ブリューゲル(フランダースルネッサンス)からバロックへ
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【目次】 |
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1)ルネッサンスの始まり ①イタリアでの始まり ②ルネッサンスの語義 ③ルネッサンス絵画の特色 ④芸術による反カトリック運動 ⑤三大巨匠が表したもの ⑥それが分からなかった人たちによる堕落 |
2)ルネッサンスのフランダースへの伝播 ①1517年 = フランダースのルネッサンス元年 ②イタリアから百年かかって伝播 ③1517年 = ルターの宗教改革 |
3)ブリューゲルの生涯 |
4)ブリューゲルの作品とその意味 ①代表作 ②その共通点 ③何を表現しているのか |
5)バロックとは ①カトリックによる反宗教改革運動 ②宗教改革対反宗教改革 = ゲルマン対ラテンの戦い ③カトリック = ラテン的な対抗策 ④大きい画面の劇的表現 |
6)ルーベンス ①バロックの第一人者 = 劇的表現の第一人者 ②代表作 ③ルネッサンスとバロックの違い |
7)バロック芸術のメッカ = アントワープ ①アントーン・ファン・ダイク ②ヤコブ・ヨルダーンス ③その他の画家たち |
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1)ルネッサンスの始まり(とその後の堕落)
①イタリアでの始まりルネッサンスはイタリア(フィレンツェ)で1410年頃に始まったとされています。
フィレンツェはメディチ家の町ですから ルネッサンスの誕生にはメディチ家が関与あるいは貢献しているわけです。
〔メディチ家〕
②ルネッサンスの語義
ルネッサンス〔re+naissance〕という単語は
ル+ネッサンスです。
ル = re = 再び naissance = ネッサンス = 生まれる つまりは「再生」を意味しています。
では 何を再生するのでしょうか?
古代ギリシャや古代ローマ文化の復活です。
ですので 日本語では「文芸復興」と訳されています。
アルプス以南のラテン系の人々は ギリシャ神話/ローマ神話への憧れを強く保ち続けていました。
〔ギリシャ神話の神々〕
しかし 一神教のキリスト教においては たくさんの(得体の知れない)神々が出てくるギリシャ神話/ローマ神話は 異端です。
ではなぜ 敢えてそれを復活しようとしたのでしょうか?
それは カトリックに対する反発からです。
カトリックの教義「原罪」に対して ギリシャ神話/ローマ神話の神々のように生き活きと生きたいという願望を 南ヨーロッパのラテン系の人たちは持ち続けていたのです。
そして 古代ギリシャや古代ローマの美術に対しても 憧れを持ち続けていました。
ですので それらを復興させようとしたのです。
③ルネッサンス絵画の特色
〔ルネッサンス絵画〕
そうやって始まったルネッサンスですが 古代ギリシャや古代ローマの美術で残っているものは 彫刻が多く 絵画は僅かです。(石で作られた彫刻と 木の板や壁に描かれた絵画では耐久性が違うからです。)
ですから 絵画においては本当の意味での「復興」ではありませんでしたが 次のような特色が生まれました。
左〔ダヴィッド作「牛乳粥の聖母子」〕 右〔ティツィアーニ作「バッカスとアリアドネ」〕
ぼかし/遠近感(遠近法)/三角の構図/市井の人間らしさ/裸体/演劇的(ポーズ/舞台設定)/
☆フランダース写実主義絵画のような きっちりとした描き方ではない ぼかした輪郭
☆近くのものと 遠くのものとのはっきりとした 距離感の違い
☆ゴチック様式の縦の垂直性と違う 三角形の構図
☆神話の神々や キリスト教の聖人であっても 「普通の人」として描き出す
☆裸体の女性が多く描かれる
☆芝居がかった人物のポーズや舞台設定
これらの特色を一言で言い表すと
「人間の目」からの見え方 なのです。
(フランダース写実主義は 「神の目」からの見え方でした。)
④(宗教改革ではない)芸術による( = 感性に訴える)反カトリック運動
人間を 「原罪を背負った罪人」として描き出すのではなく ギリシャ神話/ローマ神話の神々を理想として 生き生きと生きて良いのだということを表現しているのです。
それは 宗教改革という 理屈によるカトリックへの反抗ではなく 芸術による感性に訴える反カトリック運動なのです。
そして その反カトリック運動には メディチ家が関わっています。 ヨーロッパでは 全ての人がキリスト教カトリックによって支配され統治され 「罪人」としての罰金を教会に納めなければなりませんでした。 そこから脱して 「自分こそが一番の金儲けをしたいんだ」と思う人が出てきても当然です。 まさにメディチ家は そのためのカトリック支配体制崩しを煽ったのです。
⑤三大巨匠が表したもの
そういうルネッサンスの中でも 三大巨匠と言われる人たちがいます。
レオナルド/ミケランジェロ/ラファエロの三人です。
左から〔レオナルド「聖母子と聖アンナ」〕 〔ミケランジェロ「天地創造」〕 〔ラファエロ「聖母子」〕
この三人には 画風の違いと言うものはありますけれども
しかし 共通点もあります。
その共通点とは 「宇宙」(物質的な宇宙ではない)を表現している
あるいは 私たち人間も宇宙の中の存在である ということを表している点です。
〔父なる神〕
キリスト教絵画(のよう)でありながら
(カトリックの)「裁く神」「罰する神」では無い
宇宙を統べる = 偏在の神を表現しているのです。
あるいは 全ての存在は(一人一人の人間も)偏在の宇宙の一部であり
原罪を背負った罪人ではない ということを表し
カトリックの枠組みに縛られて生き続けなくても良い ということをも表しているのです。
⑥堕落
ところが そのような理念が理解できない人たちもまたいました。
(より正確には そういう人たちの方が多かったのです。)
ですので 非物質的(あるいは霊的な)宇宙観ではなく 「この世(=物質世界)的」な生きる喜びの表現の方が主流となってしまいました。
それはすなわち 「神の喪失」ということでもあります。
ですから ゴチック様式が「天に向かった矢印」としての形をとったのに対して
ルネッサンス様式においては そのような天への方向性は失せてしまいます。
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2)ルネッサンスのフランダースへの伝播
①1517年 = フランダースのルネッサンス元年1517年は フランダースにおける「ルネッサンス元年」と言われています。
なぜならば ベルギーで最初のルネッサンス建築が建てられたことと ラファエロの訪問とがこの年にあったからです。
②イタリアから百年かかって伝播
ということは 北イタリアで始まってから 百年(も)かかってベルギーへと伝播してきたことになります。
なぜそれほどまでに時間がかかったのでしょうか?
距離的に遠いからではありません。
フランダースでは ゴチック様式が確固として保ち続けられていたからです。
すなわち 民族的気質や 文化的嗜好が 隔たっていたからです。
③1517年 = ルターの宗教改革
そして 1517年というのは マルティン・ルターによる宗教改革が起きた年でもあります。
ということは その時から始まったベルギーにおけるルネッサンス期は ヨーロッパの宗教改革による混乱期と重なってしまいました。
新教旧教の対立によって ヨーロッパ内で最も激しい混乱が起きたのが ベルギーでした。
そして 宗主国スペインが 旧教(カトリック)による統治のために武力を行使して新教を弾圧しました。
これによって フランダース伯爵領とブラバント公爵領という ヨーロッパで最も経済的に繁栄していた土地にいた商人や職人たちは その弾圧から逃れるために北のオランダへと移住してしまいます。そのために フランダース伯爵領とブラバント公爵領の繁栄はどんどん下り坂になってしまいました。
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3)ブリューゲルの生涯
そういう時代に生まれ 育ち 画家としての活動をした代表が ブリューゲルです。しかし (そういう大混乱の時代ですから)彼の人生に関しては ほとんど分かっていません。
15??年 出生年も出生地も両親も不明。
1551年 画家ギルドに登録される。しかしすぐに イタリアへ行く。
1554年 アントワープに定住する。
1563年 結婚し ブリュッセルに引っ越す。
1564年 第一子誕生(ペーテル・ブリューゲル二世)
1568年 第二子誕生(ヤン・ブリューゲル一世)
1569年 没
彼がどういう生活を送っていたのか 何が収入源だったのか 誰からの注文で絵を描いたのか 誰が彼の絵を買ったのか などはほとんど分かっていません。
(ブリューゲルについてのより詳しい解説は⇒こちらをご覧下さい。)
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4)ブリューゲルの作品とその意味
①代表作左から〔「イカロスの墜落」 「ベツレヘムの戸籍調査」 「鳥の罠のある冬景色」 「オランダ語のことわざ」〕
これらが ベルギーにあるブリューゲルの代表作です。
「イカロスの墜落」
(この絵の詳しい解説は ⇒こちらでご覧頂けます。)
「ベツレヘムの戸籍調査」
(この絵の詳しい解説は ⇒こちらでご覧頂けます。)
「鳥の罠のある冬景色」
(この絵の詳しい解説は ⇒こちらでご覧頂けます。)
「オランダ語のことわざ」は 木の皿に描かれた12枚を集めたものです。ということは そもそもは絵画作品というよりも実用品です。こういうところにも ブリューゲルが「観賞用芸術作品」よりも 「生活に実際的に関わる物」を通して何かを伝えたかったではないか ということが覗えます。
②その共通点
これらの作品において 以下の点が共通点として挙げられます。
俯瞰/農民の生活(貴族の肖像画や宗教画ではない)/諺
☆どの絵も 視点が俯瞰になっています。広い範囲を斜め上かラ見下ろしています。
☆描かれている人物は 農民ばかりです。
☆諺を多く絵の中に書き込んでいます。あるいは 諺だけの絵もあります。
更に ルネッサンス絵画の特色とは違う点にも気付きます。
☆輪郭線がぼけていない
☆はっきりとした三角形の構図ではない
☆裸体の女性が描かれていない
☆芝居がかった描き方ではなく 農民の生活の一場面を自然に描いている
なぜ ブリューゲルはこのような描き方をしたのでしょうか?
③何を表現しているのか
結局 ブリューゲルはイタリアルネッサンス(あるいはその影響を受けたフランダースのルネッサンス)とは全く違う表現をしています。
☆俯瞰とは 神の眼差しです。ルネッサンスが「人間の視点」をとったのとは対照的です。
☆世の中の人口の九割を占めていたのは農民たちであり 貴族など少数者のためではない 絵を描きました。
☆多くの諺によって 道徳あるいは教訓を通して 幸せに生きる導きを(誰にでも分かるように)描き出しています。
☆それはすなわち キリスト教ではない導きであり 旧教新教の対立によって世の中が大混乱に陥っていたこの時代に そのキリスト教は 人間が幸せに生きる導きにはならないという考えの表現でもあります。
結局は「当たり前の人が 当たり前に幸せに生きるには」というのが 彼の画家としての人生における一番大きな題材であったということでしょう。
それはすなわち ブリューゲル自身が「神の眼差し」でものごとを見ていた すなわち彼の悟りの境地を表現しているものとなっています。
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5)バロックとは
①カトリックによる反宗教改革運動宗教改革が起き プロテスタントへと移る人が多く出てきたということは 旧教カトリックにとっては信者が減るということであり それは献金等の収入が減るということです。収入が減ることで カトリックは危機感を抱きました。
すなわち ヨーロッパの全ての人を管理していたのに それができなくなったのです。
そこで カトリックは新教プロテスタントに対抗する 反宗教改革運動を始めました。
②宗教改革 = アルプス以北 = ゲルマン = 理屈 カトリック = ローマ = ラテン = 情緒
つまり「売られた喧嘩は買う」ということです。
ところが 理屈で喧嘩を売られても 理屈では返せません。なぜならば 宗教改革を起こした側は アルプス以北のゲルマン系の人々であり 理屈でカトリックに挑戦状をたたきつけたのです。ところが カトリックの側はアルプス以南のラテン系であり 情緒や感覚では勝っていても 理性的ではない彼らは 理屈で返すことができませんでした。
③カトリック = ラテン的な対抗策
では どうやって売られた喧嘩を買ったのでしょうか?
暴力/武力で です。
反宗教改革運動の対象は すでに新教に移った人を呼び戻す/新教に移りそうな人を引き止める/まだキリスト教が伝わっていない所で伝送する/ この三つです。
すでに新教に移った人というのは それまでのカトリックに疑問や不満を抱いていた人たちであり それは主に商人や職人 すなわち世の中でのインテリ層でした。
しかし これらの人々をカトリックへと(理屈で)呼び戻すのは (理屈が不得手な)カトリックにとっては難しいことでした。
今から新教に移りそうな人というのは 主に農民であり 彼らは無学な人々でした。その人たちを説得するには 理屈ではなく「大袈裟な表現」「感覚に訴える表現」をしました。(まさにラテン系が得意とする表現方法です。)
まだキリスト教が伝わっていない所というのは ヨーロッパの外であり そこではヨーロッパの言葉は通じません。言葉が通じないところでどうやって伝道するのか? そのためにもやはり 「大袈裟な表現」「感覚に訴える表現」をしました。(まさにラテン系が得意とする表現方法です。)
ということで 旧教カトリックによる反宗教改革運動の道具として バロック芸術が使われるようになりましたが 「大袈裟な表現」「感覚に訴える表現」をしたカトリックの反宗教改革運動と同じく バロック芸術においてもまた「大袈裟な表現」「感覚に訴える表現」がその特徴となりました。
④大きい画面の劇的表現
ルーベンスなどのバロック絵画を見ると 第一の印象は「画面が大きい」ということです。
「大きさで迫ろう」「大きさでびっくりさせよう」「大きさで威圧感を与えよう」という戦法です。
そして その大きな画面の中には 大袈裟な格好をした人物がたくさん描かれています。ですので 「劇的な表現」「躍動感溢れる表現」なのが見て取れます。つまりは 理屈は一切無い「大袈裟な表現」「感覚に訴える表現」なのです。
〔ルーベンス「キリスト昇架」〕
では 「バロック絵画の第一人者」と言われたルーベンスの絵で バロック絵画の特色を見ていきましょう。
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6)ルーベンス
1566年にベルギー各地で「聖像破壊運動」が起きました。新教プロテスタントの人々が 教会の中を滅茶苦茶に壊してしまったのです。ですから その後カトリックは教会の復興のために 新たな美術品を大量に必要としていました。ルーベンスはそのような時代に生まれ育ったのです。①バロックの第一人者 = 劇的表現の第一人者
バロック様式は ルネッサンス様式からの発展です。ルネッサンスよりも より劇的な表現を目指すようになりました。そのような劇的表現の第一人者とされたのがルーベンスです。そして そのような表現がカトリックの反宗教改革運動の道具としてピッタリだったのです。ですから カトリックからルーベンスに注文が殺到し そしてこの時代のがk他の(ほとんど)誰もが ルーベンスの画風を真似て絵を描くようになりました。
②代表作
ベルギーにある彼の代表作は すなわちアントワープの聖母大聖堂にある作品です。
左から〔「キリスト昇架」 「キリストの復活」 「キリスト降架」 「聖母被昇天」〕
「キリスト昇架」(「十字架を立てる」)
1610年 33歳の時の作品。33歳の若々しい力強さが迫ってくるような画風です。この作品でルーベンスが「バロックスタイル」を確立したとされています。
(この絵の詳しい解説は⇒こちらでご覧頂けます。)
「キリストの復活」
同じく1610年 33歳の時の作品。(世界最大の印刷工場を営んでいた)プランタン=モレトゥス家の祭壇のために描かれました。(絵の上の楕円形の肖像画が 注文主バルタザール・モレトゥスです。ルーベンスと小学校以来の学友でした。) やはり 若々しい力強さが迫ってくるような画風です。キリストの登場する姿・・・ 墓から甦って出てきたイエスに驚き慄いて倒れる兵士たち・・・ 何もかもが大袈裟すぎる描き方です。
(この絵の詳しい解説は⇒こちらでご覧頂けます。)
「キリスト降架」(〔十字架から降ろす」)
1612年 35歳の時に完成。この絵の画風は一転して きっちりとした描き方です。中央画面の一枚に 丸一年の時間をかけて一人でこつこつと描いたからです。
(この絵の詳しい解説は⇒こちらでご覧頂けます。)
「聖母被昇天」 1626年 49歳の時の作品。画風が変わって 全体として柔らかな印象です。大量の注文をこなすには 太い筆で 早い筆の動きで描かざるを得なかったからです。
(この絵の詳しい解説は⇒こちらでご覧頂けます。)
③ルネッサンスとバロックの違い
バロック様式がルネッサンスからの発展ではあっても やはり違いがあります。
☆構図
構図のとり方が 斜めと螺旋を基本とするようになります。すなわち ルネッサンスでは三角形の構図でしたが それが斜めへと変わっていきました。三角形というのは 安定形です。(三角は決して歪んだり崩れたりしません。) それに対して より動きを表現するために 斜めの構図 そして螺旋の構図をとるようになりました。 しかし 斜めの構図は同時に「揺らいだカトリックの権威」 あるいは この時代の人々の「傾いた信仰心」をも表しているのです。(人間の表現には 意図したものと 意図していない認識していないものとがあります。) そして 螺旋とは「捻り」ですけれども これは「喧嘩腰」を表しています。プロテスタントが理屈で挑戦状を叩きつけてきた それに対して カトリックは「喧嘩腰」で暴力で対抗したのです。
☆より劇的に
ルネッサンスは演劇的な表現をしましたが それがバロックではより劇画的な表現へと変わっていきました。(演劇的表現 = 実際に人間がそのような表現を出来る。劇画的表現 = 実際には人間はそのような表現は出来ない。)
☆バロックの本質
バロック という言葉は そもそもは「バロッコ = 歪んだ真珠」から派生したものです。そして その意味の通りに「グロテスク」な表現をとるようになりました。宗教画として 敬虔な厳かな宗教的雰囲気を表すものでは無いのです。とにかく「人目を惹く」「びっくりさせる」「過激な表現」を目指した (絵画芸術と言うよりも)反宗教改革運動に使う「看板」なのです。
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7)バロック芸術のメッカ = アントワープ
ルーベンスにカトリックから注文が殺到し ルーベンス以外の画家たちも同じようなスタイルで絵を描くようになったことから アントワープは「バロック芸術のメッカ」と言われるようになりました。そういう中で (ルーベンスに次いで)名声を博した代表が ファン・ダイクとヨルダーンスです。
①アントーン・ファン・ダイク(1599~1640)
〔ファン・ダイク「ジェヌアのインペリアル母娘の肖像画」〕
彼は 少年の頃から絵の才能を発揮し「神童」と言われました。ルーベンスの公房で手伝った後 ヨーロッパ各地を転々として 貴族の肖像画家として大成功を収めます。イギリスでは王家から贔屓にされて宮廷画家となり 貴族に叙せられました。しかし 乱れた生活のためか 41歳で亡くなりました。(神童+短命+画風から 後に「画家のモーツァルト」と言われるようになります。)
②ヤコブ・ヨルダーンス(1594~1678)
〔ヨルダーンス「三王の祝い」〕
ヨルダーンスは ルーベンスの後任としてアントワープの画家ギルドの組合長となり まさに「ルーベンスの後継者」とされた人です。彼は プロテスタントなのにカトリック絵画を描いていました。ですので その画風もルーベンスとは違っています。カトリック = 全体主義 ナノに対して プロテスタント = 個人主義 です。ですから 個々人の生きる喜びを表現しています。そのような画風から (ルーベンススタイルの)大掛かりな宗教画よりも 家庭向けの絵に彼の本領が発揮されています。
③その他の画家たち
ルーベンスは 「共同制作」の仕組みをとって 大きな画面を分担して複数の画家たちに描いてもらっていました。その分担とは 「静物画」「人物画」「風景画」など それぞれの得意分野で参加してもらうということです。(ですから ルーベンスの下絵に基づいて描くにもかかわらず 「下請け」ではなく「共同制作者」だったのです。)
静物画を得意とした代表が セーゲルスとスネイデルスです。どちらも ルーベンスからとても評価され信頼されていました。
左〔セーゲルス「ガラスの花瓶に生けた花」〕 右〔スネイデルス「静物画」〕
しかし ルーベンスの画風に組しない画家たちもまたいました。ルーベンスの画風にどうしてもなじめなかった人たちです。
その代表がフォスです。彼は 上流階級の家族肖像画で大成功を 収めました。
〔フォス「家族の肖像画」〕
この時代のアントワープの画家たちは とてもたくさんの収入を得て安定した生活を送り (公房を兼ねた)貴族の邸宅のような家に暮らしていました。
「バロック芸術のメッカ」と言われたこの時代のアントワープは まさに「芸術の都」だったのです。
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(この文章は ユーラシア旅行社のオンライン講座「フランダース絵画とは」の第四回目「ブリューゲル(フランダースルネッサンス)からバロックへ」の内容を文章化したものです。 一時間という限られた時間内での話ですので 駆け足になっています。より詳しくは 他の記事もご参照下さい。)
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