の救済を信じ受け入れて 至福の境地で礼拝している。

☆「聖修隠士たち」〔画像〕・・・祈りと瞑想とを信仰生活の中心としていた初期キリスト教において(仙人のように)山や荒地に数十年もこもって修行した人たち。聖アントニウスは修行者たちの守護聖人。後方にはマグダラのマリアの姿も。

☆「巡礼者たち」〔画像〕・・・巡礼者たちとそれを導く守護聖人 聖クリストファー(幼児キリストを肩に担いでヨルダン川を渡った巨人)と 聖ヤコブ(帆立貝の殻付きの帽子)。「巡礼者たち」は「聖修隠士たち」と共に世の中から離れていった人々ということで 背景には建物が描かれていない。

☆「キリストの騎士たち」〔画像〕・・・(前列左からヨーロッパの三大偉人)アーサー王/カール大帝/ゴッドフリード・ブイヨン公 (その後方に)ヘクトール/アレクサンダー大王/ジュリアス・シーザー など。世の中に対して積極的なことをしたが為に英雄とされた人々。

☆「正義の裁き人たち」〔画像〕・・・1934年に盗難にあい この一枚のみ複製(ヤン・ファンデル・フェーケン 1940)。


☆ 兄Hubertヒューベルトが全体の構想を錬り制作を開始。 内側上段を完成させ 下段中央パネルを製作途中に死去。
そのパネルと残りの部分を弟Janヤンが完成させたと思われます。
☆ 弟Janヤンの作品は多数残されていますが 兄Hubertヒューベルトの作品は この「神の子羊の礼拝」一点しか確認されていません。
(そのために 彼が実在の人物か疑われ この作品の全てを 弟Janヤンが制作したのではないかと思われていた時代もあります。




閉じた面

(今現在は 開いた状態で防弾ガラスの中に展示されていますので
この面は この様に左右が本来とは逆の状態で
かつ分離した状態で見ることになります)


☆「受胎告知」・・・百合の花(=マリアの純潔の象徴)を持ってお告げに現れた大天使ガブリエル〔画像〕(女性風の顔立ちに描かれているのは この当時の宗教画の典型)。フランダースの室内で祈祷書を読む処女マリア〔画像〕と 祝福に現れた精霊を表す鳩。せりふは天上界へのものであるため 上下逆さまに書かれている。

☆「洗面道具」〔画像〕「ゲントの街並み」〔画像〕・・・洗面道具は全人類の罪を洗い流すことを象徴。この絵が描かれた当時のゲントの街並み。ただし この二面は両側のパネルと(背景や床の)色合いが違うことから分かるように 本来は(兄Hubertヒューベルトによる)全く違った構図の絵が描かれるはずだった。つまり 弟Janヤンによる変更と思われる。

☆「洗礼者ヨハネ」〔画像〕「福音書記者(黙示録の)ヨハネ」〔画像・・・彫刻風の しかし緻密な描写。これにより 寄進者夫妻の姿が鮮明に浮き上がる。

☆「寄進者」〔画像〕「寄進者の妻」〔画像〕・・・Judocus Vydユドークス・ファイトとLysbette Borluutリスベット・ボルリュート。非常に緻密な肖像画。弟Janヤンの力量が最大限に発揮されている部分。


☆全体の構想は兄Hubertヒューベルトによるものだが
彼が完成させた部分(内側上段)と 弟Janヤンが完成させた部分(の中でも特に外側の面)とで
兄弟の表現の違い(=何を表現し 人々に伝えたかったのか)が明確。

☆油絵の具の発明によって初めて可能になった精密・緻密な描写。
*二百人以上の人物がそれぞれに違った表情で描き出されている
*髪の毛や髭の一本一本/宝石類の真に迫る輝きの表現
*全ての草花や木の葉が克明に描き出され 48種類の植物が識別できる(全て地中海地方のもの)。

☆油絵の具の発明以来 15世紀のフランダース絵画は「写実主義」として発展。
全てのものを 目の前に見ているかのようにはっきり・くっきりと『本物以上に本物らしく』表現。
ただし 「写実主義」は「(この世的)現実主義」では無い。
全てのものをあたかも目の前に見ているかのようにくっきりはっきりと描き出しはするが
一つの画面に本来は違う時間・違う場所の情景がしばしば描き出されたり(聖人と寄進者など) 縮尺が統一されていなかったりする。
・・・すなわち 「あの世的現実主義」。あの世においては 時間は存在せずに全てのものごとが同時に同じ場所に存在し得ることを表現。

中世キリスト教カトリック絵画のようでありながら
磔になったキリストの姿は描かれておらず 子羊として象徴的に表されているだけであり
また すでに地上が天国となった(エデンの園が復活した)状態を描き出しており
カトリックにおける「原罪」=「人間罪の子」思想を超えた 理想の世界が描き出されています。



壮大な構想/美しい色彩/緻密な細部の描写によって仕上げられたこの大作によって
Hubert van Eyckヒューベルト・ファン・エイクが表現し伝えようとしたものは
(カトリックの基本教義である)原罪やキリストの犠牲による全人類の救済では無く
①全ての存在の輝き ②人間の尊さ ③神の存在と尊さ であり
④天上界と地上界とが一体となった地上天国の実現 であり
それはまた 私たち一人一人が この地上を天国とするために地上へ降り立った
天使であり 神の子であることを思い出させてくれるものとなっています。



☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ 


以下の文章では
☆ 他の美術解説書には書かれていない内容
☆ 中世キリスト教カトリックの基本教義「原罪」「贖罪」にこだわらない/とらわれない
☆ 「神の子羊の礼拝」の絵を実際に目の前にした時に そこから感じ取れること
☆ この作品に表れている 本質的な部分
などを 実際に絵を観ている時の参考になるように しかしなるべく簡潔に述べています。


兄と弟との表現の違い

この「神の子羊(の礼拝)」は 兄Hubertヒューベルトが注文を受けて全体の構想を練り制作に着手
全体の下絵を描いてから内側上段を完成させ 内側下段中央パネルを制作途中に死去したために
弟Janヤンが引き継いで残りの部分(内側下段と外側の全て)を(一部変更を加えて)完成したと推定されています。
確かにこの絵を目の前にしてみると
内側上段とそれ以外の部分の 兄弟の表現の違いが明確に見て取れます。
そしてその表現の違いとは すなわち 兄弟のそれぞれが
この作品を通して 観る人々に 何を表現し 何を伝えたかったのかの違いだと言えます。


何を表現しようとしたのか/何が表現されているのか

人間が作り出したものは それが芸術作品であれ そうでなくても
必ずそれを作り出した人の「気持ち」なり 「心」の状態が反映されて表現されています。
一つには 「意志」として 「何を」「どのように」表現し 人に伝えたいのか
つまり 積極的に表現しているものと
もう一つは 「意識」として 「表現しよう」と思ってはいなくても 表現されてしまっている
あるいは 消極的に表現されているものとの
二つがあります。
人間の日常的な行動においても 「意志」として行われている部分と
「意識」として行われている部分とがあり(これは一般には「無意識」
という言葉で言われていますが) 例えば 「癖」と言われるものは 後者です。
人は 様々な「観念」「記憶」「感情」などを持って生きています。
そして 人それぞれに 何をどのように受け止め・理解し・表現するかが違っています。
そして それらの大部分は 無意識に行われています。
つまり 「意志」としてではなく 「意識」として行われています。
芸術作品においても同様で
「何を」「どのように」表現し 人に伝えたいのか 「意志」で表現している部分と
作者の 様々な「観念」「記憶」「感情」などが基になっている「意識」とで表現されている部分と
その両方で 一つの作品となって 見る人に何かを伝えています。


物の表現/生命の表現

この「神の子羊の礼拝」を目の前にしてみると
開いた面の上段と 下段及び閉じた面とでの表現の違いに気付きます。
特に 開いた面の上段と 閉じた面とでは 違いが顕著です。
この作品は この時期のフランダース絵画に多かった 三連の祭壇画の形をとっています。
三連画とは 三枚のパネルで構成され 左右の二枚は扉になっていて
礼拝する時には開いて 礼拝しない時には閉じておく という形です。
ですので 礼拝しない時の面=扉を閉じた面にも絵が描かれています。
この作品においては(この形式の他の作品にも多く見られますが)
閉じた面では 開いた時の(=礼拝する時の面ですから)色鮮やかさがより際立つように
色合いを抑えて描かれているのが印象的です。
特に 左右に分かれて描かれている 洗礼者ヨハネと黙示録のヨハネとは
石像彫刻として 動きのない硬いモノトーンに近い描き方がされています。
しかし それ以外の部分においても 動きが無い 硬い表現がなされているのに気付きます。
例えば 寄進者夫妻の顔の表情や 処女マリアの顔や姿です。
寄進者夫妻の姿は 衣装も顔も非常に緻密に描かれはしていますが
顔もその他の部分も 均一な表現がなされ 全てが物質的に描き出されているのが見て取れます。
顔を見てみると そこには「生き活き」した感じは見て取れません。
処女マリアの顔は 生き活きしていないだけではなく 更に 無機質に描かれています。
処女の清純さも 神のお告げを受け取っている神聖さも感じられません。
しかしながら この閉じた面の上段=「受胎告知」の中央部分に相当するところ
(実際に絵を見た場合 裏側の上段の一番左のパネル)に描かれている
真鍮のやかんや皿 そして掛けられているタオルを見てみると
実に真に迫って描かれているのが見て取れます。
これこそ あたかも実際のものを目の前にているかのように描き出す
あるいは 「本物以上に本物らしく」描き出す
フランダース写実主義の極致ともいえる描写がなされています。
しかし 再び 人物の表情に目を戻してみると そこには何か異質なものを感じます。
そもそも なぜ この閉じた面を描いた弟Janヤンは
「受胎告知」の中央部分に 洗面道具を描いたのでしょうか?
これは一つには 中世キリスト教カトリックの基本教義であった
原罪=人間罪の子思想と関わっています。
全ての人が罪を背負ってこの世に生まれ生きており その罪を贖うために生き労働している
という思想ですが
この洗面道具は つまり
人間がその罪を洗い流し 清めなければならないということを象徴させています。

しかし 実際に この絵を見ながら感じることは
これらの洗面道具の真に迫った表現に対しての
人物像の生き活きとしていない あるいは無機質な描き方です。
この描き方から 私たちは 弟Janヤンは 物=物質を描き出すことにこそ関心があり
実際に物を描き出す緻密な目と腕を持っていたことを感じ取れますが しかし
「生き物」あるいは「生命」を描き出すことには関心が無かったのではないだろうか?
という疑問を持ちます。
寄進者Joos Vijdヨース・ファイトの顔を見てみると
非常に緻密な 対象に正確な表現がなされているのが見て取れますが
しかし 生き活きとした感じ あるいは「生命感」というものは描き出されていません。
しかし その緻密な表現によって あるいは物質的な描き方によって
彼の顔からは 「罪の子」としての存在を感じ取ることが出来ます。
この ゲントの市長に相当する役職をも務めた名門の出の彼が
実は 決して高貴な人格を持った人間ではなく
原罪を背負った罪人の一人として 沢山のあやまちを行ってきただけではなく
その心は 決して清らかさや穏やかさや誠実さで満たされているのではなく
欺瞞や嘘や裏切りなどを生きてきたのではないか そして その罪を贖うが為に多額の献金をし
永代供養の代償として このような大作を教会に寄進したのではないか
ということが感じ取れます。

ですから Janヤンは「生命」を描き出すことに興味が無かったとも言えますし
あるいは 人間をカトリックの教義のとおりに「罪の子」として描き出しており
それはつまり 人間を神の創造物としての神聖な存在としてではなく
あるいは「万物の霊長」としての存在ではなく描き出しているとも言えます。
これが 意図してそう描き出されたものなのか それとも 意志では無く
意識として描き出されてしまったものなのかは分かりませんが
いずれにしろ 弟Janヤンの 人間をも物質的な対象として表現した描き方からは
彼が 全てのものを「目に見えているとおりに」表現することのみに興味があり
それに全身全霊を傾けたことが伝わってきますが
ものはなぜ存在しているのか 生命はなぜ存在しているのか という
より根源的なことには興味が無かった あるいは意識が向いていなかったことが窺われます。


しかし それと全く対照的なのが
開いた面の上段の 兄Hubertヒューベルトの描き方です。
これらのパネルに描かれている
父なる神/聖母マリア/洗礼者ヨハネ/天使たち
それら全てが 「生命」として生き活きと描き出されているだけではなく
人物の描き方と 物質の描き方との間に 何の違いも無いことに気付きます。
つまり 描かれている全てのものが
くっきりとはっきりと克明に色鮮やかに描き出されているだけではなく
全てのものが 「存在している生命」として
その存在そのものを生かし あるいは 生命力を発揮している様が描き出されており
ここに表現されているのは
全てのものの「存在している価値」 あるいは「輝き」であり
「生命の煌き」なのが感じ取れます。
これはまさに
全てのものは 神によって創られた被創造物であり
したがって 全て存在しているものには「価値」がある
ということを表しています。
そして そのような 全てのものの神による被創造物としての「存在する価値」と
それら全てに注がれる神の眼差しを表現するためにこそ この絵は
このように全てのものが鮮明に/克明に/色鮮やかに描かれている訳です。


全てのものの「存在する価値」を描き出す・・・それは「人間罪の子」思想から生まれてくるか

この様な兄Hubertヒューベルトの表現は
弟Janヤンの表現とは対照的です。
つまり このような 全てのものの「存在する価値」を描き出すことは
一体 「全ての人間は原罪を背負って生まれ 生きている」という考え方からは
出てくるでしょうか?
「全ての人間が罪人である」ということは 神によって創られた「神聖」さを
人間は持っていないということなのでしょうか?
そのような考え方から この絵に描き出されているような
全ての存在物の「存在している価値」や「神による創造物としての輝き」を
あるいは「生命の煌き」を表現することは可能でしょうか?
上段の 天上界は 神や聖人は
下段の地上界とは違うことを表現する為に このような描き方をしたのでしょうか?
仮にそうだとしても 本当に
「全ての人間は原罪と共に生きている」という考え方から
このような表現が出来るのでしょうか?


Hubertの観念と 表現し伝えたかったもの

私たちが この作品の兄Hubertヒューベルトによる表現から感じ取れるのは
キリスト教カトリックの基本教義「人間罪の子」では無いようです。
なぜならば 彼の描き出したものは
全てが 「神性」さを発揮しているからです。
これは キリスト教カトリックの「人間罪の子」思想よりも
仏教の思想である 「全てのものには仏性が宿っている」という考え方からこそ
出てくるものではないでしょうか。
そのような思想は 仏教だけのものではなく 実は
本来はキリストの教えにはあったものです。
キリストは「神の国は近づいた だから悔い改めよ」と言いました。
けれども キリストは決して「全ての人が生まれながらにして罪人だ」とは言っていません
しかし キリストの死後 彼の教えを基に「キリスト教」というものが始まってからは
段々と キリストの本来の教えから キリスト教の教義は離れていってしまいました。
その一つが 「神の国」を この「地上」に「今」現れるものでは無く
「はるかかなた」の 「いつ現れるのか分からない」ものとしたことです。
そしてもう一つが 「原罪」であり あるいは「転生輪廻(生まれ変わり)」の否定です。
これは キリスト教が 「人間を幸せに導く宗教」から
「人間を管理する機構」へと変わっていく為になされたことです。

けれども
Hubert van Eyckヒューベルト・ファン・エイクがこの作品で表現したかったのは
そして 実際に表現されているものは
「(中世)キリスト教カトリックの教義」ではなく 「キリストの教え」そのものであり
「人間罪の子」ではなく 「人間神の子」であったということが
この作品の前に立ち 観ている今 明白に感じ取れるのではないでしょうか。

この絵には 実に沢山の人物が描き出されていますが
しかし 一体「罪人」は描かれているでしょうか?
この地上(下段)には すでにエデンの園が復活した状態が描き出されています。
地上は 天上界と同じように天国となっている様子が描き出されています。


そのような
「人間は神の被創造物の一つとして創られた 神の子である」ことを表現するためにこそ
上段の 父なる神/聖母マリア/洗礼者ヨハネたちの姿が
見ている私たちと同じ大きさ 等身大に描き出され
それらの存在と私たちとは 同等である ということを表し 私たちに感じさせている訳です。
つまり この作品を観ている 私たち一人一人が
父なる神/聖母マリア/洗礼者ヨハネ/天使たちと同じ場所=天上界から
この地上へと生まれて来たのであり
それは この地上を天国にするためであることを
この開いた面では表現しているということです。
これこそが Hubert van Eyckヒューベルト・ファン・エイクが
この作品を通して人々に伝えたかったことであり 人々に分かち合いたかったことであり
それを表現するためにこそ 発明されたばかりの油絵の具の可能性を最大限に発揮した
極めて完成度の高い表現となっているのであり
この作品をこのように完成度の高いものとしているのは 決して
作者の「美しい絵を描きたい」とか「素晴らしい作品を生み出したい」という思いでは無く
「キリストの教え」そのものの真実を 人間の存在の本当の意味を
絵画として表現し 人々に伝えたい という意志の強さ あるいは信念の強さであり
それが 彼の 真実を/本質を観る目と描き出す手=彼の悟りの高さであった
ということが
今 この絵の前に立っている私たちに この作品から浴びせられている
圧倒的なエネルギーによって 体感できるのではないでしょうか。


神からの問いかけ

父なる神その他の天上界の存在が 上の段に描かれていることは
地上の上の天上界にいるということで当然のことかと思われます。
しかし なぜこの高さなのでしょうか。
この絵は祭壇画です。
この絵の前で跪いて合掌して祈ります。
その時に 父なる神は祈る人の上方45度の角度に見えることになります。
目線を45度上に向けると 脳波はアルファー波になり易くなります。
ということは瞑想状態に入り易くなります。
その状態で父なる神を見上げ祈ることには 一つの大事な目的があるようです。
私たち人間は 多くの場合
「自分自身」というものを基準にして
物事を判断したり 感じたり 考えたりしています。
しかし この「自分自身を基準にする」ということをしている限りは
人間は成長しません。
「自分自身を基準にする」ということは
足を前に出さずに その場で足踏みしているだけのことです。
ではどうしたら人間は成長するのでしょうか?
足を前に出してこそ前進します。
つまり どちらの方向に行くのかを意識するということです。
そのためには 目標というものが必要です。
この絵に描き出されている その目標とは
すなわち 天上界の存在です。
しかし それは決して私たちから遠く隔たった存在ということではなく
「私たち自身の本来の姿」なのです。
その「私たち自身の本来の姿」を上方に見つめつつ祈ることで
私たちは成長の目標や方向性を明確に意識できるのです。

上段中央に描かれている人物像が 「父なる神」か「キリスト」かは
長年にわたって学者たちによって議論されてきました。
(しかし既述したように 学者の考え方は「前例」や「慣習」や「技術」を基本としたものであって
「なぜ芸術家がものを創造し表現するのか
その表現を通して何を人々に伝えようとしたのか」という
芸術(=創造行為)の根源を捉えていることはまずありません。)

「父なる神」の姿には イエス・キリストの姿が重なり合っています。
イエス・キリストを通して 神の思いを地上に伝えたということが
これによって表現されています。
イエス・キリストが 神の思いをこの地上で体現したことが表現されています。
そして 私たち誰もが それと同じ事をしにこの地上に生まれてきたのです。
この点からも この絵がキリストを「神の一人子」として
その他の人間とは全く違う存在だとしてきたキリスト教カトリックの教えにそぐわないものであることが明らかです。
この「父なる神」=「イエス・キリスト」は 私たちの本来の姿=理想の姿として描き出されています。
そして それと同時に この天上界の父なる神は 私たちに問うているのです。
「神の思いを受け取りましたか?」と。
父なる神は 私たちを裁くためにそこに居るのではありません。
私たちを「罪人」として咎めるためにそこに居るのではありません。
私たちは この絵の前で 神に問われているのです。
「神の子としてこの地上を素晴らしいものにするために生まれてきた
それを自覚し 実行しますか?」と。

この問いを受け止め それに答えることこそが
この絵に出合った本当の意義になるのではないでしょうか。


☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆

別の表現をすると この絵は「反カトリック絵画」であるということになります。
カトリックの教えに対して疑問を投じ
あるいは 反論しているわけです。

もう一つ この絵が「反カトリック絵画」であると思える点があります。
上段の音楽を奏でている天使たちです。
西洋の宗教画では 天使は中性に描かれるのが慣習でした。
(大天使ガブリエルの姿にそれが現われています。)
肉体の無いあの世では 全ての存在は中性なのです。
ところがこの絵では 音楽を奏でている天使たちは 誰もが女性の姿です。
カトリックは「男尊女卑」の宗教でしたので
聖職者は男性しかなれず 教会の中では女性が音楽を奏でることも禁じられていました。
しかし ここで音楽を奏でているの女性たちです。
これは カトリックの「男尊女卑」に対する問いかけともなっているわけです。

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参考:

「ユダの福音書」
1970年にエジプトで発見され 幾多の紆余曲折を経て 2006年に英訳出版された
(いわゆる)裏切り者ユダによる福音書。
これにより 実は彼が12使徒の中で最も優れ キリストに信頼されていたことや
「ユダの裏切り」はキリストが命じた芝居であったことが明らかになりました。
この福音書には 新約聖書には無い キリストと弟子との対話の形で
キリストの思想が明かされています。


「トマスによる福音書」
1945年に発見された「ナグ・ハマディ文書」の一部。
12使徒の一人 トマスによるイエスの言葉の記録。


「(マグダラの)マリアによる福音書」
1897年にカイロの骨董商から売りに出され初めて日の目をみた5世紀のパピルス写本。
非常に短いものでありながら
12使徒よりも優れたキリストの弟子であ(りそれゆえに彼の妻とな)ったマグダラのマリアが記した
キリストの死後の出来事。
これにより キリストの霊的な思想が明かされています。


「グノーシス」
初期キリスト教の一派グノーシス派の のちに
新約聖書およびキリスト教教義から削除・抹殺された
霊性を基本とした思想。


これらを通して 四世紀後半のキリスト教の成立によって
キリストの教えがいかに歪められ その真実が伝わっていないかを知ることができます。



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付記

1)この絵はゴチック様式でしょうか?
~ アーチは全てローマ風半円アーチ ~

建築で始まったゴチック様式の特色のひとつが
アーチを 尖角にしたことが挙げられます。
しかし この絵では 全てのアーチは(ローマ風)半円形アーチに描かれています。
(唯一の例外は 室内洗面の面ですが この面は兄Hubertヒューベルトの構想とは違って
弟Janヤンが書き換えたものです。
このことから 弟Janヤンは 兄Hubertヒューベルトの思念をどこまで理解していたのかが問われます。)

半円形アーチはロマネスク様式の特徴です。
ゴチック様式のすぐ前のロマネスク(=ローマ風)様式は「円」を基本とした構図をとりました。
なぜこの絵では ゴチック様式の尖角アーチではなく
ロマネスク様式の半円アーチが使われているのでしょうか?

これは この絵の全体を見てみれば意味が分かります。
ゴチック様式の尖角アーチは この地上から天に向かった矢印です。
それはすなわち 「この地上と天とは離れている」という前提でのものです。
しかし この絵では天上界と地上とはひと繋がりであり一体なのです。
これよりも更に上に行く必要はありません。
この中で完結している それは「円」」です。すなわちロマネスクです。

ただし 上段中央の三枚の画面の背景は ビザンチン・アーチです。
これは 父なる神の顔が 非西洋人的に アラブ系にも見えるように描かれていることと関係しているのでしょうか。


2)エネルギーの動きの方向性~配置
~ なぜ(開面上段の)聖母マリアが左側 ヨハネが右側なのか ~

開面上段を見ると 一番上は 旧約聖書のカインとアベル兄弟の話しが描かれていますが
左端が 兄弟が神に収穫と生贄を捧げている様子
右端が 兄カインが弟アベルを殺す様子です。
ですから 時系列でいうと左が先で右が後です。

この配置は当然のことです。なぜならば 時間は左から右に流れているからです。
左が先で右が後なのです。
(横書きの文章や楽譜が 左から右への流れになっているのはこれが理由です。)

その下の アダムとイヴですが
アダムが左端 イヴが右端です。つまり 男が左で 女が右です。
時間の流れが左から右だということは すなわち エネルギーの流れが左から右なのです。
左が男性 右が女性ということは 男性から女性へとエネルギーが流れているということです。
男性の精子が女性に入り 女性から子供が出て行きます。
ですから 左がアダム=男性 右がイヴ=女性というのも
エネルギーの流れに則ったものとなっています。

しかし それなのにどうして真中の三面は 左に聖母マリア 右に洗礼者ヨハネなのでしょうか?
これもまた当然のことです。
ここまでは この絵を見ている私たちにとっての左右でした。
しかし 絵の中の配置では 中央の父なる神にとっての左右ですから
父なる神の左側にヨハネ=男性 右側に聖母マリア=女性となります。
これもまたエネルギーの流れに則ったものとなっています。

下段を見ると 中央の画面の上半分では 聖者たち=男性が左に 聖女たち=女性が右に配置され
画面の下半分では キリスト以前の人々が泉の左側に キリスト以後の人々は右側に配置されています。
これらも 左から右というエネルギーの流れに則ったものとなっています。

しかし この絵の全ての画面を良く見てみると どの画面においても
光が右上から入ってくるように陰が描かれています。
本来は 時間の流れが左から右ですから 光も左から差し込んでいるように描くのが理に適っているはずです。
これは この絵が置かれた場所が理由になっています。
この絵の置かれた聖ヨハネ教会の中のファイト礼拝室は 窓が南側でした。
祭壇は 東向きですので その祭壇に掲げるこの絵は 絵の右側が窓になります。
この配置は変えようがありません。
ですので 全ての画面において光は右から差し込んできるのですけれども
これはそもそもの作者Hubertヒューベルトにとっては とても残念なことだったのではないかと思われます。


3)エネルギーの動きの方向性~構図
~ なぜ(開面の)上段では縦の線を基本とした構図なのに 下段では横の線を基本とした構図なのか ~

開いた面を見てみますと 上段は縦の線が基本となった構図です。
立っている人物像 オルガンの縦のパイプ そして腰掛けている姿でも三角形よりも縦の線が目立っています。
中央三つの画面は その全体(聖母マリア+父なる神+洗礼者ヨハネ)で
三角形というよりも 半円形アーチの構図になっています。

それに対して 下段は全ての人物が立っている姿ではあっても
全体としては横の線が目立つ構図となっています。

これによって 下段=地上課の存在たちが あたかも天界へと意識を向けずに
地上界だけで完結しているかのような雰囲気が表現されています。
それに対して上段の存在たちは そういう地上を見守っているかのように
傘が下段=地上界を覆っているかのような構図になっています。

天上界の存在たちの思いは 天上界と地上界との全てに満たされているのです。
つまり「存在している全てのものが 生き活きと美しく素晴らしく生きてほしい」という
その思いが 宇宙全体に満ちているということを表しています。
(それを「宇宙意識」と言います。)
下段の地上の人々は 天界へと意識を向けていないようですけれども
あえて「天界と地上界」というように分けて認識し 地上とは離れた天に意識を向けるのではなく
天界も地上界も全てが一体であって その中で一人ひとりが
天の思いを自らの思いとして生きている様子が表現されています。
そしてそれによって この地上にエデンの園が復活した 地上天国が実現したことが
表現されているのです。


~ なぜ(開面下段中央の)羊を取り囲む天使たちは 円の構図なのか ~
~ 開面下段中央の構図は何を表しているのか ~

下段中央の画面は 
子羊を取り囲む天使たちは 円の構図になっています。
そして 画面全体では 子羊とそれを取り囲む天使たちを中心とした十字の構図となっています。

これらは何を意味しているのでしょうか?
そもそも 十字架の形=十字というのは何を表しているのかというと
縦の棒は 地と天とを結ぶ 縦方向のエネルギーの流れ
横の棒は この地上に生きている(人間を含めた)生命の繋がりのエネルギーの流れです。
しかし 地上で生きている私たちは 横のエネルギーの動きは認識してはいても
縦のエネルギーの流れ(=天との繋がり)を意識していません。
ですから 縦と横とのエネルギーの流れの中に生きているということを
思い出せるようにというのが 十字の意味です。

この絵の開面下段では 五つの画面全体では横の線が目立っていますけれども
中央の画面では真中の天使たちは円の構図 そしてそこを中心とした十字の構図が見て取れます。
これによって 上段の父なる神からのエネルギーが地上界の子羊(=キリスト)に降ろされ
そこから左右へ=地上界全体へと そのエネルギーが広がっていく流れが表現されています。
そして地上の全ての人は 中央の子羊の方向を向いています。
これによって 地上での横のエネルギーの流れも 相互の方向として表現されています。
そして この地上の中心は 子羊=キリストであることが
それを取り囲む天使たちの円の構図で表現されています。
ここが「魂」なのです。
魂というのは「玉響(たまゆら)」ともいわれるように 球体として認識されています。

そして この絵ではイエス・キリストの姿がはっきりと描かれていません。
イエス・キリストというのは「キリスト意識を持ったイエス」ということであって
イエス=キリストではないということを表現したいからだと思われます。
「キリスト意識」というのは 人間は肉体だけの存在では無く 
肉体をもった存在として何度もこの地上に生まれ変わる
可視と不可視とを含めた 宇宙のエネルギーと一体となったエネルギーの集合体であり
宇宙の一部分である ということを認識し
肉体に縛られない生き方を実践している意識のことです。

イエス・キリストは 彼自身を皆に崇めてほしかったのでしょうか?
そうではありません。誰もがキリスト意識で生きてほしいと思って それを伝えたのです。
しかし カトリックはそういうイエス・キリスト自身の思いは未視して
「キリストだけが神の一人子」であるとして 彼を崇めました。
これは イエスの思いとは違っていることを そして
地上の人間は キリスト意識に心を向けるように 心の中心に置くように
ということが表現されているようです。


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この項には 更に
1)神聖幾何学の観点から
2)この絵に秘められた暗号
3)「正義の裁き人たち」の盗難
が加筆される予定です



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