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絵画を観るにあたって

《幸也の世界へようこそ》《書庫》《絵画を観る目・感じる心》 → 《絵画を観るにあたって》


【目次】

① 人間が作り出したものは 人の意識が物質化したもの

② 時代様式は その土地の・その時代の人々の集合想念が物質化したもの

③ 特に ロマネスク・ゴチック・ルネッサンス・バロックは
その土地の・その時代の人々の 信仰心・宗教心の表れ

④ 全てのエネルギーは 「動き」を基本とし
「動き」は 「速度」と「方向」という二つの要素から成り立っている

⑤ 人は その人の認識力以上のものは認識できない

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① 人間が作り出したものは 人の意識が物質化したものです。

私たち人間は
「肉体」と「心」と「魂」という三層からなっている生命体です。
「魂」とは「霊」とも言われますが 心理学的に集合想念と言われるものに繋がっている
ということは 宇宙そのものと繋がっているものです。
宇宙の中の一部として 「魂」あるいは「霊」があります。
「心」とは 観念・想念・感情などのことです。
心は 「魂」あるいは「霊」の一部です。
「肉体」という身体は その「心」が物質化したものであり
あるいは心の器 又は道具とも言えます。
これをコンピューターという道具に置き換えてみますと
ハード=機械は 肉体です。
そのハードを操作させるプログラム=ソフトに相当するのが 心です。
けれども ソフトとハードがあっても コンピューターは動きません。
その 動かしている元の人間に相当するのが 魂=霊です。
そして 機械は電気をエネルギー源にしていますが
人間という存在のエネルギー源は 宇宙そのもののエネルギーです。
そして 私たちの言動などの表現は プリントアウトされたものです。

この「肉体」と「心」と「魂」という三つをまとめて 「三位一体」と言います。
しかし キリスト教では三位一体は全く別の意味になります。
キリスト教は 転生輪廻を否定するために 本来の三位一体の意味から離れて
「父なる神」と「神の一人子=キリスト」と「精霊」とを三位一体と呼ぶようになりました。
けれども 本来は三位一体とは「三つの位で一つの存在が出来ている」ということですから
「父なる神」と「神の一人子=キリスト」と「精霊」とでは 三つの存在であって
三つの位でも無く 一つのものでも無く かなり無理をした表現ということになります。

私たちが普段の生活でしている行動・感情・言葉などによる表現は
丁度コンピューターで処理・加工されたものがプリントアウトされたものに相当しますから
全ては 心というソフトのプログラミングの具合によります。
そして 全て 私たち人間が作り出したものも
行動・感情・言葉などによる表現と同じように
心というソフトを使ってコンピューターで処理・加工されたものが
プリントアウトされたものに相当します。
これは芸術作品に限りません。
日常生活で言えば お料理であれ 手紙であれ 全てが 私たちの想念・観念・感情を
物質化したものです。



② 時代様式は その土地の・その時代の人々の集合想念が物質化したものです。

個々の作品が 個人の心・気持ちの物質化であるように
様式とは ある特定の土地の・時代の複数の人々の
集合的な想念・観念・感情が形として表れたのもです。



③ 芸術の様式においては
特にその土地の・その時代の人々の 信仰心・宗教心が大きく影響しています。

つまり 人々が日常生活において どのような宗教心・信仰心で生きていたかを理解することが
様式を捉えるポイントの一つとなります。
これは 「宗教芸術」あるいは「キリスト教芸術」と言われるものに関してだけではありません。
宗教画ではないもの 宗教芸術ではないものにもまた
それを作り出した人の信仰心・宗教心が表れています。
なぜならば 芸術という表現も
人の想念・観念・感情といった「心」や「気持ち」の表現であり
信仰心・宗教心といったもの あるいは 目に見えないものをどう捉えているかもまた
その人の想念・観念・感情の一部だからです。
特に ロマネスク・ゴチック・ルネッサンス・バロックは
その土地の・その時代の人々の 信仰心・宗教心の表れであり
これらの時代様式を理解するには この前傾が不可欠になります。


④ 全てのエネルギーは 「動き」を基本とし
「動き」は 「速度」と「方向」という二つの要素から成り立っています。

私たちが存在している 宇宙の中の全てのものは エネルギーであり また 波動です。
つまり 私たち自身も同じように エネルギー体であり 波動です。
波動だということは 動いています。
つまり 宇宙の中に存在する全てのものの性質は 動いている ということです。
そして 動きは 二つの要素で成り立っています。
「速度」と「方向」です。
何かが動くのは ある方向に移動したり変形したりし
そして そのある方向に ある速さでもって移動したり変形したりしていますから
この「速度」と「方向」という二つの要素によって 「動き」として捉えられることになります。

これは 視覚的に捉えられるものも 捉えられないものも同様です。
しかし 視覚的に捉えられるものの方が より分かり易いかと思います。
なぜなら 私たち地球人は 視覚から多くの
(あるいは 日常生活におけるほとんどの)情報を得ているからです。
美術は 視覚芸術ですので その点 他の感覚によるよりも
「速度」と「方向」という二つの要素を捉え易いのではないかと思います。

そして その「速度」と「方向」という二つの要素をもった「動き」として
美術作品には それを作り出した人の想念・観念・感情といった
その人の「心」や「気持ち」が表現されている訳ですから
絵や彫刻に形や色として表現されているものは それを製作した人の
想念・観念・感情などの動きの「速度」と「方向」とを
別の形で視覚化したものということになります。

ですから 美術作品において
そこに表れている 「速度」と「方向」を捉えることが
それを製作した人の想念・観念・感情といった「心」や「気持ち」を捉えることになり
また ある時代様式の特徴として表れているものは
その時代の・その土地の人々の集合的な想念・観念・感情といった
「心」や「気持ち」が形として表されている
ということになります。


(以上①から④までの項目の内容は 今後加筆する予定です)



⑤ 人は その人の認識力以上のものは認識できない

人間は いつでも何かを認識しながら生きています。
いわゆる五感を通して 見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる というやり方で何かを感じ
その感じたことを その人なりのやり方で「認識」します。
これは その人なりのやり方で「納得」します と言い換えても良いかもしれません。

人の考えは 人それぞれです。
思考もエネルギーですから 「速度」と「方向」とがあります。
どういうふうに考えるかは「方向」の違いです。
もし 「思考」というエネルギーを 空中に浮いているエネルギーの球だと仮定し
そのエネルギーの球は どの方向にでも移動できる可能性があり
どういう速度ででも移動できるとすると
その移動の方向には 実に様々な可能性があるこが分かります。
しかも動いている途中で その速度や方向を変化させることもできるのですから
刻一刻 とても大きな可能性の中に存在していることも言えます。

五感を通して受け取った情報を 人は「感じる」のですが
すでに この「感じる」段階で その人なりの考え方が その感じ方を決めることになります。
同じ大きさのものを見ても 「大きい」と感じるか 「小さい」と感じるかは人によって違います。
同じものを聞いても 「快い」と感じる人もいれば 「うるさい」と感じる人もいます。
同じものを食べても 「美味しい」と感じるか 「不味い」と感じるかは 人それぞれ違います。
同じ温度のものに触れても 「温かい」と感じる人もいれば
「冷たい」と感じる人もいるかもしれません。
それらは 人が その対象を「そのまま」に受け取っているのではなくて
その人なりの受け取り方をしている=その人なりの考え方で受け止めている
ということの表れです。

例えば 日本語しか話せない人が 他の言語が話されているのを耳にしたとします。
すると
「なんだかチンプンカンプンだよ」「分かんないよ」と思う人がいるかもしれません。
「一体何を言っているんだろう?」と思う人がいるかもしれません。
「これって 何語なんだろう?」と思う人もいるでしょう。
もしかしたら何も考えずに あたかも音楽が流れているかのように
その音(声)を耳に入れる人もいるかもしれません。
このように 同じものに接しても 受け止め方はそれぞれです。

そして 人は その思考のほとんどを「言葉」を使ってしています。
つまり 人は何かを考える時に 言葉を使って考えているということです。
しかし 言葉使いや 語彙も 人それぞれです。
思考のほとんどを 言葉を使ってしているのですから
その人なりの言葉使いや 語彙が その人の考え方に
大きく影響を与えていることは容易に納得できます。
ですから 人は その人なりの話し方 その人なりの語彙で
考えたり感じたり納得したりしている と言うことができるかもしれません。

同じ図形を見ても
何に似ていると捉えるかは人それぞれです。
あるいは 何かの色を見た時に
人はその人の語彙でその色を言い表そうとします。
「レンガ色」とか「朱色」という言い方を知らない人は
それらを共に「赤」と言い表すかもしれません。
このように 人はその人なりの語彙で
考えたり感じたり納得したり言い表したりしています。

人のものごとの認識の仕方は 本当に人それぞれです。
ものごとの捉え方・感じ方・考え方・納得の仕方・反応の仕方は 人により様々です。
けれども その人それぞれの捉え方・感じ方・考え方・納得の仕方・反応の仕方は
その人なりの捉え方・感じ方・考え方・納得の仕方・反応の仕方の範囲内でなされています。
人は その人の頭の中の概念に無いことは認識できません。
ほとんどの人は その人の中の概念に無いものごとに出会ったときに
「そんなことは有り得ない」と無意識のうちに否定したり 受け入れるのを拒んだりしてしまいます。 

結局 人は 何かのものごとに接した時に
その人の概念の範囲内に入ることを
その人なりのその時の思考の「速度」と「方向」とで受け止めている ということになります。
この 「範囲」「速度」「方向」の三つのうち
「方向」が ものごとの捉え方の最も大きく左右しています。
そして「範囲」「速度」の順になります。

それは実際に 移動ということを考えてみれば容易に納得できるかと思います。
東京から大阪に行くのに 飛行機に乗っても 新幹線に乗っても 高速バスに乗っても
所要時間の違いはあっても とにかく大阪行きに乗れば 着きます。(これが 「速度」の違いです)
でも 進む方向が違っていたら 着くでしょうか?
東京から大阪に行くつもりが 長野行きの列車に乗ったら 大阪には着くでしょうか?
途中で方向を変えなければ 着きません。(これが 「方向」の違いです)
もし 東京を出た時に 名古屋行きのこだまに乗っていたら 大阪には着くでしょうか?
大阪に着きはしませんが 近づきました。(これが 「範囲」の違いです)
これと同様に 認識力においても 速度の違いよりも範囲の違いの方が
範囲の違いよりも方向の違いの方が大きく影響しています。

人は ものごとに接した時に その人のその時の思考の
「方向」「範囲」「速度」に合致するものか 近いものは認識しやすいのですが
逆に遠いものは認識し難くなります。
つまり 考え方が似ている人の言うことは簡単に納得できますが
考え方が非常に違う人の言うことは 容易には理解し難い・納得し難いということです。

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「認識」に関係しているものに 「悟り」というものがあります。
「悟り」とは一体何でしょうか?
この言葉の定義はいろいろとあるようですが….

ものごとには 目に見えるものと 目には見えないものとがあります。
大抵の人が その情報のほとんどを 「目に見る」ことによって得ています。
つまり 人間は 「目で見て」認識することが一番多いということです。
五感のうち 「見る」以外の四つが 目には見えないものごとを認識しています。
音は目には見えません。香りも見えません。味も温度も質感も見えません。

けれども もしかしたら この地球には あるいはこの宇宙には
五感では捉えられないものごともまた存在しているかもしれません。
例えば 人間の耳は 様々な高さの音のうち
10Hz~20000Hzの範囲の音しか聞き取ることができないと言われています。
(Hzヘルツとは 一秒間にどれだけの回数振動するかを表わしています)
つまり それよりも低い音も 高い音も聞き取れないということです。
でも 人間の耳に聞き取れないからといって
もっと高い音・低い音が存在しないという訳ではありません。
存在はしているけれども 人間の耳では捉えられないというだけのことです。

あるいは
人間の目は 非常に暗いところでは良くものを見ることができません。
しかし 暗闇で物が見えないからといって ものが存在していない訳ではありません。

このように
人間が その五感で捉えられないことが この地球上にも 宇宙の中にも沢山あります。
それら 五感では捉えられないものを 人間は全く認識できないのでしょうか?

例えば 「第六感」と言われるものがあります。
五感では感じ取れないものごとを どうやってだかは分からないけれど感じることです。
一体 第六感で何を感じ取っているのでしょうか?
それは 言葉では言い表せません。
なぜならば 言葉では言い表せないものを感じ取るのが「第六感」だからです。

しかし 「第六感」を発達させるコツはあります。
それは 五感を100%使うということです。
見るのも 聞くのも 味わうのも 嗅ぐのも 触れるのも
全てを最高に敏感に 注意深く 「耳を澄ませて」感じ取るようにします。

良く見ます。とことん良く見ます。もっともっと良く見ます。
そうすると 例えば 自分の手を見ると
指の周りにうっすらと白いボヤッとしたものが見えます。
オーラです。
薄暗い所の方が見え易いかもしれません。
(これは 誰にでも見えるものです。
しかし 大抵の人は「オーラなど見えない」と思い込んでいます)
 
良く聞きます。目を瞑って耳に神経を集中させて聞きます。
もっと良く聞きます。とことん良く聞きます。
すると 聞こえる範囲が広がります。
今までよりも遠くからの音も聞こえてきます。
そして もしかしたら キーンという音に近い高い音が鳴り続けているのが聞こえるかもしれません。
「白い音」と表現できるような音です。
(この音は誰にでも聞こえるものだと思っていたのですが そうではないようです。
小中学生の頃の聴力検査の時に
「高い音が聞こえたらばスイッチを押して下さい」と言われると
この音が聞こえますので すくにスイッチを押すと
「まだ音を出していません」と言われることが幾度かあったのを覚えています。)

良く匂いを嗅ぎます。
この時も目を閉じた方が鼻に神経を集中できます。
鼻に神経を集中していると 息=空気の動きで 鼻毛が動くのが感じられます。
けれども 鼻毛ではなく 匂いに神経を集中させます。
すると それまでは気付かなかったいろいろな匂いが感じられます。

食べ物や飲み物を口に入れた時にも 目を閉じて良く味わいます。
舌に神経を集中させます。
良く味わいます。
もっともっと良く味わいます。
すると「甘い」とか「塩辛い」とか「酸っぱい」とかの他に 何かを感じます。
例えば その料理を作った人の気持ちです。
料理を食べるとは 物質である蛋白質であるとか脂肪分であるとか
ビタミンとか澱粉質とかを体内入れているだけではなくて
作った人の気持ちをも食べているのが分かります。

そして 最後に触覚です。
目を瞑って何かに手を近付けてみます。
あるいは手を触れてみます。
すると 温度・質感・硬さなどを感じます。
更に良く感じてみます。
ジーと感じてみます。
すると 敏感な人は そのものの以前の持ち主のことを感じたり
手紙であれば書いた人の気持ちを感じたり出来るかもしれません。

このように 五感を100%使うと 更にその外にある第六感を発達させることになります。

そして 先に触れましたが 一般的に人は
その人の概念の中に無いものごとに接した時に
拒否したり 否定したり 無視したりして 認識しないようにしてしまっていることが多いのですが
そのような制限を無くします。
とにかく ものごとをそのままに受け止めます。
自分の頭の中の言葉で表現できるできないに関わらず とにかく そのままに受け止めます。
そうすると
身の周りの目に見えるものごとだけではなくて
もっといろいろなものごとを感じ取れるようになります。
宇宙はどういう構造になっているのか….
生命はどうやって存在しているのか….
そもそも存在とは何なのか….

そういった目には見えない そして身の周りのことだけではない
宇宙のあり方や その中での生命のあり方を
どこまで認識できるか その認識力のことを
「悟り」と言います。
そして それらを認識した上で 更に
その宇宙の中での生命の本来のあり方に ある程度以上則した生き方をしていることを
「悟っている」と言います。

しかし 「ある程度以上に」とは 一体どの程度なのでしょうか?

一つには
宇宙のあり方は 肯定であり 否定ではありませんから
どの位 ものごとを肯定的に考えたり捉えたり出来るか です。
そして
宇宙とは 調和ですから
どの位 自分自身とも 他の生命とも調和しているか です。
そして
宇宙とは 愛ですから
どの位 自分自身のことも 他の生命のことも愛しているか です。
つまり どの位
全ての生命がより多くの生命とお互いに愛し合い調和し合えるように成長していけるかを
願い 手助けしていけるか です。
そして
どの位 この地上での 目に見えるものごとだけではなくて
目には見えないことをも認識できるか です。

思考・観念・感情などにおいて 肯定の方が否定よりも多いこと。
他の生命との調和の方が 不調和よりも多いこと。
愛の方が 憎しみや裁きや責める気持ちよりも多いこと。
目に見えることも 見えないこともそのままに受け止められること。
これが 「ある程度以上」と言えるかもしれません。

☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆

人はその人の認識力の枠の中でしかものごとを捉えられません。
しかもその枠の範囲内のものごとであっても
その人のその時の思考や感情の方向及び速度と
あまりにかけ離れているものごとは なかなか捉えられません。

これは何かの芸術作品に触れた時も同じです。
絵を観ても 音楽を聴いても 彫刻を見ても
私たちは 形や色だけを見ている訳ではありません。
音の高低や強弱や音色だけを聞いている訳ではありません。
その作品を作った人の 「心」あるいは「気持ち」をも見ているのです。
その作品を作った人 あるいはその作品を演奏している人の
「心」あるいは「気持ち」を聴いているのです。
というよりも それらと同調する共鳴する 自分自身の心を見たり聴いたりしているのです。

何か素晴らしい作品とは
何か素晴らしい演奏とは
なぜ私たちがそれらに触れた時に感動するのかというと
その中に 宇宙の真理が含まれているからです。
その宇宙の真理に触れた時に 私たちは 感動するのです。
ですから 素晴らしい作品 人の心を魂を底から揺さぶるような感動させる作品を創り出した人
あるいはそういう演奏をする人は
「悟っている人」と言うことが出来ます。

私たち人間のほとんどは
その人の認識力の範囲内のものごとしか認識できません。
でも 頭で考えてする認識の過程を経ずに
宇宙の真理は直接に私たちの心に入ってきます。
というよりも
私たちの心はそもそもが 宇宙の中に存在している宇宙の一部なのですから
外から入ってきた その宇宙の真理を含んだ情報と
その人の心とが同調して共鳴した とも言えますし
外から入ってきたのでは無く そもそも誰の心の中にもあるものだから
感じ取ることが出来るのだとも言えます。

けれども 感動しても それを言葉ではなかなか言い表せません。
その人の認識力の範囲外のものごとが その人の思考回路を通らずに
その人の心に直接に入ってきたのですから。
そして その人の頭の中には それを表現する語彙が無いのですから。

ですから ある芸術作品に触れた時に
私たちは 色や形や質感を見 音の高低や強弱や音色を聴いているだけでは無くて
その作品を創り出した人 それを演奏している人の「心」を受け止めているのですが
それが一体 どの位に「悟った」心なのかは
それに触れた人の認識力の範囲内のことしか捉えられません。
つまり ある芸術家が どれ程に悟って作品を創り出したとしても
私たちは 私たちの心に直接に入ってくるものを受け止めることは出来 感動することは出来ても
それがどの位に悟っている心なのかは 私たちの認識力の範囲内のことしか捉えられません。
(ですので 美術解説書なども それを書いた人の認識力で捉えられたことしか書かれていません。
特に 学者が書いたものは 学者は芸術家ではありませんから
つまり「創造する」ということをしているのではなく
分析したり比較したりしている人たちですから
「創造する」ということが分からない あるいは
「創造する」人の気持ちが分からないで書かれていることがほとんどです。
学者は 芸術家が「何を」「どう」表現しているのかは 説明できるかもしれません。
しかし もっと大事な「なぜ」表現するのかを説明できないのです。)

しかし 自分の心を 自分から離していって
相手の心に置くと 相手の心がより感じ取れます。
あるいは 相手と謙虚に向き合って会話すると
相手の気持ちがより感じ取れるかもしれません。
芸術作品に触れた時も同じです。
一枚の絵と向き合って
「あなたは私たちに何を伝えようとしているのですか?」と訊ねてみます。
あるいは この絵の作者はどういう気持ちでこの絵を描いたのだろうかと感じてみます。
すると 何か感じ取れるかと思います。
その絵の作者がその作品で伝えたかったことが….
どういう気持ちでその作品を描いたのかが….


(2007/03/01)



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