? 神の子羊の盗難~アルセーン・グーデルティールとは
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Het lam Gods

『神の子羊(の礼拝)

アルセーン・グーデルティールとは

《幸也の世界へようこそ》《幸也の書庫》《絵画を見る目・感じる心》 → 《神の子羊(の礼拝)》



アルセーン・グーデルティールとは

Arsene Theodore Victor Leopold Goedertier
アルセーン・テオドール・ヴィクトル・レオポルド・グーデルティール

【葬儀時の肩書き】
共済組合「協力」会長
ヴェッテレン市立美術アカデミー校長
ダヴィッド財団地区会長
カトリック同盟党員/ヴェッテレン地区長
相互扶助一等勲章受章者
ベルギー建国百周年記念勲章受章者

出生:1876年12月23日 レーデLede
死亡:1934年11月25日 (57歳) デンデルモンデDendermonde
祖父母:ルイー・グーデルティールLouis GOEDERTIER(? - ?)とロザリア・ファン・ハウテRosalia van Haute(1791 - ?)の孫
父母:父エミール・グーデルティールEmile GOEDERTIER (1831 - 1911) と母マリー・セシル・ワンデルスMarie Cecile WANDELS (1844 - 1896)の息子
配偶者:ジュリエンヌ・ミヌJulienne Minne(1884 - 1943) の夫
子:アデマール・グーデルティールAdhemar Goedertier (1922 - 1936)の父
兄弟:エドモンド・グーデルティールEdmond GOEDERTIER (1867 - 1913) アントワープ地方裁判所判事・調査官/
セシル・グーデルティールCecile Goedertier (1869 - 1883)/ ヨゼフ・グーデルティールJoseph GOEDERTIER (1871 - 1923)/ アデマールAdhemar (1875 - 1909) ボックレイク結核療養所薬剤師/
アリーダ・グーデルティールAlida GOEDERTIER (1878 - 1913)/ イサ・マリー・ノルベルティーナ・カタリーナ・グーデルティールIsa Marie Norbertina Catharina GOEDERTIER (1880 - 1921)/
ヴァレル・グーデルティールValere GOEDERTIER (1882 - 1971) 宝石商/
他4人(いずれも夭折)の兄弟

【妻:ジュリエンヌ・ミヌJulienne Minne】
出生:1884年5月06日 パリParis (France)
死亡:1943年12月18日 (59歳) シント・ニクラース St. Niklaas
父プリュダン・ジュリアン・ミヌPrudent Julien Minneと 母アデレード・ジョセフィーヌ・ミヌAdelaide Josephine Minne の娘
アルセーン・グーデルティールArsene Goedertier の妻
アデマール・グーデルティールAdhemar Goedertier の母
ジャンヌ・マリア・ミヌJeanne Maria Minne の姉妹


父エミール・グーデルティールEmile Goedertier(1831-1911)と母マリア・ヴァンデルスMaria Wandels(1844-1896)の間に生まれた12人の子供(7男5女)の6番目として生まれた。
このうち5人は子供の内に亡くなっている。
母親の身体が弱かったために 兄弟全員が病弱であった。最も長生きした末弟ヴァレルは89歳まで生きたが それ以外の兄弟では57歳まで生きたアルセーン本人が最も長生きであった。
父グーデルティールはレーデの市立男子校の教頭だった。父グーデルティールは「宗教とキリスト教教育に基づいた授業」に熱心であったため 最終的にはアールスト州の教育監に任命された。
1879年から1884年にかけての学校紛争の際 父グーデルティールは辞職し ゲント司教区は父グーデルティールに下級聖職者(教会雑用係り)の職を提供した。
アルセーン本人も教会職に就くべく 教会雑用係り/オルガニストとして教育を受け 20歳で卒業。
聡明で音楽的 そして絵も上手だった。
祖父(父方)/義兄(ピーテル・クーペ)/甥(ヒレール)/叔父(アドルフ・グーデルティール)など 家族/親族の多くが下級聖職者(教会雑用係り)であったこともあり 一族の伝統を受け継いでウェッテレンWetterenの聖ゲルトルディス教会Sint-Gertrudiskerkの下級聖職者となった。
父の死後 1913年にシント・ニクラースに移り住む。
1915年にパリ生まれのジュリエンヌ・ミヌJulienne Minneと結婚。
数年後にヴェッテレンのZandstraat(Wegvoeringsstraat)で両替所を始めた。
グーデルティールは科学に興味を持っていたので 飛行機械を設計し パリのブレゲBreguet航空機工場の経営者に提案した。しかし 飛行可能ではあったが 速度が遅かったため設計は却下された。
植民地コンゴとの貿易を初めとして 幾つかの事業を起こし 経営者となる。
ビジネススクールで教鞭をとる。
1910年からヴェッテレン市立美術学校校長。
ヴェッテレン市主催の馬車のデザインコンテストに出展し優勝。
ゲントの聖バーヴォ大聖堂の教会参事会員。
労働者のための相互健康保険基金Eendrachtの共同設立者で会長となる。
1930年に ベルギーの独立百周年を記念した国家への功労者として勲章を授与される。
ヴェッテレンのヴェルクマンハウスの労働者のための労働組合De Volksmachtの設立に参加。
その功績により 1934年1月に相互扶助一等勲章を受章する。
最終的には 外国為替取引を主に扱う銀行を経営。


1934年11月25日 カトリック同盟党の政治集会がデンデルモンデで開かれた。グーデルティ-ルは熱弁をふるったが 演説後に体調を崩した。 彼は義弟の宝石商アーネスト・ファン・デン・デュルペルの家に運ばれ そこで息を引き取った。
その時に 友人で弁護士であるヨーリス・デ・フォスに「神の子羊の隠し場所を知っているのは自分だけだ」と打ち明ける。しかしその場所を言う前に息を引き取ってしまう。

裁判資料には 何が起こったのか調査された形跡がない。主な証人は尋問されなかった。
1941年になって初めて ドイツ軍のヘンリー・ケーン上級中尉の指揮の下 ドイツによる調査が行われた。 彼はグーデルティ-ルの死に立ち会った人々に話を聞きに行ったのである。

グーデルティールの死後 弁護士のジョルジュ・デ・フォスによって 脅迫状のカーボンコピーや 暗号を含むメモがグーデルティールの書斎で発見された。
デ・ヴォスはその文書を地方裁判所に渡したが 地方裁判所は彼のこの事件との関わりを秘密にすることを決定した。
当初はグーデルティールが実行犯であると断定されたが しばらくして疑念が生じた。
2006年 ジャーナリストのカール・ハマーらによる復元によって 骨格が小さく 中年で 目の病気のために夜盲症のグーデルティールが 暗い聖堂の高い祭壇画から美術品を盗むという物理的な犯行は不可能であることが決定的になった。


美術愛好家で 自ら絵を描いた。
アルセーンは設計も好きだった。技術製図家として飛行機を設計し それをパリに行って航空機メーカーに提案したこともあった。また ヴェッテレン市主催のお祭りのための馬車のデザインコンテストで優勝している。

探偵小説の愛好家。特に(同名だったことも関係しているのか)「アルセーヌ・ルパン」の愛読者。
彼は ジョルジュ・デ・フォスを含む何人かの友人から「素人探偵」と呼ばれている。 ヴェッテレンの教会の絵画盗難事件や 義弟の宝石店の盗難など 幾つかの事件を(警察よりも早く)解決している。 彼は探偵として興味を持った事件について延々と詳しく説明することができた。

彼の妻によると 彼は彼女を困らせるほどの探偵小説の熱心な読者であった。 グーデルティールは モーリス・ルブランの推理小説に登場する「泥棒紳士アルセーヌ・ルパン」のファンであった。 モーリス・ルブランの小説『空洞の針』あるいは『アルセーヌ・ルパンの競争者たち』の中にも 実際のこの事件と類似したものが現れているようだ。 脅迫状における彼の文体は、確かにこの同名の人物を彷彿とさせる。 そこでも 教会での美術品盗難事件が描かれている。この小説では アルセーン・グーデルティールがかつて机の中から見つけたメモに使ったような秘密の暗号が使われている。
その後 ゲントの古書店で『正義の裁き人たち』というタイトルの本が発見され その最後のページに同じ暗号のメモがあった。 そこには「大聖堂の下 - 短い一日 - 鳥と牛の出会う所」と書かれていた。(「短い日」「鳥市場」「牛市場」はいずれもゲントの道路名)

親族によれば 彼は誇大妄想狂で 自分がいかに裕福であるかを常に強調していた。あるいは「親族で家名に傷が付くようなことをした人は一人もいない」ということを自慢していた。
アルセーンのことを饒舌で自慢好きだと言う人は多かった。ある人は、彼はいつも適切な時に適切な言葉を見つけると言っていた。
グーデルティ-ルは多才な男だった。教会雑用係りであり 銀行家であり 貧しい人々のために立ち上がった政治家でもあった。 つまり グーデルティールは教会/政治/銀行と多くの関わりを持つ人物だった。



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