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零の波動

 

《幸也の世界へようこそ》《幸也の言葉》 → 《零の波動》


【① 宇宙は波動】
【② 波動の高低】
【③ 波動の受発信】
【④ 宇宙の原初の波動】
【⑤ 頭も身体も零の波動に近付ける】

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【① 宇宙は波動】

宇宙は 存在です。
宇宙は 波動の存在です。
宇宙の中は 全てが宇宙です。
ですから「無い」ということはありません。

しかしそれなのに「零」(=「ゼロ」)という概念があります。
(なぜこの文章では「0」を「ゼロ」と言わずに「零」と言うのかの理由は 後ほど明らかになります。
そもそも「ゼロ」は日本語ではありません。)

この「零」というのは 「何も無い状態」を表すと共に もうひとつ
何も無いようでいながら それでも何かがある」ことをも表しています。

宇宙そのものが波動の存在ですから 宇宙の中の全てのものもまた波動の存在です。
身の周りの全てのものは波動です。
波動の状態によって 物質であったり 液体であったり 気体であったり
光であったり 音であったり 匂いであったりします。
私たちが「自分」だと思っている全てのものもまた波動です。
肉体も波動。想念も波動。感情も波動。
ということは 波動は目に見えたり 耳で聞こえたりする
すなわち五感で感じ取れるものと そうではなく
五感では感じ取れない 認識できないものもまたあるということになります。
そして 実際には宇宙の中では 人間が五感で感じ取れる波動はごくごく僅かなのです。
これは 目に見える光=「可視光線」や 耳に聞こえる音=「可聴音」の範囲が
限定されていることでわかります。
可聴音域以外の音は 人間の耳には聞き取れないだけであって
存在しないわけではありません。
様々な波動の中で 人間の目で捉えられる範囲だけを「見ている」と認識しているのです。


【② 波動の高低】

そのような種々雑多な波動の海の中に私たちは漂っているのです。
それらの波動には「高い」「低い」という すなわち「波動の高さ」という違いがあります。
音で言うと「高い音」「低い音」を聞き分けられますが
これは周波数の違いを耳が聞き分けているのです。
光で言うと 色の違いを見て取れますが これも波長の違いによって違う色に見えるのです。
心(=想念や感情)は 目には見えない波動ですけれども
日本人はそれに色を付けて表現しています。
「腹黒い」とか「心が明るい」とか。
なぜか 明るいのは肯定的な意味で 暗いのは否定的な意味です。
あるいは「人格が高い」とか「人間性が低い」とかの言い方もします。
高いのは良くて 低いのは劣っているのです。

なぜ波動は 「高い=良い」「低い=悪い」とされているのでしょうか?
それは 波動が高いほどに「精妙」であり「澄んでいる」だからです。
波動が低いほどに「粗雑」であり「濁っている」からです。
私たちの想念という波動も同様です。
心の中で考えていることが粗雑なのは低い波動です。
考えが精妙であるほどに高い波動です。
その波動の高低は
波動が高いほどに「美しく」感じられます。
波動が低いほどに「汚く」感じられます。

私たちが頭の中で考えていること=想念は
念波という波動として発信され 宇宙全体に伝播していきます。
心で感じている感情もまた 宇宙全体に伝播していきます。
宇宙というのは そのような個々の存在が発している念波の海だとも言えます。


【③ 波動の受発信

そして 私たちは波動を発信しているだけではありません。
常に受信もしています。
ほとんどの人は この受信しているということを自覚していません。
けれども実際には 身の周りの様々な波動の影響を受けつつ生きているのです。
「場がしらける」という言い方がありますが その場の波動の変化を感じているのです。
他人のちょっとした言葉で気分が落ち込んだり 逆に明るくなったりもします。
言葉と その中の想念という波動の影響を受けているのです。
満月の夜に良く眠れないのも 波動の影響です。
さらには 天体の波動の影響を受けているという 微妙な影響を根拠としたものが星占いです。

私たちという存在は 発信と受信とを常にし続けている波動体なのです。
(多くの人は 発信していることも 受信していることも自覚していませんが・・・)

それらの波動は 宇宙の中に留まります。
一旦発信された波動は ずっと宇宙の中に残ります。
そして他の存在に影響を与えます。
私たちは 日々の生活の中で様々なことを考えたり感じたりしていますけれども
それらの波動の全てが 宇宙全体に発信され そして宇宙の中に留まっているのです。
そして 宇宙の中の誰か/何かに影響を与えているのです。

では どういう波動を受信し 影響を受けているのでしょうか?
波動には「共鳴現象」というものがあります。
同じような波動は共鳴する という現象です。
(厳密には 宇宙の中には同じ波動は存在しません。)
受信する波動というのは 自分が発信している波動と共鳴しているのです。
つまり 「自分が受け取るもの=自分が出しているもの」です。
私たちは 自覚していなくても たくさんの波動の集合体です。
それらの波動に共鳴した 似たような波動を受け取っているのです。
そして 自覚できる波動 すなわち
頭の中で考えている想念に共鳴した波動もまた受け取っています。
そして それら受け取った波動を「どう受け止めるか」「どう感じるか」「どう考えるか」
という新たな念波を発信します。
そうすると それに共鳴した波動を受け取ります。
それの繰り返しです。
ということは 実は「発信している波動=自身している波動」なのです。
目の前に見ているものは全て「自分の波動と似ている」ものなのです。
人間は たくさんの波動の集合体ですから それらの全てを自覚することは出来ません。
それでも 必ず「発信波動=受信波動」という共鳴をしつつ生きているのです。

 
【④ 宇宙の原初の波動】

そういう波動の海が宇宙なのですけれども
では そもそもの宇宙の波動というのは どういうものなのでしょうか?

宇宙は 全てのものを生み出し 育み 生かし 活かし続けている(想念)波動です。
全ての存在を 「生かし」「活かす」存在として 完全に完璧に創り出しています。
そして それらの存在が完全完璧な存在として
より「生かし」「活かし」合えるように 育んでいます。
その「生かす」に当たっては 全ての存在が「生かされる」ために
全ての存在が「調和」するように宇宙は創られています。
そして「生かす」だけでは無く 「活かす」 すなわち
「全ての存在が生き活きと生きられるように自らを存在させる」ように宇宙は創られています。
これを「愛」と言います。
これが宇宙の原初の波動です。
そういう 宇宙の原初の波動の中に 様々な波動が生み出され 蓄積されていっているのです。

ところが その宇宙の中に存在しているものは 必ずしも
宇宙そのものの原初の波動と同じ波動(=宇宙意識)を発しているわけではありません。
それは 私たち人間のことを考えてみればわかります。
人間の一体誰が 宇宙そのものと同じような意識で
ものごとを生み出し 育み 生かし 活かし 愛し 調和させているでしょうか?

つまり 宇宙の中の存在は 宇宙そのものの原初の波動とは違う波動として存在し
違う波動を発信しています。
しかし 全ての存在は 宇宙そのものの原初の波動をも有しています。
なぜならば それが 宇宙の中に存在しているということだからです。
宇宙そのものの原初の波動が 最も高い波動です。
全ての存在は その宇宙そのものの原初の波動と同じになるまで成長し続けているのです。
自分という存在の波動の全てが 宇宙そのものの原初の波動と同じになるまで
成長させ続けているのです。
これが宇宙の中に存在している理由です。
そして その宇宙そのものの原初の波動とどの位違っているか
あるいは それにどの位反しているか それが波動の低さです。

そうすると その宇宙そのものの原初の波動とはどういうものなのか
それがわからなければ それを目指しようがありません。
それは一体どうやったらばわかるのでしょうか?
あるいは それはそもそも純粋な宇宙そのものの原初の波動として
どこかに存在しているのでしょうか?
していません。
なぜならば 前述のように 宇宙とは波動の海だからです。
けれども その純粋な宇宙そのものの原初の波動に近いか遠いかの違いはあります。
宇宙の中の物質波動の世界は 純粋な宇宙そのものの原初の波動から遠いのです。
非物質波動の世界の方が 純粋な宇宙そのものの原初の波動に近いのです。
そして 想念という波動もまた 宇宙そのものの原初の波動と近いか遠いか
つまり 波動が高いか低いかの違いがあります。
そういう様々な想念波動が 宇宙のいたるところを飛び交っているのです。

けれども それらにも密度というものがあります。
地球という物質の上で 肉体という物質体として存在し
様々な念波を発して私たちは生きていますので
地球とその周辺では 波動の密度が濃くなります。
地球から離れるほど 密度は薄くなります。
つまり 宇宙空間は密度が最も低くなります。
(以前は 「宇宙空間には何も無い」と言われていましたが しかし
宇宙空間も宇宙の一部ですから そこには宇宙意識があります。
そして 宇宙空間には 様々な波動が飛び交っています。)

これを「零の波動」と言います。
「零」とは 何も無いようでいて 実は宇宙そのものの原初の波動=宇宙意識がある
そのことを言います。
物質世界よりも 非物質世界の方が より純粋な宇宙そのものの原初の波動に近い
だからこそ「霊の世界」を「零の世界」と表現したのです。
(純粋な宇宙そのものの原初の波動を 巷では
「宇宙エネルギー」「コスミックパワー」「ゼロ波動」などと言っていますが
しかし「ゼロ」では上記のような意味は全く出ません。)
そして その宇宙そのものの原初の波動(あるいはそれに近い波動)に触れると
低い波動が解消されて ということは病気や怪我は解消され(=治り)ます。
「老化」という 地球独特の現象も解消されます。

「真空療法」というものがあります。
手のひらに収まるぐらいの大きさのガラス瓶を 上下を逆にして
下から(=口から)火をつけたマッチなどで瓶の中の酸素を減らして真空状態にします。
それを身体の患部(=痛みや傷があるところ)に 空気が入らないようにピッタリと当てます。
そうすると その部分は真空状態となります。
これによって治りが早くなる というものです。
これは 空気があるところよりも 無いところの方が
宇宙そのものの原初の波動に近い ということを認識し利用したものです。

物質は 意識という想念波動の影響を受けて存在しています。
ですから 私たちの肉体も 私たち自身の想念の影響を受けて存在しています。
つまり 身体の状態とは心の状態なのです。
ですから 身体の状態を変えたければ 身体に直接働きかけるやり方もありますけれども
その元と成っている想念に働きかけることもまた効果があるわけです。

脳の波動=脳波は その波長(周波数)の違いによって
「アルファα波」「ベータβ波」「シータθ波」などと分類されています。
そして その波長ごとに脳の働き方が違っているのが ある程度解明されています。
「ベータ波」>「アルファ波」>「シータ波」と周波数は少なくなっていきますが
これは「昼間に頭を使っている状態」>「ボーっとした状態」>「熟睡状態」という違いです。
そして 周波数が低いほどに すなわち熟睡状態のシータ波の時に最も
治療効果が高くなります。
アルファ波状態ですでに「勘」が冴えて 直感や閃きが起こりやすくなります。
これはすなわち 五感を通さないやり方で非物質波動を受け止めているということです。
シータ波状態では 自ずと治癒が起きると言われています。
脳波が零に近いほどに 宇宙の原初の波動に近いのです。

ほとんどの人は 頭の中で考えています。
つまり 頭の中が想念で満たされています。
その頭を空(から)にする(ことは出来なくても なるべく空に近くする)方法として
瞑想などがあります。
あるいは マントラ(呪文)を唱えるというのは ごく限られた言葉に集注することで
頭の中の想念を減らすと共に ある特定の波動に合わせようとするものです。


【⑤ 頭も身体も零の波動に近付ける】

つまりは 頭(=想念)の波動も 身体の波動も
「零の波動」に近付けることが すなわち私たちの宇宙の中での成長を早め
かつそれに反した状態である「病気」や「老い」を解消することになるのです。

では どうやったらば「零の波動」に近付けるのでしょうか?
先ずは「そう思う」ことです。
意志=心の行き先をはっきりさせることです。
どういう状態でありたいのかを はっきりさせることです。

零の波動に近付けるには 結局は「減らしていく」ことです。
「零」がすなわち 何も無いのではなくて宇宙のエネルギーなのですから。
頭も身体も 「ある」状態から「無い」状態へと減らしていく ということです。

身体を零の波動に近付けるには すなわち「ある」ものを減らしていくには
先ずは「脱力」です。
私たちは 普段の生活で身体に不要な力を入れ 不要な動きをしています。
しかし それを自覚していません。
なぜならば「それが当たり前」で生きているからです。
それぞれの人が その人なりの「当たり前」で生きています。
そして その「当たり前」が実は 様々な「余計」「不要」「無駄」の集まりなのです。
そしてそこから 様々な「無理」や「むら」が生まれてきます。
それらが蓄積すると 疲労や病気や老いになるのです。
ですから 自分の身体の動きを自覚して なるべく脱力をします。
歩いている時など 身体に意識を向けると 「ある」と感じるところは
それは「余計なものがある」ということなのです。
身体全体の力 身体の各部位の力を抜くことで 無駄な動きも無くなります。
そうすると 重心は自ずと下に落ちます。
余計な力が入っている時には 重心は下に落ちていません。
(重心が下に落ちているというのは 身体の重みが両足から地面に載っている感覚です。
これを体感するには 膝を軽く曲げて立ったり動いたりするとわかりやすいです。)

脱力をし 重心が下に落ちると 身体の動きが優雅になります。
余計な力みや動きが無いからです。
(バレーやスポーツや楽器の演奏など 身体を使うものも
この観点から見ると一目で 上手いのか下手なのかがわかります。)

そして この状態では 身体の動きの中心が「丹田」になっています。

①(動いている時/止まっている時に)身体に意識を向けて「ある」ところを認識する
②身体の力(=全身の力/身体の各部位の力)を抜く
③重心が下に落ちる
④丹田が動きの中心になる
⑤動きが優雅になる

そうやって身体を空(から)にすると 「身体(からだ)は空(から)だ」と実感できます。

歩く時にも 何かをする時にも 常に「脱力」「重心」「丹田」「優雅」を意識します。
そもそも体が疲れるというのはなぜなのでしょうか?
それは「同じ動き(動作)を繰り返す/同じ姿勢をとり続けることによって
偏り疲労が発生する」からです。

身体を空にするためにもう一つ重要なのは 「食べ過ぎない」ということです。
今の日本や欧米社会では ほとんどの人が食べ過ぎです。
余計な栄養や 食品に含まれている化学物質が排泄されずに体内に蓄積されていって
やがてそれらは毒として身体に作用します。
それらの毒が溜まったところを 癌が除去しようとしてくれます。
しかし 「癌は悪」と決めつけている西洋医学は その
「掃除道具」である癌を敵対視して除去してしまいます。
そうすると もっと毒が溜まります。
癌は慌てて「もっとしっかり仕事をしなきゃ」と思うのですが
医者も患者も癌を憎んで「とことんやっつけろ!」と攻撃します。
癌患者が多いのは 結局は食べ物からの毒が体内に溜まっているからなのです。
(ただし 想念の毒もまた癌の発生原因となります。
より正確には どこに毒が溜まるのかは低い波動の想念によって決まります。)
ですから 食べ過ぎないようにします。
そもそも「空腹」というのは
「食べたものが胃から腸へと流れて 胃が空になった変化」を感じているものです。
胃が空に成ったかどうかと 身体が栄養を必要としているかどうかとは関係ありません。
ですから 「空腹」かどうかで食べるのでは無く
身体が栄養を必要としているかどうか」で食べるようにします。

食事に関しては勿論 「何を食べるのか」も重要です。
これも基準は「零の波動」です。「ない」方が実は「ある」のです。
ですから なるべく「添加物が入っていないもの」
加工されていないもの」を摂るようにします

更には 「自分で調理したものを食べる」のが基本です。
食べるということは 波動を口から接種しているのです。
なぜ 他人が調理した食べ物=他人の波動を取り入れるのでしょうか?
もしもそれが自分の波動よりも高いものであれば それは役に立ちます。
しかし 必ずしもそうとは限りません。
基本的には 自分で調理したもの あるいは
自分と波動が近い家族が調理したものを食べるのが
波動的には最も安定するわけです。


頭を零の波動に近付けるには すなわち「ある」ものを減らしていくには
考えない」ことです。
「考える」ということは 想念を念波として発信しているということを自覚します。
その「発信」を止めるわけです。 
まずは「零」「何も無い」ということを考えます。
そして 頭の中の静寂を観察します。
瞼を閉じると 光が見えるかもしれません。
耳の中に音が聞こえるかもしれません。
息の音に意識が向くかもしれません。
何も考えずにそれらを見て 聞いて 観察します。
「観察」というのは「(価値)判断をしない」ということです。
観察していると 意識の密度が高まります。
より良く(深く/多く)見え より良く(深く/多く)聞こえるようになります。
「意識をそこに置く」=「意識の密度が高まる」=「意識をそこに集注する」
これらは同じことなのですが 「する」という能動的な気持ちが無い方が
実は「零」に成りやすいのです。

「考えない」=「想念を発信しない状態」になりますと
肉体を生き続けさせている (知覚していない)波動や
宇宙の原初の波動が多くの割合を占めるようになります。
そうすると それに共鳴/同調する波動が入って来やすくなります。
それによって 心も身体も健康になります。


このように「零の波動」「零の世界」というのは 「何も無い」のでは無く
「宇宙意識」=「宇宙の原初の波動」に満ち満ちている世界なのです。
それが「霊の世界」でもあります。
「霊」というと 「幽霊」を思う人がいるかもしれませんが
霊の世界は幽霊だけの世界はありません。
肉体を持っていない存在は全て霊です。
いわゆる天国も 霊の世界です。
それは「麗の世界」でもあります。

身体と頭とを「零の波動」に近付けることによって 私たちは
宇宙の中での当たり前な生き方を出来るようになるのです。
生み出し 育み 生かし 活かす 愛と調和との生き方を。


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【付記】
「零」と「ゼロ」の違い

「零」と「ゼロ」は同じではありません。
「零」=(物質的に)何も無い=非物質的には何かがある
「ゼロ」=何も無い/ものごとの始まり

例えば 子供が生まれると 日本の言い方では「一歳児」です。
けれども 欧米の言い方では 生まれた子は「ゼロ歳児」です。
そして 生まれてから一年たつと「一歳」となります。
生まれた子供はそこに居るのです。存在しているのです。
それなのになぜ「ゼロ」なのでしょうか?
あくまでも 生まれてから一年たつと「一歳」なのです。
日本では 生まれた=存在しているのですから 「人生一年目=一歳」なのです。

欧米の数え方では 一日の24時が翌日の0時です。
0時から一時間たつと1時となります。
日本では 一日は「子の刻(ねのこく)/九つ時」から始まります。
これも同様に 「始まり=0」とするか 「存在している」とするかの違いです。

建物の階数もまた同様です。
欧米でエレヴェーターに乗ると 日本では見ない「0階」という表記があります。
「無い階」って何?
いえいえ 「無い階」ではなくて「始まりの階」なのです。
建物というのは 地面の上に建てるのが当たり前です。
その当たり前の建物に 更に一階上に建て増ししたのが「一階」です。
ですから 正確な訳語は「一上階」です。
(本当は欧米でも「0階」という言い方はしません。「地上階」「地面階」です。
「0階」はエレヴェーターが発明されてからの便宜的な表記の仕方です。)
日本では 「地面に立てられた階=存在しているもの」ですから それが「一階」です。

このように 「零」と「ゼロ」というのは 実は同じものでは無いのです。
考え方が全く違っているのです。
そして この違いとは 「非物質の存在」を認識していたか していなかったかの違いなのです。
そしてこれが「近代科学」がヨーロッパで生まれた理由です。
非物質というものを認識していなかったからこそ ヨーロッパでは
「物質だけしか認めない/扱わない」科学というものが生まれたのです。
物質の存在も 非物質の存在も認識していた日本では 当然のことながら
「物質だけしか認めない/扱わない」科学というものが生まれるわけがありません。
けれども 明治維新以後 欧米文化が日本に入ってきて
近代科学を使った軍事力が強いことが国家として存在し続ける条件となりました。
それがために 日本でも物質しか扱わない近代科学が当たり前となってしまったのです。
そして だからこそ今の日本では 「0」は「零」ではなく
「ゼロ」と言われるようになってしまったのです。
「0」を「ゼロ」と言うのは 「非物質の世界は認めない」ということであり
それはすなわち「宇宙の存在を認めない」ということになるのです。
宇宙の中で 物質世界の領域はごくごく限られた狭い範囲でしかないのですから。
そうやって 地求人類は宇宙が何なのかも認識せず
自らが宇宙の中に存在していることも自覚せず
自分勝手なことをし続けてきたのです。

これが「零」と「ゼロ」との違いなのです。
「零」=(物質的に)何も無い=非物質的には何かがある
「ゼロ」=何も無い/ものごとの始まり

「零」は「霊」の世界です。
非物質の世界=宇宙の本質的な部分とは
「礼」=秩序が保たれている世界です。
「令」=善い/目出度い世界です。
「麗」=麗しい世界です。
これが日本語の「零」の世界なのです。


(2023/12/21)


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