アントワープ王立美術館の見学
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☆☆☆ これは アントワープにあるベルギー王立美術館を見学するにあたっての手引きです。
あくまでも 実際に絵画を観ながらのためのものですので 画像は補助にすぎません。 ☆☆☆
アントワープにあるベルギー王立美術館の歴史は 1382年にアントワープに聖ルカ(美術職人)ギルドが結成され美術品が展示された時にまで遡ります。
1663年には(現存する世界で四番目に古い)美術学校が聖ルカギルド内に開設され 教育のために美術品が収集され展示されました。
1927年以来 国の管理下におかれています。(「王立」というのは単なる称号です。)
7200点(絵画3200 彫刻400 その他)の美術品を所蔵しており 現在の本館の建物は ベルギーの独立50周年の記念および 1885年にアントワープで開催された万国博覧会を機に 17世紀前半にこのアントワープで活躍したバロック絵画の巨匠リューベンスに捧げるという名目で1884~1890年にかけて建てられたもので その後21世紀に入ってから建物は大規模に増改築され 2022年9月に再開された現在の建物は四つの階=部門に分かれています。
1階【現代部門】・・・世界最大のジェームズ・アンソールコレクションを初めとする 20世紀の作品
2階【古典部門】・・・15世紀初めのゴチック絵画(写実主義)から19世紀末まで
3階【印刷物/彫刻】・・・版画/印刷物/彫刻
4階【現代部門】・・・20世紀後半から21世紀の作品
改築/改装後のこの美術館の展示の特色は 時代順あるいは様式ごとの区別ではなく ジャンルごとに部屋分けされていることです。
つまり「風景画の部屋」「肖像画の部屋」などに分けられており それぞれの部屋にはいろいろな時代の=様式の作品が展示されています。
ですので 階ごとに時代分けされているようでいて 実際には古典の階に20世紀の作品が 現代の階に17世紀の作品が展示されていたりもします。
(このために 波動的に非常に混乱した落ち着きの無い雰囲気となっています。)
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全部を見学するにはとても時間がかかりますので ここでは主要部分である二階の古典部門(14世紀から19世紀末の作品)に限って解説しています。
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【入り方】
☆正面入り口(=階段の上)は閉鎖されています。階段の左側が入り口です。
☆入場券は 入ってすぐ右にある自動券売機で購入します。空いている見学時間を選びます。支払いはカードのみです。
☆荷物は 手に持った上着/傘/飲み物の瓶/A4よりも大きい鞄は持込が禁止されていますので ロッカーに入れます。
ロッカーは つまみが上向きになっているのが空いているところで そのつまみを強く引っ張って扉を開けます。
中に荷物を入れ 扉を閉め 任意の四桁の数字と「レ」を押し つまみを回転させます。開ける時には再び四桁の数字と「レ」を押します。注意:必ずロッカーの番号を覚えておきましょう!
☆便所は 男女の表示はありません。「腰掛けてする」「立ってする」「身障者用」の表示で三部屋に分かれています。
☆古典部門へは螺旋階段を上がります。または 便所のある廊下の突き当たりのエレヴェーターで二階に上がります。
☆螺旋階段を上がって 係員に入場券を見せると そこが本来の正面入り口の大ホールです。
☆階段を上がってから 壁画を見ましょう。
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【正面入り口大ホール】
この美術館の建築を記念して これまでの(まだベルギー王国になっていなかった時代も含めて)ベルギーにおける偉大な芸術家たちの姿が描かれています。
この美術館の主役である(あるいは 主役だった)リューベンスの姿は 中央画面のやや右側に立っている黒い服の姿で描き出されています。)
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【古典部門】目次
【展示室2.2】☆リューベンス/ファン・ダイク/ヨルダーンス
〔1〕ペーテル・パウル・リューベンス作「トーマスの不信心」1613-15年
〔2〕ペーテル・パウル・リューベンス作「諸聖人たちに祝福され戴冠する聖母子」1628年
〔3〕ペーテル・パウル・リューベンス作「キリストの洗礼」1604/05年
〔4〕ヤーコブ・ヨルダーンス作「聖アポロニアの殉教」1628年
〔5〕リューベンス(の公房でのアントーン・ファン・ダイク)作「槍の一突き」1619年
〔6〕ペーテル・パウル・リューベンス作「三王の謁見」1624年
〔7〕ペーテル・パウル・リューベンス作「自画像」1624年
【展示室2.3】
☆バロック絵画
〔8〕ペーテル・パウル・リューベンス作「聖フランチェスコの最後の聖体拝領」1619年
〔9〕コルネリス・シュクット作「ポルティウンクラ」1649年
〔10〕アントーン・ファン・ダイク作「ピエタ」
〔11〕ペーテル・パウル・リューベンス作「聖母の教育」1630-35
【展示室2.21】
☆肖像画
〔12〕ロヒール・ファン・デル・ウェイデン作「フィリップ・デ・クロワの肖像画」1460年頃
〔13〕ヤン・ファン・アイク作「聖バルバラ」1437年
〔14〕作者不明(1499年の巨匠)「クリスティアーン・デ・ホントの二連画」1499年
【展示室2.17】《マドンナ》
☆マドンナ
〔15〕ヤン・ファン・アイク作「泉の聖母子」1439年
〔16〕ジャン・フーケ作「聖母子とケルビムとセルフィム」1451-52年
〔17〕ペーテル・パウル・リューベンス作「聖家族とオウム」1614-1633年
【展示室2.19】
〔18〕ロヒール・ファン・デル・ウェイデン作「七秘蹟」1445/50年頃
【展示室2.22】
☆宗教画
〔19〕ハンス・メムリンク「父なる神(祝福するキリスト)と音楽を奏でる天使たち」1489年
〔20〕ベルナルド・ファン・オルレイ作「最後の審判」1524年
【展示室2.7】《イメージ》(肖像画の部屋)
〔21〕ハンス・メムリンク「硬貨を持つ男性の肖像画」1480年頃
【展示室2.9】《イメージ》(肖像画の部屋)
〔22〕コルネリウス・デ・フォス作「家族の肖像画」1638年
〔23〕アントーン・ファン・ダイク作「画家マルテン・ペペインの肖像画」1632年
〔24〕ペーテル・パウル・リューベンス作「ガスパル・ゲヴァルティウスの肖像画」1628年
〔25〕フランス・ハルス作「ステファヌス・ゲヴァールツの肖像画」1651年
〔26〕レンブラント作「ある牧師の肖像画」1637年
【展示室2.12】《人生の学び》
〔27〕ヨアヒム・ベウケラール作「野菜市場」1567年
〔28〕
【展示室2.14】《サロン》
☆産業革命以後の資本主義社会
〔29〕ヘンリ・デ・ブラーケラール作「旅籠屋」1637年
〔30〕アルフレッド・ステーヴェンス作「パリのフェニックス」1875/77年
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【展示室2.2】
《リューベンス/ファン・ダイク/ヨルダーンス》
この広い部屋2.2は 「リューベンスに捧げる」という名目で建てられたこの美術館の中央に位置しており そもそもは「リューベンスの部屋」とされていたところです。
しかし 改築後はリューベンスの作品だけではなく ファン・ダイクとヨルダーンスの作品も展示されています。(似た画風なので判り難いです。)
ペーテル・パウル・リューベンスは ドイツのジーゲンの生まれではありますが 両親の出身地であるアントワープで三十代初めから64歳で亡くなるまで創作活動をしました。
(日本では「ルーベンス」とカタカナ書きされますが これはドイツ語読みです。オランダ語の発音では「リューベンス」となります。)
宗教改革が起きた後 旧教カトリックと新教プロテスタントの激しい対立で荒廃した教会を再び美術品で飾り かつ まだ旧教に留まっている人々が新教に移らないように あるいは新教に移っていった人々を旧教に呼び戻す宣教活動のために カトリックが大量に美術品を必要としていた時代にリューベンスは活躍しました。
彼の 大胆な/躍動感溢れる/劇的な/芝居がかった大袈裟な表現は まさにカトリックが求めていたものであり だからこそリューベンスには注文が殺到しました。
そのために 三十代半ば以降は一人では注文をこなすことができなくなったので 共同制作の仕組みをとるようになります。
彼自身が描いた小さな下絵を元に 他の画家たち(あるいは弟子たち)十数人で実際の(大きな)画面に描いていく というやり方です。
その共同制作者たちの中でも 特に有能だったのが アントーン・ファン・ダイクとヤーコブ・ヨルダーンスの二人です。
ファン・ダイクはリューベンスよりも22歳若く 十代半ばから才能を発揮してリューベンスの仕事を手伝う神童でした。
ヨルダーンスはリューベンスよりも16歳若く かつ85歳までと長生きをしたので リューベンスの死後アントワープの画家ギルドの会長の席をリューベンスから継いだ名実共にリューベンスの後継者となりました。
この時代には カトリックが求めていたものは「リューベンススタイル」ですので アントワープの画家たちの誰もがリューベンスの画風を真似て描かなければなりませんでした。
ですので リューベンスの作品の共同制作者としてだけではなく 彼ら自身の作品もまたリューベンススタイルになっており 一見するとリューベンスの作品と見分けがつき難いもの(あるいはそれがために長いことリューベンス作だとされていたもの)もあります。
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〔1〕ペーテル・パウル・リューベンス作「トーマスの不信心」1613/15年 143x123cm(中央画面) 146c55cm(両翼) 木の板に油彩
Peter Paul Rubens 《 Het ongeloof van Thomas 》
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イエス・キリストの12人の弟子の一人であったトーマスは イエスが復活したという話を聞いてもそれを信ぜず 「そのイエスの手の傷に自分の指を通してみるまでは信じない」と言いました。
そのトーマスの前に 復活したイエスが現れて手の傷を見せている場面です。
この絵は ペーテル・パウル・リューベンス(1577-1641)の友人であり アントワープの市長を務めていたニコラース・ロコックスと その妻の墓の祭壇画として描かれたものです。
ですので 両翼にロコックス夫妻が描かれています。
(ロコックスの守護聖人である聖ニコラースを題材としていないのは ロコックスがこの主題に特に思い入れがあったためだと思われます。)
全体として リューベンスの画風としては例外的なかっちりとした描き方がなされていますが これは注文主であるロコックスの趣味を反映したものです。
ロコックスは大変な美術愛好家で (子供が生まれなかったので 財産の多くを美術品に費やし)多くの美術品を収集していましたが 特に古代ギリシャや古代ローマなどの古典芸術に愛着を持っていました。
リューベンスの二百年後に流行する新古典派を思わせる画風(暗い背景に浮き上がる人物像/少ない登場人物/少ない動き/象徴的なポーズ)となっているのは それが理由です。
(大聖堂にある「十字架から降ろす」の絵が やはりきっちりした描き方がされているのも 同じくロコックスの注文で描かれたからです。)
もう一つの特色は 人物の姿が全身ではなく部分で描かれていることです。
他の宗教画と比べると画面が小さいですので このように描くことによって人物の姿はほぼ等身大となり 絵を見ている私たちがこの場に一緒に居るような臨場感を出しています。
決して大袈裟な動きではないからこそ 一人ひとりのこの場での心と身体との動きの一瞬を捉えた表現となっています。
また (大きな祭壇画よりも)近くで見る絵だからこそ ルーベンスが得意とした肌の描き方もより丁寧であり 彼の本領が発揮されています。
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〔2〕ペーテル・パウル・リューベンス作「諸聖人に囲まれて戴冠する聖母」1628年 564x401cm キャンヴァスに油彩
Peter Paul Rubens 《 Toronende Madonna aanbeden door heiligen 》
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天上界において戴冠する聖母を祝福するために 諸聖人たちが集まって取り囲んでいる情景です。
ペーテル・パウル・リューベンス(1577-1641)の51歳の時の作品ですので 本来ならば円熟期のはずですが 49歳で夫人を亡くした後のリューベンスは その悲しみを紛らわせるためもあって 四年の間アントワープを離れて画家かつ外交官として外国で過ごす時間が多くなっていました。
ですので ほとんどが他人の手に任された共同制作によるものです。
しかし 全体としては(他の共同制作の作品と比べると)まとまりの良いものとなっています。
全体の構成/人物の配置/それぞれの人物の姿勢/色合いなどが いずれも良く整っています。
階段の上の玉座に座す聖家族。ほとんどの聖人が全体として大きな螺旋形を描く配置。まさにリューベンスの得意な劇的表現となっています。
左上の二人:聖ペテロ(鍵)/聖パウロ(剣) 螺旋の右上から:洗礼者ヨハネ(羊)/ヨゼフ/聖母/幼子イエス/聖カタリーナ(指輪)/モンテファルコの聖クラーラ(秤)/マグダラのマリア/聖アグネス(羊)/聖アポロニア(歯)/聖ゲオルギウス(踏みつけた龍)/聖セバスティアン(矢)/アキタニアの聖ウィレム(背中)/聖アウグスティヌス(司祭の服と燃える心臓)/聖ロレンティウス/トレンティーノの聖ニコラース(パン)。
しかし 諸聖人たちは 戴冠する聖母を祝福するために集まっているのかと思いきや 画面下半分の聖人たちは 誰も聖母の方を見ていません。
とりあえず集まった という感じです。このような「集注しない=雑多な感じ」が まさにバロックなのです。
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〔3〕ペーテル・パウル・リューベンス作「キリストの洗礼」1604/05年 411x675cm キャンヴァスに油彩
Peter Paul Rubens 《 doopsel van Christus 》
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イエスがヨルダン川で 洗礼者ヨハネから洗礼を受けている情景です。
この絵は ペーテル・パウル・リューベンス(1577-1640)のイタリアに滞在していた二十代後半の作品です。
ですので まだ彼自身の画風が確立するよりも前のものということになります。
フランダースの(写実主義の)美術の伝統と イタリアで接した(ルネッサンス)美術から得たものとを元に 彼なりの表現をしようとしている時期の作品ということになります。
イタリアでは 建物の壁や天井が装飾されたこともあって 大きな絵画というのが当たり前でした。
(ベルギーでは 壁を飾ったのは タペストリーです。)
この作品は「ベルギーの自分だって大きな絵が描けるんだぞ!」ということを表したいがために 無理して大きな画面に描いているような感じがします。
大きな画面の左半分に洗礼の情景が描かれています。
では 右半分は? 無駄な部分あるいは余計な部分に感じられます。
大きな画面を何とか埋めるために 余計な無駄な表現をしたのでしょうか。
そういう若さが感じられますが しかしイタリアルネッサンスを更に発展させて より躍動的なより劇的な表現のバロックへと移っていく それもまた現れている作品となっているようです。
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〔4〕ヤーコブ・ヨルダーンス作「聖アポロニアの殉教」1628年 407.5x219.7cm キャンバスに油彩
Jacob Jordaens 《 Marteling van de heilige Apollonia 》
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聖アポロニアは 三世紀後半のエジプトのアレキサンドリアの人です。
ローマ人がキリスト教徒を襲った暴動の時に ローマ人の(アポロニアの右に立つ)司祭が (司祭が指差している方向 画面の左上の)ローマの神への信仰を求めましたがそれを拒否し 歯を抜かれる拷問にあってもキリスト教の信仰を捨てず 結局は火あぶりの刑で死んでいきます。
この絵では 歯を抜かれている様子と 画面の下の方では火あぶりのための火が焚かれている様子とが描かれています。
画面上方では 天後へと戻ってくる彼女を祝福するために 聖母と天使たちが冠と棕櫚の枝を持って待っています。
この作品は アントワープにあったアウグスト教会の祭壇のためにヤーコブ・ヨルダーンス(1594-1678)によって(彼の公房で)制作されました。
(〔2〕ペーテル・パウル・リューベンス作「諸聖人に囲まれて戴冠する聖母」が主祭壇に この作品がその横に掲げられました。
制作費は リューベンス作品は3000グルデン(現在の45000ユーロ) ヨルダーンス作品は600グルデン(現在の9000ユーロ)。当時リューベンスがどれほど特別扱いされていかがわかります。)
ヤーコブ・ヨルダーンスが 共同制作者としてリューベンスの仕事を手伝うだけではなく 一人の画家としての名声をも確立した頃の三十代半ばの作品です。
リューベンスが「全体を一目見たときの印象」を重視した(=細部にはこだわらない)のに対して ヨルダーンスは登場人物一人ひとりの顔が生き活きとした存在感で描かれています。
(ですので 彼の特色はこのような大きな宗教画では無く もっと小さな風俗画で出ています。(別の部屋にある「老人が歌うように子供は笛を吹く」で見ることができます。)
なぜならば リューベンスはカトリック(=全体主義)に属していたのに対して ヨルダーンスはプロテスタント(=個人主義)に属していたからです。
この作品は 全体としてはリューベンススタイルではありますが しかし どの部分も陰影がはっきりしたくっきりとした表現で存在感が表現されています。
一つひとつの存在の価値を認める気持ちが表現されているようです。
リューベンスの絵とのもう一つの違いは 天使の描き方です。
リューベンスは肌の表現が得意でしたので天使がきれいに描かれている(のでいかにも天使に見える)ことが多いのですが ヨルダーンスの作品では天使も地上の人々も同じ存在感で描かれています。
プロテスタントでは 天使の存在は重視されていないこともその理由かと思われます。
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〔5〕リューベンス(の公房でのアントーン・ファン・ダイク)作「槍の一突き」1619年 424x310cm 木の板に油彩
Antoon van Dijck 《 Het lanssteek 》
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この絵は長いことリューベンスの作とされていたものです。
(彼の公房で制作されたものですから当然です。)
しかし 一目見てアントーンファン・ダイク(1599-1641)の手によるものだと判ります。
画面右下の聖母の描き方にそれが特に見て取れます。
「リューベンススタイル」で描かなければならない ということはすなわち ファン・ダイクの本当の気持ちで描いているのではありません。
「仕方なく」リューベンスのスタイルで描いている その「決まらない」感じ 中途半端な気持ちが充分に出ています。
全体として 雑な描き方で ファン・ダイク特有の丁寧な表現がなされていません。
完成までに時間が無かったことが理由ではないかと思われます。
しかし このようは雑な仕上がりの作品が ル-ベンスの公房から「リューベンス作」として大量に世の中に出て行ったのです。
絵全体(すなわちリューベンスの構想)としては 十字架に磔にされたキリストの右脇腹が槍で刺される瞬間を劇的に表現しています。
バロック絵画の特色である「劇的表現」には打ってつけの題材であったとも言えます。
画面の上半分には 磔にされた三人。下半分にはその他の人々。そして (主役である)槍を持った兵士は馬に乗っていることで その両方の間に位置し躍動感を盛り上げています。
全体として「く」の字の構図(=音楽で言う「クレッシェンド記号」)が 更に効果的な盛り上がりを生み出しています。
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〔6〕ペーテル・パウル・リューベンス作「王たちの謁見」1624/25年 447x330cm 木の板に油彩
Peter Paul Rubens 《 De aanbidding der koningen 》
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この絵は アントワープの川岸にあった聖ミカエル修道院の教会の主祭壇のためにペーテル・パウル・リューベンス(1577-1641)によって(彼の公房で)描かれたものです。
二週間で仕上げなければならなかったために 太い筆で 早い筆の動きで描かれているのが見えますが しかしそれにしては それほど(この時期の彼の他の作品と比べて)雑な描き方ではなく 全体の構図/各部分の色使い/一人ひとりのポーズや動きなど まとまりのある仕上がりとなっています。
しかし 主役であるはずの嬰児イエスは 画面の右下に全体の中で埋もれてしまっていて 主役は駱駝か黒人の王かのようにも見えるところに 全体の「ザワザワ感」のために中心/重点/主役が良く判らないというバロックらしさが特に出ています。
リューベンスは 地元の(かつ重要な)修道院の主祭壇の絵ということで 共同制作ではあってもかなりの部分を彼自身が受け持ったようです。
絵の全体を見ると 「く」の字の構図で盛り上がり感を出していますが 画面の右下部分に気持ちの重心があるのが感じ取れます。
すなわち 白人の王/その右の子供/聖母/嬰児イエスですが これらはリューベンス自身の手で描かれたようで 彼の家族の姿なのです。
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〔7〕ペーテル・パウル・リューベンス作「自画像」1624年
Peter Paul Rubens 《 zelf portlet 》
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ペーテル・パウル・リューベンス(1577-1641)の自画像は何点かありますのが この作品が最も出来が良いものとされています。
(この作品は 本来は現在博物館となっているリューベンスの家が所蔵しているものですが この二年間改築工事中のために 閉鎖されている間だけここで展示している一時的なものです。)
リューベンスは 画家として芸術的才能を発揮したほか 美術品の売買や不動産の賃貸など実業家としての才能もまた発揮しました。
そして その当時ベルギーを治めていたイザベラ公と イギリス国王およびスペイン国王との信頼を受けて 外交官としての才能もまた発揮しました。
これは 彼が七ヶ国語を話せたというだけではなく 「非常に人当たりが良い」「感情的にならない」と言われた性格もまた理由となっていると思われます。
(この絵では スペインの帽子と服を身に付けていますが これはスペインとイギリスとの間の和平調停を成功させた功績に対して両国から騎士の称号が送られたためだとされています。)
この自画像は 四十代後半のものです。そのような彼の才能や性格が現れているでしょうか? 多方面にわたって能力を発揮したエネルギーや活力に溢れる人間として描かれているでしょうか?
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☆バロック芸術
バロック芸術とは バロック様式の芸術ではありますが 「カトリックによる反宗教改革芸術」というのがその中身です。「バロック」とはそもそも 「歪んだ真珠」を意味するポルトガル語から来ており まさにその通りに「歪んだ」「いびつな」「(美しいはずなのに)美しくない」「グロテスクな」と言った意味になります。 しかし なぜそのような表現をするようになったのでしょうか?
16世紀初めに宗教改革が始まって以来 カトリックの信者がどんどんプロテスタントに移っていってしまいました。 信者の数が減っていくカトリックは つまりは信者からの「献金」という収入が減ったわけです。 そのために ①プロテスタントに移ってしまった信者をカトリックへと呼び戻す ②それ以上カトリックからプロテスタントに移らないようにする ③まだキリスト教が伝えられていない土地に伝道して信者の数を増やす という「反宗教改革運動」を起こします。 しかし その「反宗教改革運動」をするに当たって カトリックは作戦を練らなければなりませんでした。 その理由は三つあります。 ①宗教改革は アルプス以北のゲルマン系の人々が起こしたものです。ゲルマン系は理性的です。 つまり 理屈でカトリックに挑戦状を叩きつけたのです。(ですので「反抗者=プロテストする人々」と言われるようになりました。) ところが 喧嘩を売られた方のカトリックは「ローマ・カトリック」の名が表すように アルプス以南のラテン系のものです。 ラテン系の人々は 情緒や感性は豊かですが 理性は弱いのです。つまり 理屈で喧嘩を売られても それを理屈で返すことは出来ません。 ですので 感性や感情に訴える「感覚的」な表現をとるようにしたのです。 そして 感覚に訴えるには「大袈裟な」「人目を引く」表現をとるようになったのです。 ②プロテスタントに移ってしまった人たちは 多くが商人や職人たちです。 カトリックが字の読み書きを禁じていたヨーロッパの世の中で(ですので 世の中の九割を占めていた農民は文盲でした) しかし商人や職人たちは字の読み書きが出来ました。 彼らには聖書が読めます。読むと カトリックの教義=言い分と聖書の内容が食い違っていることに気付いてしまいます。 その人たちが プロテスタントに移っていったのです。 つまりは ヨーロッパの世の中でもインテリの人たちです。その人たちを相手にカトリックは理屈で呼び戻すことは出来なかったのです。 かつ まだプロテスタントに移ってしまっていない人々をカトリックに留めるに当たって 文盲である農民は難しい理屈は理解できません。 ③まだキリスト教が伝えられていない土地に宣教に行く世界伝道をするに当たって しかし各地で使われている言語はヨーロッパの言語とは違います。 つまりは 言葉が通じない土地に行って伝道するのです。どうやって?
そこでカトリックは なるべく「理屈を使わない」「平易な」「感性に訴える」「刺激的な」表現の芸術作品を使うことにしたのです。 (実際には芸術作品だけではなく この当時の司祭の説教も同様でした。)
そのために カトリックはトレントの公会議において「芸術の八の指針」を取り決めました。
①宗教芸術は 聖書や聖人の人生を 信者の目に見えるようにしなければならない。
②宗教芸術は 簡単に理解できるものでなければならない。副次的な意味や細部にこだわることなく 主人公が注目を集め 情熱が人々に伝わるように。
③(天の父なる)神は 人間の姿で描いてはいけない。
④宗教芸術は 特別でなければならない。日常的/普通であってはならない。
⑤伝説や民間の言い伝えは 神からのインスピレーションとは区別されなければならない。それらを表現してはならない。
⑥肉体美や情欲は目立たせてはならない。貧困を表したり同情を誘うため以外には 裸体は避けなければならない。
⑦教会建築は 天国を表すために 豪華に装飾されて良い。
⑧冒涜的な絵画や彫刻は教会内に置かれてはならない。
これ以前から宗教美術には様々な決まりごとがありましたが 更に宗教改革以後はこれらに則っての表現でなければならないとされました。 そして そういうカトリックにとって まさに「これだっ!」という表現がリューベンスの画風だったのです。 非常に大きな画面に描かれた/躍動感溢れる/劇的な表現で 人目を引き 一切の説明無しに何の場面なのだかが伝わる。 このリューベンスの画風が すなわち「バロック絵画の典型」とされたのです。 (豊かな感情表現は ラテン的な表現です。ですので リューベンスは「北ヨーロッパのラテン人」と言われました。 また 奇妙な表現で人目を引く(かつ それを素晴しいと思う)のは その後のアメリカ人的な感性です。)
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【展示室2.3】
〔8〕ペーテル・パウル・リューベンス作「聖フランチェスコの最後の聖体拝領」1619年 424.5x230cm 木の板に油彩
Peter Paul Rubens 《 laatste communie van Heilige Franciscus van Assisi 》
こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒
アッシジの聖フランチェスコは 男性の聖人の中でも特に人気があった一人です。
ここでは 死に瀕したフランチェスコが最後の力を振り絞って聖体拝領を受ける様子が描き出されています。
ですので 倒れかけた彼を周りの人たちが支えているのです。
そして その情景を天界から天使たちが見守っています。
間もなく 彼の魂が天界へと帰ってくることをも見守っているのです。
そういう場面ですので 全体として落ち着きのある表現となっています。
ところがその中で 主人公の聖フランチェスコの姿勢が不自然です。
力無く倒れ掛かっている ようでいて・・・
バロック芸術は 劇的表現をしたということは 「自然ではない」表現だということです。
それは 大袈裟な雰囲気を出したい場面では効果的でしょう。
しかし この場面では不自然です。
だからこそ 全体的には落ち着いた表現なのですが それがこの聖フランチェスコの姿で壊されているように感じられます。
そして 聖体拝領は司祭から信者へと与えられるものですから その方向性が左の司祭からその右下の聖フランチェスコへという流れで現されていますが しかし その他の人々が「く」の構図になっています。
死んでいく場面のはずなのに 盛り上がっていく構図なのです。
つまり 全体として「>」の構図で無ければその感じは出ません。
「劇的な表現をしなければ」という思い入れが 作者に不自然さを不自然だと感じさせない原因となっているのかもしれません。
この場面での 主役聖フランチェスコの気持ちは? この絵を見る人の気持ちは? そういう心に寄り添うよりも とにかく「大上段から大袈裟な表現を押し付けなければ」というバロックの特徴が(それは すなわちカトリックの特徴でもあったのですが) そのような点に現れているようです。
この絵にも (この時二十歳だった)アントーン・ファン・ダイクの手が入っているのが見て取れます。
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〔9〕コルネリス・シュクット作「ポルティウンクラ」1649年 337.5x245cm キャンヴァスに油彩
Cornelis Schut 《 Portiuncula 》
こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒
「ポルティウンクラ Portiuncula」というのは イタリアのアッシジの近くにある礼拝堂の名です。 アッシジと言えば聖フランチェスコですが 彼が宣教活動を始めた場所とされています。 この絵では 聖フランチェスコがキリストからの祝福を受けている様子が描かれています。
この絵の作者コルネリス・シュクット(1597-1655)は 余りその名が知られていませんが リューベンスの二十年後に生まれた人で その当時はそれなりに実力を認められていました。 彼の代表作は アントワープの聖母大聖堂の交差部の天井画です。 リューベンスの共同制作者としても活躍しましたが その画風は(当然)リューベンス風です。 それがこの絵でもはっきりと表れています。 画面全体の動感は しかし 力強さよりも柔らかさの方が強く出ています。 ほとんどの人物が 主役であるアッシジの聖フランチェスコの方を向いていることによって 彼へと気持ちを向けている集注感も表現されています。 リューベンスの(ような)スタイルとは言っても シュクット自身(が何をどう表わしたいのか)の表現をしているのが感じ取れます。
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〔10〕アントーン・ファン・ダイク作「嘆きのキリスト」1640年 115.5x207.5cm キャンヴァスに油彩
Antoon van Dyck《 bewening van Christus 》
こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒
アントーン・ファン・ダイク(1599-1641)は アントワープで生まれ 子供の頃から絵の才能を発揮して「神童」と言われました。
十代半ばですでにリューベンスの仕事を手伝い始めています。
しかし アントワープに居続けても 結局はカトリックが求めているものは「リューベンススタイル」の作品です。
ですので 二十歳を過ぎるとアントワープを離れて 主にイタリアとイギリスで肖像画家として大変な名声を得ました。
しかし この美術館にある彼の作品は (勿論)アントワープで制作されたものがほとんどです。
ということは 本当の彼の表現がなされているものよりも 「リューベンススタイルで描かなければならない」という縛りの中で制作されたものがほとんどです。
この作品は晩年のものではありますが しかしそういう画風の中の一つです。十字架から降ろされたキリストと それを取り囲む人々。
どの人物像も「決まらない」「力(=気持ち)がこもっていない」「中途半端な」表現になっているようです。
こういう作品を見れば なぜファン・ダイクがアントワープを離れたのか 納得できます。
イタリアやイギリスで肖像画家として才能を発揮した それらとは余りに作品の質が違います。
(しかし この美術館では それが比べられるような展示にはなっていません。
時代ごと/様式ごと/作者ごとではなく ジャンルごとの展示になっていますから。)
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〔11〕ペーテル・パウル・リューベンス作「聖母の教育」1630/35年 196.2x141.7cm キャンヴァスに油彩
Peter Paul Rubens 《 opvoeding van Maria 》
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ペーテル・パウル・リューベンス(1577-1641)のこの作品は マリアに その母聖アンナが何かを教えている情景です。(オランダ語の原題では 「教育」の言葉が「勉強」ではなく「子育て」の意味の言葉が使われています。)
絵画には(特に宗教画においては)様々な決まりごとがありました。
しかし 「決まりごと」は 誰かによって決められているものと 「不文律」として(つまり「そうするのが当たり前」という通念として)のものとがありました。
基本的には その時代の流行が描かれている というのもその一つです。
マリアは(その後)「神の一人子」であるイエスを生む ということは「神の一人子の母」となります。
その彼女は「神の一人子の母」として 「悪いこと/否定的なことを思ったことが無い」存在として描かれます。
そのマリアを生んだアンナもまた そのために選ばれた存在です。
(無垢な存在を身ごもることを「無原罪の御宿り」と言います。)
そういう彼女たちであることを 一目で見て判るように描かなければなりません。
しかし マリアが着ている服は 随分と立派です。
明らかに この絵が描かれた時代の有産階級あるいは貴族階級の女性が着る服です。
では マリアはそういう存在だったのでしょうか?
「神の一人子の母」は 美しく素晴しい存在であり かつ豊かな環境で丁寧に育てられた ということを表したいのかもしれません。
リューベンスは6月26日生まれです。蟹座です。蟹座の特徴の一つが「家族へのこだわり」です。
ですので リューベンスの絵の中にはしばしば(あるいはほとんど)彼の家族が描かれています。
ですので ここの描かれているマリアは 実は 彼の(再婚したばかりの)妻なのです。
こちらで別の絵と見比べて頂けます ⇒
裕福なタペストリー商人の娘であり 貴族の妻である(リューベンスよりも37歳年下の)若き愛妻を描くのに 質素な服を着せるわけにはいきません。
49歳の時に妻をペストで亡くした後 四年間の寡夫世活を送り 1630年に再婚しました。1630年代前半に続けて三人の子供が生まれます。
その内の二人は 念願叶って女の子でした。(最初の結婚で生まれた唯一の女の子は 成人せずに亡くなっています。)
愛妻への思いと 生まれて間もない娘たちが育っていく喜びと それらをこの題材で表現したかったのでしょうか。
それがために 宗教画なのか世俗画なのか判らない仕上がりとなっています。
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☆肖像画
絵画の歴史の中で 最も古くからあったのが肖像画です。
描かれるのは 当然「特別な人」です。統治者や貴族や(位の高い)聖職者。
それらの人を描くには 当然「特別な人なんだ」ということが一目で判るように描かなければなりません。
特に アルプス以南では 豪華な装飾を付けた服や 髪飾りや宝石などの装飾品が描かれていました。
宗教改革が起きる以前のヨーロッパにおいて 絵画は肖像画と宗教の二つのジャンルしかありませんでした。
ベルギーの(特にフランダース地方の)肖像画の特色は 祭壇画から発展したということです。
ベルギーの多くの祭壇画は 三連画や二連画でした。一つの面(三連画の場合には中央画面)に礼拝する対象(=聖人の姿)が描かれます。
他の画面には その絵の注文主が その場で礼拝しているような姿で描かれます。
ですので きらびやかに着飾っている姿ではなく 敬虔な姿で描かれます。
「金持ちが天国に入るのは 針で開けた穴を駱駝が通るのよりも難しい」という新約聖書の言葉から 金持ちであることを前面には押し出しませんでした。
そのような 宗教画の一部としての肖像画から やがて 独立した肖像画へと変わっていきました。
かつ(宗教改革以後には)肖像画として描くにあたって 個人(=一人)ではなく 家族全員の肖像画(=集団肖像画)が流行となりました。
その頃には (家族肖像画は金持ちだからこそ描かせたものですので) 着飾った姿で描かれるということがベルギーでも一般的になりました。
(特に 首周りのレースにそれが現れています。)
画家はそれぞれに専門があります。得手不得手があります。肖像画家として成功した人(あるいは才能を発揮した人)と そうでは無い人とがいます。
ロヒール・ファン・デル・ウェイデンやアントーン・ファン・ダイク あるいは(オランダの)フランス・ハルスは前者です。
描く対象人物の特徴を捉え その長所が充分に現れるように描き出されているのが素晴しい肖像画です。
そのために 肖像画家として一番重要だったのは 描く対象人物と「心を重ね合わせる」「心を寄り添わせる」ということです。
肖像画というのは 実は描かれている人が描かれているのではありません。描いている人が描かれているのです。
人間が表現するというのは 必ず表現しているその人自身が表現されているのですから。
つまり 肖像画には その絵を描いた画家の「気持ち」や「性格」「人格」が現れ易いということなのです。
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【展示室2.21】
〔12〕ロヒール・ファン・デル・ウェイデン作「フィリップ・デ・クロワの肖像画」1460年頃 49x30cm 木の板に油彩
Rogier Van der Weyden 《 Philippe de Croy 》
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ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(1399/1400 - 1464)は 宗教画家として かつ肖像画家として大変な名声を得た人です。
ここに描かれているフィリップ・デ・クロワは この当時ヨーロッパで政治的にも文化的にも最も重要な地域となっていたブルゴーニュ公国を治めたブルゴーニュ家の一員です。
(フランダース伯爵領は ブルゴーニュ公国に属していました。)
かつ ヨーロッパで最も権威ある世俗騎士団とされた「金の羊毛騎士団」に参加した一人でもあります。
この絵が描かれた時 彼は25歳位です。
実際に金の羊毛騎士団に迎え入れらたのは この13年ほど後になりますので 手からぶら下がっている金の羊毛騎士団の金の紋章は 後から書き加えられたか 描き替えられたかでしょう。
この時代の肖像画の典型として 斜めの角度から顔が描かれています。
もう一つ この時代のアルプス以北の肖像画の典型として いかにも豪華な服を身に付けているようには描かれなかったことです。
良く見ると とても上質な生地が使われているのが見て取れますが しかし決して装飾が豊かなわけではありません。
暗い背景と黒い服とよって 手と顔とが浮き上がって見えます。
合掌しているということは お祈りをしているのです。
(この絵はそもそもは 左側に聖母の姿が描かれた画面があった二連画だと思われています。)
その顔と手からは この人物が敬虔に祈っている様子だけではなく その気持ちをもはっきりと表現されています。
まさにファン・デル・ウェイデンの絵は 祈りを通して神の国に心を通わせる「神の国への入り口」となっているのです。
このような描写によって ファン・デル・ウェイデンは貴族たちから多くの肖像画の注文を受けました。
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〔13〕ヤン・ファン・アイク作「聖バルバラ」1437年 18x31cm 木の板に油彩
Jan Van Eyck 《 Heilige Barbara 》
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ヤン・ファン・アイク(1390?-1441)は フランダース写実主義絵画の初期 すなわちフランダース地方で油絵の具が開発されて初期の画家です。
油絵の具の長所/特性/可能性を極限まで開発させ 極めて克明な微細な まさに「真に迫りすぎる写実的表現」によって
その当時のみならず 後世の西洋絵画界にも多大な影響を与えました。
その代表とされているのは ゲントの祭壇画=「神の子羊」 あるいはブルージュにある「聖母子を崇めるファン・デル・パーレ」などです。
この作品は一見すると未完成なのか 下絵なのかと思えます。
画板と額縁とは同じ木から採られたものであり(すなわち 制作当初のものであり) かつ この絵には作者の署名と制作年とが記されています。
(ヤン・ファン・アイクは絵画史上初めて 自作品に署名を入れた人としても知られています。)
ということは 本人としてはこれは「完成した」ということだったのかもしれません。
では 何のための絵だったか?
そのような謎があり かつ彩色されていませんので写実的な表現はされていませんが それでも克明な細部の表現と 全体の構成にヤン・ファン・アイクの特色が現れています。
聖バルバラは 中世のヨーロッパでとっても人気があった聖女です。
貴族の家に生まれた彼女は 「箱入り娘に育てる」という父親の方針で塔に遊芸され外界と絶たれた生活を送っていました。
(ですので聖バルバラのシンボルが塔となっています。)
それでも伝え聞いたキリスト教の教えを知り それに帰依します。
それに怒った父親は 自らの手で彼女を打ち首にしますが しかし父親は雷に打たれて死んでしまいます。
聖バルバラが手にしている本は祈祷書で彼女の信仰心を 棕櫚の枝はキリスト教の勝利/凱旋を象徴しています。
背景の塔を見てみると これは建築途中です。聖バルバラは 父親が不在の間に 幽閉されていた塔の窓を三連窓(=三つ横に並んでいる縦長の窓)に作り変えさせたことを表しています。
ところが 塔そのもの あるいは周りで働いている人たちを見ると これは個人の館の塔ではなくて大きな教会建築のようです。
彼女は 塔の守護聖人とされていますので この絵はどこかの教会の塔の建築を記念して描かれた可能性もあります。
働いている人たちを見ると 建築にどのような職種があったのかが判るような細かい描写がなされています。
(後の時代のブリューゲルを思い起こさせます。) そこからも この絵は実は聖バルバラが主役なのではなく 建築に関わる誰かの注文で描かれた可能性があります。
あるいは 塔の右側に簡素な屋根が張り出して付けられており その下では石工あるいは石切職人たちが作業をしています。
「フリーメイソンリー」といわれる組織がありますが これは中世に始まった「自由石切職人」の組織のことです。
「自由」とは各地のギルドに所属していないということです。そして そのフリーメイソンリー」の集会所を「ロッジ」と呼びました。
ヤン・ファ・アイクや中性の画家たちは錬金術に関わっているのが一般的でした。
そして フリーメイソンリーもその流れを汲むものです。
ですので フリーメイソンとロッジとを象徴するように描かれているのだと解釈すると この絵はフリーメイソンリーと何らかの関係があるのかもしれません。
(聖バルバラは 錬金術師の守護聖人でもあります。)
聖バルバラの姿は 下方に広く広がった服によって大きな三角形となっており すなわち安定感が表されていますが 同時にその背景の塔が建築されていく(=育っていく)その根のようにも見えます。
顔を見てみると とても穏やかな表情に描かれています。ヤン・ファン・アイクの描いた人物の顔は この絵(あるいは次の「泉の聖母子」の聖母の顔)のように描かれているものと ゲントの祭壇画=「神の子羊」や彼の妻を描いた肖像画のように極めて物質的な表現がなされているものとに分かれます。
この絵では 穏やかさや静寂感によって平安な情感が表現されています。それによって 「心が神と共にあること」の安らぎが現れているようです。
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〔14〕作者不明(1499年の巨匠)「クリスティアーン・デ・ホントの二連画」1499年 31x14.5cm 木の板に油彩
Meester van 1499 《 Diptiek van Christiaan de Hondt 1499 》
こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒
15世紀前半までは 絵画作品に作者が署名を入れることは先ずありませんでした。
ヤン・ファン・アイクがアルプス以北のヨーロッパで最初に作品に署名を入れた人だと思われています。
特に宗教画は 「誰が描いたのか」よりも「何が描かれているのか」が重要だったからです。
つまり 「作者の表現」を見せるのでは無く 「キリスト教の教え」を人々に伝えることが主目的だったからです。
この作品は15世紀も末になってからのものですが しかし署名が入っていません。
左の画面には 教会の中の聖母子が描かれています。
これは ヤン・ファン・アイクが描いた(現在はベルリンにある)絵とほぼ同じ構図です。(つまり 多分模写したものです。)
こちらでヤン・ファン・アイクの作品と見比べて頂けます(左:meester 1499 右:Jan Van Eyck) ⇒
右の画面には 修道院長のクリスチアーン・ホントが 彼の部屋で祈っている様子が描かれています。
(画面右下の犬が 彼の姓を表しています。)
この絵の作者は フランダース写実主義の伝統を忠実に受け継いで 非常に克明な描写をしています。
(ヤン・ファン・アイクよりも二世代後なのに 同じ様式です。)
この作者の作品は この一点しか判っていません。
名を知られた巨匠たちの公房で働いていた弟子たちは 当然それなりの腕があったはずですが ところが彼らの名も作品もほとんど知られていません。
この絵の作者も そういう巨匠の弟子の一人だったのでしょうか? 15世紀のフランダース地方の絵画の水準の高さを充分に見て取れる作品です。
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【展示室2.17】《マドンナ》
☆マドンナ
「マドンナ」とは 古いイタリア語の「ma donna」=「我が淑女」という言葉から来たものです。(短縮形は「mona」となります。例えば「モナリザ」は「我が淑女リザ」という意味です。)フランス語では「ノートル・ダム Notre Dame」という言い方があります。これは「私たちの淑女」という意味です。 オランダ語では「オンゼ・リーヴェ・フラウ onze lieve vrouw」 ドイツ語では「ウンゼ・リープフラウ unse Liebfrau」という言い方で これらは「私たちの愛すべき女性」という意味です。
その淑女はいずれも 聖母マリアのことを指しています。 聖母マリアのことを「マリア」とは呼ばずに このような言い方をしたのです。 特に アルプス以北のヨーロッパにおいては このような言い方が二十世紀まで続けられました。
マドンナは 本来は聖母のことですが 聖母子を表した絵画や彫刻もまた そう呼ばれるようになりました。 聖母 あるいは聖母子を芸術作品で表現するに当たっては 様々な決まりごとがありました。 聖母マリアは「天界の女王」という立場ですので 青が聖母の色となっていて つまり青い服を着ています。 聖母子の姿の場合には 「処女マリア」としてイエスを生んだことを表現しなければなりません。 しかし 死後天界の女王となった事をも(雰囲気で)表さなければなりません。 こういったことが 宗教改革以前の絵から見て取れるでしょう。しかし 宗教改革以後は だんだんとこのような表現から離れていきます。 この部屋のある三点のマドンナが まさにそれを表しています。
〔15〕ヤン・ファン・アイク作「泉の聖母子」1439年 19x12cm 木の板に油彩
Jan Van Eyck 《 Madonna en kind bij de fontein 》
こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒
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この作品は ヤン・ファン・アイク(1390?-1441)によって 個人の礼拝用に制作されたものと思われる小さなものですので ごく近くに寄らないと見え難いのですが 極めて克明な微細な表現がなされているのが見て取れます。 (美術館での見学には必ず拡大鏡を使うことをお薦めします。) すなわち 全てのものがヤン・ファン・アイクが目指した「本物以上に本物らしく」描かれているのが現れています。 特に 植物の描き方 そして 聖母の背景のタペストリーの刺繍にそれが顕著に現れています。 (この時代には 禁断の木の実がペストリーの装飾として好まれていました。)
泉は 永遠の生命が湧き出る「生命の泉」です。(もしかしたらば この絵の注文主の名が泉と関係しているのかもしれません。)
素晴しい作品(すなわち 見た人に「素晴しい」と受け取ってもらえる作品)というのは ①全体の構成と ②細部の表現と そのどちらもが(ということは絵の全てが)細心の注意を持って 隙が無く(=無駄が無く)描かれているものです。 「木を見て森を見ず」という諺がありますが 「木も見る 森も見る」という視点と手とで描かれている ということです。 この作品は まさにそのような描き方がされている 一つの作品として極めて完成度の高いものとなっています。 完成度の高い作品というのは それ一つで「小宇宙」を作り出しているのです。
ところが ヤン・ファン・アイクの作品には 暗号が含まれていることが多いのです。 嬰児イエスの姿見てみましょう。何か不自然です。 なぜ 左腕をあんなに無理して 左に出しているのでしょうか? その手には信仰を意味するロザリオが持たれています。 けれども なぜあのように不自然な持ち方をしなければならないのでしょうか? 右上の白い服の天使から/聖母の顔とその向き/イエスのロザリオを持つ左手/泉の上端 これらが一つの線の上に置かれています。
なお これとほぼ同じ作品がニューヨークのメトロポリタン美術館にあります。 別画面でご覧頂けます ⇒
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〔16〕ジャン・フーケ作「聖母子とケルビムとセルフィム」(ムーレンの二連画)1451-52年 94.5x85.5cm 木の板に油彩
Jean Fouquet 《 La Vierge et l'Enfant entoures d'anges 》(《 Diptyque de Mulen 》)
こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒
この作品は フランスの画家ジャン・フーケ(1420?-1480)が描いたもので 二連画の右側だと思われています。
左の画面には注文主であるエチエンヌ・シュヴァリエーが 聖母子に祈っている姿が 彼の守護聖人聖ステファヌスと共に描かれています。
(その二枚が対であるとされる根拠は シュヴァリエーの墓の上に並べて置かれていたからです。
しかし この二枚は大きさが僅かに違っています。また 絵のスタイルが全く違います。)
二枚並べた状態を別画面でご覧頂けます ⇒
一見して 奇妙な絵です。この絵を見て 聖母への親しみの気持ちは湧いてくるでしょうか?
この聖母子に向かって祈りたい気持ちになるでしょうか?
聖母は 乳房を出しながらも 子供のイエスの方に気持ちを向けているようには見えません。
イエスは 乳を貰うにしては大き過ぎます。(ですから 乳房に興味を示していない様子です。)
背景にいる天使たち セラフィムとケルビムの姿もまた異様です。セルロイド人形のようです。
セラフィムとケルビムは 天使の中でも最も位が高い存在だとされています。
しかし そういう雰囲気は伝わってきません。
一体 この奇妙な絵は何なのでしょうか? 何を表しているのでしょうか?
ここに描かれている女性は 聖母のふりをしていますが 実は この当時のフランス国王の愛人なのです。
アニエス・ソレルというこの女性は 絶世の美女であり 史上初めてダイヤモンドを装身具として身に付けた女性とも言われています。
しかし 1450年に若くして亡くなっています。毒殺されたと思われています。
かつ 同時に この絵の注文主である 宰相エチエンヌ・シュヴァリエーの愛人でもあったと言われています。
国王と宰相とに関わっていたことで 何らかの秘密を知ったことが殺された理由ではないかと思われています。
その「殺された」という感じが 聖母のうつむいた顔に現れているようです。
そして イエスは左側を指差していますが この面の左側にシュヴァリエーの姿が描かれた面があったのだとすると そのシュヴァリエーを指差していることになります。
これらが 何らかの意味をもたせて描かれているのではないかと思われますが 真実は判りません。
いずれにしても この絵は「聖母子」の姿を借りて 実は違うことを表現している絵だということです。
実は この絵は今現在この美術館で一番の「目玉」とされているものです。
なぜ ベルギーのフランダースを代表する美術館において そのフランダースの作品では無いフランスの かつこのような奇妙な表現がされた作品がそのように扱われているのでしょうか?
これが 世界のアメリカ化なのです。
アメリカは 歴史も伝統も無い国です。ヨーロッパからの移民が集まった 文化的にも寄せ集めの国です。
そういうアメリカでは 「何が良いものなのか」「何が素晴しいものなのか」という価値判断が 極めて特殊なのです。
「美しい」ことや 「どういう意味があるのか」よりも 「人目を引く」ことが そのためには「奇妙」であることがアメリカ人にとっては素晴しいことなのです。
ですから この作品のような奇妙な表現をした作品が「素晴しい」とされるのです。
「何を表現しているか」とか「美しい」とかでは無いのです。
(つまり 芸術作品を展示する美術館の側もまた そういう感性や観念で展示しているわけです。)
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〔17〕ペーテル・パウル・リューベンス作「聖家族とオウム」1614-1633年 164x190cm 木の板に油彩
Peter Paul Rubens 《 Heilige Familie met de papegaai 》
こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒
この絵は 1614年に描かれ アントワープの聖ルカ(美術職人)ギルドの作品展示室に贈られたものです。
つまり 祭壇に置かれたのではありません。
なぜならば 一見宗教画のように見えますが 実際には描かれているのが作者の家族だからです。
この絵を良く見ると 画面に筋が入っています。
そもそもはもっと小さな絵で 描かれていたのは聖母子だけでした。
しかし その後画面が大きくされ オウムとヨゼフが描き加えられました。
(勿論 ヨゼフはリューベンス自身です。)
こういうところからも リューベンスは絵を美しく描くことには興味があったけれども 宗教画として(=祈りや尊敬や憧れの対象として)描こうとは思っていなかったことが覗えます。
宗教画であるということは 「個人の表現」を超えたより普遍的なものを表しているはずですが リューベンスの絵ではそうでは無いということです。
あくまでも彼の個人的な思いの表現なのです。
(だからこそ 19世紀後半にイギリスで前ラファエロ派が登場します。
「ラファエロ以後の絵画は個人の表現となって堕落した」として ラファエロ以前の精神に戻ろうという考え方です。)
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☆宗教画
ヨーロッパにおける宗教画とは すなわちキリスト教絵画です。かつ カトリック絵画です。 (基本的には プロテスタント絵画はありません。) 絵画の材料や技術の発展と共に 何をどう表現するのかも時代と共に変わってきました。本来は 神の世界というのは 不可視の世界です。なぜならば それは心の世界だからです。 ですので キリスト教は(他の宗教と同様)「偶像崇拝」を禁じていました。 祈る対象を目に見える形にしてはいけない ということです。 自分はどこに行きたいのか=自分の心はどういう状態でありたいのか それが祈りだからです。 しかし 人間は目では見たことが無い不可視の抽象的なものを想像するのは難しいのです。 それよりも 目に見える形にした方が多くの人々にとっては判りやすいのです。 ですので 目に見える形として表そうということになり しかし偶像崇拝を禁じていますので 絵であれば平面だから「像」では無いという理屈で 宗教画を描くようになりました。 (これを イコンと言います。) 礼拝の対象として キリストや聖母の顔 あるいはその他の聖人の姿を現しました。 (実際に そこに描かれているキリストや聖母や聖人の姿を見たことのある人はいません。ですから 想像で描いているわけです。) あくまでも 祈りの対象であり 心をどこかに導くためのものでした。 その「どこか」とは 神の世界であり 天界であり 原罪を背負うようになる前のエデンの園でした。 しかし だんだんとカトリックの教義が定められ(かつ増やされて)いくと共に 聖書の中の一場面 あるいは聖人の生涯の一場面を描くようになります。 (つまり この時点で信者に対して「勝手に想像するな」と言っているわけです。) 神近き存在になろうとして祈るのではないのです。罪を許して下さいと祈るのです。 「原罪を背負っている全ての人間は 神には近付けない」という考えへと変わっていったのです。
ベルギーで絵画芸術が最も高い水準になったのは このよう時代です。 敬虔に祈るための その対象となったのがこの時代の宗教画です。 (次の二つの作品は そういったものの典型です。)
しかし 16世紀初めに宗教改革が起きました。 これによって カトリックの絵画も変化していきます。 建前としては宗教画 しかし実際には中身は違う というものが出てきたのです。 (それを 先ほどの「マドンナの部屋」で見たわけです。)
〔18〕ロヒール・ファン・デル・ウェイデン作「七秘蹟」1445/50年頃(中央) 200x97cm(中央画面) 119x63cm(両翼) 木の板に油彩(両翼)
Rogier Van der Weyden 《 De zeven sacramenten 》
こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒
ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(1399/1400 - 1464)の最高傑作のひとつ。
「七秘蹟」とは (プロテスタント以外の)キリスト教における 人生の中での七つの重要な儀式のことです。
この三連祭壇画では 左右の画面にそれぞれ三つずつ そして中央画面に一つ それらが宙に浮かぶ天使たちと説明文と共に描かれています。
左画面の左側から:①洗礼(白の天使=無垢の色) ②堅信式(黄色の天使=聖なる火の色) ③悔悛(=告解/懺悔)(赤い天使=罪を焼く火の色) 中央画面の奥:④聖体拝領(緑色の天使=生命の色) 右画面の左から:⑤叙階(紫色の天使=聖職者の色) ⑥結婚式(青の天使=信頼の色) ⑦終油(黒の天使=死の色)
(⑤は 聖職者になるための儀式ですので 誰でもが受けるわけではありません。
それ以外の六つは全ての人が受けます。これらをしないと人間として認められませんでした。)
この絵は ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの出身地であるトルネの司教の注文で描かれたものです。
注文主は 左画面の②で堅信の儀式を執り行っている司祭として描かれています。
三枚の画面の全体がゴチック様式の教会の中で その三枚全体で一つの線遠近法が採られており 全体の統一感が図られています。
かつ 左右の画面も含めて 全ての部分が非常に詳細に描かれています。
しかし 一目見て中央画面の出来が最も良いのが見て取れます。
④の聖体拝領は キリストの身体としてパン(聖餅)を キリストの血として赤ワインを信者に与えるものですので それを表すために磔刑のキリストの姿が描かれています。
何と言っても素晴しいのは この広い空間性の表現です。教会とは「神の家」であり 「神の家」は「天国」であり 「天国」は無限の広がりを持ったところであるという それが表現されており すなわち この世(地上)から天界へと繋がっていくかのような空間性で表現されています。
キリストの姿は かなり高い十字架に描かれていますが この位置も その下の五人との配置も絶妙なバランスがとられています。
(この絵の左側にある三枚の絵と見比べると 違いが分かりやすいです。
三枚の内 右の二枚はゲラルド・ダーヴィッドの作で ゴチック的な表現で縦長の構図にはなっていますが なぜか人物の頭部が画面の上端に集中していて それが全体の空間性を損ねています。
三枚目の絵は シチリア出身のアントネッロ・デ・メッシーナの作で やはり高い十字架にキリストの姿が描かれていますが 五人の人物の配置に対して 左右の罪人の身体のそらし方がバランスを壊しています。
これらと比べると ファン・デル・ウェイデンの絵では 空間性が巧みに表現されているのがわかります。)
画面下方の五人を見てみましょう。五人の内の四人は きれいな弧を描くように配置されています。
そして 五人共にその感情が顔と身体とで表現されています。
(これがファン・デル・ウェイデンとヤン・ファン・アイクとの大きな違いの一つです。ヤン・ファン・アイクが 全てを物質として描いたのに対して ファン・デル・ウェイデンは 血が通っている 感情のある存在として人物を描きました。)
息子の死を目の当たりにして気絶した聖母と それを支えるヨハネの姿には ヨハネが聖母を思いやる気持ちが現れています。
そのヨハネからは 聖母への方向への線と もう一つ右側の二人の女性の方向への線が出ています。
この左上から右下への二本の線によって 止まっているかのようなこの場面における気持ちの動きが表現されています。
時間は 左から右へと流れています。ですので この二本の線は音楽記号のクレッシェンド(<)に相当するものになります。
かつ その線があるために 一番右のマグダラのマリアが右を向いて泣いているその姿に全く違和感がありません。
この絵全体が (特に中央画面が)全体の構図のバランス すなわち全てのものがあるべき場所にあるべき姿で描かれ 全く無駄も隙も無いことと 細部の克明な描き方によって ファン・デル・ウェイデンがいか優れた画家であったかが充分に見て取れます。
しかし そういう技術のみに留まらず この世から天界へと誘うかのような表現にこそ この作者の一番の特色が現れています。
宇宙空間の天体の動きには 隙も無駄も一切無い規則性があります。まさにそれと同様の ファン・デル・ウェイデンの宇宙観とも言えるものが表現されている作品となっています。
(他の傑作とされる フランスのボーヌにある「最後の審判」が 弟子たちの手による部分との不統一感が スペインのマドリッドにある「ピエタ」が 全体的にギチギチとした詰まった描き方に感じられるのに対して この絵ではそのような点が見当たりません。>
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【展示室2.22】
〔19〕ハンス・メムリンク「父なる神(祝福するキリスト)と音楽を奏でる天使たち」1489年 164x212cm(中央画面) 165x230cm(両翼画面)
Hans Memling 《 Zegenende Christus met zingende en musicerende engelen 》
こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒
ハンス・メムリンク(1440?-1494)作のこの大作は スペインの修道院のために制作されたもので 実際にはもっと多くの画面で構成されていたものです。
他の画面には 聖母被昇天/聖母戴冠/聖人たちが描かれていたようですが いずれも散逸してしまいました。
主祭壇に(つまり中央部分に)掲げられていたのがこの三枚だと思われています。
キリストは 右手の手印とかの表情とで 祝福を与えている様子が描き出されています。
胸には「三位一体」を表す宝石を付けています。
しかし このキリストの姿は 「神の一人子」としての姿であると共に 天界の「父なる神」へと見ている人の気持ちを向けるような表現にもなっています。
(ですので この姿がキリストなのか父なる神なのかは 見解が別れています。)
その左右の天使たちは 聖歌集を見ながら祝福の歌を歌っています。
教会の聖歌体席で歌われるような (合唱=複数の声部を多人数で歌うのではなく)左右に分かれての(一つの声部を多人数で歌う)斉唱を歌っている様子です。
左右の画面に描かれている天使たちは それぞれこの当時の楽器(=今では演奏されない楽器)を手にしています。
どの画面も (なぜか)黒い雲に囲まれていて これが天界の情景であることを表しています。
(天使たちの羽も なぜか外側が黒です。)
天国とは 光の国です。黄金色の光で満たされていることです。ですから背景が黄金色になっています。
(雲や天使の羽を白にしてしまうと この黄金色と白とがどちらも生かされないのです。)
天使たちの 感情の無い穏やかな顔にも 「この世」ではないことが現されています。
「天国的な情感」を描き出すのを得意としたメムリンクの特色が この絵でも充分に発揮されているのを見て取ることが出来ます。
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〔20〕ベルナルド・ファン・オルレイ作「最後の審判」1524年 248x218cm(中央画面) 248x94cm(両翼) 木の板に油彩
Bernard van Orley 《 Het laatste oordeel 》
こちらで大きい画像をご覧頂けます ⇒
ベルナルド・ファン・オルレイ(1488~1541)は イタリアルネッサンスを導入した一人であり この絵にもその特色がはっきりと現れています。
かつ 彼のもう一つの特徴は タペストリーの下絵画家として活躍したことで それもまたこの絵に現れています。
中央画面に描かれている「最後の審判」は この時代に特に好まれた題材で それは新教と旧教とがお互いに「地獄に落ちるぞ」と脅し合ったこととも関係しています。
裸の人物像や 極端な線遠近法は イタリアからのルネッサンスの影響です。
左右の面には それぞれ三つずつ「慈悲」が描かれています。
これらはいずれもが旧教でも新教でも通用する内容となっています。
つまり どちらにも買ってもらえる題材と描き方がとられています。
画面全体の落ち着きの無さが ルネッサンスから(躍動感を表す)バロックへと移行していく予兆となっています。
しかし 反対側に展示されているメムリンクの作品と余りに波動が違いすぎます。
このように向かい合わせに展示することによって 両方の絵の波動がぶつかり合い競合し そのためにどちらの絵の魅力をも削いでしまっています。
そのような「波動」ということを判らない 感じられない人たちがこのような展示をしているのでしょうか。
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肖像画の部屋【展示室2.7】
〔21〕ハンス・メムリンク「硬貨を持つ男性の肖像画」1480年頃 29x22cm 木の板に油彩
Hans Memling 《 een man met een munt 》
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ハンス・メムリンク(1430/40 - 1494)は ドイツ生まれですが ヨーロッパ最大の商業都市かつ文化都市として栄えていたブルージュで創作活動をし 宗教画および肖像画のジャンルで非常な名声を得ました。
彼は ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの弟子だと思われています。
ですので 画風がかなり似ています。特に宗教画の構図や あるいは人物の描写において その顔立ちと共に表情の描き方が共通しています。
ですので この絵においても 斜めからの顔の描き方や 装飾性の少ない服 この世を超えた世界を見つめるような眼差しなどに それが現れています。
しかし ロヒール・ファン・デル・ウェイデンとの大きな違いは 背景です。
暗い無地ではなく 風景が描かれています。それも フランダースの平地ではありません。
それによって この人がフランダースの人ではないことを表しているのでしょうか?
手に持っている硬貨は ネロ皇帝の時代に鋳造されたもので この人の職業や地位と関係していると思われます。
つまり この絵は礼拝している様子ではありません。礼拝していない 純粋な肖像画です。
(これもまたロヒール・ファン・デル・ウェイデンとの大きな違いです。メムリンクは本当の意味での肖像画の始祖となっています。)
しかし 非常に真面目な 喜怒哀楽の感情表現の無い描き方がされています。
あの目は 手に持っている硬貨は見ていません。何を見ているのでしょうか?
あの 永遠を見つめるような眼差しと 顔の表情によって この人が(あるいは人間全般が)肉体だけの存在では無く (永遠の中に生きる)魂の存在でもあることをも表現したのが メムリンクの最大の特徴なのです。
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肖像画の部屋【展示室2.9】
この部屋には ファン・ダイク/リューベンス/ハルス/レンブラントといった画家たちの肖像画が並べられており 見比べてそれぞれの画家の特色を見て取ることができます。
〔22〕コルネリス・デ・フォス作「家族の肖像画」1638年 165x235cm キャンヴァスで覆った木の板に油彩
Cornelis De Vos 《 Portlet van een familie 》
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コルネリス・デ・フォス(1584-1651)は リューベンスと同時代のアントワープで活躍した画家ですが しかし リューベンスの共同制作にはほとんど関わっていません。
その理由は この絵を見れば納得できます。
とてもきっちりくっきりとした描き方だからです。
(リューベンスも若い頃にはこのような描き方をしていました。しかし 共同制作をするようになってからは全く違う画風へと変わっていきました)
そして このような描き方だからこそ デ・フォスは肖像画家としてとても人気があったのです。
つまり「丁寧な描き方」ということです。それは描かれている人にとっては「自分たちが丁寧に扱われている」という満足感を生みます。
宗教改革以前には祭壇画の一部として家族全員で礼拝している様子が そして宗教改革以後にはこのような独立した家族肖像画として描かれるようになりました。
その両者に共通していることと 逆に変化したこととがあります。
共通していることは 男女を分けるということです。
画面の片側に主人=父親と息子たち もう片側には主婦=母親と娘たちが配置されます。
ところが この絵を見てみると 男の子たちも女の子の服を着ています。
これが 宗教改革以前と以後とで変わったことの一つです。
昔は 男の子にも6歳までは女の子の服を着せていました。
昔は 乳幼児の死亡率がとても高くて 生まれた子の内三人に二人は成人せずに死んでいました。
そして 男の子と女の子とでは 男の子の方が弱いので死亡率が高かったのです。
そして 昔は病気は悪霊によって起こされるのだと思われていました。
悪霊に憑かれるということです。
ですので 悪霊が子供のところにやって来ても それが男の子だと判らないように女の子の格好をさせていたのです。
(この絵の左隣の絵 あるいは右の壁面の絵も同様に男の子が女の子の服を着ています。)
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〔23〕アントーン・ファン・ダイク作「画家マルテン・ペペインの肖像画」1632年 72x56cm 木の板に油彩
Antoon Van Dyck 《 de schilder Marten Pepijn 》
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アントーン・ファン・ダイク(1599-1641)は 貴族の肖像画家としてイギリスとイタリアで大変な名声を博し イギリス王家から貴族の称号を送られています。
(ですので イギリスではサー・アンソニー・ヴァン・ダイクと言われます。)
この絵は 彼の33歳頃の作品で まさに彼の円熟期の一枚です。
画面右上に(暗い背景なので見え難いですが) この時ペペインは58歳だという但し書きがあります。
ファン・ダイクらしい 丁寧な落ち着きのある画風で ファン・ダイクブラウンの暗い背景と黒い服に対して 白いレースの襟と額の光り具合 肌や髪の毛と髭の細やかな色合いなどと共に ペペインの芸術家としてのものごとを見る目の一瞬の動きを見事に捉えており ファン・ダイクの特色が充分に発揮されています。
それと比べると その右側に展示されている絵は 同じくファン・ダイク作となってはいますが やや上辺だけの印象です。
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〔24〕ペーテル・パウル・リューベンス作「ガスパル・ゲヴァルティウスの肖像画」1628-1631年 119x98cm 木の板に油彩
Peter Paul Rubens 《 Jan Gaspard Gevartus 》
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リューベンスには 教会からの大量の宗教画の注文の他に (その名声ゆえに)個人からの肖像画の依頼もまた多くありました。
この絵は リューベンスの親しい友人であり リューベンスが寡夫となってから 外交官としての長期間の不在の間に その二人の息子の養育を任せていた アントワープ市の書記官だったガスパル・ゲヴァルティウス(1593-1666)の肖像画で 彼の職業が判るように描かれています。
左端の胸像は古代ローマの哲学者マルクス・アウレリウスで ゲヴァルティウスはアウレリウスの著作の解説書を書いています。
(手元にあるのは白紙なので まさにそれを書いている場面のようです。)
画面全体は 右下を頂点とする三角形と 左上を頂点とする三角形とに二分されており その斜めの構図の中でペンを持つ手に一番の重心が置かれていることで 彼の職業に対する自負心が表されているようです。
しかし 手に重心が感じられるもう一つの理由は この絵のほとんどの部分は共同制作者(あるいは弟子)の手によるもので リューベンス自身が描いたのは 顔と手の部分だけではないかと思われているからです。
そのためもあって 先ほどのファン・ダイクの作品と比べると (あるいはこの後のレンブラントの作品と比べると) 全体として表面的で深みが無い(心がこもっていない)描き方であるのも見て取れます。
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〔25〕フランス・ハルス作「ステファヌス・ゲヴァールツの肖像画」1651年
Frans Hals《 portlet van Stefanus Gevaerts 》
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フランス・ハルス(1585? - 1666)はアントワープ生まれですが 画家としてはオランダで活躍しました。
肖像画家として 一人ひとりの特徴を捉えた描き方で大変な名声を得て (この時代の流行だった)集団肖像画でも力量を発揮しています。
この絵は オランダの上流階級に属するゲヴァールツが結婚した時の記念の肖像画で ですので右側に新婦が描かれていましたが (なぜか)分断されてしまいました。
服に付けられている装飾品で かなりの財産を持っていることが覗えますが 同時にハルスの(70歳近くなってからの作品とは思えない緻密な)描き方にその力量が現れています。
ハルスは 黒の使い方に特徴があり その多彩な黒は後の時代のゴッホに「27種類の黒色を持っている」と言われました。
暗い背景と服に対して 力みの無い人物の姿がごく自然に浮き揚がっており その自然なポーズと共に新婦に向ける気持ちが表現されたこの作品は ハルスの最高傑作のひとつとされています。
しかし 彼の描く顔は どれもが「ハルス顔」です。濃い顔です。それが 存在感を高めてはいるのですが。
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〔26〕レンブラント作「ある牧師の肖像画」1637年 132x109cm キャンヴァスに油彩
Rembrandt 《 portlet ven een Predikant 》
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レンブラント(1606-1669)は オランダの黄金時代を代表する画家です。
オランダの黄金時代とは オランダが世界で初めてのプロテスタントの国として独立してから後の約90年間のことで 経済的に最も繁栄しただけではなく 芸術的にもまた最も繁栄した時代です。
プロテスタントの国の中ですので ここに描かれているのもカトリックの司祭では無く プロテスタントの牧師です。
レンブラントの肖像画は(まさにリューベンスと対照的に) 描かれている対象の人間を 肉体的物質的存在として描き出す以上に 魂の存在として描いていることが特徴です。
すなわち 物質という限られた範囲内の存在では無く 魂の世界=非物質世界=無限の広がりのある世界を 肉体の姿を通して表現していることです。
カトリックの司祭が神と人間との仲介者として 人々の上からの説教をするのに対して プロテスタントの牧師は全ての信者と対等の立場であり この絵ではこの牧師が信者たちの友達であるかのような存在感で描き出されています。
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27〕ヨアヒム・ベウケラール作「野菜市場」1567年 149x215cm 木の板に油彩
Joachim Beuckelaer《 Groentenmarkt 》
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イタリアで始まったルネッサンス様式がベルギーに入ってきた16世紀初め以降 絵画のジャンルに静物画が加わりました。
その中に 台所や食卓の上の様子を描いたものがありますが 更にその発展としてこのような市場の情景を描いたものも登場しました。
ヨアヒム・ベウケラール(1533? - 1733?)は このジャンルを特に得意としたアントワープの画家です。
この世という物質世界の情景を克明に描き出すことによって この世(=物質世界)での生の営みや生きる歓びを表現しています。
この店の棚に並べられている野菜や果物は 実はいろいろな時期に採れるものですから 実際にこれらが同時に並べられることはありません。
しかし このようは(百科事典的な)描写によって この世での豊かさを表現しています。
そしてそれは同時に この絵が描かれた時代のアントワープが 世界最大の商業都市として栄えていた すなわち世界各地からの食べ物が集まっていたことをも表しています。
ところが この絵を良く見てみると 画面の右上は何が描かれているのでしょうか? あるいは 画面の左上の女性は何をしている姿なのでしょうか?
その右の男性の腕は何をしている様子なのでしょうか?
幾らアントワープが世界最大の商業都市として栄えていたとは言っても 実際には農民たちも豊かな生活をして訳ではありません。
この八百屋の売り子の女性も同様です。
画面左上では 農家で貧しい生活をしている様子が描かれています。
画面左端の男女は 年老いて夫から相手にされなくなったその妻と しかし精力はまだある夫とが描かれています。
この八百屋の売り子は 野菜を売った後は 身体を売るのです。
そのように 単に野菜市場の様子が描かれているのでは無く この当時の社会の有様をも描き出しているのです。
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〔28〕ヤーコブ・ヨルダーンス作「老人が歌うように子供は笛を吹く」1638年 128x192cm
Jacob Jordaans《 zoals de ouden zonge, piepen de jongen. 》
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ヤーコブ・ヨルダーンス(1593-1678)は 宗教画も(リューベンスのスタイルで)たくさん描きましたが しかし彼の本領を発揮したのはこのような世俗画です。
この絵は 「老人が歌うように子供は笛を吹く」というフランダース地方の諺の一つを題材としています。
すなわち「子供は大人の真似をする」「蛙の子は蛙」という意味です。
この題材はヨルダーンスが特に好んだもので 何枚かこの題材で描いていますが この作品が最も出来が良いとされています。
左側の老人が歌いながら指揮をしています。隣の息子はバグパイプを吹き まだ幼い孫二人は笛を吹き そして右端の老婆も歌を歌っています。
がっちり体型の母親は 真中で一番存在感がありますが しかし歌っていません。
つまり 血が繋がっていないお嫁さんであることを表しているのでしょうか。
左上から右下への緩い斜めの構図が取られており 全体の穏やかな和やかな雰囲気をかもし出しています。
食卓の上を見ると この日は家族で何かのお祝いをしているのでしょうか?
リューベンスが絵全体の劇的な表現を目指したのに対して 一人ひとりの存在感を重視したヨルダーンスらしさが充分に感じ取れる作品となっています。
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【展示室2.14】《サロン》
☆産業革命以後の資本主義社会
封建制だったヨーロッパの世の中は 産業革命以後資本主義社会へと移行していきました。 しかし 封建制時代の「領主」と「領民」という関係が解消されたわけではありません。 それは 資本主義社会においては「資本家」と「労働者」という構図に置き換えられただけなのです。 本質的には 「(肉体労働せずに)財産を持てる人々」と「(肉体労働をしながらも)財産を持てない人々」という構図は変わっていないのです。 封建制の世の中では 「持てる人々=貴族/商人/職人」は都市の中に暮らし 「持てない人々=農民」は都市の外の農村で暮らしていました。 しかし 産業革命以後は 「持てる人々=資本家」も 「持てない人々=工場労働者」も都市の中で暮らすようになりました。 つまり 都市の中での格差が大きくなったのです。 19世紀には そういう社会のあり方を描く画家たちも出てきました。 一つには 上流階級の豪華な家の中や 贅沢な生活の様子。もう一つには その対極として肉体動労者たちの過酷な貧しい生活の様子。この「サロン」と名付けられた部屋には 中産階級の家の中の様子を描いた絵が主に展示されています。
〔29〕ヘンリ・デ・ブラーケラール作「旅籠屋」1637年
Henri De Braekelaer《 oude Herberg "het Loodshuis" 》
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ヘンリ・デ・ブラーケラール(1840-1888)は アントワープの画家で このような屋内の絵を非常に得意にしていました。
主に中産階級の家の中の様子を描きましたが ここでは一軒の旅籠屋の中の様子です。
(旅籠とは 一階が食堂 二階より上が旅館になっている店のことです。)
あたかも 時が止まったかのような静けさをたたえた雰囲気。これが彼の絵に共通した情感でした。
何百年も変わらない建物。何百年も変わらない内装。しかし その中で人間の生の営みが連綿と続けられています。
強調された遠近法によって凝縮感が高められた画面で 感傷性を超えた諸行無常の雰囲気を表現したこの一枚に ブラーケレールの特徴が良く現れています。
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〔30〕アルフレッド・ステヴェンス作「パリのフェニックス」1875/77年 72x53cm キャンヴァスに油彩
Alfred Stevens《 de Parijse Fenix 》
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ブリュッセルに生まれたアルフレッド・ステヴェンス(1823-1906)は 若くしてパリに移り住み 社会派の画家として上下に分かれた世の中の様子を絵にした画家です。
50歳を過ぎてからは その時代の女性たちの姿を主に描くようになりました。
この作品がその代表的な例であり 彼の最高傑作とされているものです。
パリの女性たちの姿。それは まさにこの姿に現われているような着飾った美しさです。
上品さや 優雅さ。
しかし それと同時にこの女性の顔には その感情もまた現れています。
この人は幸せなのでしょうか?
上品さや優雅さは この女性の内から湧き出ているものなのでしょうか?
パリというヨーロッパの大都会で (経済的には何一つ不自由無い生活をしている)上流階級のこの女性の姿に 「生きる歓び」というものが現れているでしょうか?
土を一度も裸足で踏んだことの無い 木々の間を吹き抜ける風を肌に一度も感じたこが無いかのようなこの女性の姿からは 自然と離れて暮らすことがいかに不自然なのかが伝わってくるようです。
そのような 近代社会の中での上辺の美しさ豊かさと その反面の歪み歪み(ゆがみひずみ)を社会派の画家として表現した一人が このステーヴェンスです。
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