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デジタルの音について

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デジタルの音・アナログの音

SPレコードからLPレコード そして磁気テープへと変遷してきた 録音・再生の歴史において
1970年代に入ってから もう一つの新たな発明がなされたことは
実際にそれを体験された世代の方も多いので 思い出して頂けるかと思います。
デジタル録音の発明と それに続くデジタル再生技術
そしてCD(コンパクト・ディスク)やDAT(デジタル・オーディオ・テープ)
DVD(デジタル・ヴィデオ・ディスク)やMP3へと発展してきたことは
まだ記憶に新しいかと思います。

それによって 私たちが日常に触れる音(又は音楽)は どう変わったでしょうか?
あるいは 私たちの日常生活そのものはどう変わったでしょうか?

1970年代初めに登場したデジタル録音を 初めて耳にした時の印象は
「なんて 汚い音なんだろう」というものでした。
それは まさに デジタル録音の謳い文句であった
「きれいな音」ということと 正反対の印象だった訳です。
では 一体 何を「きれいな音」と宣伝し
何を「汚い音」として捉えたのでしょうか。

「きれいな音」と言っているのは どうも 雑音が入らない という意味のようです。
SPもLPも 音という波動を円盤の溝に波形として刻み込み その溝を針で引っ掻いて波形を拾い出し
増幅して音に戻すという仕組みをとっていますので
どうしても摩擦による雑音を拾い 再生してしまいます。
磁気テープもヘッドとの摩擦がありますから 矢張り雑音が発生してしまいます。
あるいは 回転速度のゆれや 円盤のそりも 再生音に影響を与えてしまいます。
(ピッチ=音の高低や 強弱にむらが出て 音が波打つように聞こえてしまいます。)
それに対して デジタル録音は
音を一旦 デジタル信号に変換して そのデジタル信号を記録し
再生時には デジタル信号を再び音に戻すという仕組みになっていますので
音そのものを記録しているのでは無いので
再生された音には 雑音が入らないですし 回転速度による影響も受けない訳です。
その 雑音が入らない いわゆる「ヒスノイズ」が無いということと
音にゆれが出ないということを
それまでの録音・再生方法による音と比べて「きれいな音」と言った訳です。

では 何を「汚い音」として捉えたのでしょうか。
それは 充実感が無く 乾いた スカスカの 薄っぺらい音 という印象です。
確かに 雑音は入っていません。
でも 音そのものにも 全体の響きにも 充実感が感じられません。
潤いが感じられません。深みが感じられません。
つまり 音 あるいは響きの実体を伝えていない・再現していないのですが
それをどうして 「きれいな音」と言えるのでしょうか?
実はこの時点で 人間の意識における非常に重要な岐路に私たちは立っていたのですが
それを自覚するのはもっと後のことになってしまいます。
つまり デジタルによる音の記録・再生技術のみならず
コンピューターなどにおけるデジタル技術が発展し 日常生活の中でそれらが多用されるようになって
人間の意識 あるいは ものの考え方・捉え方に
デジタルがどういう影響を与えるかが明らかになってきました。
(この 意識におけるデジタルの影響については 別項《デジタルとアナログ》を御参照下さい。)
ただし デジタル技術が日常生活において多用されるようになる 更に十年程前に始まった
映像放送=テレヴィジョン(一般に「テレビ」と言っていますが)もまた
私たちの意識に あるいはものの考え方・捉え方 ひいては行動に
大きな影響を与える大きな要素になっていますので
今の私たち アジアや欧米の人々の多くが
これらデジタル及びテレビからの複合的な影響を受けつつ生きている
(かつ それを自覚せずに生きている人も多いようですが)ということになります。

では 一体何が原因となって デジタルの音を「きれいな音」にしていないのでしょうか?
充実感が無く 乾いた スカスカの音で 音そのものにも 全体の響きにも
充実感や潤いや深みが感じられないようにしているのは何なのでしょうか?
逆に 何がSPやLPの音を「いい音」にしているのでしょうか?
どうして SPやLPの音には雑音が入り 音にむらが出てしまうのにもかかわらず
充実感があり 潤いや深みを感じさせる響きを聞くことが出来るのでしょうか?
ましてや SPの音には 沢山の雑音が入り かつ
音色も全体の響きをも再現出来てはいないどころか 本当の音とは程遠いのにもかかわらず
どうして 「ぬくもり」を感じ取ることが出来るのでしょうか?


結局 これは アナログかデジタルか という違いからきています。
音は そもそも アナログです。
連続性のある波動です。
音楽の流れもアナログです。
ひとつながりのものです。
けれども デジタルというものは
非連続性のものです。
非連続性のものでもって 連続しているものを表現できるでしょうか?
当然出来ません。
点線で実線を表せるかどうかを考えてみればすぐに分かります。
デジタルは 全ての情報を一旦 「0」と「1」という二つの数字に置き換えて処理しています。
全ての情報は この「0」と「1」という二つの数字の組み合わせによって処理され 表現されます。
ということは 「0」と「1」の間のものは無い訳です。
ですから デジタルとは 「ざる」です。
「0」と「1」で全てのものを拾おうとしている ざるです。
けれども ざるで水をすくうことが出来ないように
デジタルで音をすくうことは出来ません。
あるいは 拾われたものは 非常に大雑把なものになります。
大雑把なものにならないようにということで
ざるの目を細かくしたらどうか と誰でも思い付きます。
一般のCDは 一秒間に44100のサンプルを拾い出して記録されています。
つまり 一秒間に音という波動の44100ヶ所を計測している ということです。
けれども 一般のCDは そこに記録されている音の高さの範囲が
一番高い音で20000ヘルツになっています。
一秒間に20000の山を作る波動です。
例えば 日本には沢山の山がありますが
もし 20000の山を計測するのに 44100ヶ所からしかサンプルを集められないとしたら
一つの山から たったの二ヶ所~三ヶ所になってしまいます。
一つの山 例えば富士山なら富士山という山を捉えるのに たった二ヶ所か三ヶ所を計測して
「これが富士山です」と言えるでしょうか?
こういう 非常に大雑把なことを デジタル録音というのはしている訳です。
だからこそ 充実感の無い スカスカした音に聞こえてしまう訳です。

それに対して
そもそも連続性のある=アナログである音を
アナログで録音し記録し再生したSP/LP/磁気テープが より自然に感じられるのは当然です。
音という連続性のあるものを 連続性のあるやり方で記録しているからです。


良い音とは 雑音が入っていない/少ない音であって だから
雑音を減らそう/無くそうということで デジタルが使われるようになったのだとしたら
それは 成功したことになります。
けれども それによって 雑音だけでは無く それ以外のものをも捨てることになってしまいました。
デジタルで音を処理するというのは
ざるで音を拾っているようなものだという表現をしましたが
もう一つ CDをはじめとするデジタルによる録音・再生が充実感を感じさせない理由は
20000ヘルツ以上の音はCDには入っていないということです。
これは それよりも高い音は 人間の耳には聞こえないから という理由と
それよりも高い音は デジタルの解析力では捉え方が大雑把になってしまうという二つの理由からです。
しかし 人間は 耳だけで音を聞いている訳ではありません。
音は 波動です。
波動ですから 耳で受け止めているだけではなく 身体全体で受け止めています。
つまり 耳には 20000ヘルツ以上音は聞こえないかもしれませんが
身体は感じ取っています。
その本来感じ取っているはずのものを 切り捨てているのは
食べ物に例えると 非常に精製したもの と言えます。
玄米に対して白米。全粒粉に対して白小麦粉。黒パンに対して白パン。黒砂糖に対して白砂糖。
これらは皆 米/小麦/砂糖の中の何かを 必要が無いものとして捨てているものです。
けれども その捨てられているものは 本当に必要無いものなのでしょうか?
実際には その捨てられている部分に ヴィタミンなどのミネラルや繊維質など
沢山の身体に役立つものが含まれています。
ですから デジタル処理した音は 白米/白パン/白砂糖に相当し
アナログ処理した音は 玄米/黒パン/黒砂糖に相当すると言って良いでしょう。
白米/白パン/白砂糖は 口当たりが良いかもしれません。
けれども 玄米/黒パン/黒砂糖のような味わいはありません。
白米/白パン/白砂糖は 何か他のものと一緒に食べるのが一般的です。
なぜならば 口当たりは良くても 味わいが無いからです。
ですから ふりかけを掛けたり バターを塗ったり トーストしたりして
何らかの味を付けて食べます。
それに対しては玄米/黒パン/黒砂糖は それ自体に味がありますから
更に何らかの味を付ける必要はありません。
けれども もっと大事なことは
玄米にも 全粒粉にも 胚芽という生命力を宿した部分
生命の基が含まれているのに対して
白米・白小麦粉には その部分が含まれていない ということです。
だからこそ 私たち人間という生命が 食べ物の形で栄養として摂取するにあたって
頭で自覚する・しないに関わらず
それが本当に身体に役に立つか立たないかの違いになっている訳です。
  こういう違いが 丁度
デジタル処理をした音の響きと アナログ処理をした音の響きとの違いに相当していると言えます。

そもそも
雑音は本来の音の響きとは関係ない余計なものであるから排除しよう
というのは自然な考え方かと思います。
けれども それによって 実は本来必要なものまでをも捨ててしまうことになりました。
この 「必要無いものは 捨てよう」という発想は自然なもののように思えますが
本当に自然なものなのでしょうか?
正確には 「ここでは必要無い」「自分には必要無い」「今は必要無い」ものを
全てひとくくりに「必要無いもの」として捨てていることがほとんどだと思います。
ということは それは「自分の」都合であって つまり自分を基準としての
自分のエゴを基準としての発想だということになります。
このような発想が私たちの日常生活では無意識に行われています。
殺菌・除菌・抗菌や殺虫 避妊・堕胎といったものです。
これらは全て「ここでは必要無い」「自分には必要無い」「今は必要無い」ものを ひとくくりに
「必要無いもの」=「存在する価値の無いもの」として 捨てる/殺すことをしているものです。
つまり その相手の存在自体の立場に立って考えようとはせずに
「自分の都合」だけを考えている結果です。
では もしも誰かがその人の都合でもって
あなたを「不必要なもの」として殺そうとしたら あなたはどう感じるでしょうか?
「それでもいいよ」と言えるでしょうか。
「それはあなたの言い分でしょ」「それはあなたの都合でしょ」と言い返すのではないでしょうか。
けれども 私たちは そういうことを日常生活の中で気付かずにしてしまっています。
そして デジタル処理というのは その様な無意識の発想と 実は関係していることになります。
(この点に関しては 別項《デジタルとアナログ》において更に詳しく述べてあります。)

ですから なぜ デジタル処理をした音を
「きれいな音」とは感じられないのかの理由のひとつが
「自分にとって不必要なものは捨ててしまえば良い」という
無意識のエゴが基になっているということではないかと思います。

それに対して アナログ処理による音が
例え雑音が沢山入ってはいても 充実感のある ぬくもりのある音に感じられるのは
一つには 音という連続性のあるものを
そのままに連続性のあるものとして捉えているからです。
デジタルは ヨットのマストに帆では無く 網を張っているようなものです。
アナログは 帆を張って風を受けているのに相当します。 
ぬくもりのある音に感じられる もう一つの理由は
デジタルとは逆に 何かを「不必要なもの」として排除しよう という意識が入っていないからです。
つまりこれは 「清濁併せ呑む」ということです。
宇宙は 私たち一人一人が何を考え 何をどう行動しても 存在させ続けてくれています。
これが 「清濁併せ呑む」ということです。
宗教的に言うならば
神は 私たちが何を思い どう行動しても
生かし続け 見守り続け 反省し悔い改める機会を与えてくれている
これが 「清濁併せ呑む」ということです。
その意識に ぬくもりを感じるのは当然のことです。

ところが だんだんと デジタルによる音の録音再生が一般化し
それが アナログによる音声処理に取って代わるようになってしまいました。
そして 今では
デジタルの音の方が当たり前であるかのように感じる人も多くなってきているようです。
なぜならば 生活のあらゆる面で 音の伝達に関して デジタル技術が使われているからです。
テレビ・ラジオ・電話・CD・DVD・MP3 など….. 
生の音以外は 人工的に録音され処理され再生された音のほとんどが デジタルになった結果
そういう音が当たり前だと感じる人の方が 多くなってしまったようです。
ですから 音楽 あるいは音の響きに
深みを 潤いを 充実感を感じさせるものが少なくなり
逆に 軽く 乾いた 表面的な音の響きが受け入れられるようになってしまいました。

そして そのために 1970年以後に生まれた人々には
ある共通したものの考え方・捉え方・感じ方・表現などが感じられるようです。
つまり ものの考え方・捉え方・感じ方・表現などがデジタルになってきた ということです。
かつ デジタルの音の性格が そのまま表れるようになってきたということです。
例えば ものの考え方・捉え方・感じ方・表現などにおいても
充実感が感じられない 潤いや深みが感じられない
ものごとの関連性・連続性を捉えられない 表面的にしか捉えられない
表現にも潤いや深みが感じられず パサパサとしている
などです。

ですから 私たちが当たり前に受け入れてしまったデジタルの音が
実は 日常生活において 非常に大きな影響を私たちに与えていることになります。
そしてそれが 私たちの人生そのものにも 影響を与え
ひいては 私たちの社会そのものにも影響を与えている訳です。


(2006/01/06)


(この項目は 《デジタルとアナログ》に続きます)


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