16世紀のフランダース地方
・・・その経済・信仰・文化
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(この文章で言う「フランダース地方」とは
旧フランダース伯爵領(現在はベルギー/オランダ/フランスにまたがっています)
その隣の旧ブラバント公爵領(現在はベルギーとオランダにまたがっています)
現在のベルギー王国の北半分である(上記二つの地域を含む)フランダース州
おおよそ これらの重なり合っている地域のことです。
(「フランダース」という言い方は英語由来です。
旧フランダース伯爵領はオランダ語地域でしたが
長いことフランス王国によって統治されていましたので
行政はフランス語で行われていました。
フランス語では「フランドル」 オランダ語では「フラーンデレン」となりますが
かつその所有格は「フラマン」と「フラームス」となりますが
ここでは混乱を避けるために 日本で最も馴染みのある かつ 格変化の無い
「フランダース」の言い方を用いています。
その他の地名も オランダ語発音のカタカナ表記では無く
「アントウェルペン」は「アントワープ」 「ブリュッゲ」は「ブルージュ」というように
日本での一般的な言い方にしてあります。)
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0)16世紀以前のフランダース
フランダース伯爵領は 現在のベルギーを中心に北のオランダと 南のフランスにまたがる
大西洋に面した地域です。
海に面しているために 漁業と海運とで栄えました。
しかし もう一つ重要な産業が毛織物でした。
イギリスで採れた羊毛が フランダースの海岸で荷揚げされ 織物に加工されました。
イギリス産の羊毛は ヨーロッパ内でも特に質が良かったために
その羊毛を使ったフランダース産の毛織物製品も特に質が高く
ヨーロッパ各地に出荷されるようになりました。
そして 毛織物の輸出はやがて 他の品目をも含む貿易業へと発展していきました。
特に 高額で小さく軽くかさばらないものを主に扱うことによって
とても高い利益率での貿易を行いました。
これにより ヨーロッパ全域にまたがる貿易網がフランダース伯爵領を中心に築かれ
また 貿易のために国際貨幣社会が誕生しました。
つまり 今日にまで至る国際貿易や国際金融社会は フランダース伯爵領から始まったのです。
15世紀にはフランダース伯爵領は
アルプス以北のヨーロッパにおける貿易の中心地となっていました。
13世紀にはイーペルが 14世紀にはゲントが 15世紀にはブルージュが
ヨーロッパ有数の都市として繁栄していました。
また ヨーロッパ内で最も重要な年市(今日の国際博覧会)が開かれていました。
そして 経済的に栄えたのみならず 文化や芸術面においても
ヨーロッパでも特に重要な地域となりました。
☆毛織物製品の中でも タペストリーの発明や高級服飾
☆油絵の具の発明と油絵絵画
☆金をはじめとする金属加工
☆彫刻や家具などの木工製品
☆ゴチック様式の建物(教会/ギルドハウス/鐘楼/市庁舎)
☆音楽(多声音楽の発明)
など 様々な分野においてヨーロッパ内でも特に素晴しいものを生み出していました。
1)16世紀のフランダースの経済
ブルージュを中心としたフランダース伯爵領の経済活動はブルゴーニュ公国に編入されていた15世紀に頂点を迎えます。
しかし 1480年代にブルゴーニュ公国の統治権がハプスブルク家に移ったことにより
神聖ローマ帝国の統治下に入ります。
そして ブルージュでの商業活動は
以前から神聖ローマ帝国領内であったブラバント公爵領のアントワープへと移っていきました。
これにより 経済活動の中心は フランダース伯爵領から ブラバント公爵領へと移りました。
すでに領内に幾つも築かれていた都市は 商人や職人達がより豊かになったことによって
更に規模を拡大して大都市へと発展しました。
(アントワープ/メッヒェレン/リール/ブリュッセル/ルーヴェン など。)
ヨーロッパ内で最も大都市が密集し 人口密度が高く
商業活動のみならず 職人による手工業が盛んな地域となっていました。
都市にあった教会は いずれも増改築され より大きくより高くなっていき
建物は華麗に装飾され ロマネスク様式や初期ゴチック様式の質素さは過去のものとなりました。
また (キリスト教カトリックや統治者に対して)市民の力の表れとして
大規模な市庁舎やギルドハウスや邸宅が続々と建てられました。
この時代 アントワープがヨーロッパにおいて最も貿易が盛んな都市となりました。
なぜならば 15世紀末までの貿易はヨーロッパとその周辺に限られていたのに対して
大航海時代が始まったことによって 貿易の範囲は全世界へと広がり
世界各地からの物資がアントワープの港で荷揚げされたからです。
そして 荷揚げされた物資は その後陸路ヨーロッパ各地へと運ばれていきましたので
ブラバント公爵領内に交通の要所として都市が発展しました。
つまり ブラバント公爵領は ヨーロッパ内で
最も経済活動が盛んな 最も富を蓄えた地域となっていたのです。
しかし 16世紀のフランダース伯爵領とブラバント公爵領とは
世界有数の繁栄を誇る商業地域から 一転して
ヨーロッパ内で最も宗教改革の混乱 すなわち
旧教カトリックと新教プロテスタントの対立が激しい地域となり
世紀後半には経済活動も 手工業も急速に衰退していきました。
2)16世紀フランダースの信仰
16世紀に入ると 宗教改革が起きたことによってヨーロッパ内は大混乱に陥ります。
つまり キリスト暦(=西暦)が始まって以来の大混乱となりました。
その混乱が特に激しかったのが ブラバント公爵領でした。
ヨーロッパは11世紀にはその全域がキリスト教化されていました。
しかし 15世紀に入ると カトリックへの反発もまた出てきて
ボヘミアではフスによる宗教改革が始まり そして
16世紀に入ると マルティン・ルッターがドイツで
ジャン・カルヴァンがフランスで 宗教改革の狼煙を挙げます。
宗教改革の立場に立ったのは商人や職人達でした。
つまり 封建領主ではない金持ちです。
なぜならば キリスト教カトリックによって
「金持ちほどたくさん教会に献金しなければいけない」とされていたからです。
その献金を聖職者たちは何にどう使っていたのでしょうか?
私利私欲のために使っていたのです。
しかし 宗教(改革)に対する姿勢は アルプスの南北で違っていました。
アルプス以南では 教会の(=聖職者の)収入は 公共事業にも当てられていました。
つまり人々に幾らかは還元されていました。
ですので 人々は聖職者達の擬態を暗黙の内に受け入れていました。
そして 表立った理屈での挑戦では無く 文化/芸術によって人々の気持ちを変えていこうという
ルネッサンスが始まりました。
しかし アルプス以北では教会の(=聖職者の)収入が公共事業に当てられることは無く
聖職者達はひたすら私利私欲のために使っていたのです。
ですから 敬虔にカトリックの教えを受け入れていた人びとの
それに対する反発が強く起こりました。
16世紀半ばには ブラバント公爵領もフランダース伯爵領も
スペイン系ハプスブルクの統治下に入ります。
宗教改革が広まったこれらの土地を カトリックで統治するという方針の下
新教への改宗者に対しての弾圧が行われました。
その結果 商人や職人達はスペイン領に見切りを付け 北のオランダへと移住していき
そしてオランダは世界初のプロテスタントの国として独立します。
中世のヨーロッパでは 都市の中に暮らしているのは商人と職人
そして農民は都市の外の農村に暮らしていました。
しかし 宗教改革による混乱と カトリックのプロテスタントへの弾圧から
都市で暮らしていた商人や職人達は去って行き
どの都市も人口が半分から三分の一にまで減ってしまいました。
宗教改革は 「理屈でカトリックに挑戦状を叩きつけた」ものです。
ですから 字の読み書きができる商人や商人には理解できました。
しかし カトリックによって字の読み書きが禁じられていた農民達にとっては
宗教改革の理屈は難しすぎます。
ですから 農民の間には広まっていきませんでした。
つまり プロテステントに移った都市生活者と カトリックに留まった農民
という構図になりました。
かつ プロテスタントに移った人々は 純粋な宗教心からではありません。
カトリックが「金持ちは天国に入れない」といっていたのに対して
カルヴァンは「金持ちになるのは 神の豊かさの現れ」だとして否定しなったのが
商人や職人達に受け入れられた理由なのです。
つまり 自らの利権にこだわるカトリックと 利益を自分たちのものにしたい商人や職人たちと
という対立だったのです。
これによって 宗教心/信仰心といったものが 急速に失われていきます。
3)16世紀フランダースの文化
イタリアで始まっていたルネッサンス様式は ドイツを経由して北上してきましたがフランダースにおいてそれが定着するのは 16世紀に入ってからになります。
1517年にイタリアからラファエロがブリュッセルを訪れました。
同じ年に 低地地方(=フランダース+オランダ)で最初のルネッサンス建築が完成します。
しかし それは まだ「形」としてのルネッサンス様式が入って来たのであって
「精神」「理念」「思想」として入ってきたわけではありません。
16世紀も後半になって 徐々にそれら中身が広まっていきますが
しかし その時代にはイタリアでは ルネッサンス様式はすでに堕落していましたので
その堕落した理念が(というよりも形が)伝わってきて
(堕落したのは理念が伝わらなかったからなのですが)
本来のルネッサンスの始まりの(反カトリックとしての)「精神」「理念」「思想」というものは
ほとんど入っては来ませんでした。
16世紀前半には ヨーロッパ中で最も豊かな地域として更に発展繁栄していくのと同時に
宗教改革が始まり その混乱がどんどん広まっていきました。
そして 世紀後半には旧教と新教の対立は激化します。
そういう中で 文化はどう変わっていったのでしょうか?
アルプス以南のラテン系は狩猟民族で「分かち合わない」「個」を主体とした社会です。
つまり「我」を主体としています。
それに対してアルプス以南のゲルマン系は採集農耕民族で
「分かち合う」「集団」を主体とした社会です。
つまり「世の中」を主体としています。
フランダース伯爵領とブルゴーニュ公国においても
アルプス以北の社会ですから「個」よりも「社会」を尊重しました。
だからこそ 「金持ちが天国に行くのは難しい=たくさん献金しなければならない」という
カトリックの教えに則って 宗教美術へ 社会福祉へと
多くの献金/募金をしていました。
ですので 都市生活者たちも「自分達の生活を楽しむ」ことよりも
「全体のことを考える」世の中を作っていました。
しかし 宗教改革が起き 「自分達は聖職者たちに騙されていたのだ」という思いが広がり
やがてそれは「だったらば 自分達も聖職者同様 自分の儲けを優先しよう」
という考えへと変わっていきました。
特に 宗教改革の混乱期には 「自分達の財産を守る」ことが優先されます。
商人や職人達は 不動産は置いて それ以外の財産を持って逃げ出して行きました。
いつ財産を失うかわからない時代だったのです。
宗教心/信仰心が薄らいでいった人々は 当然宗教への出費を控えます。
ですから 祭壇や聖人像や宗教画にお金をかけることが激減しました。
しかしそれに対して プロテスタントに移った人々をまたカトリックに戻したいという
カトリックの反宗教改革運動も盛んになります。
多くの教会がプロテスタントによって破壊され 祭壇や聖人像や宗教画が失われていましたので
カトリックは積極的にそれらを新たに制作します。
15世紀に より大きくより高くと増改築が進められていた教会建築は
しかし 16世紀に入ってからの社会の変化によって
増改築は中止され 未完成となって放置されました。
フランダース伯爵領独自の文化である鐘楼に吊り下げられているカリヨン(組み鐘)の
今日に至る演奏装置が16世紀初めに発明されました。
これにより フランダース伯爵領とブラバント公爵領において
カリヨン文化が広まっていきます。
(カリヨン文化は 現在 世界文化遺産に登録されています。)
社会がカトリックの縛りから解放されていったことによる変化の一つが 医療です。
それまで カトリックは医療行為を禁じていました。
「病気になるのは神の御業であり 病気を治せるのも神だけ」としていたので
病気からの回復には 祈りだけしか認めていませんでした。
しかし カトリック社会が崩壊したことによって
「人が人を治療する」ことが始まり 広まりました。
薬草の栽培と使用が広まり 医師という専門職が誕生しました。
(ブルージュ出身のシモン・ステーヴィンは
それまでラテン語だけだった学術用語をオランダ語にしたことによって
その後各国語での学術用語が作られる その基礎を築きました。)
(メッヒェレン出身のレムベルト・ドドゥーンスは
各種植物をその類似性から「種(しゅ)」によって分類し
初めての植物図鑑を編纂し 今日に至る植物学の基礎を確立させました。)
1450年代に ドイツのグーテンブルクが活版印刷技術を発明して以来
本は 手書きから印刷へと変わっていきましたが
16世紀には アントワープがヨーロッパの印刷業の中心地となっていました。
宗教改革の側の本と カトリックの(反宗教改革の)本とが
同じ印刷所で作られていました。
印刷が発展したもう一つの理由は 大航海時代で世界地図(海図)が必要になったためです。
それらの世界地図(海図)の多くが アントワープで印刷されました。
(メルカトール図法の発明者メルカトールは アントワープ近郊の生まれです。)
あるいは 出版産業が盛んだったために (トーマス・モアやエラスムスなど)
各種文化人や学者達もアントワープへと集まってきました。
つまり アントワープはヨーロッパの中でも特に重要な文化都市だったのです。
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このような16世紀にフランダース伯爵領やブラバント公爵領において産み出された芸術作品の中から
特に素晴しいものを他のページにてご紹介しています。
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