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Het lam Gods

『神の子羊(の礼拝)

1934年の盗難事件

《幸也の世界へようこそ》《幸也の書庫》《絵画を見る目・感じる心》 → 《神の子羊(の礼拝)》



【時系列】【関係者の証言】【推理/憶測/背景】【関係者一覧】

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1934/4/10(火)
19時に聖バーヴォ大聖堂が閉扉。(その前日までは17時。4/8に夏時間になったために この日から閉扉時間が変わる。)
19時31分日没。天気予報によると この日の天気は曇り/にわか雨の可能性あり。

1934/4/11 5:30
大聖堂の下級雑用係オスカー・ファン・ブシュ―トゥが 大聖堂の広場に面した右側の扉から中に入ろうとすると 近くの修道院に暮らし 毎日礼拝に出席しているマリー・デ・ファイスト婦人が出て来た。「どうやって扉を開けたんだろう?」と思うが 言葉を交わさずに去っていく。
(マリー・デ・ファイストの証言)「水曜日の朝5時半の礼拝のためにバーヴォ教会に行き 横のLimburgstraatに面した扉が開いていたので そこから中に入った。」
しばらくしてから ファン・ブシュ―トゥの上司の教会雑用係りエクトー・ルイ・ファン・フォルセムが到着。二人で教会内を見廻ったが ファイト礼拝室の扉もしっかりと閉まっており 何らの異常も確認せず。
七時半ごろ オスカー・ファン・ブシュ―トゥはファイト礼拝室の扉を開け 祭壇画の幕を引き上げると 「洗礼者ヨハネ」(その裏が「正義の裁き人たち」)の板面が無くなっているのを発見。
すぐにファン・フォルセムに伝え 司教区参事会員ファン・デン・ゲインに連絡する。
15分後に ファン・デン・ゲインと ゲント警察のパテイン警視Commissaris Patijnが到着し 8:34に盗難を確認する。
パテインは検察官に通報し ゲント司法警察長官のアントワーヌ・ライステルブルグAntoine Luysterbourgh検事に事件を託し 検事の元 司法警察で捜査班が結成される。
しかし ラジオであっという間に盗難の話しが広まり 野次馬が殺到したため ライステルブルグ検事は現場検証を午後に回し 近くのチーズ店で前夜起きた強盗事件の検証に行く。
(このチーズ店に盗みに入った犯人は その後大聖堂近くで細長い板状のものを車に積み込む二人の男を見ている。しかし 警察によって証言が取られたのは事件の14年後の1947年。)

犯人が 施錠されていた大聖堂内にどうやって入ったのかは不明。
犯人が 施錠されていた礼拝室内にどうやって入ったのかは不明。
祭壇画の一番左下の(「正義の裁き人たち」と「洗礼者ヨハネ」が表裏一体になっている)板が 上の板と金具で連結されている その二つの止め具が外されていた。
しかし 床から3mの高さのその金具を外すのに 何に乗ったのかは不明。
(現場検証の結果)祭壇には足跡が無いので上がっていないと思われる。
額縁を緩め 板を額縁から上にずらして外された。
これらの作業をするには 最低二人が必要だと思われる。
絵がどのように固定されているのかを知っておき 作業手順と工具の用意をするために 下調べがされている。
なぜ警察が現場検証を(マスコミで報道される前にせずに)午後に回したのか 本当の理由は不明


これ以後 ラジオ/新聞/壁新聞の報道により証言が続々と警察に届けられる。
①閉扉時間後に大聖堂内に照明が付いているのを見た。
②大聖堂近くで シボレーに大きな板を載せようとしている二人の男を見た。
③大聖堂近くで なかなかエンジンがかからない車を夜中に見た。

1934/4/24
下記タイプライターの借用代金に当てるためと思われる金額が アルセーン・グーデルティールの銀行口座から引き落とされる。

1934/4/28(土曜日
大聖堂から数百メートル離れた所にあるVlaanderenstraat 38の事務用品店ユレールUreelにて 「シント・ニクラースに住むファン・ダンメvan Damme」と名乗る男が 製造番号668822の暗赤色のロイヤル・ポータブル・タイプライター1926年モデルを借りる。 保証金として自発的に1500フランを払ったので 身分証明書や住所を確かめずに貸し出す。
(12月になってから聴取された店員の証言は下の【関係者の証言】をご覧下さい。)

1934/5/1(火曜日
聖バーヴォ大聖堂(ゲント司教区)のコッピーテルス司教宛に 「D.U.A.」との名入りのフランス語の手紙が届く。(4/30の消印。アントワープ12 左岸で投函。)
百万フランの解決金を要求。回答は新聞広告に載せるように指示。司教は支払いに応じようとするが 法務大臣/国王検察官ポール=エミール・ヤンソンによって認められず。
祭壇画は大聖堂の所有ではあるが 国宝なので国の権限の方が上回るという主張により これ以後全ての(司教からの)犯人への回答は ゲント国王検察官フランツ・デヘームによって書かれる。(ただし 犯人はこれを知らない。)
(ドイツ軍によるフランツ・デヘームへの聴取は 下の【関係者の証言】をご覧下さい。)

1934/5/19(土曜日)
二通目の手紙が 12時~13時の間に ブリュッセル1で投函される。

1934/5/28(月曜日)
午前八時 ブリュッセル北駅の荷物預かり所に細長い板が預けられる。
そこで発行された預かり証(預かり証番号8178)を同封した三通目の手紙が その場から発送される。

1934/5/29(火曜日)
手紙に同封されていた預り証により ブリュッセル北駅の荷物預かり所から 「洗礼者ヨハネ」の画面が回収される。
絵画用の蝋紙にくるまれ 黒い布で覆われ 白い紐で縛られていた。
荷物預かり所の係員アレクシー・ピュイソンによると 預けに来たのは「顎鬚と口髭を生やした 五十歳くらいの男性」。
(警察によるアレクシー・ピュイソンへの聴取は 下の【証言】をご覧下さい。)

エレーヌ・クリスティアーンス(二年半の間グーデルティール家に勤めていた家政婦)の1935/6/1警察による聴取での証言。
「1934年5月末のある日の午後 グーデルティール氏が自宅の作業場で服(袋)を作っているのに気付きました。 作業台の上に服(袋)と 黒い?紙で包んだ細長く幅は広くない板状のものと 新しいと思われる白い紐がのっていました。 グーデルティール氏は私を見ると 荒々しく扉を閉めました。これまでそのようなことをしたことが無かったので意外に思いました。 やがてグーデルティール氏は車で出かけていきました。」

1934/5/31(木曜日)
午後五時から六時の間にアントワープ6で第四の手紙が投函される。

1934/6/4(月曜日)
第五の手紙がアントワープ近郊のウィルレイクで19時~20時の間に投函される。

1934/6/6(水曜日)
司法大臣ポール=エミール・ヤンソンの元で ゲント国王検察官フランツ・デヘームと検察総監エヨワー・デ・テルミクールと共に作戦会議が開かれる。 祭壇画の回収を最優先に 犯人の逮捕はそれに次ぐとされる。

1034/6/9(金曜日)
アントワープの聖ローレンティウス教会Sint-Laurentiuskerkのアンリ・ムレパス司祭に解決金を渡すように との第四の手紙の指示に従い ゲント司法警察長官アントワーヌ・ライステルブルグは司祭に手紙とニ万五千フラン入りの封筒を預ける。

1934/6/9(土曜日)
六通目の手紙が ブリュッセル1で19時~20時の間に投函される。

1934/6/14(木曜日)
アントワープの聖ローレンティウス教会Sint-Laurentiuskerkの司祭館に来たタクシー運転手は 司教宛の手紙に入っていた破かれた新聞と合致する切れ端を持ってくる。
タクシー運転手に解決金の一部二万五千フランが入った封筒が渡される。
車中に 金縁眼鏡をかけた男が居るのが目撃される。

1934/6/18(月曜日)
七通目の手紙が ブリュッセル1で19時~20時の間に投函される。
要求した百万フランの内ニ万五千フランしか手に入れられ無かった犯人は激怒。
この後 数回の手紙のやり取りで膠着状態になり進展無し。

1934/7/5(木曜日)
八通目の手紙が ブリュッセル1で20時~21時の間に投函される。
犯人は 解決金を半額の五十万フランに減額。

1934/7/23(月曜日)
ゲント1で第九通目の手紙が投函される。

1934/8/2(木曜日)
第十通目の手紙が ブリュッセル1で16時~17時の間に投函される。

1934/9/7(金曜日)
第十一通目の手紙が ブリュッセル1で20時~21時の間に投函される。
唯一の 署名無しの手紙。

1934/9/20(木曜日)
第十二通目の手紙が ブリュッセル1で20時~21時の間に投函される。

1934/10/1(月曜日)
犯人から司教宛の(最後となる)十三通目の手紙がブリュッセル1で19時~20時の間に投函される。

1934/10/10(水曜日)
ゲントのシント・ピーテルス駅の荷物預かり所に 上記タイプライターが預けられる。

1934/11/25(日曜日)
デンデルモンデにて開かれたキリスト教同盟党の集会に参加し演説した(同党の共済組合「協力」の共同設立者であり会長でもあった)アルセーン・グーデルティールが 演説の後会場から出て行き 近くの運転手レヌスの家で休む。
数人が会場にいた医師(ヴェッテレン出身のロマン・デ・コック)を呼びに行く。
本人の意思で 近くで宝石店を経営する義弟(エルネスト・ファン・デン・ドゥルペル)の家にデ・コックの自動車で運ばれる。
「急性心不全」と診断される。サロンの床に敷いたマットレスに寝かされ 息も絶え絶えとなったグーデルティールは 医師に「本当に悪いですか?」と訊ねると  「いいえ」「でも安静にしていた方が良い。」「他に何か聞きたいことや言いたいことはありますか?」 グーデルティールは(死期を悟ったのか)「司祭を呼んで欲しい」とたのむ。
そこへ 同じ集会に参加していた友人の弁護士ヨーリス(ジョルジュ)・デ・フォスが到着。 その時 医師ロマン・デ・コックと義弟とグーデルティールの友人とが同席していた。 グーデルティールはデ・フォスの姿を見ると「彼で大丈夫だ」と言った。 (告解をする=秘密を打ち明けるのが司祭ではなく彼でも大丈夫 という意味らしい。)
グーデルティールはデ・フォスに近づくように頼み 他の者を立ち去らせた。グーデルティールはささやいた。 「司祭を頼んだのですが 私の良心は安らかです。 聞いてください。私だけが『神の子羊』の有り場所を知っています。」
デ・フォスは唖然としたが すぐに友人が「正義の裁き人」の消えた画面のことを話しているのだと理解した。
「私だけが知っている」とアルセーン氏は再び嘯いた。 「この事件の全てに関する書類は 私の小さな書斎の机の右にある引き出しの中に 『健康保険』と書かれた封筒に入っているのを見つけられるはずだ......」。
義弟の宝石店の斜向かいにあるデンデルモンデのベネディクト会修道院のリベルトゥス神父が到着し  部屋に入ると デ・フォスは別の部屋に行ったが 神父がグーデルティールの枕元に跪こうとすると  グーデルティールは「弁護士 弁護士を呼んでくれ」と言ったのでリベルトゥス神父は再びデ・フォスを呼びに行った。
グーデルティールは再びデ・フォスに囁く。 「これで 君はファイルのありかを知っている...そして」 ここで言葉が途切れ グーデルティールの容態が悪化したため デ・フォスは再び医師とリベルトゥス神父を呼び リベルトゥス神父は死者に赦免を与えた。
(ドイツ軍による弁護士/医師/神父/義弟への聴取は 下の【関係者の証言】をご覧下さい。)

1934/11/29(木曜日)
早朝に グーデルティールのいとこである(その後 事件の当事者の一人だと疑われた)アヒール・デ・スワーフが脳溢血で死去。
アルセーン・グーデルティールの葬儀がウェッテレンの聖ゲルトルディス教会で執り行われる。 ヴェルナー・ティバウ男爵国務大臣/ヨゼフ・デュ・シャトー市長/幾人かの司祭が弔辞を述べる。

1934/11/30(金曜日)
ジョルジュ・デ・フォスが未亡人を訪問。グーデルティールの書斎で「健康保険」と書かれたがファイルを見付ける。
中から 司教宛の13通の手紙と未発送の一通の手紙のカーボンコピーが出てくる。その他 (暗号らしき)数字を並べたメモ。何かの見取り図か設計図。三つの鍵。
財布の中からゲントのシント・ピーテルス駅の荷物預かり所の預り証が出てくる。「これで絵が見つかった!」と思う。
(後にデ・フォスは書斎で見つかったものを地方裁判所に渡したが 地方裁判所はこの件を秘密にすることを決定した。)

1934/11/30(金曜日)
グーデルティールの秘密を知ったジョルジュ・デ・フォスは デンデルモンデ第一審裁判所長官(としての地位と影響力を持つ)ヨゼフ・ファン・ギンデルアハターに助言と協力を頼む。書斎で見つかったものを彼に見せる。 二人は 間近に迫った選挙でのキリスト教同盟党への影響を考慮して グーデルティールの名を警察へは届け出ないことにする。
ファン・ギンデルアハターは ミシェル・デ・ハールネ騎士(ゲント控訴院院長)と、テオドール・ファン・エレウィック騎士(法務総監/検察官)に協力を依頼する。 

1934/12/10までに
書斎で見つかったものがアントワーヌ・ライステルブルグに知らされる。
ゲントのシント・ピーテルス駅の荷物預かり所から タイプライターが回収される。犯人からの手紙に使われていたものと断定される。

1935/2/9
アルセーン・グーデルティールの外国為替代理店は破産宣告を受け リュステルボルフはそれ以降 主に犯人と疑われる人物の金銭的動機と (グーデルティールが設立し経営していた)プランテックス・セル社が主軸であったであろう詐欺の可能性に焦点を当てる。 その後 外国為替代理店の財務上の問題は主に世界的経済恐慌による経済危機に起因するもので 当初想定されていたほど大きなものではなかったことが判明する。

1935/3/5(火曜日)
(その後 事件の当事者の一人だと疑われた)グーデルティールの元義弟オスカー・フランソワ・ジョセフ・リーヴァンスが死体で発見される。 自宅で 電話の受話器を握ったまま倒れており 死後数日経過していた様子。
これで当事者だと疑われた三人全員死亡。

1935/5/9(木曜日)
ゲント国王検察官フランツ・デヘームの名において 盗難の犯人が見つかったと(名を伏せて)発表される。

1935/5/12(日曜日)
新聞がアルセーン・グーデルティールの名を公表したため 警察はグーデルティールが事件と関わっていたことを初めて発表。

1936/5/2
アルセーンの長男で唯一の子供アデマールが13歳で死去。そもそも病弱であった上に 父が盗難事件と関わっているということで 学校でいじめにあった心労も関係していると思われる。
死の床で朦朧としながら「警察・・・泥棒・・・警察・・・泥棒・・・」と呻いていたとされる。

1937/3/2
主容疑者の死により 刑事責任の追及は出来ないとして 捜査が打ち切られる。

1939/12/15
盗まれた「正義の裁き人たち」の複製が制作されることが発表される。

1940/5/11
前日のドイツ軍侵攻を受けて 聖バーヴォ大聖堂から「神の子羊」の絵が取り外され 隠される。

1940/6/24(月曜日)~1943/9/17(金曜日)
ドイツの美術品保護部門顧問のヘンリー・ケーン上級中尉Henry Koehnが 宣伝相ゲーリンクの命を受け調査に乗り出す。 存命の関係者への事情聴取と 各地での検証が(いずれもベルギー警察よりも徹底して)行われる。
しかし 絵の隠し場所に関する手がかりは得られず。(ケーンの報告書は下記をご覧下さい。)

1942/11/4(水曜日)
11/2の夜に 弁護士で上院議員のヨーリス(ジョルジュ)・デ・フォスが ゲントの映画館の座席で意識を失っているのが見つかり 自宅へと運ばれるが二日後に死去。心臓発作と思われる。

1943/12/18(土曜日)
グーデルティール未亡人ジュリエンヌ・ミヌが シント・ニコラースの自宅で死去。

1944/3/13(月曜日)
1936/9/3付けのジュリエンヌ・ミヌの遺言状により 司教から払われた二万五千フランが(アルセーンのいとこ)アンリ・グーデルティール神父によって教区に返される。

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【関係者の証言】

【ヘクトール・ファン・フォルセム(聖バーヴォ大聖堂雑用係)の証言】1942/8/20 ケーンによる
「盗難の前の時期には グーデルティールの姿を大聖堂の中でも ファイト礼拝室でもしばしば見受けました。しかし 盗難事件の後では 見ていないように思います。」
「しかし もうずいぶん前のことなので グーデルティールが来ていたのが一体どの日なのかはもう分かりません。」

【ジェルマン・ローメン(携帯用タイプライターを貸し出した店員)の証言】1934/12/17
「34年4月28日、私はユレールUreelの店で 1ヶ月間携帯用タイプライターを借りたいという個人の訪問を受けました。時折ユレール社は機械を貸し出していました。 前述の日 私たちはまさにあなたが私に説明してくれた携帯用機材を所有していました。それ以前に貸し出していた人が 新しい機材を買って返却したのが丁度あったのです。 ユレール社のヴァンデルドンクト代表が指摘してくれるでしょう。ゲントに本社を置く有限会社だったと思います。
この機械を前述の個人に託す前に 私は彼にキーボードを知っているかどうか尋ねました。 しかし彼は キーボードは重要では無く 1ヶ月携帯用機材を所有したいだけだと答えました。機材の返却の担保として この個人は1,500フランの保証金を自発的に私に手渡しました。 この安全策で十分だったので 私はこの客の身分証明書を要求しませんでした。ヴァン・ダムと名乗り デンデルモンデに住んでいると言いました。私は彼に住所を訊ねませんでした。」
「貸し出し期間が満了しても いわゆるヴァン・ダム氏は機材を返却しませでした。 私はこのことをユレール氏に伝えましたが ユレール氏は1500フランの保証金で十二分にカバーしていたため 心配はしていなかったと私は思います 。私がユレール社を去るとき その機材はまだ返却されていませんでした。」
「私はそのヴァン・ダムという人物を正確に説明することはできません。彼は中肉中背で 30~40歳のように見えました。ちなみに 彼は多くを語りませんでした。 私たちの会話は数分しか続きませんでした。」
(この証言はフランス語で語られているので オランダ語のファン・ダンメVan Dammeの名を「ヴァン・ダム」と発音している。)

【アレクシー・プイゾン(ブリュッセル北駅の荷物預り所係員)の証言】5/30の警察による聴取
「月曜日の朝八時ごろ、手荷物預かり所で仕事をしていると あなたの言っている荷物を受け取りました。その荷物は1m50x60の板状で黒い布で覆われていました。
その荷物は個人によって預けられたもので その人の特徴は 50歳くらい/小柄/中肉/黒髪/山羊髭と灰色のとがらせた口髭/きちんとした身なりで フランス語を話しました。
預かる時に 中身が何か訊くと 板だと言われました。その荷物に触ってみると 中で更に何かに包まれているようでした。 それが絵ではないかと訊くと(なぜならば 貴重品を預かる場合には別の規則があるからです)「板だ」と繰り返しました。
私はそれを荷物置き場の八列目に運び 立てて置きました。
昨日29日の10時から11時の間に 私服を着た人に付き添われた神父にその荷物を渡しました。その二人で気づいたのは そのどちらも預けに来た人では無いということです。 彼らはタクシーで来て 道路に面した窓口で受け取りました。
預けた人の特徴で 更に役立ちそうな情報は何もありません。その人のことをそれ以前に見たことはありませんでした。 それに私は6時から14時の間たくさんの荷物を扱っていますから。」

【同上アレクシー・プイソンの証言】1942/6/19ケーンによる聴取
「板を持ってきた人は 中肉中背で 背は低くもなく高くも無く 1.68mくらい 丸顔で 黒または濃い灰色の山羊髭と口髭で 眼鏡は無し 黒い丸帽をかぶっていました。」

【フランツ・デヘーム(ゲント国王検察官)の証言】1941/6/24 ケーンによる聴取
「私の考えでは グーデルティールが全てを一人でやったのだと思います。盗むのも 北駅に持って行くのも。」
「司教宛の手紙への返信は 全て私のものです。私は実際に以前は司教だったのです。」
「私は解決金の五十万フランを払っても良いと思っていました。しかしそれは犯人が絵を返してからです。全てはもうすぐ解決しそうだったのですが グーデルティールが突然死んでしまったのです。」

【ヴァレル・グーデルティール(末弟)の証言】1942/8/30 ケーンによる聴取
窃盗と兄の共犯に対する彼の態度は極めて客観的である。彼はこの事件でずっと苦しんできたし、今も苦しんでいる。 彼はいまだに事件のことで頭がいっぱいなのだ。彼が望んだのは盗難事件が解決すること つまり絵が見つかることだった。
個人的にはアルセーヌと非常に仲が良く アルセーヌからは「broedertje(弟ちゃん)」と呼ばれていた。 唯一残された兄弟として また客観的な人間として V.G.はおそらくAの性質と性格を知る最良の証人であろう。 G.夫人は これほど明確で多彩な人物像を描き出すことはできない。
V.G.から得た情報は これまで私が得た中で最も丸みを帯びたアルセーヌの人物像を与えてくれた。 それによると A.G.は善良で博愛主義者であった。彼は質素に暮らし タバコも酒もやらず 旅行もしなかった。 彼は自分のためにお金を必要としなかった。1934年当時 彼はお金に困っていなかった。
盗難の翌日 1934年4月11日 V.G.はアルセーヌの家にいた。G.夫人の面前で「盗まれた絵はドイツではなく聖バーヴォ教会で探すべきだ」とA.が言うのを聞いた。 Aはその時こう言った。「8日以内に見つける。」 V.G.は捜索に加わることを申し出たが Aはそれを望んでいないと言った。
アヒール・デ・スワーフがこの件に関係している可能性はあるかと尋ねると V.G.はこう答えた。「A.d.S.は彼のいとこでした。 A.はA.d.S.について 彼は信用できないと私に言った。だから 一緒に仕事をしているはずがない。」
私はV.G.にA.G.の13通の手紙と最後の未送信の手紙を読ませた。読み終わると 彼は 私が尋ねる前にこう言った。 「これは彼の書いたものです。これは 彼の書き方であり 彼のスタイルです。」
V.G.はA.が泥棒を突き止めたと考えている。どうやったのかはわからない。V.G.は 解決のためにAは手を貸したと考えている。 そして 彼がブリュッセルの北駅で洗礼者ヨハネを預け 手紙を投函したのだ。A.G.自身が盗むために昼過ぎから大聖堂内に留まっていたのではないかと問うと V.G.はこう答えた。 「いや 彼はそんなことはしない。そんなことをするには 彼はあまりに賢く慎重すぎる。もし見つかっていたらどうなっていただろう?」

【エルネスト・ファン・デン・ドゥルペル(義弟)の証言】1946/6/16 ファン・ライステンボルグによる聴取(「神の子羊」の盗難と同じ夜に起きたチーズ店の窃盗事件の犯人セザール・アールキュスが1947年に司法取引に応じて「ファン・デン・ドゥルペルの家の地下の煉瓦の下に絵が隠されている」と証言したのを受けての聴取)
「Gはここで 私に 何かを預けたり 何かを隠したりしたことはありません。私はあの事件に関して Gの死後に知った以上のことは知りません。ここの地下には何もありません。」
「Gは私の義理の兄でした。私の妻 彼の妹 イザベラIsabelaは1921年に亡くなりました。」
「Gが亡くなったのは ここの家ア 私の家です。かれはデンデルモンでの学校での集会中に一種の脳卒中を起こして その後私の家に運ばれ そして約30分後に亡くなりました。 彼は 困難ではあってもまだ話すことができました。私は先ずコップ一杯のポートワインを飲ませました。 『ゆっくり飲まないと』と彼は言いました。『ゆっくり胃に入れないと。』と。」
「そして彼は『宗教上のことではなく 打ち明けることがある』と言いました。 私の友人でもある弁護士のデ・ファスが入ってきて Gは『神の子羊がどこにあるのか知っているのは私だけだ』と言いました。 それが彼の最後の言葉でした。その直後 Gが亡くなってからデンデルモンでのベネディクト修道院のリュベルトゥス新婦が到着しました。」
「Gがここに来ることはほとんどありませんでした。年に一ニ度です。私は彼とはそれほど関わっていませんでした。」

【エルネスト・ファン・デン・ドゥルペル(義弟)の証言】1942/8/30 ケーンによる聴取


【ロマン・デ・コック医師の証言】1941/7/20 ケーンによる聴取
1934年11月25日日曜日 ヴェッテレン出身のアルセーヌ・ゲデルティエは デンデルモンデの学校で開かれたカトリックの政治集会で演説し 気分が悪くなるほど興奮した。 彼は部屋を出て廊下に出た。数人の人たちがアルセーンの様態が悪いのに気付き その場にいた医師デ・コックを呼んできて G.の助けを求めた。 デ・コックはすぐに外に出て 学校の隣にある小さなカフェに運ばれているGを見つけた。デ・コックを見たG.は言った。「ああ 親愛なる友よ 私を助けてください。」  G.を助けてくれた人々は すでに彼の顔を洗っていた。
彼はGを医師として以前から知っていたわけではなく 個人的に知っていただけだった。彼はGの友人ではなかったと言う。 年齢が大きく違うが G.とデ・コックとは幼なじみだった。デ・コックはウェッテレンでG.と同じ通りに住んでいた。
診察の結果 デ・コックはすぐに急性心筋症と診断した。G.はデンデルモンデの義弟アーネスト・ファン・デン・デュルペルのところへ連れて行ってくれるよう頼んだ。 デ・コックはすぐに彼の車を用意し そこへ彼を送った。彼が降りると 2人の男がGを支えた。
ファン・デン・ドゥルペルの家で Gは床にマットレスを敷かれた。
デ・コックはそこでGを再び診察し 他に何の準備もないため カフェインを注射した。
Gは常に息切れして落ち着きがなかった。数分後 彼はデ・コックに尋ねた。「先生 本当に危険なんですか?」「いいえ」とデ・コックは言った。 「じっとしていてください。何かお聞きになりたいことや希望はありますか?」「いいえ」
「神父を呼んでください。」 ファン・デン・デュルペルを通して すぐに司祭を探した。しかし 日曜日の朝だったので 神父を見つけるのは難しかった。
その間に Gの弁護士でデンデルモンデのジョルジュ・デ・フォスが到着していた。G.は彼を見ると こう言った。「ジョルジュとでもやれる」。 Gはデ・コックにそれ以上何も言わなかった。デ・コックは隣の部屋からデ・フォスを呼び G.が彼に言いたいことがあると告げた。 デ・コックは それはデ・フォスがGの弁護士であったことから 銀行のことだと思った。
しばらくして デ・フォスがデ・コックにこう言った。「ドクター 入ってください。かなり悪いです。」 デ・コックは部屋に入り Gが非常に具合が悪いのを見た。 彼の目は半眼で 呼吸が苦しそうだった。1 分も経たないうちにGは死んだ。死因は急性心臓弁膜症であった。
(家の向かいの修道院から)呼ばれた司祭が到着したのは死後5分ほど経ってからだった。
デ・コックによれば デ・フォスが彼を呼んだとき 衝撃的な印象を受けたという。デ・フォスはデ・コックにそれ以上何も言わなかった。
デ・コックいわく「あのG.は独創的で 賢かった。」 G.は良家の出身で 彼自身とても尊敬される人物だった。 G.は 誰かと一緒にいるときは 絶え間ないおしゃべりだった。「何も語らずにずっとしゃべっている演説家」だと言われていた。

【ジョルジュ・デ・フォス弁護士/上院議員の証言】1941/7/9+7/15 ケーンによる聴取
「1934年11月25日 「カトリック連合」の政治集会がデンデルモンデで開催された。
グーデルティールもこの会合で発言し 非常に激昂した。会合の最中 G.は私に気づかれることなく 何も考えずに去っていった。 集会が終わった後 私はG.が病気になり ケルクストラートのラノエスという車夫の家にいると聞いた。彼は具合が悪くなり 面識のないL.の家に行ったという。
そこから彼は自分の車で義弟のエルネスト・ファン・デン・ドゥルペル(ヴラスマルクトの宝石商)の家に連れて行かれた。 私はそこに電話して 行くべきかどうか尋ねた。G.の姪は「はい」と言った。(G.の妹はすでに1921年に亡くなっていた。) しかし 私はしばらく通りに残ってルーベンス大臣と話した。
義弟の家に着くと Gはリビングルームの床にマットレスを敷いて横たわっていた。 隣の部屋からうめき声が聞こえた。 Gと一緒にウェッテレンの医師ロマン・デ・コックがいた。彼はG.の友人で 現在はアールストのStatieplein 6に住んでいる。G.の友人との義弟もいた。
私がドアを覗き込んでGが私に気づくと 「ジョルジュ こっちへ来て」と言った。彼は他の2人を外に出させ ドアを閉めた。 私はひざまずいた。そしてGは私に言った(フラマン語で)。
「私は神父を呼ばせました。私の心は安らかです。聞いて。私だけが「神の子羊」の場所を知っている。」彼はそうささやいた。
私は言った。「はい?」
Gはまた言った。「私だけが知っている。私の小さな書斎の机の右側の引き出しの中に 「健康保険」と書いた封筒がある。」
この時 ボルナウの姓を名乗るベネディクト会の司祭リベルトゥスがやってきた。 現在もデンデルモンデのヴラスマルクトにあるペテロとパウロの巡礼修道院に住んでいる。G.は彼にこう言った。
「外に出て 私たちだけにして ドアを閉めてくれ」。リベルトゥス神父はそのようにした。
G.は「それで あなた方はファイルがどこにあるか知っている」「そして...」と言い始めた。
(デ・フォスによれば その瞬間 彼はパネルがどこにあるかを言いたかったのだ)。その瞬間から彼は言葉を失い 息をのみ もう一言も発しなかった。 私はすぐに隣の部屋から医師と神父を呼んだ。デ・コック医師はGの顔を手で叩いて反応を促したが 無駄だった。 デ・コックは 死亡した としか言えなかった。その後 リベルトゥス神父はGに祝福を与えた。 したがって G.による告解は行われなかった。
Gの妻には知らせた。葬儀は木曜日だったと思う。その際 私はG夫人に明日ウェッテレンに行くと言った。 翌日 私は一人でそこに行き Gから聞いたことを夫人に話した。私たちは一緒に机の中の書類を見つけた。 上着の中にあったGの財布の中に Gが司教に送った手紙と同じ種類の封筒があった。私は今でもそのような封筒を持っている(見せてもらった)。 また 財布の中には ゲントのシント・ピーテルス駅の荷物預かり所の伝票も入っていた。そのため 私は絵のパネルがそこにあると思い込んだ。 後でわかったことだが このメモは G.から司教への手紙が書かれていたタイプライターに関するものだった。
私は手紙と預かり証を持ってデンデルモンデに帰った。 覚えている限りでは 翌日 私はデンデルモンデの司法裁判所長官(まだ在職中の)ファン・ギンデルアハテル氏にすべてを話し 手紙と預かり証を渡した。 私は自分のために手紙のコピーを取っていない。
ファン・ギンデルアハテル氏は 見つけた物を持って 控訴院第一長官の騎士デ・ヘールン(彼はもう生きていない)のところに行った。 そして 騎士ファン・エレウィック総督のもとにも行った。
その後数日間 私は一人で またデンデルモンデの長官と一緒に Gの家でこの絵に関連する遺品を探した。ウェッテレンのWegvoeringstraat 15番地の家である。 私はすべてを探し 自分で床にも入り 壁も調べた。庭や小動物小屋も探したが 何も見つからなかった。
ただGのズボンのポケットに 彼からの手書きの手紙の切れ端が入っていた。その手紙の本文は 司教に宛てたタイプライターの手紙の中にあった。 この書類は提出してしまったので 裁判所のファイルにあるはずです。内容はもう覚えていない。
それから私は 書類やメモなどが見つかるかもしれないと Gの書斎の書棚も探した。蔵書の中には 警察小説の『Le Masque』があった。Librairie des Champs Elys?es全集もあった。 (デ・フォスは このシリーズがこの1冊だけだったか 何冊かあったかは覚えていない。)
その本は現在 裁判所内にある。(この本や他の本から 窃盗の実行についてさらに詳しいことがわかるかどうかは 調べる必要がある。)  開いてみると 問題のページには 誰かが旅行に行くなどと書かれていた。 Gはその本の該当箇所を司教宛の手紙(手紙11参照)の一通に書き写していたことがわかった。」
「私の考えでは Gは泥棒ではない。教会の使用人の助けなしには絵は盗めなかった。あるいは泥棒が教会の使用人から指示を受けていた。Gがその場にいたとは思えない。 G.一人で額縁からパネルを取り出すことは不可能だと思う。仕組みが複雑すぎるからだ。翼のある祭壇はよく知っていた 100回は見ただろう。 その絵はとても純粋で鮮明で 双眼鏡を使えば馬の目の細部まで見ることができた。」
私が G.はおそらく探偵稼業に身を投じていたのだろうという事実を述べたとき デ・フォスはこう言った。「Gは探偵をやりたいという願望があり 事件を解決したいという虚栄心を持っていた。
例えば Gは次のような事件を解決しようと努力していた:
1)ブリュッセルでの幼女ジャンヌ・ファン・カルク殺害事件。
2)ブリュッセル ワーテルロー大通りの宝石商コーセマンスCoosemansからの窃盗。
3)ヴェッテレン ヴェラネマン殺人事件。
4)パリのブレゲ航空機工場にて G.が彼の設計した飛行機の模型について語る。
5)G.は1932年か33年にベルギー国王への訪問を申請していた。経済危機を改善する計画を提示するために。
6)デンデルモンデの義弟ファン・デン・ドゥルペルの宝石商からの窃盗。」
G.がこのようなケースで何か達成したのかどうか デ・フォスは明言できなかった。
「しかし G.はそのようなことに集中的に取り組み 際限なく話すことができた。一旦話し始めると 2時間も3時間も話し続けることができた。 そのため そこに座っている他の人たちは自分から話すことができず いつも彼の話を聞かなければならなかった。例えば ケース6)では G.は窃盗がどのように行われたかを正確に述べている。」
G.の経済状況について尋ねると デ・フォスはこう言った。「裕福だった。教会雑用係りをしていた頃も 自分の意志でお金を持っていた。 彼と彼の妻は 現在95歳になるまだ存命の親戚から多くの遺産を受け取った。現金が必要だったのは 彼が持っていた会社の資本金だけで それにだけ縛られていた。G.には120万フランの預金があった。 一方 債権者としての彼は 3人の債務者に対して合計約120万フランの債権を持っていた。120万フランである。これらの債務者はD.B. V.R. G.であった。」
「彼の死後 Gの会社は破産宣告を受けた。しかし すべての債権者はGの自己資金から利息を含めて全額支払われた。 彼の未亡人にはまだ100万フラン以上の金と土地の財産がある。私は 司教から彼に支払われた2万5千フランのうち G.が自分のために残しているとは思わない。」
G.の性格とその習性について尋ねられると デ・フォスは次のように答えた。「独創的で 終わりなき語り手で 尊敬に値する人物だった。 G.は泥棒をするような気質ではなかった。G.の身長は約1.65メートル 中肉中背で 口ひげを蓄え 長い鼻と濃いブロンドの髪をしていた。」
裁判所の仕事について デ・フォスはこう語った。「裁判所は捜査においてとてもお粗末な仕事をした。Gはアントワープで金を受け取った時点で捕まるべきだったのです」。
デ・フォスによれば Gは自分で金を受け取ったのだということだ。「アントワープのムレパス牧師の家で 神父の服を着た刑事がいたそうです」。
「裁判所は 絵画を取り戻すために (犯人がコピエテル司教に望んだ)100万フランという金額であっても 即座に応じるべきだった。」
「ファン・ローイ枢機卿と宴会の席で話したが またコピエテルス司教とファン・デン・ゲイン参事会員と交わした会話の中で 彼らは私にG.の死の出来事を知らせなかったことを非難した。 私は反論した。「私は デンデルモンデの司法裁判所長官に知らせなければならないと考えていたし それで十分だと信じていた。」
泥棒と絵画を見つけるために裁判所が提示した2万5千フランは 絵画の価値に比してあまりにも低すぎると考えている。
デ・フォスもまた 法廷での尋問を受けなかったと私に伝えている。

【リベルトゥス神父の証言】1942/5/17 ケーンによる聴取
「1934/11/25の昼頃 修道院の斜向かいの宝石店のグーデルティールの死の床に呼ばれた。
今に入っていくと 床のマットレスに寝かされていて 弁護士デ・フォスが不可に膝まづいてGの口元に耳を近づけていた。(Gはささやくことしかできなかったから。)  デ・フォスはGno義弟と数人とがいる隣の部屋へと去った。しかし Gは「弁護士 弁護士と話したいんだ」と言ったので デ・フォスを呼びに行った。デ・フォスは1~2分しか話さなかったと思う。 彼が壁を叩いて読んだので部屋に入ると Gは意識を失って すでに話すことはできなかった。赦しを与えるとGは死んだので 終油を取りに行き 施した。」
「この件に関しては誰にも話していないし 誰からも聴取を受けていない。」

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【推理/憶測/背景】

☆アルセーン・グーデルティールが単独で窃盗を行ったのではないと仮定すると (外見が似ているため)共犯者として2人の人物が疑われた。 グーデルティールのいとこであるアヒール・デ・スワーフと その妹ジュリー・デ・スワーフと結婚していたオスカー・フランソワ・ジョセフ・リーヴェンスである。 (「アキール・ド・スウェフはアルセーヌ・グーデルティールから 極めて信頼できない人物と見なされていた」とヴァレル・グーデルティールは証言している。)

☆アルセーン・グーデルティールはこのように述べたと言われている。「盗まれたものは とても簡単な場所に隠さなければならなかった。 正確には隠し場所ではないが 誰も探そうとは思わないような場所だった。」
盗まれた直後 グーデルティールはこう言ったと言われている。「隠し場所はどこにもない。 盗まれた絵画を隠すのに 人々が最も探しにくい場所とは? もちろん 盗まれた場所である! 厳密に言えば 泥棒が捕まっても 何の罪にも問われない。 というのも 結局のところ 泥棒は何も盗んでいないのだから。何かを動かしただけなのだから!」
「それは誰の目にも見えるが 司教だけがそれを手にすることができる。」

☆美術品が盗まれた翌日 アルセーン・グーデルティールは末弟ヴァレル・グーデルティールに 「盗まれた絵はおそらくまだ大聖堂にあり 8日以内に自分が見つけるだろう」と言った。 その後 ヴァレル・グーデルティールが協力を申し出たが アルセーンは断った。 ヴァレル・グーデルティールの記憶によると 聖ニクラウス教会の近くに住んでいた両替商が 盗まれる少し前に破産していた。 ヴァレール・グデルティエは 神父職と同様にこの破産者を疑った。
☆ヴァレール・グデルティエはまた別の疑惑も口にした。美術品盗難の後 彼の部屋はリュステルボルフとアルフォンス・アーレンスという2人の役人に捜索されたが 彼らは非公式に調査しているだけだと言った。 このアルフォンス・アーレンスについては アルセーン・グーデルティールはすでに犯人の一人だと考えていた。 というのも 聖堂の事件現場から (手に障害がある)エーレンズが片手につけていたような 使用に適さない手袋が発見されていたからである。

☆脅迫状がアルセーン・グーデルティールによって書かれたものであるかどうかは 末弟ヴァレルと未亡人ジュリエンヌとの間で論争となった。 ヴァレルはアルセーヌが手紙を書いたと考えたが 未亡人は夫が書いた手紙には典型的でない文法の間違いが多いことに異論を唱えた。 (警察は その文法の間違いを わざと間違えて書いているのではないかと推測した。)
ヴァレル・グーデルティールが脅迫状を読むことができたのは 1942年のインタビューのときだった。 特に興味深かったのは 「zonder de publieke aandacht op de trekken」という 「衆人の注意を惹くことなく」絵を手に入れることは不可能だったという一節だった。 ヴァレル・グーデルティールはこの言葉から パネルは一般人がアクセスできる場所にあると結論づけた。

☆1930年代とは「波乱に満ちた」時代だった。
1929年に始まった世界恐慌により ヨーロッパ全土で経済が大きな打撃を受けていた。
ドイツとイタリアは危険な右翼へと傾いていた。
1931年から1934年の間に ベルギーでは39件以上の政治的襲撃事件が発生した。
1932年10月から1934年6月の間に ベルギーでは4つの政権が誕生した。
1933年には ベルギーでは聖母マリアが幾度も出現した。聖母マリアはまずバヌーやボーランで目撃され その後フランダースの数カ所も訪れた。 フランダースのゲラールスベルゲン近郊の村オンケルツェレでの聖母マリアの出現では 数千人によって奇跡の太陽現象が確認された。 (この場での幻視者レオニー・ファン・デン・ダイクは その後1934年2月のアルベルト国王の死と 1935年のアストリッド王妃の交通事故死も予言している。)
1934年2月 アルベルト国王がアルデンヌで謎の死を遂げる。

☆ゲント警察の曖昧な捜査の仕方や 盗難が大聖堂内部の人間の助け無しには難しいであろうということから 教会関係者と警察が事件とその隠蔽に関わっているのではないか という疑いももたれた。

☆様々な人が様々な推理をし 発表しています。「正義の裁き人たち」の絵の意味に焦点を当てて  政治的/宗教的な目的での盗難であるとする人もいます。ナチスが関わっているとする説もあります。 絵の隠し場所については 霊能者の力を借りて調べたりもしました。ゲントの街の中では 幾箇所も道路が掘り返されたりもしました。 しかし 何の手がかりも見つかっていません。

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【関係者一覧】

オスカー・ファン・ブショートゥ(聖バーヴォ大聖堂下級雑用係)
Oscer van Bouchaute (onderkoster)
盗難の第一発見者

セザール・アールキュス(チーズ店窃盗犯人)
Cesar Aercus
事件当日の夜 なかなかエンジンのかからない車に 二人の男が板状のものを運び込むのを目撃

マリー・デ・ファイスト
Marie De Vuyst
盗難が発見された早朝 大聖堂内に居た人

エクトー・ルイ・ファン・フォルセム(聖バーヴォ大聖堂雑用係り)
Hector Louis Van Volsem (koster)(1879/5/21 - 1965/3/12)
ファン・ビショートの上司

アントワーヌ・ライステルブルグ検事(ゲント司法警察長官)
Antoine Luysterbourgh (Commissaris Gerechtelijke Politie Gent)
この事件の実地捜査の責任者

ジェルマン・ローメン
Germaine Laumen(Ureel店員)
タイプライターを貸し出した店員

ヨゼフ・コッピーテルス司教(ゲント司教区第27代司教)
Bisschop Honor? Jozef Coppieters(1874/3/30 - 1947/12/20)
犯人からの手紙の受取人

ガブリエル・ファン・デン・ゲイン(ゲント司教区書庫管理人/司教区参事会員)
Gabriel van den Gheyn(1862/2/4 - 1955/8/29)
警察への通報者
ゲント歴史・考古学協会会長であり 「神の子羊」の解説書を書いている

フランツ・デヘーム(ゲント国王検察官)
Frans Deheem(Procureur des Konings te Gent)
この事件の捜査の責任者で 犯人からの手紙への返答を(司教に代わって)書いた本人
フリーメーソン会員(であり 彼の犯人への不自然な対応から この事件にフリーメーソンが関わっていて彼は事件の隠蔽を図っていたのではと疑われる)

ポール=エミール・ヤンソン(法務大臣/国王検察官)
Paul-Emile Janson(de minister van Justitie / de procureur des Konings)(1872/5/30 - 1944/3/3)

アレクシー・ピュイソン(ブリュッセル北駅荷物預り所係員)
Alexis Puissant
板(として「洗礼者ヨハネ」)を預かった係員

エレーン・クリスティアーンス(グーデルティール家の家政婦)
H?l?ne Christiaens
グーデルティールが自宅の作業室で板状のもの(「洗礼者ヨハネ」?)を布で包んでいるのを目撃

エヨワー・デ・テルミクール(検察総監)
Hayoit de Termicour(Procureur Generaal)

アンリ・ムレパス司祭(アントワープの聖ローレンティウス教会Sint-Laurentiuskerkの司祭)
pastoor Henri Meulepas
解決金の受け渡しの仲介者に指定される

フランソワー・コムペールス(タクシー運転手)
Francois Compeers
上記ムレパス神父の所に封書を受け取りに行ったタクシー運転手

アルセーン・グーデルティール(アルセーヌ・グーデルティエー)
Arseen Goedertier(蘭語)/ Ars?ne Goedertier(仏語)
主容疑者(詳細はこちらのページでご覧ください)

ジュリエンヌ・ミヌ(アルセーン・グーデルティール夫人)
Julienne Minne(1884/5/6 - 1943/12/18 )

アデマール・グーデルティール(アルセーン・グーデルティールの長男
Adhemar Goedertier)

ヴァレル・グーデルティール(アルセーン・グーデルティールの末弟/12人の兄弟の中で事件当時唯一の存命者)
Val?re Goedertier(1882/11/7 - 1971/8/1 )

エルネスト・ファン・デン・ドゥルペル(アルセーン・グーデルティールの妹イサ・マリー Isa Marieの夫/宝石商)
Ernest Vanden Durpel(1876/1/14 - 1961/4/2)
デンデルモンデの彼の家でアルセーンは亡くなる

ロマン・デ・コック(医師)
Romain de Cock(1901/4 /20 - 1966/1/22)
アルセーン・グーデルティールと同じ通りに住む医師
当日一緒に会場に行き 彼の最期を看取り 死亡診断書を書く

リベルトゥス神父(デンデルモンデの聖ベネディクト修道院の神父)
Pater Libertus Bornauw(1874/8/15 - 1954/11/27)
アルセーンの告解と終油に駆け付け 終油を施す

ヨーリス(ジョルジュ)・デ・フォス(弁護士/アルセーンの友人)
Jooris de Vos / Georges de Vos(1889/12/13 - 1942/11/4)
アルセーンの最後の言葉(=絵の隠し場所の秘密)を聞く

オスカー・リーヴェンス(アルセーンのいとこ)
Oscar Lievens(1877/7/30 - 1935/3/5)
(アルセーンと外見が見ていることから)犯人の一人と疑われる

アヒール・デ・スワーフ(アルセーンのいとこの夫)
Achiel de Swaef(1862/11/1 - 1934/11/29)
(アルセーンと外見が見ていることから)犯人の一人と疑われる
アルセーンの葬儀の当日の朝に死去

ヨゼフ・ファン・ギンデルアハター(デンデルモンデ第一審判院長官)
Joseph van Ginderachter(de voorzitter van de rechtbank van Eerste Aanleg te Dendermonde)(1873/3/24 - 1949/8/17)
ヨーリス・デ・フォスの依頼を受け 秘密裏に調査をする

ミシェル・デ・ハールネ騎士(ゲント控訴院院長)
Ridder Michel Hyppolite de Haerne(Eerste voorzitter van het hof van Beroep in Gent)
ヨーリス・デ・フォスとヨゼフ・ファン・ギンデルアハターの秘密裏の調査に協力する

テオドール・ファン・エレウィック騎士(法務総監/検察官)
Ridder Theodore van Elewyck (procureur Generaal)(1866/9/2 - 1952/2/28)
ヨーリス・デ・フォスとヨゼフ・ファン・ギンデルアハターの秘密裏の調査に協力する

アルフォンス・アーレンス(ゲント司法警察捜査官)
Alfons Aerens(Inspectuer bij de gerechtelijk politie)
捜査の主要担当者

ベルタとジョセ・ブレイデルス姉妹
Bertha / Jose Breydels
事件後 グーデルティールが校長をしている美術学校に しばしば(夕方に)彼が(タイプライター/工具/板などを持って)出入りしているのを目撃




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