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ムハ美術館

「女神」と「奉仕」

《幸也の世界へようこそ》《幸也の書庫》《絵画を見る目・感じる心》 → 《ムハ美術館》

この文章は 2026年4月にプラハのムハ美術館を訪れた時の印象を記したものです。
このムハ美術館には以前も訪れていますが 改装後は初めての訪問となり
かつ 最も印象深いものとなりました。
ただし 個人の印象ですので 絵の解説ではありません。
(かつ ムハの生涯に関しての知識は見学した時点ではほとんどありませんでした。
記事中に書いたものは 見学したときの印象と
この文章を書くに当たって調べたこと=見学の後で知ったこととを区別してあります。)

画像は 文章の流れを妨げないように 最後に纏めて掲示してあります。
(文章中の矢印をクリックするとその画像に飛びます。画像をクリックすると より大きな画像が別画面で開きます。)
画像を添付したのはどの絵か分かるようにであって
本物を見なければ絵からのエネルギーは受け取れません。

日本では 「ムハ」のことを「ミュシャ」と表記することが多いようですけれども
チェコ語では「ムハ」となります。
「ミュシャ作」と言っても良い作品と
「ムハ作」と言わなければならない作品との違いも 文章中に記してあります。


【目次】
プラハのムハ美術館
なぜ「ムハ」ではなく「ミュシャ」なのか
ムハの作品の何が美しいのか?
なぜ「ミュシャ」ではなく「ムハ」なのか
「女神」と「奉仕」
【画像】

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プラハのムハ美術館

プラハのムハ美術館は1998年に開設されました。
(ここで取り上げているのは それのことです。)
スイスの不動産実業家が自費で始めたもので
クニツェ宮殿を買い取り その一部を利用しています。
ムハの作品およそ50点が展示されています。
ただし 展示のみであり ここでは研究や修復を含む管理はしていません。
ムハの作品を管理しているのは ムハ財団です。

しかし この両者の意見の相違から ムハ財団が2026年2月に
新たにもう一つ別のムハ美術館を開設したようです。
(見に行っていませんので ここでは取り上げていません。)
前者がプラハのクニツェ宮殿内にあるもの 後者がサヴァラン宮殿内にあるものです


展示されているものは いわゆる「ムハらしい」パリ時代の作品が主で
その他 絵画作品や チェコスロヴァキア共和国のためにデザインした紙幣/切手/紋章等
そして 装飾品なども展示されています。
ほぼ年代順で 最後に彼の最高傑作 あるいは彼の芸術家人生の真髄となる作品があり
更に奥の映像視聴室で ムハの生涯に関する30分ほどの映像を見ることができます。


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なぜ「ムハ」ではなく「ミュシャ」なのか

日本では 「ムハ」のことを「ミュシャ」と表記されることが多いようです。
これは フランス語読みをカタカナにしたものです。
なぜ チェコ語の名をフランス語読みするのでしょうか?
彼を有名にしたのが 世紀の替わり目のパリにおいて
サラ・ベルナールのためのポスターによってだったからでしょう。

1895年1月1日の朝に パリの町中に貼られた彼のポスターが
一大センセーションを巻き起こしました。

(⇒画像①「サラ・ベルナールのジスモンダのポスター」)

そして 1900年の(「アール・ヌーボー展」とも言われた)パリの万国博覧会では
オーストリア政府館の装飾を初めとする彼の作品が 世界の注目を集めました。

そして ムハといえば
美しい女性/頭の後ろの後光のような輪/細かい花で飾られた背景
を基本とした 麗しい印象のポスター
という(固定観念ともいえる)印象を人々に与えました。
この美術館に展示されているものも 多くがこのスタイルの作品です。

ですから 実際にパリで創作活動をしたのは 彼の79年の人生の内の10年だけなのですが
人々の心の中では ムハはパリと強く結び付けられてしまったわけです。

それは 逆に言うと その後の彼はどういう作品を作ったのか
彼自身はその生涯で何を表現したかったのか ということには
目を向けられていないということでもあります。
そして この美術館を最後まで見ると 彼が生涯をかけて表したかったものが
感じ取れる流れの展示となっています。


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ムハの作品の何が美しいのか?》

では 彼の作品の何が人々を熱狂させたのでしょうか?
彼の作品の何に人々は惹き付けられたのでしょうか?

「目に心地良い」
「麗しさ」
「美しい女性の理想像」
「細やかな装飾」
といった点かと思われます。(他人の感じ方は想像するしかありませんので。)

「目に心地良い」
ポスターは 宣伝内容を人々に伝えることが目的です。
ですから「説得力」や「インパクト」と重要です。
しかし ムハの作品には「押し付けがましさ」がありません。
しかし それでいて全体として人目を引きます。

「麗しさ」
その心地良さとは 麗しさでもあります。
全体の(明るいと言うよりも)軽い色合い/滑らかな曲線/主役の女性像。

「美しい女性の理想像」
ムハの人物像は 写実的ではありません。
絵画というよりは漫画的です。
それによって 生身の人間の姿ではなく 理想像が表現されています。
(なぜ女性だけなのかは この美術館の最後でわかります。)

「細やかな装飾」
草花の細かい装飾が 主体となっている人物像と共に
芳しい香りを放っているようです。
(ただし ムハの作品は 大きいものを縮小した絵葉書やカレンダーなどで見ることが多いですので
初めてここに見に来た時の印象として 「こんなに粗いのか」と思ったのを覚えていましたので
今回見たときには「粗さ」は気になりませんでした。)

けれども 「絢爛」「豪華」「官能的」「あでやか」といった言葉とは違うようです。
(もしかしたら そう感じる人もいるかもしれませんが。)
もっと「空気感」を感じられる と言えるでしょうか。
(それが 香りの印象となっているのかもしれません。)

(⇒画像②「四つの芸術 詩/躍り/絵画/音楽」)


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なぜ「ミュシャ」ではなく「ムハ」なのか

しかし 彼の人生はパリに限定されたものではありません。
彼は「スラヴ人」であることを大変誇りにしていました。
(だからこそ「スラブ叙事詩」という大作を制作し 「生涯の集大成」だとしていました。)
ウィーンやミュンヒェン そしてパリでの学生時代には
現地のチェコ人やスラヴ人たちと「同郷会」を作って その会長も勤めていたようです。


ですから パリを去った後の すなわちチェコに戻って以降の彼の作品は
「ミュシャ作」では無いのです。
チェコ人「ムハ作」なのです。

(彼が生まれた頃はオーストリア帝国の統治時代でしたが)
チェコスロヴァキア共和国が建国されてからは
国章/紙幣/切手/警察の制服などを 全て無償でデザインしています。
(画像③「チェコスロヴァキア共和国の紙幣」))

そのような チェコ人としての(かつスラヴ人としての)誇りを抱いて創作をしていた彼の作品を
(パリ時代の作品と十把ひとからげにして)「ミュシャ作」などと言うのは 余りにも失礼です。

彼は「ムハ」であって「ミュシャ」ではありません。


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「女神」と「奉仕」

美術館の一番奥 すなわち映像視聴室の前が この美術館の頂点です。
「プリンセス・ヒヤシンス」と「チェコの音楽のパンテオン」の二点があります。

(⇒画像④「チェコの音楽のパンテオン」「プリンセス・ヒヤシンス」))

ここで納得できます。
なぜ 彼は女性の姿ばかりを描いたのか。
そして 彼が表現したかったものは何だったのか。
どういう気持ちを作品に籠めていたのか。

それは「女神」と「奉仕」です。

「プリンセス・ヒヤシンス」からは 素晴しいエネルギーが溢れ出ています。
圧倒されます。胸の奥がウルウルします。
自筆の絵画では無く リトグラフであるにもかかわらず すごいエネルギーが出ています。
それは「女神」のエネルギーなのです。

彼がそれまで 女性の姿ばかりを描いてきたのは
実は女性を描いていたのではないのです。
彼は 女性の姿を通して「女神」を表現したかったのです。
女性の姿の後ろの光輪も 光を感じさせる軽い色合いも 「女神」を表しているのです。

そして 実際に女神が描かれているのが「チェコの音楽のパンテオン」です
。 ドヴォルジャークやスメタナを初めとする地上のチェコの音楽家たちに
天空の女神が霊感を送り 見守り 祝福しています。
そして 地上の芸術家たちは その女神に感謝し 祝福し 称えているのです。

芸術とは 芸術作品を創造するとは 芸術で何か表現するとは
「奉仕」なのです。
それ以外にはありません。

ムハは 建国されたチェコスロヴァキア共和国に奉仕し
そして 「スラヴ叙事詩」を「チェコ国民への贈りもの」としてプラハ市に寄贈しました。
8m×6mという巨大なキャンヴァス 計二十枚もの大作です。
(⇒画像⑤「スラブ叙事詩」制作風景)
28年もの年月をかけて描いたこの連作は まさにスラヴ民族への奉仕そのものです。
この作品の制作のために 城を借り 足場を組み キャンヴァスを巻き取る機械を作らせ
と莫大な制作費をつぎ込み それに対して一切の報酬を求めなかったのです。

この連作の完成後 ムハは更なる連作を構想していました。
それは チェコ人やスラヴ民族という枠を超えた「全人類への贈りもの」としての
「理性の時代」「智恵の時代」「愛の時代」の三部作でした。
(「スラヴ叙事詩」と同じく それぞれ8m×6mの大作となるはずでしたが
残念ながら これらはスケッチに留まり 実際の絵画の制作には取り掛かれませんでした。)


スメタナは「わが祖国」で 郷土愛を奏でました。(それは 民族愛とも繋がっています。)
そして ムハは絵画でそれを表現しました。

結局 「人間」とは「どれだけ視野が広いか」が 「徳」へと繋がるのです。
「視野の広さ」とは 実際に目で見える範囲のことではありません。
「世のため/人のため/自分のため」という言葉がありますが
多くの人は「自分のため」に生きています。それしか考えていません。
自分しか見えていない視野の狭さなのです。
「他人のため」を思って生きている人もいます。
自分以外の他人をも見る視野の広さを持っているのです。
そして 少数の人(だけ)が「世のため」を思って生きています。
実際に目で見える範囲を超えて物事を捉えているのです。
大は小を兼ねます。上位は下位を含みます。でも その逆はありません。
「自分のため」と思って生きている人は それだけなのです。
「他人のため」をも思って生きている人は それは「自分のために」にもなっています。
「世のため」には「他人のため」も「自分のため」も含まれます。
それが「奉仕」なのです。

そういう「視野の広さ」とは すなわち「意識の広さ」であり「愛の範囲の広さ」なのです。
ムハは 自らを「歴史画家」であり「哲学者」だと自認していました。
(⇒画像⑥「自画像」)
彼にとって「歴史を描く」とは 「人間の生の営みを描く」ということだったのです。
そして それによって その歴史を作った人々を称え 祝福したのです。
そして 彼は「哲学者」として 頭で考えるだけでは無く
「奉仕を実践する」という 生き方そのもので真の哲学者であることを実行しました。


これが ムハの「悟り」の境地なのです。
これが ムハの「徳」の境地なのです。


この二枚の絵を前にして 佐藤初女さんの言葉が頭に浮かびました。
「奉仕の無い人生は意味が無い。
奉仕には犠牲が伴う。
犠牲の伴わない奉仕は真の奉仕ではない。」
この言葉の「犠牲」の意味を佐藤初女さんはこう説明してくださいました。
「『自分が』という自我/エゴの気持ちを優先させない」ことだと。

「自分を表現しよう」などというのは 芸術ではありません。
(残念ながら 多くの人が間違って考えていますが・・・)

芸術家として 真の「奉仕」に生きたムハですが
彼が その人生に「犠牲」という言葉を意識していたのかどうかはわかりません。
しかし 彼の絵を見ると どうもそうでは無いようです。
彼の「チェコ人のため」「スラヴ民族のため」「全地球人類のため」という思いは
「皆が幸せならば自分も幸せ」という ごく当たり前の思いだったようです。
(それが「女神」の境地です。)
それが 彼の絵に「固さ」「暗さ」「滞り」といったものを感じさせない理由なのかもしれません。

ルードヴィヒ・ファン・ベートホーヴェンは言いました。
「神性の輝きを音にして全人類に注ぎかける以上に美しいことは無い」

ムハはまさにそれを絵画でしたのです。
全人類に神性の輝きを絵画として贈ったのです。
ムハの作品はどれもが写実絵画ではありません。
目の前にあるものを 目に見えているものを描いているのではありません。
それは 作曲家が音楽を生み出すのと同じように 彼を通して出てきたものです。
(少年期には音楽家になることを志していた その音楽の資質が発揮されているのでしょう。)
それが彼の「女神」と一体となった 人類への「奉仕」の人生だったのです。

結局は芸術作品とは その作者の「悟り」の境地が表われているものです。
そして そこから私たち鑑賞者が何を受け取れるか です。
私が受け取れたのは 「女神」と「奉仕」でした。
でも それは逆に言うと 自分の境地ではそれしか受け取れなかった ということかもしれません。

是非 プラハでムハ美術館を訪れて ムハの心を感じ取ってみてください。
単に「目に心地良いポスターの作家」ではないことを。

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アルフォンス・マリア・ムハ

1860/7/24 オーストリア帝国領内モラヴィアのイヴァンチツェ村のバラツキー広場で生まれる
1939/7/14 大ゲルマン帝国ボヘミア・モラヴィア保護領プラハ市の自宅で没
父:オンドレイOndrej ワイン醸造業者の家系出身/宮廷裁判所職員
母:アマリアAmalia(旧姓マラ)製粉業者の娘/母方はポーランド人

左利き
カトリック教徒
フリーメーソン
ブルノの聖ペテロ・パウロ大聖堂聖歌隊アルト歌手
同オーケストラヴァイオリン奏者
レジオン・ドヌール勲章受賞者
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【画像】

画像①「サラ・ベルナールのジスモンダのポスター」(1894年)
Alphonse_Mucha_Poster_for_Victorien_Sardou's_Gismonda_starring_Sarah_Bernhardt_120x340.jpg(21026 byte)

画像②「四つの芸術 詩/躍り/絵画/音楽」(1898年)
Alfons_Mucha_Poezie_240x182_MuchaMuseum_20260407.jpg(52009 byte) Alfons_Mucha_Dance_240x188_MuchaMuseum_20260407.jpg(54674 byte) Alfons_Mucha_Painting_240x193_MuchaMuseum_20260407.jpg(56070 byte) Alfons_Mucha_Music_240x176_MuchaMuseum_20260407.jpg(51912 byte)

画像③「チェコスロヴァキア共和国の紙幣」(1920年)
Alfons_Mucha_Republika_Ceskoslovenska-100_Korun_(1920)_250x254.jpg(34163 byte)

画像④「チェコの音楽のパンテオン」(1929年) 「プリンセス・ヒヤシンス」(1911年)
Alfons_Mucha_Pantheon_240x196_MuchaMuseum_20260407.jpg(67776 byte) Alfons_Mucha_PrinceznaHyacinta_240x168_MuchaMuseum_20260407.jpg(60937 byte)

画像⑤「スラブ叙事詩」制作風景(1920年)
Alfons_Mucha_at_work_on_Slav_Epic_(1920)_330x257.jpg(39235 byte)

画像⑥「自画像」(左=1907年/右=1928年)
Alfons_Mucha_Selbstportrat_1907_240x158.jpg(51685 byte) Alfons_Mucha_Photographic_selfportrait_1928_240x181.jpg(51760 byte)

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(2026/9/3)


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