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Het lam Gods

『神の子羊(の礼拝)

その歴史

《幸也の世界へようこそ》《幸也の書庫》《絵画を見る目・感じる心》 → 《神の子羊(の礼拝)》



【注1】
「神の子羊」の絵が置かれている「聖バーヴォ大聖堂」は
942年に 洗礼者ヨハネに捧げた「聖ヨハネ教会」として始められ
12世紀半ばに ロマネスク様式に建て替えられ
15~16世紀にかけてゴチック様式に建て替えられ
1540年に「聖バーヴォ教会」に名称が変更され
1559年5月12日に「聖バーヴォ大聖堂」に格上げされ
1794年にフランス革命軍による統治時代には「聖バーヴォ教会」に
1801年に再び「聖バーヴォ大聖堂」に
と変遷していますので 時代により呼称が違います。

【注2】 この祭壇画は 史上最も多く(計13回)の盗難/略奪にあった芸術作品です。

【注3】 この祭壇画は 兄ヒューベルトが制作途中で死去した作品を
その後ヨース・ファイトの依頼により 弟ヤンが完成させたものです。


**************************

15世紀初め
聖ヨハネ教会の主祭壇奥に 回廊と礼拝室が建て増しされる。
この際に この工事に多額の献金をしたヨドクス・ファイトが専用の礼拝室を持つ。

1420?~1424?
ヒューベルト・ファン・アイクが制作を開始。

1425
ヤン・ファン・アイク (オランダの)デン・ハーグから(フランスの)リルに転居。

1426/9/18
ヒューベルト・ファン・アイク死去。(「痛みがある」と墓碑に記されているので 病死か事故死。)
ファイト礼拝室に埋葬される。銅板の墓碑はその後取り外され 聖バーヴォ修道院に展示。
ヤン・ファン・アイクはフィリッペ善良公の特使として旅行中。

1430~
ヤン・ファン・アイクがフィリッペ善良公の特使としての数度の長期旅行(1425~1430)の後 制作を継続。

1432
ヤン・ファン・アイク ブルージュに転居。

1432/5/6
完成し除幕。聖ヨハネ教会のファイト家の礼拝室の祭壇に置かれる。
(フィリッペ善良公の子の洗礼の日に合わせての可能性が大。)

1435
注文主ヨドクス・ファイトとリースベート・ボルルート夫妻が
「夫婦の魂が永遠に安寧であるように」との永代供養を申し込み
毎日の礼拝のために(子供がいなかった為)遺産を遺す。
クリスマス/復活祭/全聖人の日などの礼拝の時だけ開いて
礼拝面(=「祝日面」と呼ばれる)を公開。
その他の日は閉面(=「平日面」と呼ばれる)の展示。
(ヨドクス・ファイトとリースベート・ボルルート夫妻についてはこちらでご覧頂けます。)

1439
注文主ヨドクス・ファイト死去。

1441?
ヤン・ファン・アイク死去。ブルージュのブルク広場にあった聖ドナース教会に埋葬される。
その後 1799年にフランス革命軍によって教会が破壊されたことにより墓も消滅。

1443/5/5
注文主の妻リースベート・ボルルート死去。

16世紀前半
初めての修復

1550頃
修復(画家ランスロ・ブロンデルとヤン・ファン・スコレルによる)。
この修復時に 子羊の耳が変えられる。

1557~59
スペイン国王フィリッペ二世がこの絵の取得を希望するが果たせず
ミヒール・コクシーによって(アダムとエヴァを除く全ての面の)複製が制作される。

1566
プロテスタントによる聖像破壊運動から守るために 教会の塔に隠される。

1569
フランダース地方が再カトリック化されたため ファイト礼拝室に戻される。

1574
(プロテスタントのカルヴァン派政権の)ゲント市が
英国女王エリザベス一世に寄贈しようとするが 教会が阻止。

1578
カルヴァン派は祭壇を再び解体し 市庁舎に置く。

1584
ゲント市が再びカトリック政権になる。

?~1587
修復。

1587
再びファイト礼拝室で展示。

1640
聖バーヴォ大聖堂の火事。祭壇画は無事。

1662
祭壇画は バロック様式の祭壇に置かれる。

1781
神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ二世がゲントを訪れて 「アダム」「エヴァ」の裸体に驚愕。
「宗教画としてふさわしくない」として取り外される。

1794
中央部分がフランス革命軍によりパリに運ばれ
ナポレオン美術館(現在のルーヴル美術館)に展示される。
(両翼と 本来の「アダム」「エヴァ」は教会が隠して保管。)

1815
ワーテルローの戦いによるナポレオン失脚後 ルイ18世により返却。

1816/12/19
教会当局は 両翼部分を売却。
(「アダム」「エヴァ」の原画二枚は教会が保管。)
美術商L.J.ニューウェンハイスが3000グルデンで購入。
イギリスの収集家ソリーに10万グルデンで転売。
1821年にプロイセン王が20万グルデンで購入。
その後 プロイセン国王はベルリンのフリードリヒ皇帝美術館に
40万グルデンで(寄贈と称して)売却。
表裏一体だった絵を 両面を同時に展示するために厚み2cmの板を垂直に半分に切断。

1822/9/11
教会が火事になり 急いで運び出す際に 下段中央画面が割れる。

1823
ベルリンにて修復。
その際に グスタフ・クリストフ・ヴァーゲンは 扉面の下枠に描かれた
大部分が上塗りされた四行の碑文を発見。

1830
両翼扉面は 開館したカール・フリードリッヒ・シンケルのアルテ美術館に移され
ベルリン・ギャラリーの主要作品として イタリア・ルネサンス・コレクションのすぐ隣に置かれる。

1861
ベルギー政府が「アダム」「エヴァ」の原画を 五万フランで購入し
国立美術館(現在のブリュッセル王立美術館)に展示。
代償としてベルギー政府は 1559年のミヒール・コクシーによる複製を教会に寄贈。
これにより聖ヨハネ教会では 本物の中央部分と コクシーの両翼部分とで展示される。
更に政府は ヴィクトール・ラギーに(毛皮を纏った姿の)「アダム」「エヴァ」の複製の制作を依頼。

1904
両翼扉面が 新しいカイザー・フリードリッヒ美術館に展示される。

1907
両翼扉面が (現在のペルガモン美術館の北翼に)新しく計画されたドイツ美術館に移され 中心的な位置を占める。

1914~1918
第一次世界大戦のドイツ軍の侵入による祭壇画の没収を恐れて
教会は「イギリスに輸送して保管している」という虚偽の手紙を作成。
祭壇画は市内の二つの邸宅の床下と 壁面に煉瓦で覆って隠す。

1919
終戦後 ヴェルサイユ条約第247条に従って 戦争賠償としてドイツはベルリン美術館にあった両翼を返還。

1920/7/2
再び全ての面が揃って展示される。

1934/4/11
「正義の裁き人たち」と「洗礼者ヨハネ」が表裏一体となっている版面が無くなっているのを司祭が発見。
(この件に関しては 別ページに経緯を載せています)

1934/5/29
「洗礼者ヨハネ」の面が ブリュッセル北駅の荷物預かり所で回収される。

1937
「アダム」と「エヴァ」の修復。(ジェフ・ファン・デル・フェーケンによる。)

1939/12/15
盗まれた「正義の裁き人たち」の複製が制作されることが発表される。

1940/5/11
前日のドイツ軍のベルギー侵攻により ドイツ軍による略奪から守るため 大聖堂から撤去される。

1940/5/16
南フランスのPauポーにあるアンリ4世の城に向けて ゲントの他の美術品と共に木箱に入れられ
 三台のトラックに載せられて出発。5/24到着。

1941~44
ジェフ・ファン・デル・フェーケンにより「正義の裁き人たち」の複製が制作される。
(ただし 油彩では無く 卵白を溶剤としたテンペラ。)

1942/8/2
七千人のフランス人捕虜の釈放との交換条件で
神の子羊がフランス政府によりドイツに引き渡されることになる。
翌日 ドイツ軍によってポーPau城から 南ドイツバイエルンのノイシュヴァンシュタイン城に移される。
ヒットラーが(出身地である)オーストリアのリンツを「芸術の首都」にし
そこに建設するつもりだった史上最大の美術館に展示するために各地から集められた美術品と共に保管されるが
その後連合軍の進攻から守るため オーストリアに移され
ザルツブルク近郊のアルトアウスゼーAltausseeの塩坑に(気温7度 湿度70%の状態で)保管される。

1940~44
ジェフ・ファン・デル・フェーケンにより「正義の裁き人たち」の複製が制作される。
(ただし 油彩では無く 卵白を溶剤としたテンペラ。)

1945/5/8
アルトアウスゼーの塩坑でアメリカ軍によって発見 保護される。

1945/8/21
連合軍総司令官アイゼンハワー将軍により ミュンヘンを経てベルギーに空輸される。
一旦王宮に置かれてから 11月に聖バーヴォ大聖堂に戻される。

1948
ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで開催された 戦後回収された美術品の展覧会にて展示される。

1950/10/23~1951
アルベール・フィリポの監督下で修復が行われる。
作品の歴史的信憑性と美観を尊重するため 修復は可能な限り最小限にとどめられた。
過去の修復での上塗りや劣化した上塗りニスを除去。
この修復時に 子羊の隠れていた耳が見つかる。

1986/7/11
ファイト礼拝室から 正面入り口横の洗礼室に移されて
防弾ガラスケースの中に展示される。

2012~
修復。三段階に分けて 閉面→開面下段→開面上段の順に
王立文化財研究所(KIK)により ゲント美術館の特別室にて 公開の元で作業が進められる。
2016/9に第一期修復作業が終了。2020/1に第二期作業が終了。2023/4から第三期作業。

2022
回廊の主礼拝室(秘蹟礼拝室)に移されて展示される。
ヒューベルト・ファン・アイクの銅板の墓碑が 聖バーヴォ修道院から
聖バーヴォ大聖堂の地下クリプトに移される。




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