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宗教とは

 

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【宗教とは?】

日本語の「宗教」という言葉は 仏教用語の「宗の教え」という言葉から来たもので 英語のreligionの訳語として明治時代になってから一般化しました。

ヨーロッパのreligionは ラテン語のreligiōから派生したもので レリガーレ「re(再び)+ligareリガーレ(縛る/繋ぐ/結び付ける)」に由来すると思われています。つまりは今日のような宗教を意味していたのでは無く 個人個人が何かに繋がれる状態を表しています。では何に繋がれるのでしょうか? 規則/道徳/神など目には見えない存在 あるいは家族隣人支配者など目に見える存在 あるいは躊躇注意不安恐怖束縛制限抑制/恐怖などの感情を引き起こすものに対してでした。感情は個人的なものですから そもそもは個人と何かとの関係でした。

そしてその後 そこから発展して「教義と結び付いた(あるいは縛られる)」「特定の神の概念と結び付いた(あるいは縛られる)」「修道院などの規則と結び付いた(あるいは縛られる)」ものとしての 今日的は意味となりました。そして関わり合い方も  個人から集合/集団へと変わっていきました。

日本語の「宗教」の方は 「宗」は「究極の原理/真理」を意味し 「教」は「教え」ですから「学ぶもの」ということになります。しかし「学ぶもの」というよりも「教えがあるもの=教えられるもの」です。つまり「神」とか「教祖」いう存在がいて そこから人間へと何かを教える ということになります。仏教は 仏陀という教祖が残した言葉を基本としています。キリスト教はイエス・キリストが言った言葉を基本としています。

ところが 多くの人が神の声を聞いていません。なので 特定の人が「自分(たち)は神の声を聞けるんだ」ということで それを人々に伝えます。そういう人が教祖となった宗教もあります。いずれにしても キリスト教/仏教/イスラム教/ユダヤ教その他 多くの宗教がそのような人間を「教えられる」立場に置く仕組みとなっています。

なぜならば 宗教とは「人々を幸せに導くもの」としているからです。導くには教えが必要なのです。そして「教える立場」と「教えられる立場」とが必要なのです。小学校に行って 教科書も無い 先生もいない だったらば勉強が出来ません。それと同じことです。

しかし 何が「究極の原理/真理」なのか その宗教が宗だとしているものが「究極の原理/真理」なのかは それぞれの宗教の自己判定ということになります。

 

ということは「宗教」とは 

1)「『神』という目には見えない存在を認め信じ 人間はそこから何かを教えられる」 かつ「神から直接では無く 神からの教えは誰かによって書き留められ纏められていて そこから学ぶ」仕組み

2)「一般的な人よりも優れた誰かが『教祖』となり 他の人々への教えを説いたもの」であり 「信者はその教祖の言葉を信じ それを元に学ぶ」

3)そのために信者が集まり 儀式をし そのための施設がある

 

しかし 2)の場合には「宗教」と「学校」とでは 何がどう違うのでしょうか? (これが 儒教が宗教なのかどうかの論点となっています。) 結局「宗教」というからには「神」がいないとならないのでしょうか? しかし 仏教には「神」はいません。ですので 神とは限らず 人間の力を超えた目には見えない超越的な何かを信じる という要素が入っているようです。

 

宗教の定義は不明確です。概ね「目には見えない超越的な力を信じ信仰し」「その宗教の教義を広める/儀式行事を行う/信者の教化育成する」ことを目的とした「教祖/経典(教義)/教団/施設」を持つ組織 ということのようです。

 

日本には「神道」というものがあります。なぜか宗教ということになっています。明治維新までは日本のほとんどの家に神棚と仏壇とがあって 神棚は上 仏壇が下 という二段構造となっていました。つまり その両方に礼拝していました。

しかし 神道には教祖がいません。神道では拝む対象が決まっていません。神道には教義がありません。教義がないのでそれを広めません。信者に教えません。教団がありません。

キリスト教や仏教では それぞれの信者は どこかの教会にどこかの寺に属しています。経典があり教義があり 信者はそれを教わります。拝む対象として 神とか仏陀とかが決まっています。しかし神道の場合には それらのどれもありません。それなのに宗教なのでしょうか? あるのは「人間の力を超えた目には見えない超越的な何かを信じ 敬う」ことです。

 

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【信者と宗教との関わり】

キリスト教は 「神」「神の一人子イエス・キリスト」「精霊」の三位一体と そこから下ろされた言葉と 教会が打ち立てた教義とを信じ それらを教わり 聖体拝領などの儀式をします。結局 信者がすることは何でしょう? 信じる/祈る/懺悔する/教わる です。一般の信者は 聖書が(十六世紀に)自由に読めるようになるまでは 聖書を自ら読んで学ぶことは出来ませんでした。あくまでも聖職者の口から出てきた言葉を教わるだけでした。

 

仏教は 仏陀の残した言葉と その他の経典を教わり それを信じ そこから学び 儀式をします。信者がすることは 信じる/教わる/学ぶ です。お経は日本語ではありませんから それを読解して信者自らが学ぶことは困難ですが それ以外の経典から学ぶことができます。

 

ユダヤ教は 神の存在と言葉を信じ 時代と共に書き加えられた教典タナハ(旧約聖書)やタルムードなどを学び 祈ります 生活において教義に則った行為をします。つまり 信者がするのは 信じる/祈る/学ぶ/行動し実践する/教わる です。そしてユダヤ人としての伝統/慣習/文化/知恵などを世代から世代へと受け継いでいきます。

 

イスラム教は 神の存在を信じ 預言者ムハンマド(モハメッド)の言葉を信じ 祈り 儀式/断食/巡礼をします。

 

神道は 人間の力を超えた目には見えない超越的な存在の力を信じ 敬い 祈ります。 

 

これら宗教は「一神教」と「多神教」とに区別されます。神という存在は一つであるとするかどうかです。一神教の中でも キリスト教は「唯一絶対の神」であり人格的なものがありますが イスラム教やユダヤ教では「遍在の普遍的な神」です。遍在していて普遍的なのであれば 実はそれは多神教と同じことなのですが。

 

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宗教は どこかで始まりその土地の人々に広まりましたから 当然 その土地の気候風土などの条件がその宗教の在り方に影響を及ぼしています。宗教によっては(特定の肉食やアルコールなど)禁止事項がありますが これらは教義というよりも気候風土から来たものもあります。

あるいは その地域の全員が同じ宗教に属することによってその社会が成り立っていました。特にユダヤ教/イスラム教はそうです。つまりは「個人の信仰」はありえないということです。宗教=民族であり 宗教=社会なのです。ユダヤ教もイスラム教もそれを守り続けています。それが前提なのですから当然です。

 

しかし キリスト教社会や日本では そのような「宗教=民族」「宗教=社会」という考え方は今ではほとんどの人が持っていません。ですから それを理解できません。キリスト教社会では 16世紀の宗教改革以来「信仰は個人が選択するもの」となりました。日本では明治維新以後「国家神道」によってそれ以前の宗教との関わりが壊され さらに第二次世界大戦後には国家神道の破壊から 全ての宗教を否定する方向へと進みました。(政教分離思想がその一つです。) ですから

「宗教=民族」「宗教=社会」という認識は全くありません。

 

けれども では日本では日本人の民族性と宗教とは全く関係無いのでしょうか? そんなことはありません。特定の宗教/宗派/宗教団体などとは関係無く 日本人の生活の中に漠然と宗教的なものが入っています。つまり 日本の文化や日本人の生活習慣の中に 宗教由来のものがあります。

本来 宗教と文化とは切り離せないものなのです。しかし「信仰は個人のもの」という概念から 宗教と文化との関係が分からなくなっているのです。

 

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【宗教の段階】

結局 宗教とは「個人」あるいは「社会」をより良くするために(あるいは悪くならないように) 人間の力を超えた目には見えない超越的な力からの何かを信じ それを受け止め それを敬い それに感謝し それを(教えなどの)導きとして生きていく ということです。それを民族全体でやっているのがユダヤ教です。社会全体でやっているのがイスラム教です。そして 日本も昔は社会全体でそれをしていました。神道と仏教と(儒教と)によって。 

 

地球人類の進化の段階というものがありますが 宗教は当然のことながらその地球人類の進化の段階に合ったもののはずです。しかし どの宗教も同じような段階にあるわけではありません。

「何を対象に祈るのか」とか「どういう教義なのか」とか「どういう儀式をするのか」とか以上に重要なのは 実はこのことなのです。「宗教の段階」です。

【キリスト教】

キリスト教は 信者が「学ぶ」ことを禁じました。あくまでも「教わる」のです。聖職者が教えるのです。「唯一絶対の神」がいて その一人子であるイエス・キリストがいて 彼の残した言葉を基にした聖書があって そしてそれを聖職者が教えてくれるのです。ですから 個々の信者とイエス・キリストとは離れた存在です。ましてや絶対の神とは遠く離れた存在です。それがどういう存在なのか考えることも想像することも ましてや実感することも出来ません。とにかくそういうものが存在することを教わるだけです。そしてその神を崇拝し畏れます。そして「祈り」「懺悔」します。「学びを禁じていた」のがキリスト教カトリックの一番の特色です。それを壊したのが宗教改革です。一人ひとりが背書を読めるようにしました。ところがプロテスタントは「万人司祭」ということで 聖職者が信者に教えることを否定したがために それまで「教わる」だけだった人たちがいきなり「先生無しで学びなさい」ということになったのです。小学校で急に先生がいなくなって「今からはずっと自習です」ということになったらば 生徒たちはきちんと勉強できるでしょうか? 

キリスト教カトリックは「教わるだけ」で教科書を与えなかった幼稚園 プロテスタントは教科書はあるけれども先生がいない「自習している小学生」です。

【イスラム教】

イスラム教は 社会全体がイスラム社会であり その中で「そういう生活をするのが当たり前」という社会を作りました。その中での生活全般が「イスラム」であり その中での宗教が「イスラム教」です。生活と宗教とは切り離せません。宗教と社会とも切り離せません。そういう中で 個人個人の学びはどの位あるのかというと 「そういう社会の中で育つ」のであって 個々人の学びはほとんどありません。そして 祈り/儀式/巡礼をします。結局 イスラム教の段階は小学校中学年か高学年です。

【仏教】

仏教は 宗派によって様々です。例えば「念仏を唱えるだけで良い」というのもあります。これは「念仏を唱える」だけですから 神の存在を認識していなくても出来ますし それは祈りではありません。読経を重視する宗派もありますが これも祈りでしょうか? しかし 経典の内容を教えたり学んだりしてきた宗派もあります。そしてその経典を元に それを生活で実践し生活の内容を高めていきました。ですから 仏教は宗派によってその段階が幼稚園から高等学校までとかなり幅があります。

【ユダヤ教】

ユダヤ教はユダヤ民族での継承を重視しましたから 教え教えられることじゃ重要でした。しかし それ以上に学ぶことを重視しました。自らタルムードを読んでその意味を理解し実践します。ですから ユダヤ教の段階は大学です。

【神道】

神道には 教祖も教義も経典も(一般の参拝者が集団で参加する)儀式もありません。個人個人で神社に行って参拝するだけです。そこでの祈りの内容も全く自由です。神道とは「神への道」であり「神の道」です。自らの人生を神への道とすることであり 神と共に歩む道です。その「神」も全く漠然としています。歩むに当たって 他人から教わるのではありません。自ら「神の道」を探し それを歩んでいきます。神の道を歩むに当たっては「神を実感する」ことも重要です。「祈り」「探求」「学び」「実践」する神道の段階は大学院です。

 

このように「宗教の段階」というものがあります。しかし 上から下を理解することは出来ても下から上を理解することは出来ません。例えば 高校生は小学校での勉強を理解できます。しかし 小学生に大学の勉強が理解できるわけではありません。それと同じことです。これが 宗教が他の宗教を理解できない(そして受け入れられない)理由の一つです。

 

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【(再び)宗教とは?】

ここまで見てきたように 宗教は様々です。「神」がいるかどうか? 「神」とは何なのか? 

教義や経典があるか無いか? それらとの関わりは個人か集団か? 集団での儀式はあるか? 「学び」はあるか? どう教えを実践するのか? 教えと社会との関わりは? 

 

「宗教」とは「人間を超越した(超自然的な)何かを信じ 敬い 祈り 学び 実践する」ことによって「人生の質を向上させ 社会全体の質を向上させる」もの と言えるでしょうか。そして そのために教義や経典があり 集まって集団での儀式をしている宗教もあります。

【信じる】

結局 「人間を超越した(超自然的な)何かを信じる」ためには それが何だか分からなくては信じられません。それを個人で探求するのか 教えられるのかです。例えば神道では探求し実感します。例えばキリスト教では教わります。「信じる」のと「実感する」のとでは違います。実感しないから「信じる」という言い方になるのです。実感すれは 信じるよりも次の段階に行きます。

【敬う】

実感することで敬う気持ちが生まれます。「人間を超越した(超自然的な)何か」を教わっただけで敬うことは出来るでしょうか? ですから 例えばキリスト教では神を(敬う以上に)畏れます。

敬う気持ちがあると それに対する感謝の気持ちが生まれます。敬わない感謝は 口先だけです。例えば 神を畏れる気持ちからは感謝は生まれるのでしょうか?

【祈る】

「祈り」を多くの人は「願い事」だと思っています。日本語の「祈る」「祈り」とは「い+のる」です。「い」とは「息=いき」の「い」で 「息」とは「生きる気」です。ですから「い」は生命エネルギーです。「のり」は「祝詞=のりと」の「のり」です。「人」が「申す」のが「伸べる」で 「伸べる言葉」が「のりと」です。ですから「祝詞」は「差し出す言葉」という意味です。神様に差し出す言葉 神様に捧げる言葉です。「祈り」とは「生命エネルギーを神様に差し出す」ということになります。それは「願い事」を神様に差し出すということなのでしょうか? 

全ての存在は宇宙=神から生命エネルギーを頂いて生きています。そしてそれを神様にお返しすることで個々の生命と神=宇宙との交流/循環が成り立ちます。神道とはそういうものなのです。それが「神の道を歩む」ということです。そしてだからこそ 神道は「教わるものでは無い」のです。

【学ぶ】

「教わる」だけでは 実感は伴いません。教わっただけです。しかし 実感しなければ学びにはならないのです。本来の学びとは「自ら探求し 納得し 実感し 実行できるようになる」ことです。教わることは その入り口にしか過ぎません。

【実践】

つまりは 学びが無い宗教は実践もないのです。

【儀式】

(集団での)儀式をすることは 本来は集団での祈りのはずです。集団で同時に同じ(神への)方向に意識を向けるということです。つまり 「祈り」の型を作り それを集団でするのが儀式です。しかし 実際にはそれ以上に 「一体感」「帰属意識」を共有することが目的となっています。

 

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【宗教=怪しい?】

それぞれの宗教のあり方というものがあります。そしてそれと同時に それぞれの人と宗教との関わり合い方というものもあります。
何が本質的な宗教なのか?
何が本質的な信仰なのか?
何が本質的な祈りなのか?
それを一人ひとりが探求することが 実は宗教と関わる第一歩なのです。しかし 多くの人はそれをしていません。だからこそ 宗教は怪しいものと思われてしまうのです。しかしそれは宗教のせいというよりも そういう探求を出来ない人が怪しいと決め付けているのです。ということは 実は怪しいのは探求も学びも出来ない人の思考力なのです。そしてそうやって 本来は自らのため あるいは世の中のために役立てられるであろうことを役立てないでいるのです。

 

「人間を超越した(超自然的な)何かを信じ 実感し 敬い 祈り 学び 実践する」ことによって「人生の質を向上させ 社会全体の質を向上させる」ために 本当は 宗教は必要なのでしょうか?
集団で集まることによって 決まった儀式をすることによって 一人ひとりが探求し感じ学び実践することから遠ざかってしまうかもしれないのです。
神道というのは 実はそれを私たちに問いかけているのかもしれません。私たち一人ひとりが探求し学び信じ実感し敬い祈り実践するに当たって 宗教はいらないということを。

 

 

(2022/01/27)


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