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Het lam Gods

『神の子羊(の礼拝)

ヨース・ファイトとリスベッテ・ボルリュート夫妻

《幸也の世界へようこそ》《幸也の書庫》《絵画を見る目・感じる心》 → 《神の子羊(の礼拝)》



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【先祖】【父】【母】【ヨース・ファイト】【リスベッテ・ボルリュート】
【注】【疑問】と〔仮の答え〕【まとめ(全ては憶測/推測/想像)】【人名一覧】【地名一覧】


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【先祖】
1315年 ベーヴェレンBeverenの土地におけるファイト家に関する最古の記述。
クラウス・ファイトClaus Vijdという人がベーヴェレンの領地の湿地帯の数十人の泥炭採掘人の一人として名を連ねている。
(クラウスClausは ニクラウス/ニコラースNiclaus / Nicolaasなどの省略形)
(ファイトVijd / Vijdt / Vydt / Vijdtsは Daviidtsの短縮形 つまり そもそもは「ダイヴィデ」) 
14世紀半ばから ファイト家はベーヴェレンの土地での泥炭採取と堤防工事で急速に財を成した。 泥炭は大規模に掘り起こされ この黒い黄金は 原産地帯のサーフティンゲSaeftinghe/ベーヴェレンBeveren/テル・ヴェンテンTer Venten/カスウェーレCasuwele/キールドレヒトKieldrecht/フェッレブルックVerrebroekなどの泥炭村からフランダースの主要都市に運ばれ 家庭用燃料として また醸造所やレンガ工場などの都市工業用燃料として使用された。
おそらく こうした採算性の高い泥炭の採取と販売を通じて ファイト家はゲントの貴族階級と接触するようになったのだろう。

【父】
父クライス(? - 1412)はベーヴェレンの代官で ベーヴェレンの領主でもあるフランダース伯爵の行政/司法/財政の代理人として シンゲルベルクSingelbergとベーヴェレンで執政を執り シンゲルベルク城の管理を任されていた。 シンゲルベルクの環濠城はベーヴェレン地方の政治的・軍事的司令部であり フランダース伯爵領とブラバント公爵領との国境であるシュケルデ川に面しており 戦略的に重要な位置にあった。
ワースラントWaasland地方ベーヴェレンの北部の湿地帯で ニコラウスは当時重要なエネルギー源であった泥炭を掘り出し それを取引していた。泥炭はゲントとアントワープの新興産業にとって重要なエネルギー源であり 泥炭の取引は特に収益性の高い事業であった。また 堤防工事の入札の利権などにより財を成す。
1360年代には クライス・ファイトはゲントに住居を構え そこで経営に携わった。
1361年にはベーヴェレンの城管理人 1386年にはワースの地の主席行政官 1389年にはアンバハテン四州Vier Ambachten(アクセルAksel/フュルストHulst/ブッフハウテBoechoute/アッセネデAssenede)の行政官となった。 さらに フランダース伯爵からベーヴェレンの地にあるホーフ・テル・ウェッレHof ter Welleとそれに属するすべての土地を貸与されことにより 領主=(爵位の無い)貴族の肩書きを手に入れた。
クライス・ファイトは ブルゴーニュ公国ヤン無怖公爵から ベーヴェレン/メルセレMelsele/カッロKallo/フェッレブルックVerrebroekの浸水地域を再び堤防にする許可を得て ゲントや公爵領から集まった他の投資家たちと共にこれを行った。泥炭を販売し 堤防工事を請け負うことは 都市の市場や業界網への直接的な関わりを意味する。 農村の土地所有は ファイト家に必要な資本と収入をもたらすだけでなく 経済的に不安定な時代における(代官としての)地位/(農地からの)食料/エネルギー(泥炭)も提供した。

1379年 フランダース伯爵領で血なまぐさい内戦が勃発した。ゲントの民衆は伯爵の権威に反旗を翻し あっという間に総反乱を引き起こす(1379~1385のゲントの反乱)。 クレイス・ファイトは伯爵の忠実な部下として 最初の小競り合いから シンゲルベルクに兵力/大砲/武器を増強させた。 また アントワープとメッヒェレン間のシュケルデ川の戦略的な封鎖を組織し ゲントを襲撃から守り フランダース伯ローデウェイク・ファン・マーレLodewijk van Male(1384没)に多大な貢献をした。
伯爵はクライスの忠誠に感謝し クレイスの二人の息子 長男クレイス二世(1390没)とクリストフェル(1416/1418没)に爵位を与えた。(つまり三男であったヨースには与えられなかった。)
長女エリザベトゥ・ファイトは ワースの地の廷吏であり 後にアンバハテン四州の廷吏となる貴族ヨース・トリーストJoos Triestと結婚する。数年後 長男クレイス二世がワースの地の廷吏となる。 次女マレッベはゴッデファールト・ラースGodevaert Raes(ブラバント公国宰相)と結婚。クレイスとアメルベルガの子供たちの未来は明るいと思われた。
しかし フランダース伯爵領がブルゴーニュ公国に編入されてから フランダース伯爵となったブルゴーニュ公爵フィリプス突進公Filips II de Stouteにより 伯爵の代理人の会計の監査が行われた結果 1390年にクライス・ファイトの長年にわたる大規模な詐欺と不正が発覚し  彼は公職を解任され 多額の罰金を科され シンゲルベルクとベーヴェレンの地を追われる。そのために一家でゲントに移住した。
1390年12月 クライス二世が死去。ヨースと妹のマベリーもゲントに移り住む。
1392年頃 三男ヨースは ゲントの貴族令嬢エリザベトゥ・ボルリュートと結婚することで 一族の挫折を覆し 一族の政治的/経済的利益を確保することに成功する。
父クライスは二度と公職に就くことはなかったが 泥炭/鉄/布の取引からほとんど計り知れない富を手に入れ続けた。
1397年 彼はカンメールセン城Kammeersenを含むパメルPamelとレーデベルクLedebergの土地の管理権をエヴェラルド・ボーテEverard Booteから購入し 領主=貴族に復帰した(彼の死後 三男ヨースだけが土地管理権と貴族の称号を受け継いだ。)
1412年にクライス・ファイトが死去したとき 彼はフランダースで最も裕福な男性に数えられていた。
1414年には次兄クリストフェルが父の後を継いでベーヴェレンの代官(廷吏兼城の管理人)となり一族の復権が完了する。
三男ヨースは ゲントでの行政官としての肩書きに加え ベーヴェレン/メルセレ/カッロの代官(政治/司法/行政/警察の長)として 下級司法を行使したり軽犯罪の罰金を徴収した。

【母】
ヨースの母は メルセレMelseleの名家の娘 アメルベルガ・ファン・デル・エルストAmelberga Van der Elst(? - 1394)である。クライスとの間に少なくとも5人の子供がいた。3人の息子 すなわちクレイス二世Clais/クリストフェルChristoffel/ヨースJoosと 2人の娘 エリザベトゥElisabethとマベリーMabelieである。
アメルベルガ・ヴァン・デル・エルストは メルセレ教区教会で彼女の思い出が永遠に生き続けることを願う追悼式典が毎年開催されるように取り計らった。
クレイスとアメルベルガ夫妻は1378年に 教皇ウルバヌス六世からの許可を得て ベーヴェレンの聖マルティン教会に聖堂を建立した。


【ヨース・ファイト】Joos Vijd(1360? - 1439)
(ユースJoes/ヨドクスJudocus/ヨーストJoost とも)
(ヨースJoosは ヨゼフJozefの変化形。
ヨドクスJodocusは ブルターニュ語のユドクJudoc=戦士の変化形。
なので この場合ヨースJoosはヨドクスJodocsの省力形である可能性もある。)

《出生》1360頃 シンゲルベルグ城/ベーヴェレン/ワースラント地方/フランダース伯爵領/フランス王国
《死去》1439?
《両親》
父クライス(ニコラウス)・ファイト Clais (Nicolaus) Vijd / Vijt (? - 1412)
母アメルベルガ・ファン・デル・エルスト Amelberga van der Elst (? - 1394)
《兄弟》(及び + その配偶者)(及び - その子)
長男クライス二世Clais II Vijd(? - 1390)x ? - Obrecht
次男クリストフェルChristoffel Vijd(? - 1416/18) x ? - Jan / Jacob / Gerard / Adriaan
三男ヨースJoos Vijd(? - 1439) x Elisabeth(Lysbette)Borluut (? - 1443)
長女エリザベトゥ(リースベッテ)Elisabeth(Lysbette)Vijd(? - ?) x Joos Triest - Joos Triest
次女マレッベ(マベリー)Malebbe(Mabelie)Vijd(? - ?) x Godevaert Raes(ブラバント公国宰相)
《配偶者》エリザベトゥ(リースベッテ)・ボルリュートElisabeth(Lysbette)Borluut( ? - 1443/5/5)

1360年頃 クライス・ファイト(? - 1412)とアメルベルガ・ファン・デル・エルスト(? - 1394)の五人の子の三男として シンゲルベルクの環濠(堀に囲まれた)城で生まれた。
1390年12月 長兄クライス二世が死去。ヨースと妹のマベリーもゲントに移り住む。
1392年頃 ゲントの貴族令嬢リスベット・ボルリュートElisabeth Borluutと結婚。ボルリュート家はゲント市政との長い関わりを持つ 最も古く名高い一族であった。 この婚姻によってゲントのブルジョワ階級に入り 市の行政官や外交官となっていく。
ゲントの市民権を得て オッペルシュケルデ通りOpperscheldestraat(今日のグーデルネメント通りGouvernementstraat)にあるVijdsteenとして知られる館に住んだ。
妹のマレッベの婚姻を通じて ゴッドファールト・ラースGodevaert Raes(ブラバント公爵領宰相)の義理の兄となった。
1395~1396年以来 ゲント市の行政官を複数回務めている。
1397年には ダウネン修道院(Duinenabdij)の屋敷を借りて ゲントの一等地の邸宅に移った。
1412年頃 父親が死去。長兄はすでに亡くなっていたので次兄が相続。
1417年頃 次兄クリストフェルChristoffelが亡くなると 父親がブリュッセルの騎士エベラール・ブーテEverard Booteから買い取ったパメルとレーデベルクPamel-Ledebergの荘園を相続し荘園主(=準貴族)の地位を得た。
1404年11月19日 聖エリザベトゥ洪水がベーヴェレンの地を襲い キールドレヒトKieldrecht/カッロKallo/メルセレMelseleの広い地域が浸水した。
1414年 ヨース・ファイトはヤン無怖公爵から メルセレ/カッロ/フェッレブルックVerrebroekにあるベーヴェレンの氾濫地域を再び堤防で守る許可を得た。 ヨースは ゲントと公爵領からの投資家たちとともにこれを行う。
1416年 ヨース・ファイトは メルゼーレ灌漑地の堤防工事を ホーフ・テル・ウェッレHof ter Welleの持ち主であるゲラール・ブリシンクGeraard Brissincと騎士ダネール・ヴィラインDaneel Vilainに委託する。 ヨース・ファイト自身 ベーヴェレンにテ・ワレの地所を所有していたが そこの城(今日のコルテワレ城kasteel Cortewalle)を近代的な堀のある城に改築した。
1419年 フィリプス善良公がブルゴーニュ公爵/フランダース伯爵に即位。ヨースはその側近の一人となる。
1420年頃 ヨースとエリザベトゥ夫妻は ゲントで最も重要な教会である聖ヨハネ教会(後の聖バーヴォ大聖堂)に自分たちの礼拝室を設けることを決め 回廊と礼拝室の建設に多額の資金を提供した。 (彼は聖ヨハネ教会の教会長を務めていた。) これは 夫妻に子供がいなかったことも関係していると思われる。 ヨースは妻の出産適齢期が過ぎ ファイト家が自分とともに死に絶えるという現実に苦しめられていたと思われる。
丸天井の要石に彼の家と妻の家の紋章を彫った礼拝室の完成に伴い 彼はその当時「最も優れた画家」とされたマースランドのマースアイク出身の画家ヒューベルト・ファン・アイクに 「ファイト祭壇画」(すなわち現在「神秘の子羊」として知られている祭壇画)の制作を1420年代前半に依頼したと思われる。 1426年9月にヒューベルトが亡くなり 祭壇画の制作は中断した。
1430年から1432年にかけてヤン・ファン・アイクが「ファイト祭壇画(神の子羊)」を完成さる。
フィリプス善良公の側近および特使として多忙であったヤンが この絵の制作に時間を取れるようにと ヨースがフィリプス善良公に頼んだ可能性は大きい。 その場合には フィリプス善良公自身もまた この絵の完成(=意味や価値)に興味を持っていたということになる。
1432年の洗礼者ヨハネの祝日(「ラテン門のヨハネ」)である5月6日 フィリプス善良公とポルトガルのイザベラ夫妻の次男ヨドクスJodocus(1432/4/24 - 1432/8/?)がゲントの聖ヨハネ教会で洗礼を受けた同じ日に  ヨース・ファイトとエリザベトゥ・ボルリュート夫妻は ファイト礼拝室で「ファイト祭壇画」(=「新しいエルサレム」=『神の子羊(の礼拝)』)を世に公開した。
ブルゴーニュ公国の首都はディジョンDijonであるにもかかわらず 公爵夫妻がその息子の洗礼の場所としてゲントを選んだこと 息子の名をヨースと同じにしたこと  そして完成したばかりの祭壇画を公爵夫妻に見せられることなど ヨースとエリザベトゥ夫妻にとって 最高の栄誉の日であっただろう。
その三年後 ヨース・ファイトとリサベット・ボルリュート夫妻は ファイト礼拝堂で毎日ミサを行うことで自分たちの魂の救いを確保するための基金(財団)を設立した。 (その資金は 彼らが所有する最近埋め立てられたフェッレブルックの土地の賃料収入で賄っている。)

1433~1434年に ゲント市の主席行政官(市長職に相当)となる。
彼はゲントとベーヴェレンを行き来し ベーヴェレン北部の堤防建設に力を注いだ。これは高潮から土地を守るために必要なことだった。
1439年にヨース・ファイトが亡くなった後 テン・ワーレTen Walleは甥のヨース・トリーストJoos Triestに パメルPamelとレーデベルクLedebergの土地はもう一人の親戚ヤン・ヴィラインJan Vilainが相続した。
1378年にベーヴェレンの聖マルティン教会に礼拝堂を設立した両親の後を継いで 1414年の遺言で ベーヴェレンの教会に礼拝室を建てることを定めていたが 実際に実現されたのはヨースとエリザベトゥの死後であった。
同じ遺言で ファイト夫妻はベーヴェレンに司祭や巡礼者たちが一夜を過ごすための宿泊所を建てることも定めていた。 この意思を実行するために 彼らの相続人(トリーストとヴィレイン)によって1445年に三位一体派の修道院が設立された。(後1461年にヴィルヘルム派の手に渡り 1784年に皇帝ヨーゼフ2世によって解散させられた。)

父クライスと同様 ファイトもおそらくローイゲムRooigemのカルトジオ会コニングスダル修道院kartuizersklooster Koningsdalに埋葬された。 (この修道院は 1566年の聖像破壊運動と 1578年のカルヴァン派による襲撃で壊滅的に破壊された。)
ゲントのファイト礼拝室では 彼の家の紋章だけが要石(アーチの頂点)に見られる。(以前は窓のステンドグラスにもあった)


【エリザベトゥ・ボルリュート】Elisabeth(Lysabette / Lysbetteとも)Borluut
(1443年5月5日没)は ゲントのブルジョワ階級の女性。夫ヨース・ファイトとともに ファン・アイク兄弟が描いた祭壇画『神秘の子羊』の依頼主となった。

ボルリュート家は 11世紀にまで遡ることができる ゲントで最も古い家系。
エリザベトゥ(リースベッテ)はゲレム4世ボルリュートGerem IV Borluut(† 1407)とマルガレータ・セルサンデルスMargaretha Sersandersの長子。 彼女にはシモンSimonとゲレムGeremという名の兄弟がいた。おそらく1390年 遅くとも1392年に彼女は ベーヴェレンで伯爵の代官から急速に社会的に昇進したファイト家の三男ヨースと結婚した。 夫妻はゲントのホーグポールトHoogpoortのデ・パイル邸huis De Pijlに住むようになった。
1397年 二人はダウネン修道院Duinenabdijの館に移った。
1414年 ボルルート夫妻は遺言の中で 教会への後援事業として 司祭や巡礼者が滞在できる宿泊所をベーヴェレンに建てることを決めた。 これは夫妻の死後実行され 1445年に三位一体修道院が設立され 1461年にヴィルヘルミト派に譲渡された。
1420年頃 夫妻は更に大きな事業に着手した。聖ヨハネ教会に回廊と礼拝室を新設するための資金を提供し 1424年頃には 当時最も有名な画家であったヒューベルト・ファン・アイクに 見たこともないような大きさの多連画を注文した。 その壮大さは 夫妻に子供がいなかったことも関係しているかもしれない。 ヒューベルト・ファン・アイクが1426年に亡くなった後 弟のヤン・ファン・アイクが1430年から1432年にかけて完成させるまで この作品の制作は中断していた。 (この祭壇画の中に描かれている彼女の姿は 65歳頃のものと思われる。)

ファイト礼拝室の管理は 1435年にヨース・ファイトとエリザベトゥ・ボルリュートによって設立された財団によって行われた。 二人の魂の救済を確実にするために ファイト礼拝室で毎日ミサを捧げ その資金調達のために聖ヨハネ教会に土地の一部を寄付する契約をした。

エリザベトゥ・ボルリュートは 夫の4年後の1443年に死去した。彼女の遺産はボルリュート家に戻った。 エリザベトゥは死後 ゲントのアウグスチノ会修道院にあるボルルート家の礼拝堂に埋葬された。 (この修道院は そもそもボルリュート家が建てた礼拝堂が元になっている。)  銅製の床板には 紋章と次のような碑文が刻まれていた:
「ここに埋葬されたのはリザベッテ・ボルリュートLysabette Borluut ヨース・ファイトJoos Vytsの妻であった 我らが主の年1443年の5月の5の日にこの世を去った者」

彼女が夫と一緒に埋葬されなかったのはなぜだろうか? このような別々の埋葬の仕方は確かに例外的と言えるかもしれない。 ゲントで最も重要な教会に自前の礼拝室を作り 雄大で精緻な祭壇画を制作させ教会に寄進するという 宗教的大事業を成したにもかかわらず そこには葬られなかった。 夫婦が不和であったのだろうか? あるいは そのような大事業を成したということが 夫婦が充分に調和していた証しなのだろうか?
また ファイト礼拝室の(祭壇画/要石/以前はステンドグラスにも描かれていた)両家の紋章や ゲントやベーヴェレンの教会における死者のためのミサにおける夫婦の象徴的な結び付きとどう関係しているのだろうか?


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【注】
☆ オランダ語には標準語がありません。主にフランダース方言/ブラバント方言/リンブルグ方言と分かれています。 かつ オランダ語には日本語には無い曖昧母音があります。 従って 固有名詞をカタカナ書きにする場合 複数の可能性があります。 Vijdはファイトでもフェイトでも Van Eyckはファン・アイクでもファン・エイクでも間違いではありません。
☆ ワースランド地方はフランダース伯爵領であり そこを代官としてファイト家が管理していた。 その土地では 物質は領主=伯爵のものであり 非物質が代官のものであった。 すなわち 行政/司法/警察の長として 法規を定め 行政を行い 徴税し 裁判を行い 刑の執行をする権限を持っていた。 
☆ ゲントはフランダース伯爵領内で最大の都市であり なので市行政官も多くいた。39人という数はそれに次ぐブルージュの24人よりもはるかに多い。 従って ゲントでは他の都市とは違い 行政官は二種に分かれていた。クイレKeureとゲデーレGedele(Ghedeele)で 位としてはクイレの方が上級であった。 いずれも任期は一年。ヨースはこのクイレを複数回務めている。また クイレの中の代表が 市長職に相当する主席行政官であり ヨースは一度(=一年間)これを務めている。
☆ ゲントの聖ヨハネ教会は ゲントで最も重要な教会である。(だからこそ後に大聖堂に格上げされた。)  15世紀初めに その教会の主祭壇を囲む回廊と それに沿って放射状に七つの礼拝室が増築された。 (その内 中央の礼拝室は教会のものであり 他の六室は個人やギルドが専有した。)  ファイト夫妻はこの増築に多額の献金をし かつ 礼拝室の内の一つをファイト家の個人的な礼拝室として建て 使っていた。 (従って アーチの要石やステンドグラスにファイト家とボルリュート家の家紋が入れられていた。)

【疑問】と〔仮の答え〕
☆ なぜ ゲントでも名門のボルリュート家の長女と 父親が詐欺と汚職で伯爵から罷免されたその三男とが結婚したのか?
〔ボルリュート家にとって ファイト家の財産が魅力的だったのか?〕
しかし ボルリュート家の家名に傷が付くとは思わなかったのか?
〔ゲント市行政官としてのヨースの力量を買ったのか?〕
しかし 一年間だけ主席行政官をしたのは 実は賄賂でその肩書きを手に入れたと言われている。

☆ 夫婦が別々の場所に埋葬されたのはなぜか?
名門の出である夫人は その実家の墓に葬られた。夫ヨースの墓の場所は不明。(多分 ローイゲムの修道院のファイト家の墓所に入れられた。)
つまり 二人共にファイト礼拝室には葬られていない。
〔夫婦の仲が良くなかったのか?〕
〔ヨースが 何か不名誉な死に方をしたためか?〕

☆ (それにも関わらず)ヒューベルト・ファン・アイクが ファイト礼拝室に埋葬されたのはなぜ?
〔ファイト夫妻がヒューベルトの主要な援助者であったから?〕
〔ファイト夫妻がヒューベルトを特別視していたから?〕

☆ ヨースが聖ヨハネ教会の教会長/参事会員を務めたことや 多額の(建設費用を含む)献金をしたこと 大規模な祭壇画を制作させたことは 彼らの宗教心の表れなのか?
〔実は 宗教心では無く 功名心から?〕
〔この時代にはまだ カトリックの「金持ちであるほど天国に入るのは難しい」という教えを素直に受け入れていたから?〕

☆ ヒューベルト・ファン・アイクが「ファイト祭壇画」=「新しいエルサレム」(後の「神の子羊」)で表したかったことを ファイト夫妻はどの位認識していたのか?
〔ほとんど あるいは全く認識していなかったのでは? とするとファン・アイク兄弟にとっては 資金は出してくれる しかし口は出さないという願ったり叶ったりの注文主であったことになる。〕

【まとめ(全ては憶測/推測/想像)】
☆ ファイト家は 辣腕事業家として熱心に金儲けをした。
☆ ファイト家は 功名心が強く 地位や名誉や肩書きにこだわった。
☆ ヨースとエリザベトゥの結婚は 政略的あるいは打算的なものであった。
☆ ヨースが金儲け優先で それほど宗教的では無かったのに対して 名門の令嬢であるエリザベトゥは宗教的であった。
☆ カトリックの教えを鵜呑みにしていたファイト夫妻には 「人は死んだ後どうなるのか」が結局のところ良く分かっていなかった。なので 死後への恐怖心が大きかった。
☆ かつ 子供がいない=家系が絶える ということにも怯えていた。
☆ 「この世」にしがみ付いていたヨースと 「神の国」を(幾らかなりとも)信じていたエリザベトゥとで考え方の相違があった。
☆ これらが ファイト夫妻が自前の礼拝室を持ったり 教会(の建築)に多額の献金をしたり 立派な祭壇画を注文した理由であろう。
☆ つまり 「金持ちであるほど天国に入るのは難しい」というカトリックの教え(という脅し)を信じて多額の献金をしたヨースと 「神の国」での魂の平安を信じていたエリザベトゥとの 二人の(違う)思いの具現化であろう。
☆ 「神の子羊」に描かれているヨースとエリザベトゥの肖像画からは ヨースが「神の国」を信じていない 現世的な人間であることが伝わってくる。 幾多の悪徳や不正や裏切りを重ねてきた(徳が高くない人間)であろうことがその顔に現れている。 だからこそ 死後魂が地獄に落とされることを極度に恐れていたのであろう。(そして ファイト礼拝室に葬られていないのもそれが理由であろう。)
それに対してエリザベトゥの方は (無表情な物質的な描き方は ヤン・ファン・アイクの特徴であるけれども それを差し引いても)そういう夫に共感していないようである。
☆ この時代には 画家に絵を注文するに当たっての実際の交渉役は主人ではなく主婦が担っていたらしい。 「神の子羊」も ヨースではなくリースベッテがヒューベルトあるいはヤンと交渉したのであろう。だからこそリースベッテの思いがより大きくこの絵に反映されているのであろう。
☆ 善政を敷いたブルゴーニュ家の中でも特に「善良公」と呼ばれたフィリプス公爵にとって ヨースはどういう人物であったのだろうか?  ヤン・ファン・アイクの方がはるかに重要な役を任されている。
☆ ヒューベルト・ファン・アイクが ファイト礼拝室に葬られていることから 彼とファイト家とは非常に親しい関係にあったと思われる。
☆ ヒューベルト・ファン・アイクの死によって中断された祭壇画の制作が 弟ヤンによって引き継がれたが ヤンは兄のそもそもの意図/思想/理念などをどの位理解し引き継いだのであろうか?  そして それにファイト夫妻はどの位関わっていたのであろうか? ファイト夫妻の肖像画の姿からは 単に出資者であった以上の関わり合いがあったとは思えないが。
☆ ブルゴーニュ公爵夫妻があえて次男の洗礼の場所としてゲントを選び その日にファイト祭壇画(「神の子羊」)が公開されたということは 実はファイト夫妻以上にフィリプス善良公がこの祭壇画の制作と完成に(あるいはその内容にも)大きな関心を寄せていたのではないだろうか?


【人名一覧】
ヨース・ファイト(ユース/ヨドクス・ヨーストとも)Joos (Joes/Judocus/Joost)Vijd(1360? - 1439)
クラウス・ファイトClaus Vijd(? - ?)祖父? 
クライス(ニコラウス)・ファイト Clais (Nicolaus/Clays/Nicolay) Vijd / Vijt (? - 1412)父
アメルベルガ・ファン・デル・エルスト Amelberga van der Elst (? - 1394)母
クライス・ファイト二世Clais II Vijd(? - 1390)長兄
クリストフェル・ファイトChristoffel Vijd(? - 1416/18)次兄
エリザベトゥ(リスベッテ)・ファイトElisabeth(Lysbette)Vijd(? - ?)妹
ヨース・トリーストJoos Triest その夫
マレッベ(マレビー)・ファイトMalebbe(Mabelie)Vijd(1370? - ?)末妹
ゴッデファールト・ラースGodevaert Raes(1360? - 1418)その夫(ブラバント公爵領宰相)

エリザベトゥ(リスベッテ)・ボルリュートElisabeth(Lysbette)Borluut( ? - 1443/5/5)配偶者
ゲレム4世・ボルリュートGerem IV Borluut(? - 1407)その父
マルガレータ・セルサンデルスMargaretha Sersanders(? - ?)その母
シモン・ボルリュートSimon Borluut(? - ?)その兄弟
ゲレム・ボルリュートGerem Borluut(? - ?)その兄弟

ローデウェイク・ファン・マーレLodewijk van Male(? - 1384)フランダース伯爵
フィリプス突進公Filips II de Stoute(1342 - 1404)ブルゴーニュ公爵/フランダース伯爵
フィリプス善良公Filips de Goede(1396 - 1467)ブルゴーニュ公爵/フランダース伯爵
ポルトガルのイザベラ(1397 - 1467)その三人目の妻
ヨドクスJodocus(1432/4/24 - 1432/8/?)その次男

ヒューベルト・ファン・アイクHubert van Eyck(1360? - 1426/9/18)画家 ヤンの長兄 「その当時の最高の画家」とされる
ヤン・ファン・アイクJan van Eyck(1390? - 1439)画家 ヒューベルトの弟 「兄に次ぐ二番目の画家」とされる

【地名一覧】
フランダース伯爵領Vlaanderen フランス王国内(後ブルゴーニュ公国内)の伯爵領
ゲントGent フランダース伯爵領内の大都市。織物産業と貿易業で発展し 14世紀にはアルプス以北でパリに次ぐ二番目の大都市であった
ベーヴェレンBeveren ゲントの東 ワースラント地方に隣接する一地域
シンゲルベルクSingelberg ベーヴェレンの城の名
ワースラント地方Waasland  フランダース伯爵領内のゲント近郊東部のシュケルデ川沿いの地域
ホーフ・テル・ウェッレHof ter Welle ベーヴェレンにある城
カスウェーレCasuwele サーフティンゲに隣接する村(現在はオランダ内)
カッロKallo ベーヴェレンに隣接する一地域
キールドレヒトKieldrecht ベーヴェレンに隣接する(現在はオランダとの国境にある)一地域
メルセレMelsele ワースラント地方で最も古い集落で 木靴作りが盛んだった地域
テル・ヴェンテンTer Venten ワースラント地方の中の一地域
サーフティンゲSaeftinghe カスウェーレに隣接する村(現在はオランダ内)
フェッレブルックVerrebroek キールドレヒトに隣接する地域
アンバハテン四州Vier Ambachten(アクセルAksel/フュルストHulst/ブッフハウテBoechoute/アッセネデAssenede)ワースラント地方に隣接する一地域
アントワープ(アントウェルペン)Antwerpen シュケルデ川の対岸東側ブラバント公爵領内にある大都市
メッヒェレンMechelen シュケルデ川の対岸東側ブラバント公爵領内にある都市
シュケルデ川Schelde フランダース伯爵領内を流れる主要な川で 一部はブラバント公爵領との境となっていた
ファイトステーンVijdsteen ヨースとリスベッテ夫妻がゲントで暮らした館
オッペルシュケルデ通りOpperscheldestraat ファイトステーンがある道 グーデルデメント通りGouvernementstraat その今日の道路名
デ・パイル邸huis De Pijl ヨースとリスベッテ夫妻がゲントで暮らした館
ホーグポールト(高い門)Hoogpoort デ・パイル邸がある道
アウグスチノ会修道院Augustijnklooster ゲントにあるボルリュート家が寄進した礼拝堂を元に 1294年に設立された聖アウグスチノ派の修道院 
ダウネン修道院Duinenabdij 大西洋岸コックスアイデKoksijdeにある修道院で そこが運営する巡礼者のための宿泊所がゲントにあり その館にヨースとリスベッテ夫妻は暮らしていた 
ローイゲムRooigem ゲントの西側の農村地帯
カルトジオ会コニングスダル修道院kartuizersklooster Koningsdal ローイゲムにあった修道院 1328年に設立されたが 1566年の聖像破壊運動と 1578年のカルヴァン派による襲撃で壊滅的に破壊された。



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