聖母子像とピエタ像(ミケランジェロ作)
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(ここでは 芸術様式の説明ではあっても
地名は日本での慣用は以下のようになります
ブリュッゲ Brugge(現地オランダ語)⇒ブルージュ
ヴァティカン Vatican(現地イタリア語ではヴァティカーノ)⇒バチカン
ミケランジェロ作の二つの彫刻
ベルギーのブリュッゲにある「聖母子像」と
ヴァティカンにある「ピエタ像」とを見比べてみました。
この二点は 彼の二十代に相次いで作られたもので
ですので 共通点があります。
そして その共通点から これら二つの彫刻が何を表しているのかが解明できます。
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1)聖母子像

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ベルギーのブリュッゲの聖母教会にある「聖母子像」は
ミケランジェロが25~26歳の頃に制作したものです。
ブリュッゲの極めて裕福なタペストリー商人ヤンとアレクサンドル・ムスクローン兄弟(Moescroen/Mouscron/Moucheron)によって百金ドゥカートで買われ
1508年にブリュッゲへと運はれ 聖母教会内にある彼らの祭壇
(ムスクローン祭壇と呼ばれています)に置かれ 教会に寄進されました。
(ムスクローン祭壇は その後作り変えられていますので
ルネッサンス様式の彫刻に対して バロック様式の祭壇となっています。)
この作品が制作された謂れには二つの異なる説があります。
1)ムスクローン兄弟が注文し 購入した
商用で幾度もイタリアを訪れていたムスクローン兄弟が
完成したばかりの(現在はサン・ピエトロ大聖堂にある)ミケランジェロのピエタを見て
彼らの家の祭壇のために注文したとする説。
これの根拠としては 支払いが二度に分かれていることです。
しかし この当時イタリアでは芸術作品の注文に際して
詳細な制作契約書が交わされるのが一般的でしたが
支払い証書に対して 制作契約書は発見されていません。
2)シエナの大司教ピッコロミニによる注文である
これは そもそもは イタリアのシエナの大聖堂の北側廊に
大司教フランチェスコ・トデスキニ・ピッコロミニ(後の教皇ピウス3世)が
自身とその家族のために祭壇を設置しようと
15体の彫像(それぞれ高さは約120cm)を注文した その内の一つであるとする説。
しかし 三年間の契約期間を過ぎてもミケランジェロは一点も完成させてはおらず
契約を二年延長して 1504年10月に5体の彫刻
(聖ペテロ/聖パウロ/聖グレゴリオ/聖ピウス/聖フランチェスコ)を納品しましたが
1508年にミケランジェロは仕事量が多過ぎることを理由に契約を解除しました。
(ミケランジェロの死後 彼の甥が違約金を払っています。)
この説の難点は シエナ大聖堂の北側廊には
この聖母子像を置ける大きさの壁窪が無いということです。
聖母は腰掛けている姿が128cmですので ほぼ等身大に作られています。
それに対して 幼児イエスは やや育ち過ぎているようです。
二人共に顔をやや下に向け 目は瞼を半分閉じて 下を見ているのか黙想状態にあるのか
聖母の顔は表情が無く あるいは冷たい表情のように見えます。
聖母の額の上の頭巾の襞は「Ω」(オメガ)を表しているという見解もあります。
| 【ブリュッゲの聖母子】 |
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材料:カッラーラ産白大理石 全体の高さ:130 cm(人物像の高さ128センチ) 全体の幅:63.5 cm 全体の奥行き:63 cm 重量:約750kg 注文者:不明 制作:1501年?から1505年にかけて(ミケランジェロ26~30歳) 署名:無し 購入者:ブリュッゲのタペストリー商人ヤンとアレクサンドル・ムスクローン兄弟 1503年12月2日に最初の支払い50金ドゥカート 1504年10月に同額の第二回支払い 計100金ドゥカートで購入される。 1505年8月 完成 1506年1月 レオナルドの父親の家で保管 1506年8月 ブリュッゲへ搬送 ムスクローン家によって保管された後 1514年 聖母教会のムスクローン家の祭壇のための聖櫃付きの祭壇の一部として聖母教会へ寄贈 所有:ブリュッゲの聖母教会 管理:ブリュッゲ美術館 盗難/略奪/破損: 1794年 フランス革命軍によってパリへ運ばれ ナポレオン美術館(現ルーヴル美術館)にて展示 1816年1月3日 前年のナポレオン失脚によりブリュッゲに戻される 1944年9月6日の夜 ドイツ軍によって略奪され 1945年5月16日に「モニュメント・メン」がオーストリアのアルトアウスゼーにある塩鉱山で ヨーロッパ各地から略奪された約八千点の芸術作品と共に発見 1945年11月12日 聖母教会に帰還 破損無し |
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2)ピエタ像

{画像をクリックすると 別画面で大きい画像が開きます}
キリスト教ローマ・カトリックの総本山である
ヴァティカンの聖ペテロ(サン・ピエトロ)大聖堂にある「ピエタ像」は
ミケランジェロ23歳頃の時の作です。
(ピエタとは 聖母マリアが息子イエスの亡骸を膝に抱いている姿のことです。)
(一般的に「ローマのピエタ」あるいは「ヴァティカンのピエタ」と呼ばれています。)
| 【ローマのピエタ】 |
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材質:単一の白いカララ大理石の塊(スタトゥアリオという特にきめ細かい大理石) 高さ 174 cm 幅 195 cm 奥行き 69 cm 重量 約2600kg 注文者:枢機卿ジャン・ビレール・ド・ラグロール 対価 450金ドゥカート 署名:ミケランジェロの署名入りの唯一の彫像 制作 1498年から1500年まで(ミケランジェロ23~25歳) 購入者:注文者に同じ 1497年 フランス人枢機卿ジャン・ビレール・ド・ラグロールが サン・ピエトロ大聖堂の南側にあるサンタ・ペトロニラ教会の礼拝堂内の枢機卿の墓を飾る 大理石のピエタの制作を依頼 1497年夏 最初の図面と模型を完成 1497年暮れ 最初の前払い金が支払われる 1498年3月 カララの大理石採石場で石材を選別 1498年8月6日 注文主枢機卿ジャン・ビレール・ド・ラグロール死去 1498年8月27日頃 制作契約書が交わされる 「大理石製のピエタ すなわち衣服をまとった聖母マリアが 衣服をまとわない死したキリストを腕に抱いている姿」の「実物大の像」は 「それまでにローマで知られていた大理石の芸術作品すべてを上回る美しさであるべき」で 「一年以内に完成させる」ことが条件となっています。 盗難/略奪/破損: 盗難/略奪は無し 1736年 移動中に左手の4本の指が折れたため ジュゼッペ・リリオーニによって修復されましたが この修復がオリジナルにどの程度忠実であったかは不明です。 指のうち1本はオリジナルではないようです。 1972年5月21日 精神障害者ラースロー・トートによってハンマーで何度も殴打され 聖母の左腕や顔などに深刻な損傷を受けました。 修復には 可能な限りオリジナルの破片が使用され 必要な部分には大理石の粉末とポリエステルを混ぜたペーストで補填されました。 デオクレシオ・レディグ・デ・カンポス率いる専門家チームは 「最終的に像をオリジナルに忠実に復元することに成功した」としています。 (この事件の後 防弾ガラスで保護されるようになりました。) |
この像は サン・ピエトロ大聖堂の南側にあったサンタ・ペトロニラ教会の礼拝堂にある
ジャン・ビレール・ド・ラグロール枢機卿の墓のために注文されました。
この教会はサン・ピエトロ大聖堂の新築工事に伴い取り壊されたため
1517年に旧サン・ピエトロにあった「ヴェルジーネ・デッラ・フェッブレ」礼拝堂に移されました。
その後 シクストゥス4世の聖歌隊席に移され
1749年以来現在の設置場所である
サン・ピエトロ大聖堂の右側廊の最初の礼拝室に置かれています。
(この像にちなんで この礼拝室は「ピエタ礼拝室」とも呼ばれています。)
聖母は 腰掛けている姿で高さが174cmありますので
立つと2mを越える大きさとなっています。
(立ったことはありません。)
それに対してイエスの方はほぼ等身大です。
聖母の顔は 身体の大きさに対して小さく作られているようです。
ですので 上半身だけを見ると肩幅が広すぎるようですが
全体を見るとそうでは無く 顔が小さいことがわかります。
これは イエスの身体の大きさと合わせたためと思われます。
聖母の身体の大きさは 更に 襞がたくさん入った
たっぷりとした生地の服によっても強調されています。
聖母の身体が大きいのは イエスの亡骸を支える安定感を出すためと思われます。
聖母の顔は 下を向き 目は半開きです。
絵画のピエタにおいては しばしはこの情景では聖母の悲しみや
悲嘆を表す表情で描かれているものが見受けられますが
この像では全くそうでは無いようです。
この像は前方からだけ見るように作られていますので
イエスの顔は見えません。
全体的に表面は丁寧に磨かれていますが 脚元の岩だけは磨かれておらず
いかにも「ゴルゴダの丘の岩場」であることを表しています。
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さて この二つの彫像を見比べてみると
制作時期としては二年から三年の違い すなわち二三年しか違わないということですので
(場面は全く異なるにも関わらず)全体的に似たような雰囲気が醸し出されています。
(どちらも 上記のピエタ像襲撃事件を切っ掛けに防弾ガラスで保護されていますので
ガラス越しに見ることになりますが 絵画ほどはその影響を受けないようです。)
人物の自然な姿勢。
全体の滑らかな動き。
三角の構図による安定感。
いずれも 初期ルネッサンスの共通した特徴とされるものです。
ミケランジェロは イタリア・ルネッサンスの三大巨匠の一人とされており
ですので 初期イタリア・ルネッサンスの特徴が彼の作品の現れているのは当然のことです。
(三大巨匠の特徴がルネッサンスの特徴なのですから。)
三人の内 ヴィンチ村のレオナルドは多才な人であり 様々な分野に取り組んだ中で
「絵画も描いた」人です。
ミケランジェロは 絵画と彫刻(すなわち美術=視覚芸術)に特化しました。
もう一人のラファエロは (更に限定して)絵画だけを制作しました。
このような違いから 三人の作品に表れているスタイルの違い
すなわち それぞれのスタイルの特徴も見えてきます。
絵画という平面の芸術に専念したラファエロの作品は
平面的であり 動きが少なく 静けさや透明感が現れています。
(存在している=目に見えるものの奥にある「霊性」が表現されています。)
ミケランジェロの作品においては
絵画であっても立体感や動きが表われています。
(「生命」の動きが表現されています。)
レオナルドの作品においては 全ての存在を包む宇宙の奥行きが表われています。
(「宇宙的抱擁感」が表現されています。)
そして更に 三人に共通した特徴として
人物の自然な姿勢/全体の滑らかな動き/
三角の構図による安定感/はっきりとした遠近感/
(絵画での)ぼかし/
などが挙げられます。
すなわち これらの特徴は それ以前の
フランダース写実主義やゴチック芸術の表現の特徴とは
はっきりと異なったものです。
そういった「イタリア・ルネッサンスらしさ」が
この二点の彫像においても明確に現れているようです。
特に 二十代半ばの新進気鋭の芸術家であったミケランジェロの
「何を表現したいのか」「どう表現したいのか」の意志が
直截的に表われている とも言えるようです。
(ピエタ像によって名声を確立できたので
その後の彫像作品には署名を入れていないのではないか
とする見解もあります。)
さて 更にこの二つの作品を見比べてみると
聖母の顔はほぼ同じです。

左【ブリュッゲの聖母子】 右【ローマのピエタ】
顔立ちが同じというのでは無く 同じ顔です。
しかし 同じであって良いのでしょうか?
一歳か二歳のイエスを膝に乗せているということは 聖母マリアはこの時18歳ぐらいの筈です。
一方 イエスが亡くなった時の聖母マリアは五十代半ばの筈です。
それなのに 同じ顔です。
ピエタ像の聖母の顔が若いことに関しては 初めの頃から疑問が呈されていて
これまでに様々な学者や研究者が それぞれに見解を述べています。
「聖母の処女性を表すため」
「天国の女王として歳をとらないから」
「聖母の純粋無垢を表すため」
「ミケランジェロにとっての理想の聖母像」などなど。
かつ(前述したように)ピエタ像の聖母の顔には 悲しみや悲嘆は表われていません。
聖母子像の聖母の顔にも 幼児を育んでいくことの喜びは表われていません。
これらは一体 何を表しているのでしょうか?
「聖母」だとされているのは 実は聖母では無いのです。
この二つの像の女性は「聖母マリア」では無くて「マグダラのマリア」 すなわち
「マグダラ村出身のマリア」と一般に言われている「マリアムネ」という女性です。
彼女は イエスの周辺に居た中でも 最も(=十二使徒よりも)霊性が高く
イエスの教えを理解し イエスに可愛がられ 信頼されていました。
(これに関しては 十九世紀末に発見された「マグダラのマリアによる福音書」によって明らかになっています。)
イエスはこのマリアムネと結婚し(この時の情景を描写したのが新約聖書の中の「カナの結婚式」です)
二人の間には男の子が産まれ「ユダ」と名付けられました。
ブリュッゲの聖母子像は この二人の姿です。
そして イエスは磔刑となりました。
ヴァティカンのピエタ像は 夫イエスの亡骸を膝に載せたマグダラのマリアの姿です。
イエスの磔刑後 マグダラのマリアは聖母マリアと共に南フランスへと逃れます。
イエスの死刑を望んだ民衆は イエスの周辺に居た十二使徒や
彼らの世話をしていた女性達をも殺そうとしたからです。
しかし この時身ごもっていたマグダラのマリアは 当時のローマ法にあった
「妊婦を死刑にしてはいけない」ことから エルサレムを追われました。
南フランスでマリアムネは 身ごもっていた子を産みます。
生まれた女の子は「サラ」と名付けられました。
そして その地でマグダラのマリアはイエスの本当の教えを人々に伝えます。
これが 「カタリ派」と呼ばれる集団となっていきます。
しかし カタリ派は十二世紀にカトリックからの壊滅的な弾圧を受けてしまいます。
ヨーロッパ全体を支配し統治する仕組みを構築していたカトリックにとって
イエスの本当の教えを伝え守り実践するカタリ派は邪魔者だったからです。
つまり ブリュッゲの聖母子像も ローマのピエタ像も
聖母マリアでは無く マグダラのマリアなのです。
ですから ほぼ同じ年齢=同じ顔なのです。
イエスが人々に教えを説いたのは 僅か三年半の期間です。
結婚/出産/磔刑は この三年半の間に入っています。
だとすると それぞれのマグダラのマリアの顔は何を表しているのでしょうか?
ブリュッゲの聖母子像の顔は
(ここに至って なお「聖母子」とするのはいささか無理があるのですが)
「無表情」であり あるいは「冷たい」顔に見えます。
何の感情も抱いていないかのような。
女性性を表す左手が 息子ユダと繋がっています。
左手は本を押さえていますが 本とは「伝えるもの」です。
そもそも 文字とは「今 同じ場にいない人」に何かを伝えるための記号です。
ですから 「伝えるもの」すなわち「イエスの教え」と「イエスの血統」を象徴しています。
息子ユダの姿ですが 嬰児としてのイエスを裸で表現することはあっても
幼児としての姿を裸にすることはありませんでした。
絵画の中で 裸で描かれた子供は「キューピッド」です。
このユダの姿はあたかもキューピッドを思わせます。
聖母の額の上の頭巾の襞は「Ω」(オメガ)を表しているという見解もありますが
もう一ヶ所 幼児ユダの顔の左側(見ている私達にとっては右側)の布が
不自然に 取って付けた様に これ見よがしに うねっています。
これも何らかの文字を表しているのでしょうか?
マグダラのマリアの無表情にも見える顔は
「今」の「感情」を表すのでは無く
「未来」を想い見つめているようです。
「未来は確定していない」ということを。
ローマのピエタの顔は
「穏やかさ」や「若い女性らしさ」が表われています。
夫の亡骸と共に居る彼女は 何を思っているのでしょうか?
「死」と「復活」とを予告して死んでいったイエス。
マグダラのマリアは まさにその「死」と「復活」の狭間にいるのです。
この像でも 布が不自然に 取って付けたように
これ見よがしに 意味ありげにうねっている場所が二箇所あります。
また この彫像のための下絵とされている素描は
男性をモデルに描かれているという見解もあります。
マグダラのマリアは イエスの本当の教えを伝え かつ
イエスの子孫を残したことによって カタリ派のみならず
「本当のイエスの教え」を伝え守り実践していた人々にとっては
聖母マリア以上の存在でした。
カトリックが ヨーロッパ全体を支配し統治する権力機構となり
その支配と統治のために イエスの教えとは全く違うことを あるいは全く反することを
「キリスト教の教義」=「神からの教え」として人々に押し付けていた
それに反発する人々にとっては マグダラのマリアは聖母マリア以上の存在だったのです。
ヨーロッパの歴史とは この二千年来はキリスト教の歴史であり
そのキリスト教の歴史とは 「正統派」を自称するカトリックと
それに反発する側との対立の歴史でもあります。
そういう中で カトリックに紛れ込んで カトリックのふりをして
しかし カトリックの教えでは無い「真のイエスの教え」を
何とか人々に伝えようという工作も成されてきました。
その一つが 「マリアの置き換え」です・
聖母マリアのふりをしたマグダラのマリアです。
第二千年紀に入った頃=十一世紀には すでにヨーロッパ内では この
「マリアの置き換え」は定着していたようです。
つまり ほとんどの信者が「聖母マリア」だと思い込んで礼拝しているその対象が
実は「マグダラのマリア」だったのです。
もう一つの置き換えは「黒い聖母」です。
ヨーロッパ各地の教会に「黒い聖母」と呼ばれるイコンがあります。
その名の通り 黒い顔の聖母です。
なぜ 黒いのでしょうか?
これも 聖母マリアでは無いのです。
イエスの教えというのは 古代エジプトからの教えも元になっていました。
それは イシス神の教えでもあります。
イシスは女神であり かつ(聖母マリアと同じく)処女でありながら子を生んだとされています。
そして イシスは「母性性の象徴」として崇められていました。
実は マグダラのマリアというのは このイシスの系統の人なのです。
「黒い聖母」とは 聖母マリアでは無く イシスを描いたものであり
(イシスはエジプトの人であり肌が黒いことと
エジプトとは「黒い土地」を意味している その両方を表しています)
それと重ねてマグダラのマリアを描いたものなのです。
ですから ミケランジェロは そういう
「カトリックを騙す側」だったわけです。
そして それがまさに「ルネッサンス」なのです。
イタリアで始まったルネッサンスとは「反カトリック」運動であり
それは「宗教改革」とは違う 芸術を使って人々の心に浸透させることを目的としたものでした。
その中核を担ったのが「白い貴族」と呼ばれるメディチ家であり
その経済力によって芸術家たちがそれを実行することができたのです。
さて もう一度ローマのピエタを見てみましょう。
(聖母マリアのふりをした)マグダラのマリアの顔に表われているのは
「永遠の母性性」ではないでしょうか?
(2026/12/3)