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0(零とゼロ)

~ 日本文化と欧米文化の違い ~

 

《幸也の世界へようこそ》《幸也の言葉》 → 《0(零とセロ)~日本文化と欧米文化の違い》


【① 数え始めの違い】
【② 「十」を表す数字が無い】
【③ 整合性】
【④ 認識の仕方】
【⑤ 過去と現在】

***********************************

「0」は 日本語では「零」と言います。
ところが 今では多くの人が「ゼロ」と言っています。
なぜ 日本語の「零」では無く 英語由来のカタカナ語「ゼロ」と言うのでしょうか?
他の数は 日本語(とは言っても中国語由来の)
「いち/に/さん/し/・・・」という言い方をしています。
日常的に「ワン/ツー/スリー/・・・」とは言っていません。
それなのに なぜか「0」だけは「ゼロ」と言っています。

そもそも 「零」と「ゼロ」とは同じものでは無いのです。
それにも関わらず 「ゼロ」が日常的に使われています。
それは 「零」と「ゼロ」との違いを認識せずに使っているのです。
そしてその違いは 日本の文化と欧米の文化との違いでもあるのです。


【① 数え始めの違い】

赤ちゃんが生まれると 昔の日本では「一歳」でした。
そして 翌年の正月にひとつ歳をとります。
今は欧米風に 新生児は「ゼロ歳」と言われています。
そして 最初の誕生日を迎えると「一歳」となります。
「0=ゼロ」というのは「無い」という意味ではないのでしょうか?
赤ちゃんはそこにいるのです。
いるのにも関わらず 「ゼロ=無い」というのはおかしなことです。

欧米でエレヴェーターに乗ると 「0階」というのがあります。
それは 日本で言う「一階」のことです。
つまり「地階=地面の高さの階」のことです。
しかし その階はあるのです。
あるにも関わらず 「ゼロ=無い」というのはおかしなことです。

一日は24時間に分けられ 一時間は60分に分けられています。
この時間も まずは「0時」から始まります。
(前日の24時が 翌日の0時になります。)
そして 一時間たつと「1時」となります。
「分」もまた 「0分」から始まります。
すでにその日は始まっているのです。
始まっているにも関わらず 「0時=無い」と言っているのです。
昔の日本では「子の刻/丑の刻/・・・」という言い方をしました。
その時間はすでにあるのですから 「零」ではありません。

どうしてこういう違いなのでしょうか?
なぜ 欧米では「ある」ものを「0=ゼロ」と言うのでしょうか?
「ある」ものを「0=ゼロ」と言っている ということは
「0=ゼロ」は「無い」ということでは無いのです。

欧米風の歳の数え方は 「生まれてから何年たちました」という言い方です。
ということは 過去を見ているのです。
日本の言い方は 「人生の何年生」ということです。
生まれたからには そこに居るのです。
この世での「人生一年生」として居るのです。
ですから 生まれたら「一歳」です。
ということは 日本の歳の数え方は「今」を数えているのです。

建物というのは 地面に建てます。
空中には建てられません。
ですから まずは地面に平屋で建てる これが建物の基本です。
その基本の上に 階を建て増しすると「二階建て」「三階建て」となります。
欧米の階の言い方は これが基本となっています。
地面の上に建てた階が基本。
その上に「一階建て増しした」「二階建て増しした」という数え方なのです。
ですから 欧米の階の現し方を日本語に訳すには
「何階」では無く「何上階」という言い方が正確なのです。
日本の場合には 地面の上に建てたその階もそこにあるのですから「一階」です。
「ある」おものは「ある」と言う(当たり前の言い方をしている)のが日本語です。

ところが 欧米でも物の数を数える時には 基本的には「1」から始めます。
指の数は「1」から始めて5本となります。
「0=ゼロ」からは数え始めません。
家の番地もそうです。
欧米では「何通りの何番」という表記ですけれども
「何通りの0番」はありません。
「一番」から数え始めます。
時間に関わるものを「0=ゼロ」から数え始めるのかというと
それも必ずしもそうだというわけではありません。
例えば 学校に上がるとまずは「一年生」です。
「0年生」ではありません。
年号もそうです。
西暦(=キリスト教暦)は「0年」からでは無く「西暦1年」から始まっています。
百年ごとのまとまり「世紀」もまた 「1世紀」から始まっています。
なぜ? 

日本語は 必ず「ある」ということで数え始めます。
欧米ではそうではありません。
「ある」ものを「1」から数えたり 「0=ゼロ」から数えたり。
「ある」にも関わらず「0=ゼロ=無い」と言う。


【② 「十」を表す数字が無い】

「0」と関係している 日本と欧米とのもう一つの違いは
欧米の数字=ローマ数字には 「十」を表す字が無いということです。
日本語では「一二三四五六七八九十」となり
「11」は 「十と一」なのですから当然「十一」です。
しかし ローマ数字には「十」を表す字が無く
「十」は(なぜか)「1と0」で表します。
なぜここでまた「0=無い」が出てくるのでしょうか?
すでに見てきたように 「0」は「無い」のでは無いのです。
「ある」のにも関わらず 数え始めを「0」としているのです。
しかし なぜ「十」が「1と0」になるのでしょうか?
そして「十一」は なぜか「11=1と1」という書き方をします。
「1と1」だったらば それは「2」のはずです。
そして この書き方によってもう一つ混乱が起きます。
一から十で一つのまとまりです。
そして 十に数が加わって十一/十二・・・となります。
それなのにローマ数字では 「十」を「10」と書くことで二桁になります。
「9」までが一桁。なぜか「10」は二桁。
十進法というのは 「十」が一塊の数え方のはずなのに
「10」は疎外されているのです。
あたかも その次の「11」からの括りに入っているかのようです。
これは 「20」や「30」そして「100」も同様です。
「百」までで一区切りのはずなのに なぜかそこで三桁になる。
そして「1と0と0」という不思議な書き方をする。

結局「0」というのは 「ある」ことなのか「無い」ことなのか?


【③ 整合性】

日本語は 必ず「大きい方から小さい方」へと表します。
例えば 人名は「姓+名」 すなわち「何家の中の誰」という表し方です。
住所は「都道府県の中の市町村の中のどこの何丁目何番地」です。
時間は「何年の何月の何日の何時の何分の何秒」:です。

欧米では 多くのものが「小さい方から大きい方へ」の表し方です。
人名は「名+姓」 つまり「誰それは何家の人」です。
住所は「何番地は何通りの中で それはどこの市町村の中で それはどこの州の中」となります。
時間は「何日は何月の中で それは何年の中」となるのですが
(英語では 「何月何日何年」となります。) 
しかし!! 
「何秒何分何時」とは表記しません。
「何時何分何秒」です。
これはなぜか 「大きい方から小さい方へ」なのです。

ここまで見てきて分かったように
欧米の数の表記の仕方には 整合性が無いのです。
ものによって「0」から数え始める。
ものによって「1」から数え始める。
ものによって「小さい方から大きい方へ」数える。
ものによって「大きい方から小さい方へ」数える。

そして 実際にはそれらの表記の仕方は 便利では無いのです。
「名+姓」と表記しながらも 電話帳には
欧米でも「姓と名」の順番で並べられています。
郵便を配達する際に まず番地から探し始めるでしょうか?
まずは どこの国宛なのか その国に送ってから その中のどの州や都道府県なのか
更にその中の市町村なのか と見ていくはずです。

こういう風に見ていくと
日本語は整合性がとれているのに対して
欧米の表記の仕方は整合性がとれていないということが分かります。

なぜ そのようなことになってしまったのでしょうか?

 
【④ 認識の仕方】

日本人と欧米人とでは ものごとの認識の仕方が違うのです。
「木を見て森を見ず」という諺がありますが
日本人は「森を見て 木も見る」という認識の仕方をします。
欧米人は「木を見て森を見ず」という認識の仕方をします。
(これは 魚が泳いでいる水槽を見せた後で
何が見えたかを書かせる実験の結果で実証されています。
日本人は 水槽全体の印象を一番に挙げています。
欧米人は 水槽の中でとく目立った魚を一番に挙げています。)
つまり 欧米人にとって重要なのは「個」なのです。
特にアメリカ人はその傾向が強く ですから
アメリカ人にとって一番重要な言葉は「ヒーロー=英雄」なのです。
(常に主役は一人の英雄です。)
日本人にとって重要なのは「集団」「全体」なのです。

なぜそうなのでしょうか?

それは 欧米人は「狩猟民族」であり
日本人は「採集・農耕民族」だったからです。
狩に行って重要なのは 獲物であって森ではありません。
そして 獲物はそれを見つけて射止めた人のものです。
採集と農耕を基本とした日本では 
稲の一本一本よりも 田んぼ全体の実り具合の方が大事です。
集団で仕事をし 皆で収穫を分かち合いました。
その違いが ものごとの認識の仕方の違いとなり かつ
言語での表現の違いとなっているのです。
「個」を重視する欧米人は 「個」に注目し
「小さい方から大きい方へ」という表し方をする。
「全体」を重視するに日本人は 
「大きい方から小さい方へ」とものごとを捉え 表現する。

ところが「小さい方から大きい方へ」という表記の仕方は
全てがそれで通せるわけではありません。
それで整合性が崩れてしまうのです。


しかし ものごとを数え始めるに
「ある」ものを「無い」と認識するのはどうしてなのでしょうか?


【5)過去と現在】


(2025/11/10)



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